忘れた日なんて、一度だってない。
これ以上、何処を探せば。誰に尋ねれば、心は許されるのだろうか。あと何度思い返して、その残滓に縋り付けば、もう一度……
頭の中で軋み、胸の中には錨を取り付けられた心が深海へと深く、深く沈み込んでいく。
最後に朝日を美しいと感じた朝は何時だろうか?最後に夜を超すのが怖いと思わなかったのは、一体何時だったか。いくら影を追い求めても、一切の光はそこになく、その影は深い闇に紛れ視認することができなくなる。
一体どうすれば。一体どうしていれば…どうしていれば……
……?アレ……?
思考が……。アレ……?何が……どうして?どうして……
何かが、少しずつ零れ落ちていく。大切なものだ。自分にとっても……みんなにとっても……
神様。どうかこれ以上奪わないで。
心のうちに浮かんだ切なる願い。それを失わないように必死にそれをつかみ取ろうとするが、全ては砂のようにパラパラと、手から虚しくすり抜けていった。
……
全ての整合性が失われ、感情と混乱だけがその場に取り残された時。浮かんだことはたった一つだけだった。
……ワカラナイ。
「……到着したな」
トレセン学園を抜け出し、一同がたどり着いたのはトレセン学園からほど近くにある警察署だった。
「……」
目的地にたどり着いたというのに、一同の顔に安心感といった類は何一つ見受けられない。それもそのはず、彼女たちの心に占められていたのは、たった一つの出来事だけだった。
ここに到着するまでに目撃した光景の数々。既に校外に「現象」が発生しているリスクは懸念されていたものの、実際に目撃するとそのショックは聊か大きいものだった。既に街は荒廃の前兆を見せている。人々は現場に混乱し、その光景を「記録」する。そのカオスは文字通り感染し、更なる混乱を人々に伝染させる悪循環。街のあちこちでは悲鳴と動揺の声が上がり、各地でその収拾を収めるためにパトカーのサイレンがひっきりなしになり続けていた。
事態は一刻の猶予さえ許されない。
「さて、これからどうする?」
警察署に忍び込み、拘留されている人物の証言を聞く。言葉にしてしまえばそれは簡単な話だが、それは大前提として違法な行動である。街の混乱を収めるためにいくらかの警察職員が現場に出払っているとは言っても、それが実現には聊か困難な問題であるという事実には何も変わりはない。
「……全員で行くわけには行かないでしょうね」
現在、ここにいるメンバーは露伴、ルドルフ、たづな、ウオッカとスカーレットの5人である。この全員がわざわざ警察署に乗り込むことはあまりにも目立ちすぎるし、ましてやウオッカやスカーレットはまだ中等部の女の子だ。警察署に多少の変装をして潜り込んだとしても、彼女たちの姿、顔だちはあまりにも目立ってしまう。
「……僕が行こう。当然だが、僕がいなければ作戦は成功しないんだからな」
しばらくの沈黙の後、露伴はその口を開く。当然のことではあるものの、現在警察署に拘留されている淀川真美から素直に話を聞くことができるとは限らない。彼女から確実に証言を取るためには、露伴のヘブンズ・ドアーの能力が必要不可欠だ。つまり警察署に忍び込むメンバーの中には、必然的に露伴が入ってくるということになる。
「なら、私が付いていくよ」
すかさずルドルフが口を開き、そのメンバーに志願する。しかし、露伴はその提案に対して決して首を縦に振らなかった。
「いや、君は競技者としてあまりにも顔が知られ過ぎている。ましてやここはトレセン学園のお膝元。君たちウマ娘に対して興味を抱いている者もきっと多いだろう。君はここでウオッカ君とスカーレット君といてくれ……たづなさん、貴方が僕に付いてきてほしい。貴方だったら職員に顔が割れるリスクは限りなく低いだろう。」
「わ、わかりました……」
「露伴先生……」
ルドルフは不満気に露伴のことを見やったが、同時に彼女は露伴の理屈が正しいことも重々に理解していた。ウマ娘特有の嫉妬を一瞬醸し出した彼女も、すぐに元の聡明な彼女に戻り、ウオッカとスカーレットの二人に声を掛けた。
「それでは私たちはここで待とうじゃあないか……露伴先生。後は頼んだよ」
露伴はその言葉に首をゆっくりと縦に振ることで彼女に応えると、自身がこれから乗り込む建築物に視線を移し、一歩前に踏み出した。
