2月8日
既に数えることはとうに諦めた、そんな中で迎えた何度目かの朝。亮人は冷め切らない頭を覚醒させるために蛇口からひねり出された水を顔に打ち付けると、正面の鏡に映し出された自身の顔を覗き込んだ。
永遠に繰り返される1週間。
目の下に彫り込まれた隈に、生気のない目や肌。筆舌尽くしがたい絶望の中に放り込まれた自身の顔は相変わらず酷いものだったが、それでも今までのループでは得られなかった情報、そして進展が今回のループにあった。
自分が率いるチームのウマ娘5人…この中のだれかに原因となる者がいる。つまりそのウマ娘を見つければ、この永遠の監獄からの脱出が叶う、というわけだ。一体彼女たちの内の誰がこの世界を巻き込むような超常現象を巻き起こしているのか。そして一体何の理由があってこんな現象を巻き起こしているのか、それを突き止めなければ。
……今の僕には、心強い味方もいる。
岸辺露伴に、シンボリルドルフ。それにチームメンバーのアグネスタキオン。彼らがこのループを解決するために力を貸してくれる存在であることが今の彼にとっては、なによりも心強かった。絶望と言えるこの現状の中でも、わずかではあるものの一歩ずつ真実へと近づいている。そう思えば、絶望も少しはマシなものと考えることができるだろう……亮人はため息を一つつくと、カレンダーに目を向けた。
2月8日
何度目かの今日この日、岸辺露伴とシンボリルドルフは臨時の仕事をこなすために学園へとやってくる。今までの2回の接触ではループの中盤以降でのタイミングになってしまっていたが、ループの中でより多くの解決のための情報を掴むには、できる限り早いタイミングでループの記憶を失っている彼らに事情を理解してもらい、協力してもらう必要がある。
亮人はそう気持ちを切り替えると、仕事用のスーツに身を包み、玄関から外へ繰り出す。冬の澄んだ空気が肌を撫でつけ、その身を一度震わせると、彼は急いで学園へと足を向けた。HRの時間からまだ1時間以上前だというのに、既にトレセン学園はウマ娘の姿が多くあり、活気にあふれている。
「おはようございます」
彼女たちは亮人のことを目に止めると、朝の挨拶をする。亮人は顔に笑顔を取り繕うと、社会人として、トレセン学園のトレーナーとして遜色ない挨拶を返したが、胸の内には裏腹な感情を抱えていた。
どんなに練習しても、どうせ1週間経てば元に戻ってしまうというのに。
亮人はある種のニヒリズム、そして哀れみの視線をもって彼女たちを見つめていると、一人のウマ娘が彼のもとへ近づいてきた。
「おはようございます、トレーナーさん」
亮人が顔を向けるとそこには一人のウマ娘…赤髪のツインテールの彼女は手を振りながらこちらに近づいてくると、亮人の隣についた。亮人は努めて笑顔を浮かべて彼女に顔を向けると、彼女に声を掛けた。
「おはようネイチャ」
ナイスネイチャ…自身のチームに所属するウマ娘で、下町出身の彼女。彼女は笑顔を浮かべると、顔をあからめながら言葉を口にしたが、生憎亮人の頭の中は一刻も早く露伴たちと接触するにはどうすればいいのかに占められていた。
「すまない、ネイチャ…今日はちょっと急いでいるんだ。放課後に大事な話があるから、部室にチームメイトを集めておいてくれないか?」
「だ、大事な話⁉それって………って、チームメイト集めるのね。わかった………」
その反応を聞かず、亮人は露伴たちが到着しているであろう校門前へと脚を進める。ネイチャは走り去っていく亮人の背中を見つめると、小さなため息を一つつくのだった。
学園の入り口に、一台のタクシーが止まる。扉が開き校門に降り立つ2人の姿を目に止めた亮人の表情には、いくらか安堵の表情が浮かんでいた。
やはりこの日に二人は来ていたんだ。
ループの前に露伴から聞いていたが、この日に卒業前の最後の手伝いとして、ルドルフに連れていかれ、彼はこのトレセン学園に姿を現した。遠慮なんかしている場合じゃあない、急いで彼に全てを打ち明けて、協力を要請しよう。
「……露伴先生!」
スーツケースを両脇に置いている彼らに走り寄りながら、亮人は2人に声を掛ける。自身の名前を呼ばれた露伴は、訝し気な表情を浮かべながら亮人に視線を投げかけた。
「うん?……君はシービーのトレーナー君じゃあないか」
