保健室のベッドには二人のスカイが横に並んで寝かされている。そのベッドの周りを取り囲むように件の当事者たち…恭也、露伴、ルドルフ、タキオンとシャカールが神妙な顔つきで立っていた。タキオンは彼女たちの傍にしゃがみこみ、身体のあちこちを触診し、その具合をしばし確かめていたが、やがて自身の中で一つの結論に至ったのか溜息をつきながらベッドの傍から立ち上がり、恭也たちの方へと向き直った。
「スカイは……大丈夫なのか?」
恭也の心配そうな声が保健室の中にこだまする。不安でたまらなかった。彼女は無事なのか。目を覚ますのか。様々な不安が心の中で渦巻き、胃を締め付けていく。そんな恭也の顔を一瞥すると、タキオンは徐に口を開いた。
「……あぁ。彼女たちは無事だ。すぐに目を覚ますだろう……今のところは、ね」
今のところは。その言葉に恭也の顔はみるみる青ざめていく。脚は途端にふらつき、倒れ込みそうになったのをシャカールは一瞥すると、舌打ちしながら足で彼の背後に椅子を手繰り寄せてやると、彼はその椅子にどうと倒れ込んだ。
「含みのある言い方だな、タキオン。それはつまりどういうことなんだ?単刀直入に話せよ」
シャカールは恭也が椅子に着席できたことを確認すると、苛立たし気にタキオンに言葉を吐き捨てた。そんなシャカールの様子に我関せずといった様子のタキオンだったが、露伴は彼女の瞳の中に僅かな揺らぎが生じていることを見逃さなかった。
「私だってこの事態をどう表現すればいいのかわからないんだよ…まぁいい。つまり話はこうだ」
タキオンは壁に掛けてあるノートPCの液晶画面ほどのサイズのホワイトボードにペンで図を描いていく。そしてある程度その図の全体を描き終えると、タキオンはその図を都度指し示しながら説明を始めた。
「当たり前の話ではあるが、この世界に私……アグネスタキオンという個人は一人しかいない。そしてそれは露伴先生やシャカール君にも言えること。それが理なんだ。ドッペルゲンガー現象なんて言葉があるが、あれは医学的な見地に基づけば「autoscopy」、つまり自己幻視の一種だと言われている、つまりこの世界で、自分以外に自分はいない。それが当たり前の認識だ」
どこぞの大学の教授よろしく事象の説明を始めたタキオンだったが、そこで言葉を止めると少し覚悟を要するように顔をしかめると、少し声のトーンを落として話をつづけた。
「……だが何の因果か、この世界と平行世界がつながり、向こうの世界からスカイ君がやってきている。つまりこの世界には二人のスカイ君がいて、その二人が出会ってしまったということさ」
そのタキオンの言葉を聞いた露伴は途端に顔をしかめ、ぽつりとつぶやいた。
「波動関数の収束か…」
「そういうことさ露伴先生…これは量子力学の一種だが、いくつかの固有状態の重ね合わせだった波動関数が、「観測」されることによって一つの固有状態へと収束する現象は、量子力学の世界では「波動関数の収束」と言われている…こう言うと難しく感じるだろうが、とどのつまり波動関数を二人のスカイ君、そして観測を二人が出会ったことと置き換えればわかりやすくなるだろう」
「つまり……向こうの世界からやってきたスカイは……消えてしまうってこと?」
「あぁ……元の世界に強制的に戻される、この方がいくらかマシだろうがねぇ。恐らく彼女の身体は、観測が始まった以上消えて行ってしまうだろう。その消滅の度合いは、二人がどれほど接近していたかにも依拠するはずだ…二人が直接接触していなかったことは、不幸中の幸いだったねぇ」
「何か…何か手段はないのか!彼女が助かる方法は…!」
「なるほど…平行世界にかくも影響があるというのいうのに、露伴先生がいた世界とかつて私たちがいた世界の統合が行われた時に何もなかったのは、平行世界であってもお互いの世界には同位体がいなかった故か……私たちがトレーナーとして認識していたのは、あくまで元々世界の違う君たちだったし、世界の統合が行われた以上、自然とその存在は一つに収束されたわけか」
「そういうことさ…会長殿。今回のケースは私たちの時のケースとは全く似て非なるものだと認識してもらって構わない。さて話を戻すが、彼女たちを救う方法は一つだけある…それすなわち彼女に…平行世界からやってきたスカイ君に元の世界に帰ってもらうことだよ」
タキオンがそこまで話をすると、それまで沈黙を貫いていたシャカールは徐に口を開いた。
