初めて彼女に出会ったのは、トレセン学園に入学して数日が経過した時のことだった。
スカーレットはトレセン学園に入学し選抜レースに出場するまでの間、新入生たちは生徒たちを一括して指導を請け負う教官のもとで、その競技者としての生活はスタートした。
桜舞い落ちる春のトレセン学園のターフで、生徒たちの前にして教官はその指導にあたる。、彼の指導を受ける生徒たちの中の一人ダイワスカーレットの眉は、不機嫌によって八の字に引き上げられていた。
……ぬるい。
ぬるい。これではあまりにもぬるすぎる。アタシはウマ娘として、「1番」になるためにウマ娘の育成機関として頂点に立つこの学園の門を叩いたのだ。ここにいる連中はもちろんのこと、これから走るレースで膝をつくようなことがあってはならないのだ。
他の生徒のウマ娘たちがこのトレーニングについてどう思っているのかはわからないが、このように生徒たちを一緒くたに、「懇切丁寧」に……まるで雛が羽を付けて巣立つように組まれたトレーニングでは、自身が成長するに足りるものとしてはあまりにも不十分すぎる代物だった。
「……よし、実践に移ろう。それじゃあ400メートルを走ってみようか」
「教官!」
スカーレットはその声を上げ、教官の声を遮る。一体何事かと、教官と烏合の衆と化したほかの生徒たちはスカーレットに顔を向ける。彼女は集団から一歩先に前へと飛び出ると、胸を張って言葉を放った。
「……私は、1500メートルを走りたいです」
アタシはこれから、ウマ娘として強豪ひしめき合うプロの世界へと乗り込んでいく。そしてアタシはその世界で、幼い頃から目標としていた「ティアラ」をつかみ取るのだ。ジュニア期を経て2年目のレースに強豪たちと渡り合い、勝利をつかみ取るためには、少なくとも確実にマイルを走りきるスタミナを獲得・その体感を掴む。この事項の完遂が急務だ。
つまりこんなところでちまちまと短い距離を走ることは、非常に不服なのだ。
「えーと。君は……」
「ダイワスカーレットです」
アタシはその名前が周囲にも聞こえるように、言葉を続ける。彼女の傍若無人ぶりを目撃した周囲の者たちは、ある者は腫物を触るかのように見つめ、ある者は蔑みの視線を向けていた。
「いいかい?君たちはまだ入学したてで、マイルを走るスタミナは持っていない。それに選抜レースでトレーナーがつくまでは、基本的なトレーニングで……」
「今のうちに、その距離が如何ほどのものか。肌で実感したいんです」
教官もウマ娘の指導のプロだ。その辺の知識については、入学したての自身がとやかく言うことも、そしてそれに対して反発し、背伸びをしてトレーニングをしようとする自分は生意気と受け取られても致し方ないことを、スカーレットは理解していた。
それでも。
本気で勝ちたい。そう願うのであれば、自身のように、多くのことを実践し、吸収する気概を見せつけなくてはならない。
……フン。
ここで上昇志向すら持てぬ者が、これから大海原を無事に渡り切ることができると本気で思っているのか。スカーレットは愚者たちの視線を意にも介さず、苦笑を浮かべる教官をにらみつけるように見つめると、ある者が声を発した。
「……すんません。オレも1500、走りたいっす」
一体誰だろう。
スカーレットは何者かとその声の方向に首を向けると、そこには一人のウマ娘。片目が隠れた黒髪に、ヘッドギアをつけたウマ娘の姿があった。彼女はハリのある声でスカーレットに続くと、教官の反応を待たずにターフにあがり、ウォーミングアップを始めた。
彼女の名前は……確か、ウオッカだ。
ウオッカ。自身の寮の同部屋のウマ娘。少々勝気な子であるという印象は受けていたが……
ウオッカに続いて、スカーレットは急いでターフの上に上がりウォーミングアップを始める。彼女の隣でアップをしながら、スカーレットはウオッカに声を掛けた。
「貴方、ウオッカさんよね?一緒に頑張りましょう」
あくまで優等生として。スカーレットは彼女に対して労いの言葉を掛けるが、ウオッカはその口角をにやりと引き上げると、言葉を返した。
「……おいおい。オレに対して優等生面は止めてくれよ。お前の腹の中はもうわかっているつもりだぜ」
なるほど。彼女はあくまで見抜いていたか。恥ずかしさが体中を熱さとなって貫いていくのを感じたが、スカーレットの胸の内にはある一つの感情が浮かんでいた。
素直にうれしかった。ライバルの誕生に。優等生という皮をかなぐり捨て、素直に感情を露呈することができる存在の誕生に。
「……いいわ。吠え面かくんじゃあないわよ。ウオッカ」
結果は二人とも1500メートルを満足に走り切ることは出来なかった。へとへとになりながら、縺れるようにゴールを二人してたどり着く。見るに堪えない姿を晒すことになったのは言うまでもないが、それでも二人は。ウマ娘の歴史に名を刻む二人のウマ娘たちの船出には、十分すぎる代物となった。
「お疲れ様でした」
走り終え、誰もいなくなったターフにへたり込む二人。そしてその2人に声を掛ける人物。ウオッカは肩で息を整えながらその人物の方へと首を向けると、素っ頓狂な声を張り上げた。
「お、お前は……!」
驚きの声を上げるウオッカに続き、スカーレットもその方向へと首を向ける。するとそこには一人のウマ娘の姿があった。王冠を模した髪飾りに、鹿毛の髪。彼女はウオッカに続きスカーレットにも顔を向けると、言葉を続けた。
「よかったら、これをどうぞ。」
そう言って彼女から、汗を拭くタオルを手渡される。スカーレットは素直にそれを受け取ると、ウオッカに対して言葉を掛けた。
「ちょっと。アンタ……この子と知り合いなの?」
