岸辺露伴は走らない   作:ボンゴレパスタ

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岸辺露伴は求めない12 Fin

 

 

夏が限りなく続いてほしいと願うように。

 

 

このまま夜が明けてほしくないと願うように。

 

 

それは決して、叶うはずがない。やがて寒さと共に秋が訪れ、世界には朝日がやってくる。だからこそ人々はその願いを切に祈り、生きているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

精神病院の一角にある、とある隔離病室。

外の騒ぎによって、ここにも混乱が波及しているようで館内は人々が慌ただしく動き回り、流入が激しい。

 

 

つまり、ここには誰がいようがいまいが、館内にいる者たちは誰も、そのことについて疑念を抱くことはないということだ。無断で病院に侵入している以上、その方が都合が良かったのは言うまでもない。

 

 

「……こちらです」

 

 

職員の案内を受けることなく、たづなはそこまで2人のことを案内する。どうして黒幕がいるであろう場所を、彼女が知っているのか。それを2人が疑うことも、彼女に尋ねることは決してなかった。

 

 

つまり2人も彼女同様、黒幕の正体が既にわかっていて、そして彼女が黒幕の居場所知っていることを2人も当然の原理だと思っているのだ。3人はある隔離病棟の前にたどり着いていた。彼女は2人の方へ顔を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……いいですか?」

 

 

それは2人に対する覚悟の問いかけだった。この扉を開けてしまえば、否が応でも現実と、真実と直視することになる。もしものことがあれば、私だけでその結末を目撃し、2人はここで待っていても良い。というニュアンスを込めた問いかけだった。

 

 

当たり前だった……彼女たちはいまだ中等部だ。多少しっかりしているとは言っても、その光景を目撃するには、聊か苦痛すぎる代物だった。

 

 

それでも。

 

 

「……アタシたちも行きます。」

 

 

「オレたちにも、黒幕を止めなくちゃいけない理由があるっす」

 

 

そしてそれは、2人にとって愚問に等しいものだった。既に私たちは、部外者とは決して言えない位置にある。黒幕の正体が見立て通りであるとするならば。あの子が事件の一端として存在しているのであれば、尚更私たちがこの部屋に入らなければならない。その痛みに向き合う必要がある。

 

 

「……そう、ですよね。いきましょうか」

 

 

たづなはそう呟くと、扉の取っ手に手を掛ける。金属で出来たそれは、心なしかひんやりとしていた。手先に流れる血流の熱さとのコントラストで、残酷なまでに感じるそれは、彼女の心をえぐり取るには十分だった。

 

 

……進まなければ。

 

 

真実に向き合うためには。これ以上、哀しみの涙が零れないように。たづなは一つ息を吐くと、扉をゆっくりと引き開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

そこには一人の男の姿があった。無精ひげを頬やあごに浮かべ、こけた頬に彫り込んだ生気のない目……その男はベッドの上で体育座りをしていた。

 

 

「…トレーナーさん。」

 

 

「……」

 

 

たづなは部屋の中央にいる男にそう声を掛ける。彼女の問いかけに対しても、男はまるで人形のように、その場を動くことはなかった。病室には今まで自分たちが目撃してきた事件のように、顔の見えないウマ娘の絵や人形が散乱している……その光景が、彼が一連の事件の黒幕であることを否が応でも実感するには十分すぎる材料だった。

 

 

彼を見たのはおよそ数か月ぶりのことだったが、最後に見た記憶の内にいる彼とはずいぶん様相が異なっている。最後に見た時の彼は、もう少し……それは致し方無いだろう。あんなことがあったのだから。

 

 

否、今そのことについて彼に思いを馳せたとしても致し方あるまい。外の惨状を止めるためには、彼に頼んで止めさせる他ない。

 

 

「あ、あの……!」

 

 

ウオッカが彼に対して声を掛けても、依然と男は反応を示すことはない。まるで電池の切れてしまったラジコンのように、時を止めてしまったかのように。なんて声を掛けて良いのか、それすらわからない。

 

 

それもそうだ。彼の時間は今、文字通り寸分の針も進めることなく止まってしまっているのだ。4月21日のあの日から、病院に運びこまれたあの時から、彼の中の時間は世界から隔絶され、彼は思考を止め、希望を捨ててしまった。そこにあるのは彼の抜け殻であって、彼自身の心はもうここにはいない。

 

 

……だが、彼を止めるためには彼に耳を傾けてもらう必要がある。

 

 

だが、彼の意識を一時的にでもこの世界に引き戻すためには。一体どうすれば……でも、なんて声を彼に掛ければいいのか。必死に考えを巡らせていたウオッカは一つの考えを思い浮かべると、急いで携帯を起動させ、写真のフォルダを探り始めた。