ルドルフはかつての生徒会長よろしく、非常に外交に適した柔和な表情を浮かべながらこちらに言葉を掛ける……しかし、その表情は偏に亮人に対してその表情を浮かべなければならない程度の交流の人物と認識しているということに他ならない。
「……ルドルフ?こいつは君の知り合いかい?」
「こら露伴先生。『こいつ』などというはしたない言葉遣いをするんじゃあない……この人は大森亮人。私の友人のミスターシービーの……」
露伴の訝し気な表情といい、当然のことではあるが……やはりこの世界で記憶を持ち超すことができているのは自分だけのようだ。亮人は二人のことを見据えると、口を開いた。
「……僕はこの1週間を繰り返しているんです。」
その一言に、二人の眉間には細かい皺が刻まれている。露伴はため息を一つつくと、亮人に対して実に刺々しい言葉を投げかけた。
「えーと。大森亮人君、だったか?トレーナーという職業がウマ娘につきっきりになる以上、実態がブラックなことはある程度認識しているつもりだが、少々根を詰めすぎているんじゃあないのかい?」
早々に激務の末に気がふれてしまった気の毒なトレーナーの目の前から立ち去ろうと、露伴はルドルフの手とスーツケースを両手に取りその場から歩き出す。
そして露伴が自分のことを気がふれてしまった哀れなトレーナーとみなされたことを悟ると、去り行く露伴の背中に向けて口を開いた。
「私は露伴先生が対象の記憶……人生の記録そのものを読み取ることができる能力をお持ちですよね……?ヘブンズドアーを」
「……!」
その言葉を聞いた2人の体はピタリと立ち止まる。やがて露伴は先程よりも深いため息をつく……どれほどの時間を要したのだろうか、露伴は頭を乱暴に搔きむしりながらルドルフへ顔を向けた。
「……おいおいおいおい。どうやらこの亮人君が言っていることは与太話じゃあないようだな…話を聞いた方がよさそうだ」
その日の夕方。
理事長の計らいによって、自身の滞在中に宛がわれた部屋の中で亮人の全ての記述を読み終えた露伴は、座っている椅子の背もたれに寄りかかると、天井を仰ぎ見た。
「……薄々覚悟はしていたが、亮人君の言っていることは本当だったようだ。」
この1週間を繰り返している。全く突拍子のない話ではあるが、ヘブンズドアーが大森亮人の記憶から読み取った膨大な情報は、まぎれもなくすべて真実というわけだ。ヘブンズドアーという能力の確実性を理解しているからこそ裏付けられたこの状況の深刻さと、そして絶望感に天井を仰ぎ見ることしかできない露伴だったが、やがて言葉を続けた。
「……だが流石この岸辺露伴といったところか。次のループで僕たちが解決にあたることができるように道標を残していてくれたようだ。」
「……道標?」
疑念を滲ませ、言葉をルドルフが反駁する。露伴はその発言に対する仔細を説明するためにルドルフの方をみやると口を開いた。
「……前回のループの時点で僕たちは、亮人君のチーム5人のウマ娘たちの内、3人を既に調べ、彼女たちがシロだと判明させている。これは大きな進歩だ」
「つまり後の二人……ナイスネイチャとナリタタイシンのどちらかが元凶とみて間違いないと」
ナイスネイチャ……そういえば彼女とは今朝顔を合わせた。下町出身のウマ娘で周囲にも気配りができる、そんなウマ娘だ。ナリタタイシンはシービーの次のチームの古株で、気難しい性格ではあるものの、その芯は友達想いの非常に優しいウマ娘だ。そんな2人の内のどちらかに問題があるというのか。その事実は聊か亮人には信じられなかった。
つくづく僕という男は……
全くもって情けなくなる。ループが始まる前まで少なくとも目立った問題など何処にもないと思っていた。最初に担当したシービーがクラシック三冠を達成したことを皮切りに、担当のウマ娘たちも成績を修め始めていたはず。学園を牽引するチームの一角として、その名前を連ねている…そのはずだと。
内省に耽っている亮人とは裏腹に、露伴は淡々と言葉を続けていく。
「……その通りだ。しかも次のウマ娘の問題自体は非常にシンプルだ。……もっとも解決は非常に厄介だが」
それは一体どういう意味だろう?亮人が首を傾げながら露伴の顔を見ると、露伴はその目を見返しながら口を開いた。
露伴が事もなげに告げた言葉。それに亮人は大いに驚かされることになった。
「……つまりこういうことさ。ナイスネイチャ、ナリタタイシンの二人は君に惚れているってことだよ」