「い、いや。今朝知り合ったばかりだ。名前は……」
「……○○○○○○○○○です」
自身の名前を告げた彼女は、蜃気楼のように在りどころを探し当てるのに苦心するような、そんな危うさがあった。そんな彼女をじっと見つめていたが、まるで自身の深い心のうちまで覗き込まれてしまう。そんな錯覚に陥った。
そんな錯覚に陥ったスカーレットは無意識の内に彼女から目を反らす。すると彼女はスカーレットの方へと顔を近づけ、言葉を続けた。
「……お近づきの印に、どうぞ。」
戸惑うスカーレットをよそに、彼女はずいと何かを手渡す。なし崩し的にそれを受け取り、目を通した彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「え⁉こ、これ……名刺?」
それは彼女の名前が仰々しく掘られた名刺だった。何の説明も受けずに手渡されたそれに困惑していると、ウオッカが横から口を開いた。
「……オレの時もそうだったんだよ。」
なんでたってこんなことをするのか。疑念を込めて彼女に向けて視線を投げかけると、彼女は意にも介かぬように言葉を続けた。
「覚えていて欲しいからです。私のこと」
突拍子のない彼女の発言にスカーレットは目を丸くする。覚えていてほしい?それは……つまり。つまりどういうことなのか?自身の存在の認識の波及という、あまりにも奇妙な動機と、それをもとに繰り出される奇妙な行動に二人は茫然としていたが、それを気にも留めずに彼女は言葉を口にした。
「これからよろしくお願いします。スカーレット、ウオッカ」
そう言って見せた彼女の笑顔は、今までにみたどんな日の太陽より輝き、そしてどんな花よりも美しく、儚いものだった。
ある時、彼女と話した時。それはウオッカといつものように喧嘩をした後のことだった。
「スカーレット」
いつからそこにいたのか、彼女は自身の背後に立っている。何事かと顔を向けると、彼女は言葉を続けた。
「どうしたんですか?怖い顔して」
「……あのアホ……ウオッカと喧嘩しただけよ」
「……フフッ。スカーレットらしいですね」
ウオッカと一緒くたにされるのは少々腹立たしいが、これ以上物事に突っかかるほどのスタミナは残されていない。スカーレットはため息を一つつくと、話題を反らすため……そして彼女に対して以前から気になっていたことを彼女に質問を投げかけた。
「そういえば貴方って、アタシやウオッカのことだけ呼び捨てで呼ぶわよね?」
「……いやですか?」
「そういうわけじゃあないけど」
彼女の返答を否定しながら、顔を覗き込むと、その表情は読み取ることはできない。会話の続きに窮していると、彼女の方から徐に会話が切り出された。
「……スカーレットは、私たちが最初に会った時のこと、覚えてますか?」
「え、えぇ……」
突然のことに戸惑いつつ、スカーレットがそう答える。
「……私も。あの時、走りたいって言えば良かったなぁ」
「……え?」
彼女が呟いたその一言を、アタシは聞き取ることができなかった。そのあとそれを聞き返しても、彼女は自身が言った発言が何だったのかを教えてくれることはなかった。
……あの時の彼女の顔。
それは彼女が浮かべたあの表情。あの表情を、アタシは今でも忘れることができない。
……それはとても。とても寂しそうな笑顔だった。
何はともあれ、嵐のような登場をみせた彼女。そのセンセーショナルな登場をそのままに、学園生活では大いに彼女に困らされたことは言うまでもない。
しかしながら、別に彼女のことが嫌いなわけでは決してなかった。寧ろ大切な友人の一人で、アタシにとっては大切な……
それでも彼女には、他の友人たちとは確然とした違いがそこにはあった。彼女との間に確かに存在していた溝は、いくら時をかけても決して縮まることはなく、彼女のことを知ろうと近づいても、その距離は確かな代物となって自分やウオッカとの間に棲み分けとして在り続けた。
つかむことができない、蜃気楼のような彼女の残滓を、今でも私は日々の節目に、生活を送る中に感じることがある。
時には退屈な授業を過ごす教室の隅に。
時には練習に勤しむターフの上に。
時には電車を待つホームの向かい側に。
時には歩いている途中に肌を撫でつけた、街角の風の中に。
こんなところに、いるはずもないのに。そんなことはわかっているはずなのに。後悔だけが日々、使われない部屋に蓄積する埃のように降り積もり、アタシや……恐らくウオッカにも。アタシたちだけではない、多くの者たちの心の中に降り積もっていることだろう。それはアタシたちの影を大きな暗闇の中に少しずつ呼び込み、確かなシコリとなってそこにあり続ける。
この疵が。この痛みがいつか無視できない代物となる日が来るのかもしれない。
警察署から出てきた露伴とたづなの表情には、入る時に比べるといくらか暗い影が差していた。制帽を脱いで一息つく露伴は、そばにあった植え込みの段差に腰を落とした。
「お疲れ様。露伴先生……何か手がかりは掴めたか?」
質問を投げかけるルドルフに対して、露伴は徐に言葉を続けた。
「あぁ。手がかり……黒幕の正体。それを掴むことができた」
「なっ……!ほ、本当か⁉それで犯人は⁉」
露伴の言葉を受けて、ルドルフは大きくその目を大きく見開く。ルドルフの質問に答えるために、露伴がその重い口を開く。その時だった。
「グッ……⁉」
身体を貫く、どんよりとした重い不快感。まるで風邪の引き始めにかかってしまったような、そんな感覚。頭がまるで鉛を付けられたようにどんどんと重くなり、いましがた伝えようとした情報は頭から等加速度運動的に零れ落ちていく。
……一体。一体どういうことだ?
