沢山の哀しみが産まれた。沢山の痛みが零れた。そんな世界が消失し、残ったものも全てその火の手が移り、全て風の前に塵に化そうとしていた。
「最期にレースをしてほしい」
それが彼女にとって、どんな想いを基に発せられた発言なのか、そしてその想いにはどれほどの恐怖と、それを乗り越えた覚悟があったのか。明日を生きる自分たちが想像するにはあまりにも重い代物だった。
「どうか……お願いします」
その瞳に強い意思を従えて、彼女は文字通り命を削り言葉を紡ぐ。彼女のその最後の願いには、一体どんな想いがあるというのか。
死を目のまえにしても尚、彼女はその誇り高さを失っていなかった。中等部の彼女の肩には、あまりにも重すぎる現実であり、恐怖である。そんな障壁を前にしても尚、彼女は何かを成し遂げなければならないという強い意思を感じた。
そしてそんな死にゆく彼女に対して、自分たちは何もしてやれることはなかった。手放しで徐々に彼女の身体が薄れていく様子を、唯々見ていることしかできない。
「……何か……何か方法が……」
そう声を挙げる恭也だったが、彼自身にできることは何もない。今しがた姿を消した自分自身を見れば、それは明らかに明白な事実だった。露伴をはじめとした一同は、その残酷で敢然たる事実から目を背けるかのように俯いていた。
「トレーナーさん」
その一言に、一同の視線はそこに注がれる。それはこの世界に住まうセイウンスカイから発せられたものだった。そのトレーナーを短く制する一言に、彼が口を噤んだことを確認するとスカイは消えゆく自身に向かって言葉を掛けた。
「……分かりました。相手になります」
彼女に対して掛けるのは、哀れみでも同情でも何でもない。彼女の最期の願いに対して正面から向き合い、そしてその願いを叶えることだ。
二人の間にはとても静かな、夜明け前の風が吹き込んでいく。彼女にとって、きっと何か伝えたいことがある。それを受け止められるのは、きっと……きっと私しかいない。
「……それじゃあ、行きましょっか」
2人のスカイは、そしてその二人の奇妙な運命と絡み合い、そして導かれていった一同はその魂の終点……ウマ娘たちにとっての原体験であり、そして生きてきた軌跡を刻み付けてきた場所そのものであるターフに向かって行った。
「……」
柵を潜った二人は、簡単なアップを済ませると横一列に並んで前方を見据える。勝負はターフのコースの一周。それが今まで生きてきた短い競技者としての人生で、最後のレースとなる。
……これで、最期か。
漠然とこびり付いていた、そして乗り越えたはずの現実が急に実感となって心を縛り付けた。今まで自分が生きてきた証そのものが、音を立てて消えようとしている。それを哀しんでくれる場所すら、私にはない。
それでも。
遺さなければ。私なりに……そして、それを伝えなければならない相手は……
心を縛り付けた最後の恐怖を振り切り、彼女はその目を一度閉じ、そしてゆっくりと開ける。ここにいる人たちに、恐怖で震えて、しがみついている姿が私の最後の姿であって欲しくない。
スカイは消えゆく灯をその身に感じながら、走り出すためにその身を前に傾けた。
「位置について……よーいドン!」
恭也の言葉によって、二人は一斉に走り出す。初速も、コース取りもほとんど同じ。普段であればこのレース、平行世界のスカイの圧勝で終わることだろうが、今の彼女の身体は既に消失が始まっていて、走っていることが奇跡と言ってもおかしくない状態だ。
そのハンデを追っていても尚彼女の走りには目を見張るものがあり、スカイと互角の走りを展開していた。
そしてその最後のレースを、一同は固唾を呑んで見守っていた。否、正確には只の傍観者に甘んじる他なかった。灯が消えゆく中で、彼女は最後に自分自身とレースをするという選択を取ったのだ。それならば自分たちは、それを見届ける義務と責任がある。
「……!」
恭也は既にレース場の向こう正面にまで到達した二人の姿を見つめる。夜の闇を切り裂いて走りぬく二人には、どちらも譲れぬ信念があった。その信念に身を焦がしながら走る二人の姿は、不謹慎ではあるが今迄見てきたどのレースよりも雄々しく、そして美しかった。
ハッ、ハッ……
二人の息遣いと、踏み抜く足音だけがターフに響き渡る。その音だけがやがてこちらに迫ってきて、二人は最終カーブに差し掛かる。
