最悪の気分だった。
かつてあのくそったれ仗助のせいで自身の家が半焼し、250万円の映画「プリティーウーマン」の中にでてきたものと同じドルクセル・ヘリテイジ社の家具をはじめとした家内のほとんどのものは焼失し、自身のこだわりでビクトリアンエドワード様式にイギリスで加工した建材を用いて建築した家は、元通りの状態に復元するのに結局2000万円以上もの費用がかかったが、その時の気分もこの時の比ではなかった。
自身のスタンドが発現しない。
この能力を身に着けてこの方、このような事態に陥ったことがない。自身に陥った事態はおよそ予想の範疇を優に超えていたわけだが、明確に一つの事柄だけが分かっている。
ヘブンズ・ドアーが再び発現できるようにならない限り、奴から…シンボリルドルフの元から逃げることは叶わない。
自身のスタンド能力が出現しなければ、人間よりもはるかに身体能力が優れたウマ娘に、ひいては恐らくこの学園に在籍するウマ娘の中でも屈指の周到さと頭脳を誇るシンボリルドルフの追跡を振り切ることは土台無理な話だ。
現に彼女はこの岸辺露伴に、会話の中に釣り餌を仕込むという芸当をやってのけ、ものの見事にその餌に引っかかってしまった自身から、記憶が戻ったことを把握したわけだ。
それでも露伴は、決してこの世界から逃げ出すことを諦めたわけではなかった。
彼女は僕のスタンドが出現しないのは、「ウマ娘に対するセイフティー・ロック」が作用したからだと言っていた。つまり、そのセイフティー・ロックを管理する何か「制御装置」が存在するはずだ。その制御装置を発見し、無力化することができればこの世界でもスタンド能力を使用することが叶うかもしれない。
さしあたり目下の行動目標を定めた露伴は、小さくため息をつくと重い扉を開き寮の自室から外へと足を向けた。
「やぁ、トレーナー君」
氷のように冷え切った、捕食者の放った一言。
露伴が声の方へと顔を向けると、そこには自身の担当、シンボリルドルフの姿があった。彼女は自身の部屋の扉の隣に腕を組み、寄りかかっていた。彼女はまるで馳走を目の前にしたかのように、およそ学園の長としてウマ娘を束ねる生徒会長とは思えないような恍惚とした表情を浮かべながらゆっくりとこちらに近づいてきた。
…こいつもやはり僕を。
「もちろん愛している」
こいつは読心術かなにかを身に着けているのか?心の中に思い浮かべた疑念の答え、まるで初めから何が質問されるのかわかっていたように口にした。まるで獲物を目の前にした蛇のようにルドルフは隙もなく露伴のもとへと近づくと、ゆっくりと彼の背中に腕を回そうとしたが、その直前に露伴は前に踏み出すことでその行為を拒否すると、彼女に対してらしからず荒々しく言葉を投げかけた。
「…僕をコケにするのもいい加減にするんだな。愛している、だ?そんな一方的な腐りきった感情を押し付けられて、はい受け入れますというわけがないだろう。僕は必ずこの世界から脱出して見せる。」
露伴の怒りを孕んだ決意の言葉にも、ルドルフの表情は露とも変化しなかった。彼女は露伴のセリフを一語一句聞き逃さずに耳を傾けると、徐に口を開くのだった。
「君は少々子供らしいところもあるが、それもまた私が君を好きになったところだ。それに君が元の世界に帰ったとしても、必ず連れ戻して見せるさ」
「連れ戻す…?君たちウマ娘はこっちの世界には来ることができないはずだ…できるんだったら、とっくにそうしている。そうだろう?君たちにできることは、精々体の一部をスマホから出すことぐらいだろ?」
それは露伴が立てていた仮設だった。自身はもちろんだが、基樹もこの世界に連れ込まれた時、腕をスマホから伸びてきた手に掴まれた。つまりこの世界と現実世界を自由に行き来できるのであれば、そんな釣りのような面倒な芸当をする必要などなく、寝ているときにでも気づかれないように無理やりこの世界に連れ込むこともできるはずだ。
露伴がそう指摘すると、ルドルフはわずかに口角を引き上げながら言葉を口にした。
「……確かにトレーナー君の言う通りだ。私たちはこの世界と君たちが元々いた世界の往来を自由に行うことはできない。今君に元の世界に逃げ込まれ、スマホを破壊でもされれば文字通り私たちは君を追跡することはできない……が」
「……それも今だけ、だ」