 

 

……あるはずだ。必ず、必ずあるはずなんだ。

 

 

写真が……彼女の写真が。哀しみの、記憶の残り香そのものだった。ずっと記憶と同じくそこにあって、ずっとずっと、ぬぐい取れず癒えることもない深い疵となってあり続けた写真。あることがわかっていたのに、見ないフリをして、見ないようにしてきたその写真は、アルバムをいくらかスクロールした先にあった。

 

 

写真の彼女は、静かに笑っていた。手に小さくピースサインを作り、オレの隣でポーズを撮る彼女。まるで、今にでも自分に話しかけてきそうな、そんな瞬間を切り取った写真がそこにはあった。

 

 

これを……彼を見せたら。どうなるのか。傷を深く抉り取ることになるのは言うまでもないだろう。

 

 

それでも。

 

 

……ごめんなさい。

 

 

心の中でそう呟いたウオッカは、スマホを持って彼の視線の先にその写真をかざす。その瞬間、彼の目……今までの生気のない色を宿していた彼の目に感情が宿った。

 

 

……それは。

 

 

今迄見たことがないくらいの哀……。

 

 

「アァ……」

 

 

彼の口から洩れた一言。その小さな一言は、瞬く間に大きな波動となって広がった。

 

 

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」

 

 

まるで間欠泉から熱湯が噴出するように、彼の内から発したのは魂の慟哭だった。喉の内から発せられたディストーションは病室内をひび割るように突き抜け、その場にいたものはその様子を唯々、見つめることしかできなかった。

 

 

自身にとってスタンド能力を発現し、周囲の人々を巻き込む大事件を引き起こした原因となった彼女の顔。既に精神と自我が摩耗し切り、遂にはへし折れてしまった。哀しみや怒り、焦燥感、絶望……様々な処理し難い感情が壊れかけた頭の中で綯交ぜになってしまった。そんな不安定な精神状態の末、その原因の彼女の顔すらも認識することができなくなってしまった今の彼が、彼女の顔を唐突に見せられた結果。

 

 

彼は意識と夢遊の世界の中から無理矢理現実に引き戻され、その冷酷な真実と向き合うように仕向けられてしまった。

 

 

「トレーナーさん!話を聞いてください!」

 

 

「…ちょっと!」

 

 

一同の必死の問いかけも、彼の耳には全く届かない。現実に彼を引き戻したのは良いが、これでは彼が体育座りをしていた状態とあまり変わりがない。寧ろ状況は悪くなってしまっている可能性すらある。彼は今、記憶の奥底に閉じ込め、見えないフリをしていた哀しみと向き合っているのだ。

 

 

こんな時、彼にどんな言葉を掛ければいいのか。露伴から言伝されたあのことは、今言う場面ではない。スカーレットは跪いて、ベッドに蹲る彼の目線にできる限り高さを合わせると、徐に口を開いた。

 

 

これが、果たして正解であるとは限らない。彼ほどではないにしても、アタシだってこの痛みはよくわかる。ここにウオッカやたづなさんだって。目のまえにいる彼のことならば、この疵の痛みは尚更だろう。

 

 

「…痛いですよね」

 

 

そう言って彼のことを静かに抱きしめた。かけてあげる言葉なんてない。否、彼を前にしてしまったら、どんな言葉さえも慰めにはならない。それは同情や憐憫であって、決して慰めではないのだ。今のアタシたちにできること、その答えは傍にいて、彼の苦しみや痛みに唯々、寄り添うことだ。

 

 

男は抵抗しようと暴れ、それを必死に食い止めながらスカーレットの目から自然と涙を零す。これが、これこそが彼の痛みなのだ。彼が耐え忍び、そして壊れ切ってしまった彼の心そのものだ。

 

 

「……たづなさん。ウオッカ」

 

 

スカーレットはその目に涙を蓄えながら、二人に声を掛ける。彼女2人の目にも、大粒の涙が浮かんでいる。二人は静かに頷くと、ゆっくりとスカーレットと男に歩み寄り、上から静かに彼女たちを抱きしめた。

 

 

それは痛みだった。そして、悼む気持ちでもあった。とどのつまり、彼には向き合う時間が足りなかったのだ。長い昏睡状態という期間を経て、彼はただ一人置き去りにされてしまった世界に取り残されてしまった。

 

 

時間という代物は如何せん残酷で、どう足掻こうとも敢然とその針を進めていく。私たちはなにをしていても、時間の中でそれぞれ折り合いをつけて何とか日々の日常に戻って……否、不安定さをひた隠しにして、戻ったふりをして生きてきた。