「……ッ!」
身体に残った最後の力を振り絞る。泣いても笑っても、これが最後だ。自分にできることを、自分に残すことができること、それをするだけだ。
「ハアアアアアアアアアアアア!!!」
喉から溢れんばかりの声を振り絞り、足に力を込める。それに呼応して隣を走るスカイも叫び声をあげた。
「アアアアアアアア!!!」
負けられない戦いがそこにある、二人の純粋な勝利への渇望はゴールに向かうにしたがって研ぎ澄まされていった。
……スカイ君。
彼女たちの二人の想いに、自分ができることは何もない。できることがあるとすれば、それは……それは……
「……頑張れ!」
気が付いた時、露伴は叫んでいた。否、叫ばずにはいられなかった。その想いに呼応した一同は、次々と手を口に当てて大きな声を挙げていく。
「……スカイ君!」
「スカイ君!」
「スカイ!」
夜の帳に響く声。その声は数万にわたる歓声に匹敵する力となって彼女たちの背中を押していた。その中で彼女たちは、その身を削り走り抜けていく。言葉では語りつくせぬその光景を描きながら、彼女たちはラストスパートに入っていった。
「ハアアアアアアアアアアアア!!!」
「アアアアアアアア!!!」
恭也は二人の、どちらが勝ってもおかしくないその接戦の様を手を力強く握りしめながら見つめる……そして遅れてしまったが、そのレースで初めての声援をスカイに対して掛けた。
「勝て!スカイ!」
「……!」
その刹那だった。その勝敗を分けた男の、たった一言の声援。その一言を耳に聞き届けた二人の内、あるものはその脚に力を入れ、更にスピードを上げてゴールへと向かう。
……そしてあるものは「決定的なこと」に気が付いてしまうと、ゆっくりとスピードを緩めていき、ゴールの手前1メートルほどの位置で立ちどまってしまった。
先頭で唯一ゴールを走り抜けたスカイは、驚いた表情で後方を見つめる。立ちどまったスカイはフラフラと身体を揺らすと、その場にどうと倒れ込んでしまった。
「……!」
急いでスカイは彼女の元に駆け寄り、その場に蹲る。先程とは異なり、最早彼女に近づいても消失が早まる様子はなかった。それは偏に、既に彼女たちの観測が殆ど終わっており、事を速める必要はどこにもなくなったというわけだろうか。
彼女は震えながら自身を覗き込むスカイに向かって、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「………アハハ。強いなぁ……私は……」
「どうして……!」
どうしてその走りを途中で止めたのか。動揺をにじませて倒れ込んだ彼女に質問を投げかけたスカイを見て、彼女は苦しそうに顔を歪ませながら言葉を紡いだ。
「……トレーナーさんの声が……聞こえたから……貴方にとってのトレーナーさんの……」
「………!」
彼女の脚を立ち止まらせた理由が、そこにはあった。ウマ娘にとって、その願いが走る上で大きな原動力となることは間違いない。しかし、もう一つ大きな原動力となる力がそこにはあった。彼女にはそれがあって、自分にはもうそれがない。そのことに彼の一言によって気づかされた。それだけのことだ。
「……トレーナーさん。強いでしょ、貴方の……貴方のセイウン……スカイは……」
こちらに駆け寄ってきた恭也に、そう声を掛けるスカイ。恭也は倒れている彼女の身体を起こす。彼の腕に伝わるその不自然軽さが、彼女との別れが既に目のまえに迫ってきていることを否応なしに示していた。
「……ううん。君も強かった。本当に強かったよ……スカイ……それに君だって……僕にとっては……大切な……」
「………それ以上は言わないで下さい。私にとってのトレーナーさんは……一人だけなんです。嫌な言い方になってしまって……申し訳……ありません」
「………いや、こちらこそ、ありがとう……」
そこには、この世界の自分自身では受け止めることができない、確かな愛があった。そしてあくまで自分の消失によって必要以上に心に傷を残さないように、という彼女の気遣いがあった。スカイの言葉の真意を受け取った恭也は、静かに礼を述べながらその目から涙を零す。その涙を零したのは、彼女が残そうとしているもの、それに彼が気付いたからだった。
「ねぇ……私」
「……?」