「それならちょうどよかった。さっきこの世界とこいつがいた世界が繋がっていると思われる場所を見つけたトコだ。こいつを元の世界に送り返して、それでミッション完了だ。こいつらが目覚めたら、そこに案内してやるよ」
二人のスカイが目覚め、シャカールは一同を学園のとある場所へと案内する…やがてとある場所にたどりつくと、露伴はあたりを見渡し徐に口を開いた。
「ここは…?」
「…ここは大樹の洞だよ、露伴先生。学園設立時に植樹された大樹が事情によって切られた際にその中央に洞を残した状態で切り株のまま残されたものさ…今はレースの敗北のくやしさをその洞の中に向かって叫ぶことによって、次のレースへの励みにするパワースポットになっているが……まさかここが?」
「あぁ。間違いねぇ。この洞の中が向こうの世界…つまりそこのスカイがいた世界につながっているはずだ…つーかそもそもこいつが倒れていたのはこの辺だったンだったわけだから、気が付かねぇオレが間抜けだったな」
ここの洞を抜ければ、元の世界に戻る。
そう聞いたスカイの胸は、決して喜びとは言い難い感情に支配されていた。この世界で、私はたくさんのことを教えてもらった。苦しみや痛みから救ってもらった…それでもこの世界に私はいることは…この世界に元々いた自分がいる以上はできないという。
「……それじゃあ皆さん…ありがとうございました」
仕方のないことだ。ここにも私の居場所はなかった、それだけの話だ。スカイは一同に深く頭を下げて感謝の意を示すと、急いで洞に向かう…しかしその時。彼女の腕を何者かが掴んだ。
「……!」
彼女の腕を掴んだのは恭也だった。彼女のことを止められるわけではない。それでも彼は、その手を伸ばさずにはいられなかった。
「その……あの…」
彼女に何か言葉を掛けなければ。今にも溢れそうなこの願いを届けなければ、そうしたくても感情だけが先行してしまい、言葉が出てこない。そんな彼の様子を見据えたスカイはその瞳から涙をこぼしながら、恭也に言葉を掛けた。
「貴方に出会えただけで、私の人生は……救われました。だから…だから泣かないでください」
そうして掴まれたその手を、少しずつ外していく。
これ以上、私に与えないで。
平行スカイははにかんだように微笑むと、そのまま踵を返して洞に向かっていきその中へと飛び込んでいった。
どれくらい眠りについていたのだろうか。このまま目覚めなければ、そんな想いが心の内に僅かに芽吹いてしまうほど私にとって向こうの世界での出来事は幸せすぎる、その一言に尽きる日々だった。
だが夢というものはいつか覚める。それが世界の常というものだ。
「――――――!―――――!」
遠くから聞こえていたくぐもった声が徐々に鮮明に。そして近づいてくる。
「スカイ!スカイ!」
外の光が透ける重い瞼を開くと、ピンボケした視界が徐々に定まっていく。肌には冬を間近に控えているのを感じさせる肌寒さを感じる外気が頬を撫でつけていき、スカイはぶるっと一回身震いすると、自身が大樹の洞の傍に倒れていたことを認識した。
どうやら元の世界へと戻ってきたようだ。
「久しぶりだな」
目を覚ました彼女の目のまえには一人の男の姿があった。
「……トレーナーさん」
先程まで一緒にいた恭也と瓜二つな容姿をしているが、その機微からは明らか同一人物ではないと思わせる、そんな何かがあった。
「今まで何処をほっつき歩いていたんだ!学園中を皆で探したんだぞ!」
彼はスカイの肩を掴み何度か揺さぶるが、やがて深いため息を一つ付くと徐に口を開いた。
「……とにかくケガがないならちょうどいい。遅れていた分の練習量を取り戻さなくちゃあな。半年は休めはないと思え」
忘れかけていたはずの、しかし決して拭い去ることができない恐怖が身体を駆け抜けていく。明らかにウマ娘より力が劣るはずのトレーナーの腕を振り払うことができず、なすすべなくスカイは彼に引っ張られていく。その口や身体はわななき、フラフラと引っ張られていったが、やがて彼女はやっとの思いでその腕を振りほどいた。
「……ん?なんだスカイ?」
いぶかし気に首を傾けるトレーナーにスカイはその目を固く瞑っていたが、やがてたどたどしい口調で彼に言葉を掛けた。
「……も、もういやなんです」
「……は?」
「もう…もう走りたくないんです…!辛いんです!…今まで怖かったんです!走ることが!」
その言葉がウマ娘としては決して許されるものではないことは、彼女自身が一番理解していた。それでも尚、彼女は既に限界をとっくに迎えていた。限界を迎えてなお、自分をだまし続けていた。
