瞼の薄い皮膚を隔て、光がうっすらとうかびあがる。
露伴はその覚醒しきらぬ意識の中で、目をゆっくりと開け、まずしたことは、自身の身に何があったのか。そして今自身がいるのはどこなのかを考えることだった。
確か僕は……犯人を追っていて。
そうだ。犯人に攻撃されたルドルフを庇った結果、自身は意識を失ってしまったのだ。記憶の整合性が取れたのと同時に、身体に淡い痛みがその記憶を引き金として戻ってくる。
……ウッ
胸部を襲う鈍い痛みと、咥内に淡く残る鉄の味に不快気に顔を顰めつつ、それでも露伴の頭を占めていたのは、犯人のことでも、また自身のケガでもなく、自身が守った愛バ、シンボリルドルフのことだけだった。
彼女は、彼女は無事だったのか。
別にこんな目に遭ったのは、不覚を取ったからというわけじゃあない。彼女のことを守るため、偏にそのためだった。不安によって完全に意識を取り戻した露伴は、急いでベッドから起き上がる。彼女のことを探そうと、その名前を喉から引き絞りそうになった瞬間、横から大声が放たれたのだった。
「露伴先生!」
露伴はその声の主の方へと首を向ける。そこにいたのは、正に露伴の頭を独占していたその人物、シンボリルドルフその人だった。露伴の意識が目覚めたことに気が付いたルドルフは、喉の奥から悲鳴に近い声で、彼の名前を絞り上げると、まるでその手からこれ以上砂が零れ落ちることがないように強く、強く彼の身体を抱きしめた。
「すまない……私が、私がもっとしっかりとしていれば」
ルドルフの胸の中を占めていたのは、専ら自責の念だった。自身があの時点で犯人を取り押さえることができていたとしたら。彼を危険な目に遭わせてしまったのは、自身のウマ娘としての身体能力に高を括った結果だと。
彼の力なく倒れ込む身体の感覚。真っ白な雪の上に垂れ流れる血のコントラスト。助けが来るまでの間、彼にもしものことがあったらと不安で頭の中で膨れ上がっていくあの感覚。
……そしてそれを皆まで言わずとも、露伴は彼女の心境を理解していた。うめき声を上げつつも、今自身がなすべきことを理解した露伴は、彼女に向かって声を掛けた。
「まずもう少し、力を緩めてくれないか?ただでさえ身体が痛いんだ」
「……!す、すまない!」
露伴の言葉に、自身の配慮が至らなかったことを理解したルドルフは、謝罪の言葉を述べつつ、パッとその手を露伴から離す。軋む肋骨の痛みに顔を顰めつつ、露伴は努めて彼女に対して柔和な笑顔を浮かべつつ、彼女に向けて言葉を掛けた。
「心配するな。この痛みだったら、骨は折れていない……精々、打撲がいいところだろう。それにこうなったのは君のせいじゃあない。僕の判断だ。それを君のせいだって?ふざけたことを言うのも大概にするんだな」
それは女性に掛ける慰めのセリフとしては、間違いなく及第点にすら遠く及ばぬ、ひどい代物だった。それでもこと岸辺露伴がシンボリルドルフに掛ける慰めの言葉として、これほど彼らしく、そして彼女の後悔という尾を引かせないものはないだろう。
事実先程の様子に比べ、ルドルフの様子は幾分も落ち着いていた。彼女のそんな様子に笑みを漏らすと、改めて露伴は周囲の状況を確認するという余裕が生まれ始めていた。
「そういえば、ここは…」
「ここは、学園にある保健室だよ……君が意識を失って、急いでここに連れてきたんだ」
どうやら、犯人の攻撃を受けたルドルフを庇った結果、あれからしばらく間気を失ってしまったようだ。額に巻かれている包帯を見れば、既に治療に必要な応急処置は済んでいるようだが、ルドルフは急いで後ろを振り返り、声を掛けると、保健室には数人の人物が脚を運んできていた。
部屋に入ってきた人物の内の一人、学園のお抱えの医師が簡単に意識を取り戻した露伴の体調を改めて検査し、そして大事には至らぬことを説明すると、その隣にいた駿川たづなは露伴に対して、既に犯人が取り押さえられたことを聞かされた。
