すん、と鼻を鳴らす。
かびっぽい埃くささと、生臭い鉄の臭い。その中に微かにまざる、嫌なもの。それにぴくりと目元を揺らし、ぐるりと視線を動かして「現場」に目をこらす。
――――また、か。
もはや諦めに近い気持ちでポケットの中に左手を突っ込んだ。スマホは常にふたつ持ち歩いている。別に仕事とプライベートで使い分けているわけではない。あえて言うなら「表用」と「裏用」だ。
ポケットの中で眠っていた「裏用」に電源を入れる。わざわざポケットから取り出す必要はない。慣れた感覚で指先を動かし、画面を見ることなくその番号をコールした。
コール音がポケットの中で響く。一回、二回と鳴らして電話を切った。電源は入れたままにしてポケットから手を出す。もともと相手が出ることなどない、ただの合図のための番号だ。
先輩、と後ろから声を掛けてきた後輩にひとつ頷く。すぐに警察はお役御免となるのだが、動かないわけにはいかない。
「通報の内容は女性の悲鳴と大きな物音だったな」
「はい。いま通報した近所の住人に詳しい話を聞いています」
「そうか。向かいのコンビニの防犯カメラを洗う。それと鑑識を急がせてくれ」
「……と、言いますと?」
年若い彼はまだ現場に慣れておらず、観察眼も足りないようだ。……などと、偉そうなことを言えるほど俺もベテランなわけではないのだが。
怠い腕をあげ、手近な壁を指さした。ちゃんと見ればそこかしこに痕跡はある。
「血痕だ」
「……!」
「かなり少量だが新しい。事件性は断定できんが、出血する程度の負傷者は発生している。最悪の事態も想定して動こう」
「……はい!!」
黒い手帳を握りしめて返事をした後輩の目は使命感で輝いていた。すぐに本庁に連絡を取り、コンビニ行きましょう、と急かすように背を向けた。ゆるゆると重い足を動かして彼の後を追う。
警察官の使命に燃える彼には申し訳ないが、おそらく何らかの被害に遭った女性の生存は限りなく絶望的だし、犯人は捕まらない。俺たちが行う初動捜査だけでなく、この案件を引き継ぐことになる刑事たちの捜査もたいした進展を見せないまま打ち切られるだろう。
それは仕方のないことだ。何せ相手は人間でなく、その手に手錠を掛けることどころか普通は見ることさえ叶わない。
すん、とまた鼻を鳴らす。視界の端に靄のような残穢を嗅ぎ取った。
――――二級程度だろうが、一体じゃないかもしれないな。
いつもポケットに入っている「裏」のスマホ。一級呪霊なら一回、二級なら二回、コールを鳴らす。まさかの特級や、緊急性のある事態であれば半コール。電源を入れたままにしてこちらの位置情報を取得させる。
俺たち機動捜査隊は、通報を受けた際にいち早く現場に臨場し初動捜査を行う。普通の警察官なら数年で異動があるはずなのに俺が何年もここに居続けているのは、俺の「もうひとつの仕事」にとってこの立場はひどくやりやすいからだ。俺の知らないところでそういう圧力が働いていることは、最初の数年でとっくに気づいていた。
防犯カメラのデータコピーを指示し、その間に聞き込みの成果を聞こうとコンビニを出る。一度現場の方向に目をやるが、特に変わった様子はない。
あれだけ大人数が騒いでいれば呪霊が再び襲ってくることはないと思うが、呪術師が派遣されるまでは一応警戒しておかなければならない。臨場した警察関係者にもしものことがあれば、それはそれは面倒なことになるのだ。
まあ大丈夫だろうと悲劇の場となった廃屋から視線を外す。見るからに怪しい穢れだらけのボロ屋なんざさっさと取り壊しておけばよかったんだ、とひとつ舌打ちをして腕時計に目をやった。
呪術高専に通報して十数分。ただでさえ数の少ない呪術師が派遣されてくるのはいつになるやら、と思った瞬間に背筋にはしる悪寒。
「……二級案件にあんたを寄越してくるとは思わなかったな」