 

 

だが、彼にはその時間は与えられなかった。本来であれば一番向き合う時間が必要だった彼の、その機会は簡単に奪われてしまったのだ。いうなればそれは神様の悪戯。神様に壊され、翻弄されてしまい、精神を壊した末に能力を発現させてしまったのがこの事件の顛末であるとするならば、誰が彼のことを責められようか。

 

 

「……誰かに、覚えていて欲しい」

 

 

彼女がよく口にしていたあのセリフ。精神の混沌の中で自我が崩壊しても。そう口にしていた当人の顔すら認識することができなくなってしまったとしても。それでも無意識の中でその想いを遂げるための能力を発現してしまったのだとしたら。

 

 

……ごめんなさい。

 

 

これは私たちの罪でもある。

この嵐が過ぎるまで。この痛みが少しでも癒えるまで。どれほどの時間がかかるのかはわからない。それでも、それが終わるまではこうしていよう。

 

 

 

 

 

 

 

初めて彼女と出会った日。

トレーナー試験を何とか合格し、新人トレーナーとして学園にやってきてはや数日。たづなさんにそろそろ担当ウマ娘を見つけるようにと言われ、数日後に行われる新入生の選抜レースの資料を見繕っていた、ちょうどあの日だ。

 

 

選抜レースを目前にした、模擬レース。その中のあるレースで先頭をひた走る彼女。今思えば、あの時には既に……僕は彼女に惹きつけられていたということだろう。

 

 

模擬レースを難なく1着に収めた彼女は、周囲の人間にこう触れ回っていた。

 

 

「多くの人に見知ってもらえる、そんなマスコットになりたい」と。

 

 

そんな彼女と話す機会は、案外すぐに訪れた……彼女と出会ったのは、レースの直後のことだった。

 

 

「……もしもし」

 

 

学園に戻ろうとしていた矢先、突然彼女に話しかけられた。間近に見た彼女は、夕日の光に照らされて輝いていて、不覚にも美しいと思ってしまった。彼女はその手にカメラを持っており、ずいとこちらに差し出してきた。

 

 

「……?」

 

 

「カメラを持っていてくれませんか~?中央広場で歌う姿、撮ってほしくて」

 

 

やけに間延びした声で、彼女はそう言う。ここで?歌う?整合性の取れない彼女の発言に、僕が首を30度横に傾けていると、奥から二人のウマ娘が走りよってきた。

 

 

「おいおい!オレは良いなんて一言も言ってねーぞ!」

 

 

「動画はさっき録ったでしょ!」

 

 

「動画はあればあるほどいいんですよ」

 

 

2人のウマ娘たちの抗議も虚しく、彼女は全く意見を曲げるつもりはないようだ。彼女は少々、否だいぶ頑固なようで、2人の友人もしばらく彼女と言い争ってはいたものの、やがて彼女の強情ぶりに根をあげたようで、しぶしぶではあるが、彼女の指示に従って音楽に合わせてダンスや歌を始めた。

 

 

……以上が彼女との初めての出会い。不思議で、撮られるのが大好きで、走ればピカ一の女の子。それが僕の、彼女に対する第一印象だった。

 

 

 

 

 

 

 

次に会った時。それは自身が買い物帰りに高架下を散歩していた時のことだった。4月の風が温かさをそっと運び込み、顔を日差しが照らすことに心地よさを抱きながらも、高架下に入ると、気温がぐっと下がったのを感じた。

 

 

その時だった。

 

 

「……?」

 

 

何やらくぐもった声が聞こえる。彼がその方向へと首を向けると、そこには彼女が白い鳩と一緒にいながらくつろいでいる姿があった。

 

 

「君は……」

 

 

「あれ……貴方はこの間の動画のトレーナーさん」

 

 

彼女はこちらに顔を向ける。初めて会った時と寸分変わらぬ笑みを浮かべながら、僕に言葉を掛ける。僕のこと、一度しか会っていないのに覚えているのか。そう疑念を彼女に抱くと、まるで心の中を見透かしたように口を開いた。

 

 

「……私。忘れないんです。一度会った人のことは、絶対に忘れないんですよ」

 

 

そう真剣に告げる彼女の顔は、何処か寂しさを宿す。彼女の横にいた白い鳩が、彼女の言葉に調子を合わせるように鳴き声を上げた。

 

 

「えっと……その鳩は?」

 

 

「ここでお昼寝してたいんですが、起きた時にホワホワさんが横にいたんです。」

 

 

ホワホワさん?この鳩に、そう名付けたのか?彼は彼女の独特なネーミングセンスに驚きつつ、彼女との会話に講じる。その日はホワホワさんを交えつつ、様々な話題を交わす。

 