彼女が……自分自身が遺そうとする一言を、一語一句聞き漏らすことがないようにスカイはその耳を彼女の口元に近づける。既に精魂尽きたのか、それとも他の者に聞こえることがないように、彼女だけにその言葉を告げるためにか。とても小さく、しかし彼女にだけはしかと聞こえるその声で、スカイは言葉を紡いだ。
「………………」
スカイのその言葉を聞き遂げた彼女は、小さく頷くと口を開いた。
「……うん。分かった………分かったよ……私」
彼女の言葉に満足そうにスカイは笑みを浮かべると、右の頬に僅かな暖かさを感じる。ゆっくりとその視線をその方向へと向けると、そこからは一日の、万物の始まりを告げる朝日がその顔を覗かせていた。
「……………綺麗」
徐々に朝日が昇っていき、暗闇に覆われていた世界を覆いつくしていく。全てが始まり、そして全てが終わろうとしていた。視界を次第に光が包み込み、彼女の目からは今まで堪えていた涙がこぼれる。
こぼれた涙は朝日を受けて煌々と輝いている。既に倒れている彼女の身体の殆どは見えなくなっている。一同はその姿を見て改めて彼女には時間の猶予が残されていないことを実感した。
「……本当に……皆さん。ありがとう……ございました」
「……」
「………スカイ君」
最早彼女に対してしてやれることはない。露伴はせめてもとスカイの傍に跪くと、既に光を映しているか分からない彼女の目のまえで、空に向かってペンを走らせた。
せめて……せめて。
彼女の頬から、ノートを開くように紙が出現する。そこに何やら文字を書き込んだ露伴は、ゆっくりとスカイの方に視線を向けた。
「……スカイ君。本当に済まなかった。君を救える方法が、あったかもしれないのに……」
最早言葉を紡ぐ気力すら残されていないのか、露伴の言葉にスカイは気にする必要はないとでも言うかのように、ゆっくりと首を横に振った。
「…………ありが…とう」
彼女が最後にどんな想いを抱いたのか、今となっては最早分からない。それでも彼女が最後に浮かべた笑顔で、彼女の心はほんの少しでも救われたと言えるのではないだろうか。
スカイはその顔に穏やかな笑顔を浮かべたまま、ゆっくりとその身体が薄く見えなくなっていくと、やがて完全に見えなくなった。
腕に感じていた僅かな重みさえも無くなる。恭也は僅かに残ったその暖かみを宿した両手を胸の前に持っていくと、涙を静かに零した。
「スカイ……」
全てが無に還り、日常へと引き戻された一同は、その突き崩された平静を取り戻すのにしばしの時間を要したことは言うまでもないことだった。
集英社、編集部の一角。携帯電話を握りしめている彼女…編集者である泉京香の顔は怒りによって、そして派手に塗られたチークも相まって赤く染めあがられていた。彼女は携帯電話を握るその手の力を強めながら、強くその通話相手に対して言葉を掛けた。
「…………もぉ~。露伴先生、何処に行ってるんですか!」
自身の担当である漫画家、M県S市杜王町に住む彼……岸辺露伴と数日間全く連絡が取れなくなっていた。電話にも出なかった今日この頃だったが、根気よく電話をかけ続けた結果、今しがたようやく彼と連絡を取ることに成功したのだ。
電話の向こうにいる彼は一体どこにいるのか。そして今の今で一体どこで何をしていたのか。聞きたいことは山ほどあった。息まく彼女とは裏腹に、返事をした露伴の声色はひどく落ち着き払ったものだった。
「……いいじゃあないか。再来週の分までの原稿は既に描き上げて、君たちのところに送っている。あまり漫画家に対してせっついてもいいことないんじゃあないか?」
確かにその通りだった。彼は失踪の直前に、編集部に数話分の完ぺきな原稿と共に、「しばらくいなくなるが、いずれ戻る」というメモ書きを送ってきていた。つまり現状彼がいなくなっていて、掲載が滞るということは特にないのである。
「……そ、そんなことより露伴先生、今どこにいるんですか⁉いつも旅行なら編集部に一報を入れてくれるじゃあないですか!」
バツの悪くなった編集者は、電話の相手に対して論点をずらして彼を責め立てる。しかし相手は短く舌打ちを一つしたかと思うと、そのまま携帯電話を切ってしまった。
ツー、ツー。
「…………って!露伴センセッ!センセッ!」
