理解が出来なかった。
自身の身体を包み込む感触と、今しがた彼女から発せられた好意を寄せる言葉。基樹は抱きしめられた身体をおずおずと引き離すと、口を開いた。
「え?え?」
聞き間違い、ということだろうか。彼女の発した言葉が先程まで自身の身体を縛り付けていた緊張もあいまって、自身の頭のキャパシティーを軽くオーバーするほどの情報を叩き込む。その様子を見たエアグルーヴは再びこちらに視線をやると、今迄見たことがないほどの恍惚とした表情…先程見たウマ娘のような表情を浮かべ、言葉を口にするのだった。
「もう一度言わなければわからんか?たわけが」
「貴様を愛しているからここに連れてきた、そう言ったんだ」
やはり聞き間違いではなかったようだ。ぽかんと口を開き、エアグルーヴのことを見つめる基樹の様子を見かねたエアグルーヴは、彼の思考がここに戻ってくるように言葉をつづけるのだった。
「とりあえず、夜の学園の散策と洒落こもうじゃあないか。貴様が疑念を抱いていること、知りたいことをできる限り答えてやろう」
エアグルーヴの半歩後ろをついていくように、基樹はおずおずと夜の学園の散歩へと繰り出していく。先程までの誰にも見つからないようにというある種の切迫感に包まれた窮状からは解放されたわけだが、彼は新たな問題に直面していた。すなわち、檻の中で腹をすかせた猛獣と一緒にいるような、そんな生命の危機である。エアグルーヴほど聡明なウマ娘であればそんなことはしないだろうと信じたいが、彼女は既に自身をこの世界に連れ込むという荒唐無稽な芸当をやってのけているし、自身の記憶にはまだ先程のウマ娘の暴挙が鮮明に残っていた。
学園内は2つの足音が鼓膜に届くほど静寂に包まれた校舎は、昼の喧騒ひしめく学園とはまるで様相が異なっていた。
斜め前を歩くエアグルーヴに視線を向けると、彼女の琴線を刺激しないように心掛けながらおずおずと口を開くのだった。
「ど、どうやって気づいたんだ?僕が…その」
「どうやって逃げようとしていると気が付いたのか、そう聞きたいんだな?」
その問いに基樹が視線を落とすと、エアグルーヴは言葉を続けるのだった。
「貴様のことは何でも知っていると言いたいところだが、連絡がきたんだ。今日一件貴様のような外の世界から来たトレーナーに対して感情が爆発してしまったウマ娘がいた。まぁ、そのようなことがあった対処のために現場の復旧作業、当ウマ娘に対する聞き取りや処遇に対して24時間体制で生徒会が対応しているわけだが、その時に貴様の匂いをかぎ取ったわけだ」
どうやら先程の惨状は日常茶飯事かどうかは定かではないが、初めて起こったケースというわけではないようだ。自分と同じように元の世界から連れてこられたトレーナーが存在し、その末にウマ娘の毒牙にかかってしまったものがいる。基樹は少しでも情報を得ようとエアグルーヴに続けて質問を投げかけるのだった。
「僕のほかにこの世界に連れてこられた人がいる、っていうことだよね?」
「その通りだ。貴様以外にもこの世界にきた人間は少なからずいる。日常に溶け込もうと懸命に努力するもの。帰ろうとして暴れたり、逃げ出そうとしたりとするもの、それぞれ多種多様だ。」
「…その中で、元の世界で帰れた人って…?」
「それを逃がさないようにするのも、我々生徒会の仕事だ」
当然と言えば当然だが、あくまで生徒会は「ウマ娘」のための機関であるようだ。ウマ娘たちの狂愛を手助けし、その獲物が逃げないように補佐する機関で、自身の担当ウマ娘はその機関のナンバー2。これでは自分がこの世界から脱出を図るのは無理だと宣告されているようなものではないか。
絶望に染まり切った表情を浮かべる基樹を一瞥すると、エアグルーヴは言葉をつづけるのだった。
「ちなみにさっきの学園の外に出ようとする選択…確かに悪くはない選択だった。実際敷地外に出ることができたのなら、貴様は元の世界に戻ることもできただろう。」
その言葉に、先程まであきらめかけていた脱出の可能性が開く。自分の読みは当たっていたのだ。何とか朝や深夜の機会を見計らって敷地外に出ることができたのなら、元の世界に戻ることができる。希望にわずかに目を見開いた基樹だったが、次にエアグルーヴが発した言葉に再び絶望に叩き落されることとなった。
「今日は門の前まで行かせるような不覚をとったが、今日はあくまでビギナーズラックだと言っておこう。次から怪しい行動をとれば直ちに捕まえに行くし、元の世界に戻れたとしても必ず連れ戻してやる」
その言葉はさながら死刑宣告のそれであった。彼女のその確かな確証を秘めたその瞳は、「何が何でもそうしてやる」という気概を感じた。その瞳に寒気を覚えた基樹だったが、エアグルーヴはそれを全く意にも介さぬように言葉をつづけるのだった。
「さぁ、寮についたぞ。今日はおとなしく寝るといい。明日も早いからな」
彼女のことをこれほどまでに恐ろしく感じたことはあるだろうか?