 

彼女の生家が病院であること。そこで体験した別れ……長い川の流れを経て、やがて海にたどり着く。その果てを見てきた故に、「忘れられないため」……ウマ娘のレースの世界に飛び込んだことも。

 

 

少しずつ雪が解けるように、打ち解ける彼女との会話は、日がとっぷりと暮れるまで続いた。

 

 

 

 

数日後。彼はまた心の内で気になるウマ娘である彼女と話そうと、待ち合わせの場所である高架下に足を向けていた。

 

 

高架下の影に足を踏み入れると、彼女の姿が見えてくる。こちらにまだ気づいていないようで、彼からは彼女の背中しか見ることができなかった。

 

 

「おー……」

 

 

声をかけようとしたその時。彼は彼女の足元に横たわるそれに気が付いた。それは、数日前までこの世界に生き、私たちと同じ空気を吸っていたはずの白い鳩……ホワホワさんだった。

 

 

その姿はまるで、人形のようだった。無機質になったその姿が意味することは、僕たちにとってはたった一つしかない。

 

 

「……」

 

 

言葉を失った彼は、その場に立ち尽くす。ウマ娘は、人間よりもはるかに優れた聴力を持つ。彼女はこちらを振り返ることは決してしなかったが、彼に向けてただ一言、声を掛けたのだった。

 

 

「……最後に。お別れしてあげましょう……トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

「……これでよしと」

 

 

やがて2人で拵えた穴にホワホワさんを埋葬し、簡素ではあるが墓石を傍に立てる。彼女は何処から用意してきたのか、ホワホワさんの身体と同じ純白の花を墓石の前にそっと置き、ホワホワさんのことを静かに見送った。

 

 

「……好きな色くらい、聞いておけばよかったですね」

 

 

その光景を目のまえにして、彼女はあくまで冷静だった。涙の跡もなく、淡々と墓石に向けて言葉をかけている。

 

 

「大丈夫ですよ。私はあなたのこと、忘れません。私の心の空を、貴方は羽ばたいています」

 

 

「……君は強いんだな」

 

 

「ウマ娘は人よりもムキムキですからね、当然です」

 

 

「い、いやそうじゃあなくて……」

 

 

「……冗談です。」

 

 

残酷なまでの沈黙が、その場を支配する。世界の片隅で執り行われた葬儀の、あるべき姿とでもいうのだろうか。

 

 

「……この間貴方には言いましたが、私は病院で教わったのです……命は流れるものと。」

 

 

「……」

 

 

「上流から下流へ。生まれた時からその旅は始まって、私も貴方も、ホワホワさんも……海にたどり着くのです。それはごくごく自然なこと……太陽が東から上るように、そして物が上から下へと引力によって落ちていくことのように……当たり前のことなのです。だから、悲しくはありません」

 

 

「……だから、一番大事なことは「忘れない」ことなのです。もしも、この瞬間にいなくなったとしても、消えない……爪痕のような。そんな証なのです。」

 

 

彼女の覚悟を、想いを。言葉ではなく心で理解できた瞬間だった。その言葉を口にする彼女の横顔は、世界の誰よりも美しく、強い。そう彼の目には映った。

 

 

そして、彼女の想いを成就すること。そのサポートをすることが、僕のトレーナーとしてしたいことであると。彼はその後の選抜レースを経て、彼女に契約を申し入れ、彼女はそれを受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

期間としてみれば、僕が彼女の担当だった長さは短いものだったかもしれない。それでも彼女と過ごす日々は、どんな日常よりも騒々しく、そして濃いものだった。

 

 

初めてレースで勝利した時。

 

 

レースで負けてしまった時。

 

 

G1レースで勝利を収めた時。

 

 

彼女のマスコットの発売が決まった時。

 

 

まるで写真に収め、大切にアルバムに保管していたワンシーンのように。僕にとっては生きていく上でこの上ない場面だった。

 

 

…だからこそ。

 

 

もっと。彼女の走りを見ていたかった。彼女の我儘に、付き合っていたかった。彼女ともっと、話しておきたかった。彼女の横顔を、もっと見ておきたかった。

 

 

彼女の……彼女の。

 

 

人やウマ娘。全ての生物は例外なく必ず川を下り、海にたどり着く。この世に生を受けた以上は決定事項であり、それを覆すことはできない。病院が生家の彼女は、その光景に誰よりも立ち合い、そしてそれを誰よりも意識し生きていた。だからこそ彼女は。その結末を誰よりも意識していたからこそ、「覚えていて欲しい」という想いを胸に秘めて、その自身の残りの人生を誰よりも強く意識しながら、ターフを駆けていたのだ。