何度声を掛けても、既に電話は切られてしまっている。編集室に彼女の絶叫が響き渡った。
「………さて」
露伴は携帯電話を乱暴に切ると、ポケットの中にそれを押し込んだ。今日という今日は、特別な日だ。誤って電話に出てしまったが、それは間違いだったといえるだろう。露伴はゆっくりとため息を一つつくと、後ろから声が聞こえた。
「………トレーナー君?誰と話していたんだい?」
露伴は声のした方向へと首を向けると、肩を小さくすくめた。
「…………なんでもないさ、大した用じゃあなかった……ルドルフ。それより君は今、旧友と会っていたんだろう?」
「エアグルーヴさ。彼も……基樹君も一緒だったよ。彼ら今度……式を挙げるそうだ。君も一緒に参加してほしいって」
「そりゃあ本当かい?なんていうかその……」
言いようがない感情が自身を襲い、口を噤んだ露伴だったが、やがて気を取り直すと言葉を続けた。
「勿論参加させてもらうよ……それはそうと、もう本番だ」
本番。その言葉を聞いたルドルフの顔は一層引き締まったものになる。今日はウマ娘にとって1年の締めくくりであり、その集大成である有馬記念の日だった。彼女はファンからの期待を背負い、そのレースの本命の一人として参加することが決まっていた。
「…………いよいよ私も最後のレースだな」
彼女の口から漏れ出たその一言に、露伴の表情は浮かないものとなる。ルドルフの学年上、もうこれ以上トレセン学園に在籍することはできない。本日行われる有馬記念を以て、彼女はトレセン学園を卒業する。「皇帝」として全てのウマ娘たちを牽引し続けた彼女の最後の雄姿を見届けようと、会場には例年よりも遥かに多い人数が会場に押し寄せていた。
「………これで、最後か」
そうつぶやく彼女の表情は、うかがい知れない。彼女の人生にとって、転換点が今ここにあるということは疑いようのない事実だった。露伴はそんな彼女を静かに見つめると、徐に口を開いた。
「君に一つ聞いておきたいことがあるんだ」
「…………?」
「………ルドルフは卒業したら、どうするんだ?」
ずっと気になっていたことだった。噂に聞けば彼女はURA本部から直接スカウトが来たようだ。それだけではなく、数々の実業団からもオファーを受けている。そして何より奇妙なことは、彼女がそれらのスカウトを全て断っている、ということだった。
その質問を投げかけたルドルフは、目を伏せてしばらく身体を左右に振る…釈然としない彼女の態度に露伴は首を傾げていたが、やがてルドルフはその顔を上げると、徐に口を開いた。
「……トレーナー君、いや露伴先生……君は杜王町に住んでいるんだよね?」
「あぁ」
「そ、その……その家は……広いんだろうか?」
彼女の言葉の真意を掴むことができない。露伴は首を傾げたが、その返事をするために口を開いた。
「……あぁ。一軒家だし、そこらの家よりは広いと思う。何より不測の事態だったが、大幅に改修工事をしたから、新築みたいなものさ」
露伴が不思議そうに答えると、ルドルフはその顔を赤らめる。そしてしばらく時を隔てた後、彼女はおずおずと口を開いた。
「…………その家、私が卒業したら少々手狭になってしまってもいいだろうか?」
「それって……」
露伴の問いに、ルドルフは静かに頷く。しばらく時が流れた後、露伴は彼女の目をまっすぐと捉えると、徐に口を開いた。
「……ちょうど部屋が一人だと広いなと思っていたところだ」
露伴の言葉に、ルドルフは尻尾をこれでもかといわんばかりに振る。それが彼女の気持ちを端的に表していた。露伴は恥ずかしさを隠すために、そのまま言葉を続けた。
「さ、さぁ。もうレースが始まるぞ。」
「あ、あぁ。絶対にこのレース、勝利を君に持ち帰ってみせる。楽しみにしていてくれ」
ルドルフは懸命にその心の内が漏れ出ないように努めながら、ターフの方へと足を向けた。
2人きりの控室。この部屋にやってきてからの間、二人は特に言葉を交わすことはなかった。やがて彼は腕時計で時刻を確認すると、俯きながら椅子に座る自身の担当ウマ娘に声を掛けた。
「…………スカイそろそろ時間だ。」
恭也の言葉に、スカイは俯いていた頭をゆっくりと上げる。菊花賞を制し、同期のウマ娘たちより頭一つ抜きんでた活躍をみせたスカイは、ファン投票によって有馬記念に出場することが決まっていた。
「わかった」