そうつぶやくと、ルドルフは階段を静かに下りて行った。一人自室の前に取り残された露伴は、先程のルドルフのセリフを思い返した。
「今だけ、だと…?つまり将来的に、この世界の往来は可能になるということか?」
だとすれば、基樹から聞いたエアグルーヴの余裕も頷ける。この世界から自由に現実世界へのアクセスが可能になれば、世界のどこに身を隠そうとも彼女たちは自身の愛する者の追跡をつづけ、その居場所を特定するだろう。
この世界から逃げるだけではだめだ。世界の往来を可能にするからくりを見つけ、それを阻止しなければ。
…この岸辺露伴をなめるなよ。
露伴は決意の炎をその瞳に宿らせると、ゆっくりと階段を下りていくのだった。
[
昨日の出来事が、頭にこびりついて離れない。
露伴先生が目のまえでなすすべなく会長の術中に陥っていくさまを、自身は見ていることしかできなかった。彼女に睨まれた時、僕は文字通り蛇に睨まれた蛙のように身動き一つとる事ができなかった。
自責の念と恐怖でごちゃまぜとなった心と頭を何とか整理しようと、自分の脚はあてもなく学園内をさ迷い歩いていた。目的などない。少しでもこの鉛のようにのしかかる感情の行き場を探り当てることができれば、それで満足だった。
やがて気が付くと、基樹は普段出向くことがないような校舎の一角に自身がいることに気が付くのだった。
…ここは
そもそもここの世界に来たのは最近の出来事なので、当然ここに訪れたことはないわけだが、不思議とこの場所には見覚えがあった。
そこは学園の敷地内にある、花壇だった。11月だというのにそこには色とりどりの花が植えられており、そこから発せられる自然の香りが、そこに赴いた基樹の鼻腔を心地よく刺激していた。
そしてそこには、一人の人物が花壇の傍でしゃがみこんでいた。頭には耳の開いたハットをかぶり、首には汗をぬぐうタオル、手には軍手を身に着け、彼女は眼前の花たちの手入れを懸命に行っていた。
「エアグルーヴ…」
そこにいたのは、自身の担当ウマ娘だった。いつものように引き締まった顔つきではなく、甲斐甲斐しくわが子の世話をする母のように柔和な顔つきで、丁寧に花たちの手入れを行っていく。
――――そうだ。アプリで彼女の育成をするときに、この場面を見たんだ。
目の前の光景に目を奪われていた基樹だったが、やがてフラフラと一歩ずつ、しかし確実に作業を行う彼女のもとへと歩み寄っていく。なぜそうしたのか、その場を立ち去ることもできたというのに。それは基樹自身にもわからなかったが、基樹は自分の意思で彼女に近づき、今度は彼女の耳にも届く声の大きさで彼女に声をかけるのだった。
「エアグルーヴ」
その声に彼女は驚きの表情を浮かべこちらを見つめたが、相手が基樹だとわかるとその表情はすぐに緩み、言葉を口にした。
「…どうして貴様がここに?」
「ふらふら歩いていたら、いつのまにかここに、ね」
本当は脳内にこびりついた、昨日の悪夢にも似た夜の一幕から少しでも逃れようと足を繰り出していたわけだが、基樹はその事実には触れず、あえてその行動だけを端的に伝えるに徹した。
「…そうか」
エアグルーヴはそう返事をすると、再びその視線を花たちに向け、せっせとその世話を始める。しばらくその様子をじっと見ていた基樹だったが、やがて唾を一つ飲み込むと彼女の隣に同じようにしゃがみこむのだった。
「…?」
訝し気にエアグルーヴがこちらに視線を送る。まるでなんのつもりだ、といわんばかりに。基樹は自身の横顔に向けられる視線を感じながら、徐に口を開いた。
「手伝うよ」
そういうと、彼女の見よう見まねで花に手を伸ばそうとするが、その手が触れる瞬間、彼女の叱責が横から飛んでくるのだった。
「たわけ!何も知らんのに触ろうとするんじゃあない!花を傷つけたらどうする!」
言われてみれば彼女の言う通りだ。ガーデニングの「ガ」の字も知らない自分がなんとなくで花に手を加えようとすれば、それこそ彼女の脚を引っ張る事に他ならないだろう。
自身の気持ちがあるべき方向ではない方へと向かってしまったことに後悔しつつ、基樹は「ごめん」と一言つぶやき、その場を立ち去ろうとする。
グイッ
立ち去ろうとしたが、何かに腕を引っ張られる。基樹がその方向へと首を向けると、エアグルーヴが自身の袖を指でつまんでいるのだった。驚く基樹をよそに、エアグルーヴはうつむきながら言葉を口にした。