 

 

それなのに、それなのに。

 

 

どこかにいるとも知れぬ神様を強く恨まずにはいられなかった。どうして彼女なんだ。

 

 

「ウッ……ウゥ……グスッ」

 

 

ひとしきり叫び続けた男はやがて彼女たちの胸の中で、やがて小さく泣き始めた。目が覚めてから今日この日まで、ほとんど飲まず食わずに精神の狭間を彷徨い歩いていた。

 

 

今なら、彼も私たちの言葉に耳を傾けるかもしれない。

 

 

「……病院に運び込まれた時。彼女、意識があって……貴方のことを頻りに気にしていたそうです。」

 

 

「……」

 

 

露伴のヘブンズ・ドアーの能力によって判明した真実。それは彼女の海の到着を刻銘に記録していた。この言葉を、その真実を。彼に伝える義務が私たちにある。

 

 

「………最後にこう言っていたそうですよ。『トレーナーさん。私のことを覚えておいてください。』」

 

 

「……ッ」

 

 

「……そして」

 

 

この言葉には続きがある。伝える言葉も涙と嗚咽によって、流暢に伝えることができない。それでも、伝えなければ。彼に、伝えなければ。

 

 

「『……仕方のないことなんです。立ち止まってもいい。それでも絶対に。哀しみや痛みに任せて、振り返らないでください……いつか前を…前を向いて、また歩いて……ください』」

 

 

「……‼」

 

 

「あぁ……」

 

 

景色が、視界が鮮明になっていく。そして、徐々に力がすっと抜けていくのを感じる。

 

 

僕は間違ってしまった。哀しみや怒りに振り返り、そこに囚われてしまった。一人だけ取り残された世界を許すことができず、前を向いて歩いていた他の人々を許すことができずに……彼女の想いを、願いを歪んだレンズでしかくみ取ることができなかった。

 

 

「駄目だなぁ。僕は……ごめん……ごめ……ごめんなぁ」

 

 

届かない懺悔を、男は呟き続ける。その声はあてもなく、宙に霧散していく。そのはずだった。

 

 

『本当にトレーナーさんは駄目な人ですね』

 

 

突然声が降りかかる。ふと顔を上げると、そこにいた人物に彼は大きく目を見開いた。

 

 

「……君は」

 

 

その目に、段々と涙が降りしきっていく。ずっと会いたかった。ずっと、ずっと君に会いたかったんだ。

 

 

『しばらく会わない間に、随分泣き虫になってしまったんですねぇ』

 

 

彼女はふっと笑みを零す。それはまるで、粗相をした子供を優しく りつける母のような、そんな笑みだった。

 

 

「……ずっと。ずっと……でも……なんで」

 

 

彼女は静かに笑みをこぼしたまま、口を開かない。しばらくの沈黙の後、彼女はたった一言。しかしその一言で全てを理解させる、そんな一言を発した。

 

 

「……時間なんです」

 

 

「……そっか。」

 

 

全ての生物には例外なく時間がある。川を下り、海にたどり着くのだ。今まで飲まず食わず、精神をすり減らしてきた。そんな状態では体もやがて軋んでいくのは然るべき、そろそろ身体は限界だった、そういうことだろう。

 

 

「……本当に、ごめんなぁ」

 

 

彼女の想いを汲み取ることさえできなった道化の末路。それが今の僕だ。彼女が僕の前に姿を現したのは、きっと僕のことを許さない、そう告げるためだろう。それでも僕には唯々許しを請うことしかできない。それが無様な道化にできる最後のことだった。

 

 

しかし彼女が口にしたセリフは、彼の贖罪を受け入れるものだった。

 

 

「……いいんです。貴方にそうさせてしまったのは、紛れもない私の責任なんです。一緒に、一緒に償いましょう……それに」

 

 

「……それに?」

 

 

彼女はそう言うと、スカーレットたちに目を向ける。その瞳の中には確かな色が宿っていたが、それを知る者は、彼以外には遂に存在しなかった。

 

 

「……?」

 

 

「私の願い、しっかりと届いているみたいですから」

 

 

「……そうみたい、だね」

 

 

彼女が差し出した手を、僕は手に取る。今までの体の痛みが、心の軋みが徐々に軽くなっていく。この先が何処に続いていくのかは、今の僕にはわからない。それでも、不思議と心の中には不安などなかった。

 

 

……だって。

 

 

横には、ずっと会いたかった彼女がいるから。再会を果たした彼女に想いを馳せながら、そして自分という罪人の魂を最後に救ってくれた、彼女たちに絶えぬ感謝を抱きながら。

 

 

「……あり……ありがと……」

 

 