スカイは椅子から立ち上がると、部屋を出てターフへと続く長いトンネルを進んでいく。
「……」
あのことがあってから、スカイにも何か心境の変化があったのか。より一層真摯にトレーニングに向き合うようになった。
あの日。もう一人の自分からバトンを手渡されたあの日。彼女に手渡されたその目に見えぬバトンの重さは、想像を絶するもののはずだ。
「……スカイ!」
恭也の言葉に、スカイはターフに向けていたその脚を止める。ゆっくりとこちらを振り返るが、その顔はトンネルの出口から差し込む光が逆光となって窺うことはできなかった。
彼女に、なんて言葉を掛ければいいか。
「勝ってこい?」「君らしい走りをすればいい?」
頭に浮かんだどのセリフも、今の彼女に掛けるべき言葉としては及第点にも満たない陳腐な代物だ。言葉に詰まる恭也をよそに、その不自然な沈黙を打ち破ったのはスカイの方からだった。
「………私。走るのが嫌になってたんです」
「……!」
彼女の口から発せられたその一言は、あまりにも驚くべきものだった。驚愕する恭也をよそに、スカイはそのまま言葉を続けた。
「……菊花賞で一緒に走ったスぺちゃんを見て、感じたんです。『あぁ、私はここまでなんだ』って。これからシニア期に向かって、活躍できるのはスぺちゃんやグラスちゃんみたいなウマ娘で、私は……私は……」
「そ、そんなことは……」
「………身体から力が抜けていくのを感じたんです。そこまで言えば、トレーナーさんならわかるでしょう……?」
その一言に、恭也の頭が真っ白になる。一般的にウマ娘という種族には「本格化」なる現象があり、本格化を迎えることで競技者として相応しい強さを携えるようになるとされている。スカイはクラシック期に入る前の時点で本格化を迎えており、「競技者」として問題なくクラシック期のレースを戦い抜くことができ、また結果を残すことができた。
そしてその本格化を迎え切ってしまったウマ娘は、基本的に身体的な向上を迎えることは余程のことがない限りは難しい。これは人間でいう「成長期」と同じで、山頂まで登り切ってしまえばあとは下るしかないと言ってしまえば簡単な話だ。
スカイの言っていた、「身体から力が抜けていく感覚」が本当だとすれば、彼女は…
「スカイ……」
それ以上、今の彼女には掛けるべき言葉はなかった。今しがた彼女の言っていたこと。それは彼女が既に山頂を登り切ってしまったことを示していた。驚愕している恭也だったが、それと同時に納得している自分もいた。トレーニングに感じていた僅かな違和感。彼女の伸びきらないタイム…その一つ一つの事象が、たった今彼女の独白によって一つの線となって繋がってしまった。
そのあまりにもショックな出来事に、絶句する恭也だった。しかし彼は、次に彼女が発した言葉によってその俯きかけた顔を上げることになった。
「……でも彼女に出会った」
「……!」
「彼女には、全然敵わなかった。最後のレースだって、彼女が立ち止まってなかったらどうなっていたか分からない。彼女は私に…その背中を見せるだけ見せて行ってしまったんです。ズルいでしょ、本当に…?」
……恐らく二度と解くことができない。その課題……その圧倒的なまでの背中を見せて、彼女は光そのものになってしまった。その光を浴びてしまった彼女は、謂わば呪いを受けてしまったのだろう。その追いつくことができない背中を追い続けるその呪いを……
そしてそれは彼女にとって、大きな道標になったことだろう。暗中模索、もしかしたらその道半ばで船を降りる他なかった彼女に、もう二度とその行く先を迷うことがない、北斗七星となったに違いない。
「……それに、言われちゃったんです。あの子に…最後に…」
「……なんて言われたんだい?」
そういえば彼女は、最後に言伝をスカイにしたはずだ。あまりにも小さい声で、僕はその話の内容を聞き取ることはできなかった。
「……『私の分まで、走って』って…そんなこと言われたら、もう走るしかないじゃあないですか」
スカイは数歩、こちらに近づいていく。その顔に、最早その違和感は微塵もなかった。あるのは、たった一つの想いだけだった。
「……もう、一人のためのレースじゃあないから」
スカイはそう言うとニッと口角を引き上げる。
もう、彼女は大丈夫だ。
「それじゃ、セイちゃん行ってきますね!」
