底が見えぬほど真っ黒な闇が、此方に向かって急速に伸びてきている。それはこの世界そのもののタイムリミットを示していた。
「早く!急ぐんだ!」
ルドルフの指示に従って、急いで一同はこの崩れ行く世界と、自分たちが元居た世界を唯一繋いでいる大樹の洞に向かって走っていく。既に世界は崩壊を始め、教室の机や椅子は窓をけたたましい音を立て突き破ると、その暗闇に向かって吸い込まれていった。
「…………あれは!」
目のまえには、ゴールである大樹の洞が見えてくる。その傍には、先に到着していたタキオンとシャカールの姿もあった。
「……さぁ!あとは彼らに任せて、先にこの世界から抜け出そう!」
タキオンの誘導に従って、スカイと恭也、そしてシャカールは一足先に向こうの、自分たちが生きている世界へと戻っていく。彼らに続いてタキオンも続いて洞の中に飛び込もうとしたが、ふとした違和感に立ち止まり、後ろの方へと振り返った。
「…………会長殿、どうしたんだい?早く戻ろう」
自身の後ろにいるシンボリルドルフはその場で立ちどまり、呼びかけにも応じようとしない。タキオンがもう一度彼女に声を掛けようとしたが、その直前に彼女は口を開いた。
「…………断る」
それは彼のように自信に満ちたセリフではない。それでもここを動きたくないという確かな意思を孕んでいた。
「彼が……もしも元の世界に戻ってこられなかったら……私はそんな世界で生きていたくない!彼が戻ってくるまで私も残る!」
それは恥も外聞もない、少女の心の丈そのものだった。タキオンはしばらくその決心をした彼女のことを見つめていたが、やがてつかつかと彼女に歩み寄ると、手のひらで彼女の頬を打ち据えた。
「駄々っ子みたいなことを言うんじゃあない!」
叩かれたことに驚きつつ、その箇所を手で押さえながらルドルフは必死抗議をしようと試みた。
「で、でも…………」
「君のことを救ったのは、紛れもない彼じゃあないか!そんな君が彼のことを信じてやれないでどうするというんだい!」
彼女の叱責に、ルドルフの身体はぴくっと震える。確かに彼女の言う通りだ。誰よりも傲岸不遜で、そして誰よりも優しいあの岸辺露伴は、またこの消えゆく世界の住人にお節介を焼こうとしている。そんな彼が…私を救ってくれた彼がまた誰かを救おうとしているのだから、私がそれを信じて待たずして、何が愛バだというのか。
「…………分かった。アグネスタキオン、てこずらせてしまって済まなかった」
ルドルフはそう言うと、この世界から無事に自身の想い人が帰ってくることを信じて洞の淵へと足を掛けた。
崩れ行く校舎の中で、セイウンスカイは懸命に足を繰り出していく。背後から明確な殺気と足音を感じながら、彼女は必死にその脚を繰り出していた。
「…………トレーナーさん」
背後から追ってくる恭也は、既に正気を逸している様子だった。彼は人間とは思えないほどのスピードで、こちらに向かって迫ってきている。その目は血走り、筋肉は不自然な形で隆起し、血管が浮き上がっていた。
…彼は今、私と共にこの狂った世界から逃れようとしている。その悲しみの楔を断ち切るため。そしてその罪を償うために。
どうあがいても死にゆく未来しかないというのならば、このまま愛するトレーナーの手に掛けられても、いいのではないだろうか。
そう頭に過った考えを直ぐに振り払う。せっかく積もっていた誤解を解き、彼の本心、そして苦しみを理解することができたのだ。これ以上、彼に苦しみを背負ってほしくない。それにそんな別れ方は自身が嫌だった。
彼の動きを止めるためには、一体どうすればいいのか。そんな解決策が思いつくはずもなく彼女の脚は唯々駆り立てられる。無我夢中でその脚を繰り出していた彼女は、やがて屋上に辿り着いていた。
「……もう逃げられない」
急いで扉へと引き返そうとしたスカイだったが、既に扉の前には恭也の姿があった。彼はスカイの姿を認めると、ゆっくりと、しかし確かな足取りで彼女に近づいていった。
………ここで私は。