愛している、と口では言うものの自分の都合しか考えていないその歪んだ愛し方に、基樹は徐々に自身が怒りを孕んでいくのを感じるのだった。
「本当に愛しているって言うんなら、帰してくれ…!」
今の自分にできる、精一杯の抵抗。本当ならその肩を押して怒鳴りつけてやるくらいの芸当をしたかったが、このおりかごの中で女帝の奴隷と化した自分にできることは、彼女を刺激しないように懇願することだけだった。
精一杯の勇気を振り絞ったその言葉に、エアグルーヴは笑みを深くするだけだった。
「今日は初犯だから見逃してやっているんだ。本当なら今すぐ貴様を力づくで私のものにしたいが、それをしないのは偏に愛しているからということを忘れんようにな」
そう告げると、エアグルーヴは静かに闇夜に消えていった。一人取り残されたその空間は、静寂が支配している。帰す気など毛頭ない。彼女の寵愛という名の歪んだ愛を一身に受ける以外の未来は残されていないというのか。
―――否。
必ずここから脱出して、家族に、そして弟と再会してみせる。基樹は決意の炎をその瞳に宿らせると、今日のところは寮の自室へと戻るのだった。
翌日、夜が明けて朝を迎えても結局のところ一睡もできなかった。もはや自分の部屋とは呼べなくなった部屋のベッドの上で彼の意識は既に脱出への向けられていた。
――協力者が必要だ。
残念ながらあれからどうやってこの世界を出ようかと考えたが、これといったアイディアは思い浮かばなかった。しかし、僕と同じようにこの世界に囚われている人間がいるということは、同時にこの世界から脱出したいと願う僕と同じ境遇の人間がいるということだ。その人物を見つけ出して、協力者として共に策を練ろう。
基樹は身支度を整えると、玄関から外に出ようとする。学園に出向いてこの世界に連れてこられた人間を探すことにしよう。
「おはよう」
この声は。身体を昨晩同様、形容しがたい恐怖が縛り付けてくる。基樹が声のする方向へと首を向けると、そこには自身の愛バの姿があった。
「これからは学園まで一緒に行こうと思ってな。さぁ、一緒に行こう」
吐き出しそうになった悲鳴を寸前で抑え、彼女の姿に視線を送る。恐怖はいまだ身体を駆け巡ってはいたが、朝日に照らされる彼女の横顔を見るとドキっとしてしまった自分がいた。エアグルーヴはそんな自分の様子を見てクスっと笑うと階段を下りていくのだった。
「―――今日の生徒会の業務は、来週行われる駿大祭についての打合せだ。当日は流鏑馬や奉納舞といった様々な催しが行われる。貴様には昨日言った通りその会議が終わったのちに業者との打ち合わせをオンラインで行う。貴様を外に出すわけにはいかないからな」
昨日までと何ら変わらぬ彼女の様子が、かえって基樹の恐怖心と疑念をあおっていく。それでも昨日のことを引きずるような態度を取られるよりも、昨日ウマ娘に襲われてしまったあの男と比べれば、幾分か状況はマシかもしれない。
「…ところで、駿大祭ってなんなの?」
「なんだ、そんなことも知らないのか。ウマ娘の、ウマ娘による、ウマ娘のための祭事…日頃ウマ娘を見守る三女神様に感謝の意を示し、その願いを捧げる重要なイベントだ…今年はゴールドシチーたちの奉納舞と、会長たちによる流鏑馬が執り行われる予定だ」
…ゴールドシチー。
そういえば昨日男を襲ったウマ娘はシチーと呼ばれていた。昨日のウマ娘の名前はそう呼ばれているのか。考えに耽る基樹をよそに、あっという間に学園が近くなってくる。エアグルーヴは基樹に顔を向けると、言葉を口にするのだった。
「では私は会議に行ってくる…会議は11時に終わる予定だ。集合はその15分後にトレーナー室にしよう」
エアグルーヴはそう言うと、踵を返して校舎の中へと姿を消していくのだった。基樹は彼女の姿が完全に見えなくなったことを確認すると、先程来た方向へと駆け出していくのだった。
この世界に連れてこられた人間が必ずこの学園の何処かにいる。その人物とコンタクトを取って、策を練ればきっと活路をみいだすことができるはずだ。基樹は走りながらすれ違う職員やトレーナーの顔を随時確認するが、ここで一つの問題が立ちはだかるのだった。
…どうやってその人が連れてこられた人間であると見分けることができるのだろうか?
