外が少し騒がしくなってから、一体どれほど時間が経っただろうか。今にも頭が割れてしまいそうなほどの頭痛が絶え間なく襲いかかってくる。
椅子に縛り付けられた恭也は朦朧とした意識を失わぬようになんとかこらえながら自身の脚の方へと目を向けると、既に自身の脚はふくらはぎの中間ほどの位置まで薄くなっており、まさに幽霊のような出で立ちになってしまっていた。
「……もう……消失が……」
ドン!
すると突然、扉がドンと大きく音が鳴る。一体何事かと扉の方へと目を向けると、何度か大きな音を立てるとその扉は室内の方へと吹っ飛んでいった。
「……!」
室内の中に、二人の人物が入ってくる。扉が壊れたことにより生じた煙のせいか、はたまた失われてゆく意識のせいか、その人物の顔を見ることはできなかったが、その人物が近づいてきて発した声には聞き覚えがあった。
「トレーナーさん!トレーナーさん!」
やがて煙が晴れ、その顔が見えてくると、どうやら助けにきた人物が自身の担当ウマ娘であることがわかった。クリアにならない意識の中、自身の手に縛り付けられた縄が外される様子を見つめながら、彼は月明りに照らされた自身の担当ウマ娘はなんて綺麗なんだと的外れな想いを抱いていた。
薄暗い校舎の中、ルドルフは渡り廊下で扉の向こうで着替えている露伴のことを静かに待っていた。
……
この状況においては依然、気の緩みは一切許されない。もしもこの場に体育館に閉じ込め損ねた追手がやってきたら、今無防備になっている彼を守りつつ、対処をする必要がある。それにまだ作戦は途中の段階だ。
それでも。
僥倖。その一言に尽きる至福の一時を先程味わった。両手を組み交わし、腕をくねらせながらルドルフは先程の出来事を思い起こした。彼女は努めて平静を保とうと試みたが、顔を赤らめ、その頬はすっかり緩み切っていた。
見てしまった。彼の、彼の……。
皆までは言うまい。彼は他人よりもおよそ自尊心がかなり高い。(もっとも、そこが彼の可愛らしいところの一つでもあるわけだが)そんな彼に今の自分の態度を気取られてしまっては、彼の自尊心は漏れなくズタズタになってしまうはずだ。
ガラガラ……
スライド式の扉がゆっくりと開くと、その中から露伴が姿を現す。黄色のシャツに黒のベスト、白の革ベルトに黒のズボンといういで立ちの彼に視線を向けた彼女は、その姿を目に留めると徐に口を開いた。
「その姿は……懐かしいな」
かつて露伴が身に着けていたトレーナー服を再び拝むことができた彼女が目を細めると、露伴はその視線の逃げ場所を求めて視線を彼女から逸らした。
その時、ちょうどいいタイミングでインカムから声が聞こえる。露伴はこれを良い機会にと焦り気味にインカムを口元に近づけた。
「……こちらエアシャカール。応答願う」
「……こちら岸辺露伴だ。傍にはルドルフもいる。どうしたんだ?」
露伴の質問に、エアシャカールの声は返ってこない。その不自然な間に再度露伴が同じ質問をしようとすると、相手からようやく声が返ってきた。
「……プランBに変更だそうだ。早いところスカイのトレーナーを見つけて、さっさと元の世界に戻れ。オレもアレを設置したらさっさとトンズラさせてもらうからな」
ぷつっと切れたインカムに視線を落とすと、露伴はそれに静かに視線を落とす。この世に神様がいるとすれば……いやそもそもこの世界にも元の世界のように神様がいるとすれば、こんな残酷な運命へと仕向けたのはどちらなのか。そんなことを考えながら露伴は悲し気にルドルフへ顔を向けると口を開いた。
「……プランBだ」
露伴の口から出たその一言に、ルドルフの顔にはじわじわと哀しみが広がっていく。最早どうにもならないことだ。この世界の行く末は……この狂い、悲しみにあふれたこの世界の行く末は、その中で必死に生き、そしてその中で微かな希望を抱き続けた少女の判断によって決せられた。
「……な、何か。何か別の方法があるはずだ。こんな結末って……」
「ルドルフ」
彼女の動揺を、露伴は短くも有無を言わさぬ迫力で制す。ウマ娘の幸せを願う彼女の切なる痛みはよくわかったが、それは元々この世界の住人ではない自分たちが最終的な判断を下すことは、あまりにも独善的なことだ。
「……さぁ。恭也君を探しにいくぞ」
これ以上この事を考えないように。露伴はルドルフの腕を取ると暗闇の中を歩み始める。廊下を歩き始めてからしばらくすると、廊下の先には数人の人影が見えた。
「……あれは。」