身体の内に残った僅かな勇気を振り絞って、口を震わせて想いの丈をトレーナーに伝えたスカイは、その手を握りしめながら恐る恐る目のまえにいる彼に視線を送った。
「……そうか。お前の気持ちはよくわかった」
「……トレーナーさん」
「……まったく居なくなっている間にどこのウマの骨とも分からない奴に変なことを吹き込まれたんだな?安心しろ、少し「指導室」に入ってもらうが、またいつものように走りたいと思えるはずだ」
やはりわかりあうことなどできるはずがない。そもそも向こうの世界とこちらとでは、認識が180度異なっているのだ。いくら自身の胸の内を、彼をはじめとしたこの世界の住人に伝えたところで理解などされるはずがない。
スカイはトレーナーがいる方向とは逆の方角へと走りだしていく。彼女の背中を見やると、トレーナーは自身の胸ポケットに入っていたトランシーバーを取り出してボタンを入れると、連絡を取り始めた。
「スカイを発見しましたが、取り逃がしました…仕方がありません。何人か人手をこちらに回してください」
この世界に戻ってきたばかりのスカイは、必死の思いでその脚を繰り出す。何処に逃げようなどといった宛てなど何処にもない。とにかくここから抜け出したかった。この不安から、この痛みから早く自由になりたかった。
肺が不規則に彼女の胸の内で伸縮を繰り返し、喉の奥からは血のような味が広がっていく。息を整えるためにスカイは一度立ち止まると、壁の傍に手をついて新鮮な空気を口から取り込んだ。
ハァ、ハァ…
これからどうしようか。そんなことを寒空の中で思いつめると、この世界には自分の居場所などないのではないか、そんな思いに駆られていく。
「……」
スカイはその空の圧迫感に打ちのめされると、その膝を折り曲げ、俯きながらそのやり場のない気持ちをいかにして奮い立たせようか苦心した。しかしその瞬間、蹲る彼女の後方から声が投げかけられた。
「いたぞ!」
スカイはその声に顔を上げる…するとそこには腕章を付けた数人のウマ娘たちがこちらを指差して向かってきていた。あの腕章には見覚えがある、顔を瞬く間に青ざめさせたスカイはよろめきながら立ち上がると、再び決死の想いで脚を繰り出し始めた。
どれほどの時間走り続けたのか。追手から必死の思いで逃げ続けたスカイだったが、やがて足を地面の僅かなくぼみに取られると、地面に倒れ込む。やがて遅れてやってきた追手たちはスカイの周囲を取り囲むと、彼女を無理やり立たせて連行していった。
「……離…して…」
一人の少女の悲痛な叫びは、無情にも届かない。やがて追手は彼女を学園の一角に連行すると、そこにはトレーナーの姿があった。彼は不気味な笑顔でスカイのことを見つめると、徐に口を開いた。
「…先程までの態度は水に流そう…君は僕の大切な…大切な担当ウマ娘だからねぇ。手荒な真似はしたくないんだ…さぁ、練習に戻ろう」
彼の手がスカイの目の前に差し出される。最早彼女に、その力に抗う術も、気力さえも残されてはいなかった。彼女は震えながらその手を差し伸ばそうとしたが、刹那彼女の頭にはとある言葉が思い浮かんだ。
「君は君だ…たとえ違う世界のスカイだったとしても………僕にとってはセイウンスカイだ。大切なウマ娘だよ」
……
スカイの震えが止まる。私のなすべきこと…そして覚悟が必要だ。私は助けてもらったんだ。変わらなくちゃあいけないんだ。スカイはきっと顔を引き締めると目のまえにいるトレーナーに向かって声を掛けた。
「……貴方はもう、トレーナーさんなんかじゃあありません」
………
氷点下とも思えるほど凍てついた空気がその場を支配する。そこにはもう、弱弱しいスカイの姿はなかった。彼女は確かに想いを伝えた。そして覚悟を見せたのだ。
「……残念だ。セイウンスカイ君」
トレーナー…もとい元トレーナーはその手をフラフラと挙げると、眼前にいるスカイに向かって振り下ろす。スカイはこれから自身を襲うであろう痛みを覚悟して、その目を閉じた。
…?
いつまでたっても痛みは訪れない。一体何事かとスカイが目を開けると、そこには一人の男の姿があった。その男は元トレーナーの振り下ろされていた腕を掴みながら、スカイに視線を送った。
「……全く穏やかじゃあないな。お前の醜悪さは漫画のネタにするには読者がよりつかなさそうだな」
「あ、貴方は…!どうして!」
その男…この世界にいるはずのない男、岸辺露伴はそうつぶやくとスカイに向けて言葉を掛けた
「君を助けに来た」