この学園にいるすべてのトレーナーが、この世界に連れ込まれたというわけでは決してない。もともとここに留まっている、つまりゲームの中の人物であるものも当然いる、いやむしろその人数の方が圧倒的に多いだろう。
つまりこの中からその人物を探し出すすべを、僕は有していなかった。僕のように記憶を失っている人間だってきっといる。しらみつぶしに一人ずつ声をかけるという方法もあるにはあるが、それはあまり現実的ではないし、目立った動きを取ればエアグルーヴに感づかれてしまうリスクだって十分にある。
…約束の集合時間までは1時間ほどしかない。それまでに協力者を見つけなければ、次動けるのはいつになるかわからない。急いで駆け出そうとした基樹だったが、その時一人の男が目に留まるのだった。
その男は、学園内にある三女神像が設置された噴水の淵に腰かけていた。男は特徴的なヘアバンドと耳にはペン先の形状のイヤリングを付けていた。基樹はその男を立ち止まって見つめると、徐に口を開くのだった。
「…岸辺、露伴先生…?」
通常であれば、売れっ子といえど漫画家の顔など認識している人物などほとんどいない。普通人が注目するのは、ストーリーやそこに登場するキャラクターであって、それを描いている本人を注目しているわけでは決してない。ミュージシャンやモデルとの明確な違いはここにある。
―――しかし基樹は超が付くほどの漫画好き…そしてなにより杜王町の住人だった。杜王町に住まう漫画好きにとって、ピンクダークの少年の作者である岸辺露伴が杜王町に住んでいるという話は有名なものであり、基樹もその例にもれず雑誌や漫画の表紙カバーにある一覧にある彼の顔写真で、彼の存在と容姿を認知していた。
結果的に基樹が漫画を愛していたことが、彼自身に幸運を舞いこませるきっかけとなった。露伴と呼ばれた男は呆けた目をこちらに上げると、じっと基樹の方を見つめていた。
――彼もまだ、記憶が戻っていないんだ。
それならば彼の記憶をここに引き戻してやる必要がある。それも早急に
基樹は急いで彼のもとへと駆け寄ると、彼の顔を覗き込むことができるように跪き、彼と目線を合わせる…そして逸る気持ちを抑えて言葉をつづけるのだった。
「岸辺露伴先生!ピンクダークの少年を連載中の天才漫画家の、岸辺露伴先生ですよね⁉」
――その瞬間、露伴の目は大きく見開き、その瞳の奥には先程と明らかに異なる力がみなぎるのを見て取ることができた。露伴は今初めてここにいたことに気が付いたかのようにあたりを見渡すと、徐に口を開くのだった。
「…ここは何処だ?」
―――探していた安藤基樹はすぐに見つかったのはいいが、まさか自分が木乃伊取りが木乃伊になってしまうとは。彼の話によれば、どうやらここは「ウマ娘プリティーダービー」なるゲームアプリの世界の中のようだ。そしてこの世界から脱出するには敷地の外に出ればいいとのことだが、捕まってしまえば何をされるかわからない、そしてみなトレーナーである自分たちに対して鬱屈とした愛情の念を抱いているという。
…彼女は、自身の担当なるウマ娘もそうなのか?
いや、自身のことをこの世界に連れ込んだ時点で、それは論ずるに値しない疑問であることは間違いない。基樹君のいう通り、自分も含めこの世界に連れ込まれた者たちは皆例外なくその状況に置かれているというわけだ。
…あのストーカー女に付き纏われていた康一君の気持ちが、身に染みてわかったよ。
あの後あのストーカー女、山岸由花子と付き合ったことは康一君の心の広さゆえだろうが、生憎自分はそんな代物など持ち合わせてはいない。目的であるこの青年を元の世界にさっさと連れ帰ってしまおう。
「とりあえず日中は目立つし、何より考えなしに行動を実行することは危険だ。ここは一度作戦を立て直そう。」
基樹に連絡先を手渡し、再び落ち合う日時を決めた露伴は、11時過ぎに落ち合うと決めた自身の担当ウマ娘のもとへと足を繰り出していくのだった。
…彼女には、記憶が戻ったことは悟られないように心掛けよう。
基樹の言っていたことが本当ならば、彼女にはこのことをだまし通さなければ脱出など叶うはずがない。彼女はそれくらいの強敵であり、聡明な人物であることは短い期間ではあるが育成していた露伴がすでに及び知っていた。
時計の針は、既に11時を指している。露伴は足早に校舎に向かい、指定された部屋に向かって歩みを進めていく。ちょうど室内では用事が終わったようで、続々とウマ娘たちが室内から外へと出ていくのが遠くから見て取れた。
…あれが基樹の担当か。
確か名前はエアグルーヴと言ったか。なるほど如何にも気が強そうな女だが、ああいう手前は案外隙があるものだ。注意深く観察して行動すれば、大きな脅威にはなりえないだろう。寧ろ厄介な問題は、自分自身の担当にある。
「失礼するよ」
ドアをノックして露伴がそれを開けると、奥の荘厳な装飾が施された椅子に座って、机に肘を載せてその手の甲を顎に乗せた一人のウマ娘がいるのだった。
「やぁ。時間きっかりだね。トレーナー君」