警察署の入り口に守衛として立つ2人の警官は、互いの顔を緊張した面持ちで見合わせ、外の惨状に再び視線を戻した。
自然と、警杖を握る手の力が強くなる。
本日未明。警察署に入った多数の通報は、管内の職員を驚かすには十分すぎる材料だった。職員は騒動の鎮圧に駆り出され、署内に残された職員は僅かとなっている。他の警察署からの応援を待つ間、こうして何もできないことはもどかしさとして喉の奥につっかえていた。
「……一体、何が起こっているんだ?」
不安気に漏れ出た一言。どうやらそれはもう一人の守衛にも聞こえていたようで、その身体は僅かに揺れたのを視界の端でとらえた。
その時だった。
「……あの!」
目のまえに一人の女性が歩み寄ってくる。着の身着のまま、急いでここまでやってきたようで靴の片方が脱げてしまっていた。
「どうしました⁉」
彼女に歩み寄り、一体何があったのか尋ねると肩で息をしながら言葉を紡いだ。
「……ちょうど、あそこで……騒ぎが……私…怖くて」
そう言うと彼女は曲がり角の先を指さす。既に警察署の目と鼻の先で事件が発生している。警官たちは顔を瞬時に引き締めると、女性が指さした方向へと駆け出して行った。
……市民を、この町を守らなければ。
2人の警官が曲がり角に差し掛かる。するとそこには女性が言っていたような騒ぎは全く起こっておらず、一人の男が立ち尽くしていた。
「……は?」
目のまえの状況を全く理解することができない。2人の警官がポカンと口を開いていると、その場にいた男は徐に口を開いた。
「……本当に申し訳ないが、ちょいと君たちには協力してほしくてね。平たく言えば、君たちの制服が必要なわけだ。まぁでも……これはこの騒ぎを収めるためだ。許してくれ」
すると男は空に向かって何やら走り書きをする。その光景を見た瞬間、警官たちの意識は暗闇へと吸い込まれていった。
「さて……それじゃあ服を貰うとするか。寒空の下で放置するのはちょいと可哀想だが、精々風邪っぴきになるくらいだろう。」
「露伴先生!どうでしたか?」
露伴のもとにやってきたたづなは、交互にその場で気絶している警官と、露伴を見合わせながら、近くに隠していた片方の靴を慌てて装着した。
「……さて。たづなさん。こっちの奴の方が貴方の着丈に合いそうだ。僕は他の奴が来ないか確かめながら向こうで着替えるから、ここで着替えてくれ」
「わかりました!」
露伴は片方の警官を担いで、曲がり角の更に向こうへと姿を消す。たづなは一人残された場で、警官から制服を脱がせ始めた。
警官姿に身を包んだ露伴とたづなは、警察署内へと足を運んでいく。署内は先程から発生した騒ぎの鎮圧のために駆り出され、皆慌ただしく動いているようで、顔なじみではない露伴とたづなが署内に紛れ込んだとしても、違和感に気が付く者は誰もいなかった。
「急いで拘留所を探そう……案内図がある」
二人は署内に掲示された案内図を見ると、どうやら最上階に拘留所はあるようだ。二人はエレベーターに乗り込み最上階へと向かう。
「4階です」
エレベーターのオペレーターが最上階に到達したことを告げる。二人が外に降り立ち、拘留所へと向かうと、そこには通路が檻によって区切られ、見張りが一人立っていた。
「……?お前ら何の用だ?」
見張りが訝し気にやってきた二人のことを見つめる。彼が露伴たちの到来に疑念を抱くのは至極当然だろう。それでもこいつにここから立ち去ってもらわなければ、話が前に進まない。露伴は怪しまれないように笑みを浮かべながら、言葉を発した。
「……交替の時間だそうで」
「はぁ?交替ぃ?おいおいおいおいおい……まだ交替の時間には2時間もあるぜ?それに次の担当は松下だったはずだ」
「……松下さんは応援に駆り出されてしまったので」
たづなが横から助け舟を出す。しかしながら見張りの警官の顔が緩むことは全くなかった。
「……それはそうだろうな。これだけ騒がしかったら尚更だ。だが、お前ら見ない顔だな?……少し確認するから待て」
見張りの警官は胸に付けられているインカムに手を伸ばす。しかしその瞬間、警官はインカムに伸ばした手を止めると、大きく目を見開き二人のことを見つめた。
「……ろ、露伴先生?アンタ、『ピンクダークの少年』の作者、岸辺露伴先生だよな⁉なんでここに……」
「……!」