追手を警戒してその死角へと身を潜めていたが、やがてその姿が近づいてきて彼らの顔が見えると、露伴はその身を彼らの前にさらけ出した。
「スカイ君……君はこの世界の恭也と話をしに行ったはずじゃあなかったかい?」
それはスカイと恭也、そして自分たちがいる世界では見覚えのある女性の3人の姿だった。スカイは出会い頭に人と遭遇したことに驚きつつ、露伴から質問に罪悪感で顔を背けながら口を開いた。
「……私、元の世界のスカイです。」
その言葉に、露伴とルドルフは驚きの表情を浮かべる。どうやら、囚われたトレーナーを心配するあまり、この世界に一足遅れてやってきたようだ。予想外の出来事ではあったが、一刻を争う状況で彼女が恭也を救い出してくれたおかげで、その手間が省けたことは良い出来事だった。
「……とにかく無事でよかった」
露伴はスカイから目を離すと、その隣で居たたまれない姿となっているが、ひとまず無事であることを確認できた恭也を労わった。恭也は心痛そうなうめき声をあげたが、首をなんとか上げると露伴の問いに答えた。
「……何とか無事です。露伴先生……ありがとう……ございました」
「……それはそうと、そこにいる貴方は」
ルドルフは3人目の女性に声を掛ける。初めて知り合う人物のはずだったが、露伴とルドルフにとって彼女が既に誰であるかは知っていた出来事だった。2人が視線を彼女に向けると、彼女は徐に口を開いた。
「……既に詳しい自己紹介は不要なようですね。私、駿川たづなです。」
やはりそうだ。スカイや恭也と同じく、この世界に住んでいるたづなのあまりにも痛ましいその姿に一同が息を呑んでいると、彼らの目線の意図に答えるように口を開いた。
「……今の学園の体制に抗議をしたら、こうなってしまいました………」
どうやら彼女もこの学園、URAの方針に従わぬ「反乱分子」の一人として囚われていたようだ。彼女の今の身なりを見れば、その環境が如何に劣悪なものであるかは想像に難くない。
何はともあれ、時は急を要する。露伴はスカイに事態を伝えるために口を開いた。
「……スカイ君。君も聞いていただろうが……残念だが、プランBだ。早くこの場を立ち去らなくちゃあならない」
「………プランB?」
この世界にとどめ置かれていた恭也がいぶかし気に首を傾ける。彼のためにその概要を説明しようと口を開きかけた露伴だったが、たづながいることを思い出すと、それを思いとどまった。
彼女はこの世界の住人だ。もしこの計画を彼女が知れば、自分たちのことを止めようとする恐れは大いにあり得ることだ。そんな心配をよそにたづなは露伴の方へ首を向けると、徐に口を開いた。
「………状況は把握できませんが、皆まで言わなくても大丈夫です。何となく、貴方たちが何をしようとしているのかわかります。」
そう話すたづなの目には、恐怖は感じられない。この世界の住人である彼女の前に広がる道に、先などない。あるのは底の見えない暗闇だけ。そんな敢然たる、残酷な現実を前にしても彼女の目に迷いは微塵も感じられなかった。
「……どうしてだ?」
どうして彼女はかくも強くいられるのだろうか。この世界は既に終末へと近づいている。この学園の理事長秘書として、そしてこの世界に生きる者として、それを恐れて止めようとしても人として何ら可笑しいことではないはずだ。
たづなは露伴の口から漏れ出たその疑念を聞くと、精一杯の笑みを浮かべて言葉を紡いだ。
「……大好きだからですよ。この学園も、ウマ娘の皆さんも」
その言葉には、並々ならぬ覚悟があった。そこには、大きな愛があった。人間讃歌が、そこにはあった。
愛しているからこそ、全てを終わりにする。愛しているからこそ、その世界が狂っていく姿を止める。
その一言に込められた彼女の想いの全てを受け取ると、露伴は静かに頷いた。彼女には、どんな言葉掛けも薄っぺらいものと化してしまう。その覚悟に彼は、只々頷くことしかできなかった。
たづなは自身を取り巻く一同に顔を向けると、その頭を静かに下げた。
「……他の世界の貴方たちが、私たちのためにここまでやっていただき、本当にありがとうございました。」
「……」
「……たづなさん」
「……最後に。私には私なりに、できることをさせてください。もう私には、傷を心配する必要はありませんから」
たづなはそう小さく呟くと、その傷だらけの身体を前進させる。やがて彼女の姿が完全に暗闇に溶け込んで見えなくなると、露伴は一同に視線を向けた。
「さぁ、もう時間がない。早く元の世界に……」
ドォン!