「…な、なにも手伝うな、と言っているわけじゃあないだろう。私が指示を出すから、手伝ってもらっても構わない」
その言葉に、基樹はまごついた様子で彼女の隣に再びしゃがみこむと、彼女の指示のもと、ガーデニングを微力ながら手伝いを始めるのだった。花たちの間に生えてしまった雑草を引き抜き、元気がなさそうな花のそばに栄養剤を差していく。
「…冬にも咲く花ってあるんだね」
「パンジーやシクラメンが冬に咲く花なら有名だな。だが秋の内に定植させておかないと、根が冬になる前に土に張りにくくなってしまうし、しっかり日光を当ててやらないと花が弱くなってしまうから注意しなければな」
彼女の方へと顔を向けると、彼女の顔には土がこびりついていた。熱心にその作業に打ち込んでいた証左に、思わず基樹が頬を緩ませると、エアグルーヴがなんだという視線をこちらに向けるが、基樹は慌てて彼女の顔に土がついてしまっていることを指摘する。彼女は顔を真っ赤に染め上げ、「たわけ…」とつぶやきながら首にかけていたタオルで顔についた土の汚れをぬぐい取るのだった。
すべての作業がおわったころには、すっかり日は傾いてしまっていた。
目のまえの色彩豊かな花々を見渡しながら、基樹は一日の仕事の疲れから凝り切った背中と腰を引き延ばしながら、隣のエアグルーヴの顔を見つめた。
夕陽を受けた彼女の横顔が、なんともいえぬ感情を基樹の心の中に引き起こさせる。
「……今日は手伝ってくれてありがとう」
突如、彼女の口から引き絞られる感謝の言葉。それに対して基樹が何も言えずにいると、エアグルーヴは静かに前方の花を見つめながら言葉を続けた。
「…ずっと耐えられなかった。うっすらと絶望を目に宿して会社に行き、理不尽な事で上司から叱責を受ける。バランスも全く考慮されていないコンビニの食事を食べ漁って、泥のように眠る生活…」
確かに彼女の言う通り、この世界に来る前の自分の生活は、まさに希望から遠く見捨てられた人生だった。生きるために働いているというのに、外に出るたびに命を少しずつ削っているかのようなあの漠然とした不安。
「…そしてなにより」
「…?」
「そんな貴様を画面越しから見ていることしかできない、そんな無力な自分が許せなかった…貴様にとっては私やこの世界はただのアプリかもしれないが、私だって生きている。この花々が生きているように、この世界にいる私も確かに生きているんだ」
彼女たちだって、生きている。
自分でも信じられないことではあるが、彼女に対する恐怖の念の中に、ほんのわずかではあるが信頼とも呼べるような感情が芽生えていることに気が付いた。彼女は純粋な気持ちで、僕に対して接しようとしている。様々な感情が、ないまぜとなった気持ちが彼女に対して向けられており、自分自身でも彼女に対してどのように接していいのかわからなかった。
それでもこの世界にずっといたいかと言われれば、決してそうではない。
ずっと僕のことを心配してくれる家族がいる。露伴先生にその身元の捜索を頼むほど心配してくれた弟がいる。
相反する感情や想いが混ざり合い、一つの型へと落とし込まれていく。彼女のことを受け入れることはできない。しかしそれでも、彼女のことを拒絶することも僕にはできない。
「僕には……僕にはわからないよ」
そう声を絞り出した基樹はひどく憔悴し、震え切っていた。彼女の言葉を耳に届けることを恐れた基樹は、ゆっくりとその場を立ち去るのだった。
夜も近づき、夜は一気に冷え込んでくる。露伴は用事を終えて自身の部屋がある寮へと向かいながら、考えを巡らせていた。
―――この世界から脱出する。そして、現実世界へウマ娘たちが往来できるようになるという術を見つけ、それを阻止する。
目下やらなければならないことに頭を抱える露伴だったが、具体的にどのように行動を起こせばいいものか、皆目検討がつかない。完全に手詰まりの状態だった。
「……どうやらお困りかな?」
突然声をかけられたことに驚きつつ、露伴はその方向へと首を曲げる。そこには一人のウマ娘がたっていた。彼女は笑みを浮かべながらこちらを値踏みするかのようにこちらを見つめていた。
「一体何の用だ……今日の僕は聊か虫の居所が悪い」
「そう無理にことを構えなくてもいいじゃあないか。私はこう言っているんだよ」
「君を元の世界に戻してやると」