「それは安心しました……しかしたづなさん。あれほどの犯人を取り押さえるのに一体どうやって……」
そこまで言いかけて、ベッドからたづなの顔を見上げた露伴は、彼女の顔の笑顔に…しかしその有無を言わさぬ迫力を孕んだその笑顔は、その質問について、それ以上の詮索は許さないという意をふんだんに含まれていた……その笑顔を目に止めると、思わず口を噤み、苦笑いで彼女の笑みに応えることしかできなかった。
「……そ、それはともかく……犯人の身柄は分かったんですか?」
「はい。それは既にわかりました。この近辺の大学病院の看護師だそうです。」
「……看護師?」
「はい。犯人は淀川真美、26歳女性。都内の大学病院に勤務する看護師で、所持していた免許証からその身元を割り出すことができたそうです。」
我々の頭を悩ませ、学園のウマ娘たちに不安を植え付けた犯人の正体は、あまりにも突拍子のないものだった。学園とは全く持って関係のない看護師が、わざわざ顔の欠いたウマ娘の人形やポスターを、学園に忍び込んで配置するという奇妙な犯行に及ぶ理由は、全く想像がつかなかった。
それに疑問はそれだけではない。犯人は女性だった。ともすれば、ウマ娘ではなく、ましてや男性でもない彼女が、ウマ娘であるはずのルドルフを凌駕するほどの大立ち回りをみせたことが、聊か露伴には信じられなかった。
「なるほど……色々聞きたいことはあるが……犯人は何の目的があってあんなことをしでかしたんだ?」
「それが……その」
露伴の質問に対して、たづなの答えはやけに歯切れが悪かった。露伴はベッドの姿勢を変ええると、相手の返答をせかすように言葉を続けた。
「おいおいおい。ここまで身を粉にしてこの事件の解決に貢献してるんだぜ?今さら勿体ぶらなくてもいいじゃあないか」
「それもそうですね……犯人は終始、「分からない」と言っているそうです」
「……はぁ?分からない?」
それはあまりにも、的を得ない返答だった。露伴が首を傾げながら反芻したその言葉に、たづなはゆっくりと首を縦に振ることで同意の意を示した。
「はい……一体何の目的であんなことをしたのか。どうやって犯行日時やルートを算出したのか。それらの質問全てに、彼女は「分からない」と答えているそうで」
つくにしても、もう少しマシな嘘というものがあるだろう。あれだけのことをしておいて、犯行現場から立ち去る姿は既に自身やルドルフが目撃している通りだ。きっとこれから、過去の事件に残された手がかりから、彼女が犯人であるという決定的な手がかりを発見するのには、既に時間の問題だし、それさえ分からぬほどの短慮であるならば、そもそもここまで逃げ切ることなどできなかったはずだ。
……ということは。
つまり。彼女の言っていることを鵜呑みにするとしたら?その真相はますます深い闇の中へと沈み込んでいくことになる。
「……それでもだ。犯人はもう一人……もう一人いるはずなんだ。そいつについて、彼女はなんて言ってるんだ?」
「……それについても、他のこと同様に『分からない』って。」
「なっ‼そんなこと……あり得ないはずだ!同じ手法の事件……一回目の事件と二回目の事件の間、その事件について知っていたのは警察の関係者と、そして学園の関係者数人だけのはずだ!」
隣で聞いていたルドルフは、その証言に声を荒げる。確かに彼女の動揺は尤もだ。淀川真美が2つの事件の内、どちらの事件を犯したのかは明らかではないが、いずれしてもどちらの事件が起きたタイミングであったとしても、世間にそれが表沙汰にされていないのだとしたら、1つの事件をみたことによる「愉快犯」、または「模倣犯」という線は限りなくゼロに近い、ということになる。