その時だった。大きな物音が辺りに響き渡る。一体何事かと一同が音のする方向へと視線を向けると、そこには驚きの光景が広がっていた。
「……あれは」
「スカイ君と…………あれは恭也君か?」
スカイが必死に校舎の廊下へと足を繰り出し、その後ろを恭也が追いかける……しかしその光景の異様さに、一同は息を呑んだ。
恭也の様子が、明らかにおかしい。
その身体は先程見た時よりも1回り2回りも大きくなっており、筋肉は不自然に隆起していた。そして何より目を引いたのは、人間であるはずの彼が脚力で人間よりも遥かに優れているはずのウマ娘であるスカイを追いかけている、ということだった。
……いずれにしても、話し合いは決裂してしまったとみた方が自然だろう。
露伴はその状況で最適解を導きだそうと頭を悩ませたが、やがて結論を出すと口を開いた。
「……ルドルフは皆を連れて、先に洞に戻っていてくれ」
「……露伴先生?」
露伴の口ぶりに、ルドルフの口調からは明らかな不安が窺い知れる。もう直ぐに、世界の消失は始まってしまう。だとすれば、このまま二人を放っておくこともまた選択肢の一つとしては存在していたはずだが、露伴の身体は動かずにはいられなかった。
「………こちらURA特別任務対策部隊。事態の鎮静化のため、トレセン学園に進行中。あと2分で到着予定」
「……目標は戸瀬恭也、セイウンスカイの捕縛。そして侵入者の始末だ」
深夜の道路を、急スピードで3台の黒塗りの人員輸送車が台走行している。やがて道路の先に目的地が近づいてくると、その前に乗り付けて停車すると、その扉が開き中から武装した隊員たちが続々と降り立っていた。
「………これより計画の実行に移る。各員持ち場に……いや待て!校門の前に誰かいる!総員停止!」
隊長の指示に従い、隊員はぴたりとその進めていた足を止める。一同の視線の先にいたのは、一人の人物だった。逆光でその人物の顔を窺い知ることはできなかったが、恐らく任務を遂行するためにこの学園にやってきた自分たちをもてなすためにそこにいるわけではないだろう。
「……URA特別任務対策部隊だ。我々はURAの令状に基づき、その任務を執行するためにここに来た。邪魔するのであればその排除に取り掛かる……そこを退いてもらおうか」
数秒猶予を与えたが、隊長の呼び掛けにその人物が応える様子はない。従う意思がないと判断した隊長は、速やかに任務を遂行するために傍に控えていた自身の部下に下知を下した。
「……奴を退かせ」
その命令に従い、傍に控えていた2名の部下がその人物に近づいていく。人物の肩に触れるその瞬間、2人の身体はまるでドッチボールのボールのように数メートル先へと吹っ飛んでいった。
「……貴様。何者だ」
部隊の間には、途端に動揺が広がっていく。訓練されている部隊の隊員が1人ならいざ知れず、2人がほぼ一瞬のうちに無力化されてしまった。部隊の動揺を余所に、その人物は歩みを進め一同の前にその姿を現した。
その人物……その傷だらけの彼女は凛とした表情を浮かべながら部隊を見るとファイティングポーズを取り、戦闘の意思を強く示した。
「……大好きな学園を守りたいだけの、しがない秘書です」
校舎の隅で、一目につかないように細心の注意を払いながら、シャカールは準備を進めていた。やがてその準備が整うと、自身の手元にある代物を何とも言えない表情で眺めていた。
「……またこいつに世話になるとはな」
目のまえにあるのは、自身が日頃愛用しているパソコン……その液晶画面には、なにやら数字やら素人では皆目見当もつかないような数式が羅列されていた。シャカールは最後の仕上げにキーボードで命令を打ち込むと、それを実行に移すために画面に浮かび上がったOKボタンをクリックした。
その途端パソコンから閃光が溢れ、空に向かって真っすぐと伸びていく。その光が空を切り開くと、その隙間からドンドンと光があふれ出していった。
……今度のAIは、予め露伴の命令が書き込まれている。つまりそのAIがもたらす結果は既に決まっているということだ。
「……この世界を消滅させる」と。