彼女に手を引かれ、彼の視界は光に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

トレセン学園を中心に襲った未曾有の事件は、唐突に異常を来した人たちが正常に戻ったことによってその事件に幕を閉じた。世間は集団ヒステリーとして、説明できない事象を、事件の顛末として片づけた。

 

 

「……」

 

 

たづなは一連の事件の報告書を取り纏めながら、静かにため息を一つついた。ここ数日、トレセン学園は事件が起きたことによる各所への対応で目を回している。

 

 

数人のみが知る、哀しき事件の真相。私たちが精神病院に足を踏み入れた時、既に彼は飲まず食わずで手遅れの状態だった。彼のことを悼む暇さえ、今の私にはない。

 

 

「……たづなさん」

 

 

室内にいた露伴が、たづなに話し掛ける。一連の事件の解決を図った立役者である彼も、その真相を究明して尚、その表情には暗い影が宿していた。

 

 

「……」

 

 

流石の彼も、紡ぐべき言葉が見当たらない。この事件の真相は、ハッピーエンドでは決してなかった。事件の真相について知るものの心の中には、拭い去ることすらできない大きな傷を残した。

 

 

 

「……私たちのやったこと、無駄でした」

 

 

「……それはどういう?」

 

 

「……例え私たちが動かなかったとしても、動いたとしても事件は彼が……そうなることで幕引きとなる。徒に彼を動かしても……」

 

 

確かに彼女の言う通り、たとえ僕たちがこの事件に関与しなかったとしても、彼の身体の状態を鑑みれば、そこまでの時を要さずに事件は終息を見せていたことだろう。つまり彼の行く末は露伴たちが関与しようがしまいが既に決していて、僕たちの行為は徒労に終わったのではないか、そういう発言だった。

 

 

「……確かに。君の言う通りかもしれないな」

 

 

それは確かに、否定のしようがない事実だった。ここで徒に彼女のことを慰めるためにその事実を否定したとしても、それほど陳腐な代物は他にはないだろう。

 

 

しかしながら、このまま彼女のセリフを受け入れ、自分たちの行為は徒労でると片づける。それだけは勘弁ならない。それはこの岸辺露伴の性分には決して合わない代物だった。

 

 

「……だがな。奴の顔、見たんだろう?どんな顔をしていたんだ」

 

 

「……それは」

 

 

ベッドの上で、まるで眠るように横たわる彼の顔。それは穏やかな、まるで憑き物が取れたような……

 

 

「奴が何を想っていたのか。その気持ちなんて、僕には分からない……だがな。僕のヘブンズ・ドアーの能力で見た真実を彼に伝えることができたんだったら、彼の心は、少しでも救われたはずだ」

 

 

「……そう、ですかね」

 

 

「真実は決して変わらない。それならば、残された僕たちにできることは……前を向くことなんだ……哀しみに任せて振り返ることなんかじゃあ決してないんだ」

 

 

その通り。真実はどんな代物より、暗く、哀しいものだった。それでも僕たちは、先も見えぬ暗闇の中でも、希望を何とか見出して生きていかなければならない。

 

 

「……そう。そうですよ……ね……」

 

 

耐えきることができず、たづなはその瞳から大きな涙を零す。失った者を悼んで、涙を零す……しかしそれは振り返るためではない、今日は悼み、立ち止まり、明日にはそれを胸に歩き始めるためだ。

 

 

「……少なくとも、彼女たちは僕たちよりも、そのことをよっぽど分かっているみたいだけどな」

 

 

露伴はそう呟くと、親指を立てて窓の方向を指さす。たづなが指された方向を見ると、そこには夕日に燦燦と照らされたターフの上を、2人のウマ娘たちが走っていた。

 

 

「2人は……彼女と親しかったんだろう?それなら君よりよっぽど辛かったはずだ。それでも……」

 

 

「……そうです……よね。前を、前を向かなくちゃ。でも……今は…………今だけは泣いてもいいですか?」

 

 

露伴はその言葉を紡いだ彼女の顔をじっと見つめ、やがてドアの方へと顔を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……幸いここには誰もいないから。思う存分泣くといいさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハッ、ハッ、ハッ…………

 

 

 

肺が荒々しく伸縮し、喉の奥から鉄に似た味が沸き起こる。

どうすればこの痛みが引いてくれるのか、この疵が癒えてくれるのか。その向き合い方もわからないまま、アタシたちは今日まで来てしまった。

 

 

……否、向き合おうとしてこなかったのだ。時間が経過してくれることに甘えて、自分から、正面から痛みに向き合うことを避けていたんだ。だから今になって、そのツケがこうやってめぐってきたんだ。

 

 