結局、さっき固めた決意を果たすことは叶わなかった。これから来るであろう痛みを覚悟したスカイは、ゆっくりとその目を閉じた。
「もう君はここで諦めるのかい?」
最悪のシナリオに待ったを掛ける、その一言。
その言葉にスカイはゆっくりと閉じていた目を開いたスカイが、その方向へと顔を向けると、そこには岸辺露伴の姿があった。恭也の背後から顔を覗かせているその彼の登場に、スカイが驚いていると、恭也はゆっくりと露伴の方へと向き直った。
「ダ……ダレ……」
繰り出された恭也の攻撃を寸でのところで躱した露伴は、スカイの元に寄ると彼女に徐に話かけた。
「……気休めにしかならないだろうが、本当に済まない。君を救ってやることができなかった。」
露伴のその言葉に、溢れる想いを留めて彼女は首を横に振る事しかできなかった。
「……いいんです。本当に露伴先生には、沢山助けていただきましたから。今だって、帰れたのにここに来て、私とトレーナーさんのことを助けてくれようとしている……」
「………せめてもの手向けだ。君たち二人がどんな結末を迎えるにしても、君は目のまえのあの男と手を取りあう道を選んだ。ならばこのまま彼に殺されることは、彼にとっても君にとっても最善策じゃあないだろう」
露伴はそう言って恭也の方へと向き直ると彼の攻撃を都度躱していく。そのたびに落下防止用の網が彼の力によって、まるで薄い飴細工のように容易く吹っ飛び、落下していった。
「………これは」
やがて屋上を囲んでいた全ての網がなくなり、屋上は野ざらしの状態となる。そんな屋上の隅へと追い詰められてしまった露伴とスカイは屋上の淵に乗りながら、前方で野獣のように自分たちを狙っている恭也のことを見据えた。
「………文字通り絶体絶命というやつか」
「露伴先生。私がトレーナーさんのもとに飛び込んで、時間を稼ぎます。その間に逃げてください」
元々彼らを巻き込む形で始まってしまった物語だ。この結末に、彼を巻き込むわけにはいかない。スカイはゆっくりと、殺意を携えた恭也の元に歩み寄ろうとしたが、彼女の腕を露伴が握って引き留めた。
「ちょ、何をして……」
「君が向かうのはそっちじゃあない。逆さ……」
「……?」
彼の言ったことの要領を得ることができず首を傾げたスカイだったが、露伴はそんな彼女を尻目に腕を引っ張ると、その身を屋上から投げ出した。
「……!露伴先生!」
悲鳴にならない悲鳴が口から漏れ出そうになるのを懸命にこらえたが、重力に逆らうことができずにスカイの身体は露伴と共に落下していく。
「……ス、スカ……!」
スカイのことを追って、恭也も本能のままに屋上から身を投げる。その様子を冷静に確認した露伴は、徐に口を開いた。
「……そもそも今から階段を使って戻ろうとしても間に合わないだろう。この状況を打開するには、これしかなかったんだ。」
その露伴の言葉にスカイが視線を地面の方へと移すと、そこには大樹の洞があった。この屋上にやってきた時点で、こうしてトレーナーさんを誘導してこの世界から連れ出す算段だったのだろう。
露伴とスカイ、恭也の身体は落下のままに大樹の洞に吸い込まれていった。
「ウグ……」
自身の目のまえにいた最後の追手が、うめき声と共に地面に崩れ落ちる。学園に押し入ろうとしていた全ての追手を鎮圧したたづなは、肩を上下させその荒く乱れた呼吸を整えようと試みたが、既に彼女の心身共に限界を迎えていた。
「………グッ」
痛みと疲労に耐え切れず、たづなは地面に膝をつき、空を見上げた。空の向こうから広がる、底の見えない暗闇は既に目のまえにまで迫ってきていた。
…………
元はといえば、私自身も何もできなかった。苦しむウマ娘やトレーナーさんたちを傍に、何をできなかった。これはそんな私への償いであり、そして世界への償いだ。
……それでも、心に残留したあの美しい思い出を振り返れば。
彼女たちが何の恐怖に苛まれることなく、その夢と誇りを胸にターフを駆けていたあの頃の、あの美しい日々を思い出せば、少しも怖くない。少しも不安はないのだ。
……傷つけてしまったものたちへ、そして救えなかったものたちへ少しでも償いができれば。