スカイはそう言うと、腕を頭の後ろに持っていきながら光が差す方向へと足を進めていく。恭也は彼女の身体が光に呑まれる直前、大きな声を喉から振り絞った。
「スカイ!」
彼女は、振り返りはしなかったが立ち止まった。大丈夫、聞こえている。彼女に掛けるべき言葉は、これしかない。
「待ってるからな!セイウンスカイ!」
その言葉をしかと聞き遂げたスカイは、手を数度ひらひらと振ると、再び歩みを進めていく。やがてその身体は完全に光に包まれて見えなくなった。
露伴はレースを見守ることができる最前列…柵の手前に移動すると静かに観客たちの方へと顔を向けた。ここが彼女たちの居場所であり、全てだと言っても過言ではない。この会場にいる全ての人たちの声が大きな力となって、彼女たちの背中を押している。
「……ウマ娘ってやつはつくづく不思議な生き物だな」
「……そして可能性に満ちた生き物、だろう!」
隣から突如聞こえた声にぎょっとして振り向くと、そこには2度も共に世界を救った、最早腐れ縁といってもいい二人のウマ娘、アグネスタキオンとエアシャカールの姿があった。
「なんだ……君たちか」
「なんだとは何だ!シャカール君もそう思うだろう!」
「……まぁ、もう嫌になるほど顔を拝ンでいることには変わりねぇなぁ」
一連のやり取りを繰り広げた3人は、視界に広がるターフに目を向ける。タキオンの言う通り、彼女たちは可能性に満ち満ちている。その可能性をこの目に焼き付けることができる。その幸せを噛みしめていた。
「ところで露伴先生……一つ君に尋ねてみたいことがあるんだが」
「………?そりゃあ一体なんだ?」
首を傾げる露伴を余所に、タキオンはそのまま言葉を続けた。
「君がスカイ君……平行世界のスカイ君に何やら書き込んでいたのが目に入ってね……あれ、君の不思議な能力……という奴だろう?」
「何書き込んだんだよ、あれ?」
二人からの質問に露伴は少し考え込んだような素振りを見せたが、やがてその顔を上げると言葉を続けた。
「……僕の能力は「相手の体験を隈なく暴き、そして対象に命令を書き込むことができる」というものだ。それで昔、敵を倒す時に「地獄に行く」と書き込んだことがある。まぁ、地獄というものが果たしてあるのかどうかは分からないが……まぁ、ある種の願望というか、当てつけみたいなものだ。そこまでの干渉をできるかと言われれば、最早神の領域に踏み込んだものと言わざるを得ないからな」
「……それはつまり、どういうことだい?」
「……ある種の願いみたいなものさ。彼女はその身に有り余るほどの受難を被ったんだ。その彼女の魂……まぁそれがあるとは限らないが、その行方が少しでも報われてほしい、そう思っただけだ」
「……だーかーらー!なんて書いたんだ?」
「……こう書いたのさ。つまり……」
露伴の言葉が紡がれ、二人はその内容に驚いた表情を浮かべる。そんな3人を余所にして、会場には一際大きな歓声が沸き上がった。
『さぁ、始まりました!○○回有馬記念!今回のレースの目玉は勿論このウマ娘!このレースを最後に、花道を飾る「皇帝」、シンボリルドルフです!1番人気に選ばれました!』
その最後の雄姿を見届けるために会場に押し寄せた観客から、大きな歓声が上がる。数多の伝説を刻み付け、多くのウマ娘に希望と羨望、そして絶望を与えてきた彼女の背中は、正に「生きた伝説」そのものだった。
ルドルフはターフの上に雄々しい姿で立つと、観客に向かってその手を引き上げる。その姿を見た観客から、一際大きな歓声が沸き起こった。
そして続々と、テンポ良く実況者が出走者の紹介を済ませていく。
『そして3番人気はこのウマ娘!クラシック3冠の内、「皐月賞」と「菊花賞」を制したルーキー!トリックスター、セイウンスカイです!』
純白の、セーラー服のような勝負服をはためかせた彼女がターフへと姿を現す。その姿を目に止めたルドルフはその口角を僅かに引き上げた。
「……どうやら見つけたみたいだね、セイウンスカイ」
「……はい。今日は勝つつもりで来ました」
彼女の目を見たルドルフは安心したように笑みを浮かべる。今日のレースはきっと、最後で最高のレースになる。彼女はきっと「次」の担い手になる違いない。
「愉快適悦……いいレースにしよう」