どうしたらいいのか。どうしたらよかったのか。間違えた選択を取った結果、今のアタシたちが……

 

 

『「……アァァァァァ!!」「ウオォォォォォォ!!」』

 

 

その感情の答えもわからないまま、スカーレットとウオッカは声を振り絞る。スタミナも、ペースもへったくれもない。我武者羅に、その行方を探り当てるかのように彼女たちは走り続けた。

 

 

クソッ、クソッ……‼

 

 

涙がこぼれそう。きっとあと数秒後には、この哀しみは鎮魂の涙となって、私たちが走ってきた軌跡を刻みつけながら、数コンマ後の世界に置き去りにされていく。

 

 

それでもいいのだ。この涙もきっと、ターフの風が厳しくも、優しく拭い去ってくれるはずだから。今は思う存分涙を零そう、ちゃんと向き合おう。あと数周も走れば、息も上がって私たちはこの走りをきっと止めてしまう。

 

 

それでもいい。立ち止まっていい。悼んで、苦しんで、ちゃんと涙を枯れるまで流して。そしてまた、私たちのペースでいい、自分たちの力でちゃんと歩き出せばいいのだ。

 

 

それまで、このあてのない感情のままに。唯々、走らせてほしい。

 

 

2人の慟哭が、誰もいないトレセン学園のターフの上に響き渡る。その鎮魂歌は、そのあともしばらく学園の空に届いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある時、彼女と二人で、買い物に行った帰りのことだ。

 

 

「……トレーナーさん。もしも私が海にたどり着いたら、どうしますか?」

 

 

突然彼女に振られた話。彼は顔に苦笑いを浮かべながら彼女の問いに取り繕うと口を開いた。

 

 

「……いやいやいや。君の方が年下なんだ。順当に考えれば、僕の方が先に……」

 

 

 

「人生に順当というものはありません。明日を私たちが今のように生きていることができる保証はどこにもないんです」

 

 

「……それは……そうだけど」

 

 

そんなこと、もしもであっても考えたくはない。しかしながら、彼女の表情は、いつになく真剣なものだった。彼女の質問に対して返事に窮していると、彼女はまたいつもの柔和な笑みに戻り声を発した。

 

 

「……もしも私がトレーナーさんよりも先に海に行くことがあっても。それはそれで問題はないと思っているんです」

 

 

「……え?それはどういう?」

 

 

トレーナーは不安げに彼女の顔を覗き込む。その顔には、どこか満足感すらうかがい知れる、そんな表情をしていた。彼女はちょうど目のまえをはしゃぎながら走っている子供のウマ娘たちの姿を、慈しむように見つめながら口を開いた。

 

 

「……私は既に、たくさんの種を蒔きました。まだまだその数は足りませんが、私が海に行っても、もう多くの人たちに覚えてもらっています……沢山の人に思い出してもらえる。それでいいじゃあないですか」

 

 

「……それは?」

 

 

「人間であろうと、ウマ娘であろうと。全ての生物は等しく、終わりがあるんです。つまりそれ自体は、全く致し方ない事象なんです。肝心なことは誰かに覚えてもらうこと。そして誰かに思い出してもらうこと。それが肝心なんです」

 

 

「人は2度死ぬと言われています。1度目は肉体的なもの。そして2度目は、忘れ去られることによるもの。私は…………ずっと覚えていて欲しいんです」

 

 

「……」

 

 

それが、彼女にとっての「生きる」ということ。沢山の痛みを知って、沢山の別れに立ち会ってきた彼女にとっての答えなのだ。

 

 

「さぁ。しんみりした話はここまでです……早く帰って、買ったおやつでもトレーナー室で食べましょうか!」

 

 

彼女はそう言うと、自身の数歩先を歩みだしていく。ささやかな喜びをかみしめることができる。そんな彼女の背中をいつまでも追うことができることを密かに願いながら、彼は再び歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目覚めた朝は、いつもよりも重苦しい。

どれだけ瞼が重くても。どれだけ夜を超えることが怖くても……全ての人たちに朝は等しく、必ずやってくる。

 

 

ベッドから起き上がったスカーレットは窓を開け、外の景色を眺める。最悪な気分であっても、世界はアタシたちを置き去りにして、当たり前のように時間と共に過ぎ去っていく。

 

 

やっぱりアタシたちはまだ、痛みに堪えきれていない。

それでも生きていかなければ、この1日を超えていかなければ。

 

 

「……起きなさい!ウオッカ」

 

 

その痛みを抱えたまま、それでも決して同室で生活を送る彼女にはそのことを悟られないように。スカーレットは、顔を上げるといつものようにウオッカを叩き起こす。彼女は大きくあくびをしながら口を開いた。