「………ごめん……なさい」
遠い場所へと思いを馳せた、たづなはゆっくりとその目を閉じる……やがて広がる闇は全てを呑みこんでいった。
ずっと続く暗闇の先に、僅かな光が灯る。その小さな光は徐々に視界に広がっていくと、やがてさっきとそっくりではあるが、決定的に何かが異なる。そんな世界が視界に飛び込んできた。
……元の世界に戻って来れた。
そのことを瞬時に確認した露伴は洞から飛び出すと、大きな声を上げた。
「……今だ!やってくれ!」
露伴の指示に従って、待機していたタキオンが大樹の洞に火をつける。既に魂の抜け殻となったその洞に火が移ると、あっという間にその洞は火に包まれた。
露伴の直後に洞から飛び出したスカイと恭也の身体は、重力から解放されてその傍の地面に投げ出される。スカイが何とかその頭を上げると、目の前の景色に目を見開いた。
「………!」
洞には火の手が上がり、既に灰になりかかっている。それは即ち、既に元の世界へと帰る手段は失われてしまったことを意味していた。最も、向こうの世界は既に消滅してしまっているとみていいだろうが。
……これで私たちは、消滅を待つのみとなった。
「…………アァ」
恭也のうめき声が聞こえその方向へと振り向くと、既に彼の身体の半分は見えなくなっていた。薬の効果が切れ、既に死を待つのみとなった彼の目には、罪悪感と恐怖がありありと刻まれていた。
………最後に。最後に、話をしなければ。
スカイはふらふらと、しかし確かな意思を持って彼に一歩ずつ近づいていく。きっとこれが彼と話すことができる、最後の機会になるはずだ。
「…………トレーナーさん」
彼にそう言葉を掛けると、彼の身体はぴくっと動く。そして震えながら彼は擡げていた頭を上げて、スカイのことをじっと見つめた。
「………すまなかった」
トレーナーの言葉に、スカイは静かに首を振る。彼を狂わせてしまったのは、負わせなくてもいい罪を背負わせてしまったのは、紛れもなくあの世界であり、そして私だ。スカイは地面に倒れている彼の身体にそっと寄り添うと、徐に口を開いた。
「…………トレーナーさんに辛いこと、沢山させちゃいました……私、私…………」
「ち、違うんだ…………君を助けたいがために、なりふり構わず…………結果的に君には心の傷を負わせてしまった。僕は…………トレーナー失格だ……」
二人で、ずっと言えなかった贖罪の言葉を口にする。全てはもう遅かった。それでも、この一瞬で、伝えなければならない言葉があった。伝えなければならない想いがあった。
「………私たち、沢山間違えちゃいましたね」
スカイのその一言と共に零れ落ちた涙が、彼の頬に落ちる。彼はせめてもの気持ちにて、スカイの溢れた涙を、その消えかかった手でぬぐい取った。
「トレーナーさん。私が担当ウマ娘でよかったでしたか………?」
ずっと聞きたかったこと。その質問に恭也は震えながらも、確かにこう答えた。
「…当たり前だよ。君は僕にとって、大切なウマ娘だ」
「…………良かった」
生まれ変わっても、彼の担当ウマ娘でありたい。
彼の身体の消失は緩やかに、しかし確かに進んでいく。やがて彼の身体は完全に「観測」を終了させ、その姿はこの世界から完全に収束し、消えてしまった。
全ては零れ落ちていく。この満天の星の中で、私が生きた軌跡さえも。見れば自身の左腕の肘から先は、すっかり見えなくなってしまっていた。
目のまえに迫る死の恐怖に、この身が包まれそうになる。それでも、このまま手放しに自分が消えるのを待っているなんて、そんなのは嫌だ。
………残された時間で、私にできること。
スカイは目を閉じ、その小さな身体にそぐわないほどの大きな覚悟を固めると、目のまえにいるもう一人の自分……セイウンスカイに声を掛けた。
「……ねぇ。最期にお願いがあるの」
「…………」
もう一人の私のことだ、きっと私がこれから何を言わんとしているかは、わかり切っていることだろう。スカイは真剣な眼差しで彼女のことを見つめると、徐に口を開いた。
「私と…最期にレースして」
次回最終回です