やがて一同は横一列に並んで、ゲートに収まる。そのレースが始まる寸前、その光景を目撃する観客の間に静寂が支配した。
スカイはそっと目を閉じると、ゲートが開くその瞬間を待つ。
……やっぱり私の居場所はここだ。
私の心の中には、刺さって抜けない棘がある。それは会長さんにも、タキオンさんにもシャカールさんにもある。その抜けない棘は恐らく一生、私たちの心に住まうことになる。
……それでも。
彼女は最後に、残してくれた。走ることの楽しさを。最後に、教えてくれた。頬を撫でるこの風の美しさを。
私は今日を生きている。
ゲートが開くその直前、彼女はその目を見開いた。
降りしきる桜の花びらが絨毯となって道に敷き詰められている。その道の上を一人のウマ娘が、のほほんとした様子で歩いて行った。
心地よい春の日差しが頬を差し、暖かな外気が自分の身体を包み込む。
「おはようございます。」
門の前に立つ、彼女の朝の挨拶に彼女は立ち止まる。緑色の制服と帽子を身にまとった彼女は、立ち止まった自分に対して不思議そうに首を傾けた。
「……どうかなさいましたか?」
「いや、どうしてここに毎朝立っているのかなぁって……変なこと聞いてごめんなさい」
「確かに毎朝ここに立って辛くないかと言われれば、トレーナーさんたちと飲み明かした次の朝なんかは、少し思う時もありますね。でも……」
「……でも?」
「貴方たちウマ娘が笑顔で朝を迎えている。それを確認できるのは、ここが一番なんです」
彼女のその言葉には遥かなる優しさと、そしてそれさえも超えた慈愛に似たものを感じた。彼女に朝の挨拶を返した自身は、校門を潜り校舎へと足を繰り出していく。
今日は待ちに待った選抜レース。これから競技者としての3年間がスタートする。それには、二人三脚でその日々を駆け抜けるパートナー、トレーナーを探さなければならない。
その時だった。足元に敷かれた桜の花びらに気を取られ、前にいた人物にぶつかってしまう。ぶつかった拍子に、彼の手に持っていた何枚かの紙がひらひらと地面に落ちていった。
「……ごめん!」
男はそう言うと、自分が悪いわけでもないのに自身に謝罪をして、地面に落ちた資料を拾い始めた。彼女も謝りつつ、地面にしゃがむとその資料を拾うのを手伝った。
ふと、彼の胸元に光っているバッジが目に留まる。彼女はそのバッジを視線に留め、彼に資料を手渡しながら徐に口を開いた。
「……トレーナーさん、なんですね」
「あぁ!そうなんだ……といっても僕はまだ新米なんだけどね!」
彼の声に聞き覚えがあった。不思議と引き寄せられるように視線を上げて彼の顔を見た彼女は、デジャヴに襲われた。
初めて会ったはずなのに。そしてその感覚は、相手も同時に襲われたようだった。
「……君。どこかで会ったことあったっけ?」
その問いに、彼女は首を横に振る。男は一足先に立ち上がり彼女の手を引いて立たせてあげると、徐に口を開いた。
「……変なこと聞いちゃってごめんね!それじゃあ!」
男はそう言うと、そのまま校舎の方へと足を向けようとする。彼女はその背中に、呼びかけずにはいられなかった。
「……貴方の名前、聞かせてください!」
男は立ちどまり、彼女の方へと顔を向けると、自身の名前を告げた。
……!
その名前を聞いた瞬間、スカイの瞳からは涙があふれる。なぜだか分からないが、彼とまた出会えることをずっと待っていたような気がする。まるで長い旅路を経てようやく再開を果たしたような、そんな気分に襲われた。
「……君の、君の名前はなんて言うんだい?」
彼女は数歩近づくと、彼に自身の名前を伝える。彼女の名前と同じ、清々しいほどの青い空が一面に広がり、二人のことを静かに見守っていた。
終わり
どうも、皆さん。ボンゴレパスタです。
岸辺露伴は歩まないシリーズ、如何だったでしょうか?
本作は前作の「岸辺露伴は調べない」の続編にあたるものであり、前作を書き終えた後に構想を練って、書き上げた次第です。
個人的には、アプリの当時新シナリオだった「トゥインクルスタークライマックスシリーズ」には思うところがあり、それを基に着想を得ました。
何はともあれ、最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました。感想等書いていただけると幸いです。