「ろ、露伴先生⁉どうしたんだい⁉」
自身の身に起こった現象を理解することができずに戸惑う露伴は、やがて自身の身に起こった事象の原因にたどり着いた。
……そういえば僕は、初めての事件現場、トレセン学園で起きた事件としては3件目になるが、事件が発生した際にその様子をカメラで撮影しようとしたが、電源が入ってなかったため、その時僕は、僕は…………
「……スケッチブックで‼僕は事件を『記録』しているッ!!」
それはそうだ。事件を「記録」することがそのスタンドの感染条件とするならば、僕のスケッチブックで事件の様子を描いたことは、間違いなく「記録」という行為に抵触するはずなのだ。
「す、すまない……ルドルフ。僕は感染してしまっていたようだ……考えが……意識が……取り込まれて……」
「露伴先生――――‼」
ルドルフの必死の呼びかけに、まるで縋り付くように露伴はルドルフの体にふらつきながらしがみ付く。露伴は肩で息をしながらウオッカとスカーレットに声を掛けた。
「僕から……君たちに伝えておくことがある……!大切なことだ……!この事件を解決するために……!恐らく、いやとても重要なことだ…!」
「……‼」
驚くウオッカとスカーレットをよそに、露伴は先程見知った情報を懸命に、自由を奪われていく口で紡いでいく。彼女たちは驚きのあまりその目を大きく見開いたが、全ての話を聞き終えた時、彼女たちの顔に浮かんでいたのはある感情だけだった。
「そう……だったのかよ……」
「……」
哀しみ、それだった。自分たちを苦しめた事件の真相。それはあまりにも、救いようのない悲劇と形容する他ない代物だった。そんな黒幕を突き動かす動機は、露伴の発言からも容易に伺い知ることができた。
それでも。
止めなければならない。今言った彼の発言が本当であるとするならば、尚更黒幕を止めなければならない。これ以上、黒幕が傷つかないように。これ以上……哀しみの楔が打たれないように。
『「……わかりました」「わかったぜ!」』
二人が息を揃えて返事をすると、露伴は安心したようにため息を一つつく。瞬く間に露伴の思考は黒い渦の中に引き込まれていく。
苦しい。
まるで水中に放り込まれたように息を満足にすることができない。露伴は最後の力を振り絞ってルドルフの顔を向けると、なんとか言葉を振り絞った。
「……さぁ。お前も……行くんだ」
「……そんな⁉私は露伴先生のことが心配だ!放っておくことはできない!」
「い、今……そんな駄々をこねている場合じゃあ……」
「断る!」
ルドルフが涙ながらに大きな声を上げて露伴の声を遮る。意識を何とか保ちながら自身を見つめる露伴を見つめながら、ルドルフは言葉を続けた。
「……本音を聞かせてくれ。露伴先生。私は君の愛バなんだ……今くらい、君のことを守りたいんだ」
長い沈黙が場を支配する。その果てで、意識が暗闇に飲み込まれる直前、露伴は言葉を続けた。
「……助けて……くれ……ルド……ルフ……」
それは彼の、意識が飲み込まれる直前に見せた確かな本心だった。
「……心得た!ウオッカ君とスカーレット君、たづなさんは急いで向かってくれ!」
あの岸辺露伴に頼られた。感情に顔が染まりそうになるのをこらえ、露伴を押さえつけると一同に声を掛ける。その言葉を受けた一同は急いでその場を離れ、全ての因果に決着をつけるために走り出していった。
「……ここですね」
たづなの案内で、3人はとある施設の前に立つ。そこは病院からほどなくの場所に建っている精神病院だった。
ここに黒幕がいる。
沢山の哀しみが溢れた。傷は膿み、癒えることなくそこにあり続ける。それでも。
「いきましょう」
その意思は、既に固まっていた。即ち、どんな哀しみが流れようとも、その因果に決着をつけると。
恐らく次回最終回です