しまった。どうやらこの警官、漫画のファンだったようだ。自身はルドルフやウオッカたちよりも有名ではないにしても、連載を抱え第1線で活躍する現役の漫画家だ。漫画のことが好きであれば、その顔を知っているであろう可能性を失念していた。
だが、このような反応をされて悪い気はしない。露伴は思わず顔をほころばせたが、次に発した警官の発言によってその顔は凍り付いた。
「オレ、アンタの漫画のファンだったんだよ!」
その瞬間、露伴は先程のように高速で空に何かを走り書きをすると、警官はその顔にページを出現させながら昏倒した。
「……こいつ……!漫画のファンだった、だぁ?そもそも漫画を読んでないと言われるよりも腹が立つ……!」
あからさまに苛立ちながら警官を見下す露伴を見つめ、たづなはため息をつく。最近ではあるが、この岸辺露伴という男が分かってきた気がする。シンボリルドルフ会長が何故この男に惚れたのか。その経緯は全く分からないが、それには深い訳があるのだろう。
何はともあれ、警官の腰についている鍵を奪い取ると、檻を開け犯人たちが拘留されている場所へと歩み始める。
やがてしばらく歩くと、檻がいくつか付けられた場所を発見する。どうやらここが目当ての拘留所のようだ。露伴とたづなが注意深く檻の中にいる人たちの顔を見ながら歩みを進めていると、とある箇所に目が留まった。
「……うっ」
それは正しく「異様な光景」だった。一人の女性……髪は整えられておらず方々に乱れた彼女が何やらぶつぶつと呟きながら、壁に一心不乱に絵を描きこんでいた。
……顔のない、ウマ娘。
それは今まで目撃してきたもの同様、顔のないウマ娘の絵だった。どうやら彼女は鉛筆のような描くものがないため、指から出た血で描いているようだ。そのあまりに異質な様子に息を呑みつつ、二人は互いに顔を見合わせた。
間違いない。彼女が淀川真美だ。
露伴はじっと彼女を見据えると、声を掛けた。
「……おい」
その言葉に、檻の中にいる淀川はピタリと壁に描いている手を止めると、壊れた人形のようにふらふらと露伴の方に顔を向ける。その瞬間、露伴が空に絵を描くと、彼女はまるで糸の切れたマリオネットのように力なくその場に倒れこんだ。
「さて……これで話が聞けるな」
露伴は檻を開けてその中に入ると、彼女の顔に発生したページを手に取り、その中に目を通し始めた。きっと彼女は黒幕に接触した唯一のキーパーソンだ。彼女の記載の中には、きっとその手がかりがあるはずだ。
「…これは」
ページをいくらか捲り、とある箇所で彼の目は留まる。そこには彼女が「今の彼女」になってしまった状況がつぶさに記録されていた。
「……20〇〇年4月21日。勤務している病院に二人の急患患者が搬送される。一人は日本ウマ娘トレーニングセンター学園の生徒のようで、もう一人は、彼女のトレーナーのようだ。一人は手術によって一命を取り留めたが意識不明、もう一人は……」
「同年11月30日。意識不明だった患者の意識が長い年月の末に目覚める。頻りにもう一人の搬送された患者のことを気にかけていたようだが、その顛末を正直に伝えたところ、精神レベルの著しい低下を観測。その日から患者の名前を呼び続け、食事にも手を付けずに暴れていたものの、ある日を境に精神に異常を来し、「ワカラナイ」と頻りに言葉を発し続け、当病院では手に負えないと判断され、付近にある精神病院に治療のために収監される」
それは、あまりにも衝撃的な事実だった。顔の欠けたウマ娘、動機と方法の矛盾性。その要素の一つ一つが黒幕の状態……つまり精神に異常を来している状態を鑑みれば、そのピースが一つの線となって繋がり、頷ける。
つまり黒幕自身も、自身がしでかしている状態の認識ができていないということだ。
露伴は淀川から得た情報を、包み隠さずにたづなに伝える。そのことを漏らさずに聞いたたづなは驚いた表情を浮かべたが、やがてその顔に暗い表情を宿した。
「……なるほど。それは納得できました。その……でも……そうでしたか……黒幕の方の場所、分かっています。」
苦労して得た真実。それが決して希望であるとは限らない。例え真実が暗闇よりも深く、哀しみと絶望に包まれたものだったとしても……それでも。
それでも。
「……さぁ。いきましょう。黒幕と決着つけるために」