つまり2人の犯人。淀川真美ともう一人の犯人には何かしらの接点がなければおかしいはずだ。露伴はそう頭の中で結論付けると、顔を上げて、たづなのほうへと視線を向けた。
「……いずれしても足跡が違うんだからな。たとえ彼女からの証言が聞けなかったとしても、もう一人の犯人の方は、まだ目的を達成していない……即ちまだ行動を起こすということだ。」
「つまり、その時に犯人を捕まえれば、全て解決すると?」
たづなの発言に、露伴はゆっくりと頷く。その日は軽度なケガで済んだ露伴は、ルドルフに連れられて学園を後にし、根城としている駅前のホテルへと向かっていった。
「犯人が捕まったですって!?」
今朝ウオッカと共にいつものように言い争いをしながら登校していたスカーレットは、校門の前にいたたづなに呼び止められたのだった。
スカーレットは、今しがたたづなの言っていたことに驚きの表情を浮かべる。確かに、昨日の夜は学園の外が騒がしかったのを寮の部屋から聞いていたが、まさか二人のうちの一人の犯人が捕まっていたとは。
「オレたち…………オレたち、何もできなかった」
隣に立っていたウオッカは、その無力感を端的に表す一言を発する。自分たちにできたことは、精々学園中を無闇に聴き取りに講じていただけだ。今回の犯人の確保について、自分たちは何も寄与できていない。
「心配いらないさ」
「………!」
そう言ったのは、いつからいたのかたづなの傍に立っている岸辺露伴だった。驚くスカーレットとウオッカは彼のことをじっと見つめたが、それをものともせずに露伴は言葉を続けた。
「……君たちが何の心配もなく学園生活を送ることができるようにということが何よりも一番肝心なことなんだ。」
露伴の慰めの言葉に、二人は唯々その視線を下げることしかできなかった。その言葉は、明らかに大人が子供に掛ける慰めであり、それは唯々自身の無力さを痛感させるものだった。
露伴とたづなと別れたあと、二人は酷く重い足取りで校舎の方へと向かっていく。無力さに打ちひしがれた二人の間には、いつものような言い争いはどこにもなかった。そこにあるのは、どうしようもない喪失と悲愴だけだった。
その時だった。
「……なぁ。スカーレット」
「……」
止めてくれ。今は何の言葉も自分には惨めに思えてしまう。何よりも負けず嫌いな自身にとって、それほどプライドを深く傷つけられることはなかった。足早に校舎に駆け込もうとするスカーレットを余所に、ウオッカは自身の相方に何度も、しつこいと思えるほどに声を掛けた。
「なぁ!おい、スカーレット!」
「……アンタ。いい加減に……」
「上見ろって!!」
……?
「…………上?」
その言葉を聞いたスカーレットは、言われるがままに上へと首を向ける。そこには、まるで1月の空から降り注ぐ雪のように、何やら大量の紙が舞い落ちていたのだった。
「これは……!」
空から舞い降りていった紙の内、一枚を空中でつかみ取ると、スカーレットはそこに目を通す。それはウマ娘の顔が黒く塗りつぶされているポスターだった。
ザワザワ……ザワザワ……
何これ……
これって……
周囲には、既に学園のウマ娘たちが何事かと集まりだしている。あるものはそのポスターを手に取り、またあるものは上を指差し、そしてあるものはスマホを構えてその光景を画面に刻み付けていた。
今現在、このポスターは現在進行形で空から地上に向かって降り注ぎ続けている。つまり、つまり犯人は…
「……まだ……まだあそこにいる……?」
ウオッカの口から漏れ出た言葉。その言葉はスカーレットも言葉に発さずとも脳内で思い浮かんだ可能性そのものだった。
今度こそ、今度こそ犯人を捕まえる。
ウオッカとスカーレットは示し合わせたわけではなく、弾かれたように二人は校舎の屋上に向かって同時に走り出したのだった。