 

 

「……もうちょっと優しく起こしてくれよって……まだ時間はやいじゃあねーか」

 

 

「今日から合同で朝練しようって話していたじゃあない!ほら行くわよ!」

 

 

「……わかったよ!おいてくなよ!」

 

 

アタシたちは進まなければならない。その哀しみと、痛みを抱えたまま。二人の耳には、新たなピアスが1つずつ付けられていた。それは、彼女がかつて付けていたピアスだった。

 

 

自己満足でしかない。それでも、彼女の意思と…想いと共に走りたい。彼女たちの机の上には、彼女を模した人形が置かれていた。彼女の意思と共に、それを胸に走れば。彼女は「生きている」と言えるのではないだろうか。

 

 

それが果たして、正解であるのか。誰も答えは知らないし、その答え合わせが行われるのは、アタシが「海にたどり着いた」、その時だ。その時まで、この傷を背負って、そして暗闇の中の微かな希望を胸にして生きていこう。2人はパジャマからジャージに着替えると、慌ただしく部屋を後にする。

 

 

誰もいなくなった部屋に、爽やかな風が吹き込んだ。

 

 

 

 

 

1月もやがて、終わりを迎えようとしている。本格的な寒さは加速し、東京よりも聊か肌を突き刺す寒さがルドルフを襲う。

 

 

「……寒いな」

 

 

騒動がひと段落し、ルドルフと露伴はトレセン学園をあとにして、住まいである杜王町へと帰っていった。それでもルドルフの胸の内には、大きなもやが霧のようにかかっていった。

 

 

…果たして私は。

 

 

救えた、と言えるのだろうか。全てのウマ娘の幸せを願う。そんな私が、この事件を通じてできたことはあっただろうか。

 

 

例えここで私が何を思おうとも、時間は残酷に過ぎ去っていく。それでも既に部外者に等しい私がここまで苦しみを覚えているのだから、彼女たちはどれほどの受難が待ち受けているのだろうか。

 

 

それでも。

 

 

信じるしかない、ウマ娘の強さを。信じるしかない、学園に根付く黄金の意思を。あとは彼女たちがどのように乗り越え、前に進んでいくのか。永遠に続くと思えるこの冬の寒さも、いつの日にか春が訪れるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

ピンポーン。

 

 

「……?」

 

 

「……失礼しま~す‼」

 

 

ドアを叩く音と共に、玄関の外から声が聞こえる。一体こんな時に、誰だろうか。ルドルフは訝し気に玄関に歩み寄り、ドアを開けた。

 

 

ガチャ。

 

 

「……失礼します!」

 

 

「お邪魔しますね~!」

 

 

ドアを開けるや否や、数人の男たちがなだれ込むように部屋の中に無遠慮に入ってくる。男たちはルドルフの困惑をそのままに、室内にある家具や装飾品をじろじろと物色し始めた。

 

 

「……ちょ、君たちは一体…!私たちの愛のs……」

 

 

「……その……ルド……ルフ……」

 

 

男たちに遅れて家に入ってきたのは、自身の愛するその人、岸辺露伴だった。露伴はまるで母親に悪事を告白する子供のように、ばつの悪い表情を浮かべていた。

 

 

「その……非常に言いにくいんだが……」

 

 

「……?」

 

 

「……家を引き払ったんだ。ここはもう、僕の家じゃあない……」

 

 

「……………」

 

 

「……は?」

 

 

は?彼は今、何と言ったのだ?家を、引き払った?言語として理解することができても、文意として咀嚼することができない。ただただ口をぽかんと開くことしかできないルドルフをよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「事件が片付いたら……取材すると言っただろう?その……妖怪伝説、六壁坂の……。取材しようとしたら……建設会社がそこにリゾートを建設しようと計画していると知ってな。開発されたら妖怪も元も子もない。それを阻止するために付近の山を6つほど、纏めて買ったんだよ……そのおかげで無事リゾート計画は頓挫したのはいいんだが、影響で地価は大暴落。めでたく僕は破産してしまったってわけさ…」

 

 

「……」

 

 

「……アハハハハハハハ」

 

 

「……岸辺露伴――――――――‼‼」

 

 

ルドルフの怒声が、家中に響き渡る。どうやら日常に戻ってきたようだ……最悪の形ではあるが。杜王町の一日は、当たり前のように世界と並行して過ぎ去っていった。

 

 

 

 

 

 

「岸辺露伴は求めない 完」

 









作者のボンゴレです。
以上で岸辺露伴は求めない、エンディングになります。コメントで感想いただけると幸いです。

多分近いうちに続き書きます、ネタはできてるので!
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