急に背後に立つのはやめろと何度言えばわかるのか。クク、と意地の悪い笑い声に首だけで振り返る。
日本人離れした体格に真っ白の髪、真っ黒の目隠し、真っ黒の服装。わかりやすいほどの「怪しい」を詰め込んだこの男。これでどうして職質されないのか俺には不思議でならないのだが、怪しすぎてかえって疑いにくいというのもあるのかもしれない。
いつのまにか顔見知りになった「最強」は、仕方ないでしょと笑いながら肩をすくめた。
「ちょうど別の任務から帰ってきたタイミングでこの通報が入ってね。ちょうどいいからそのまま行ってこいって、本当にこの僕を何だと思ってんだろうねえ?」
「使い勝手が良くて壊れにくい呪霊抜祓専用機器」
「洒落にならない冗談ヤダナー!」
冗談のつもりはないんだが、と話すのも面倒で件の廃屋を親指で指した。うん、とわかっているらしい五条悟はひとつ頷く。
「女性の悲鳴と大きな物音で通報があった。駆けつけたときには女性の姿はなかったが、室内に血痕が飛び散った形跡がわずかにある。今鑑識が詳しく調べているが、それらしい下足痕が埃の上に残っていることも目視で確認」
「りょーかい。中の人たち外に出せる?」
「ああ。すぐに対処するなら帳を下ろす」
「ヨロシク」
ぽん、と俺の肩を叩いた五条悟はゆったりした足取りのまま廃屋へと進む。余裕綽々といったその態度は傲慢にも見えるが、それが許されるほどの実力の持ち主だということは実感できないまでも理解はしていた。土俵が違いすぎると対象のすごさも今ひとつわからない。
駆け寄ってきた同僚たちに指示を飛ばす。連絡をまわし、適当なことを言って廃屋の中で捜査をしていた人間も外に出した。
いつのまにか黄色のバリケードテープの中に立っていた五条悟は、中の人間の退去が済んだことを確認してにこりと笑う。
俺はそっと同僚たちから隠れて掌印をつくった。
「……闇よりいでて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
視界の端で黒塗りの車が停車したのが見えた。黒スーツを着た見慣れた人間がぱたぱたと走ってくる。どうやらマイペースの「最強」は補助監督すら置き去りにしてきたらしい。
補助監督がきたならもう警察のやることはほとんどない。せいぜいが立ち入り禁止の見張りくらいで、捜査もすぐに打ち切りになる。どうせまた熱血漢の後輩は「どうして捜査打ち切りなんですか!?」とかわめき出すだろうが、大人しく聞き分けて欲しいものだ。
警察にできることは限られている。呪術師ではない俺たちにできることは、ひどく少ないのだ。
「お疲れさまです! 五条さんは、」
「もう中だ。後は任せた」
駆け寄ってきた苦労性の補助監督の横をすり抜け、同僚たちに指示を飛ばす。
俺たちにこの事件は解決できない。俺たちに被害者を助けることはできない。犯人を逮捕し、その無念を晴らすことさえも。
左側のポケットに手を入れる。電源を入れたままだったスマホを握りしめ、電源を落とす。つい強く握りすぎるスマホの画面にはとっくにひびが入っている。
指示を飛ばしながら足を進めていく中、不安そうな顔をした子どもの姿が目に入る。ひとりなのか、とつい足を止めれば、近所に住んでる子だそうです、と後輩に耳打ちをされた。何かこわいことあったの、とか細い声を落とす子どもに、頭を掻いて視線を合わせる。
親しんだ場所に大人たちが怖い顔をしてうろついていれば、そりゃ不安にもなるというものだろう。ぎゅうっとうさぎのぬいぐるみを抱きしめる少女に、精一杯の笑顔をつくった。
何もできない俺たちに、唯一できること。
「……だいじょうぶ」
大丈夫だ、と繰り返して大きな瞳を覗き込んだ。
俺たちにこの事件は解決できない。犯人を捕まえることも、被害者を救うことも。だが、だからといって無力感に苛まれて職務を放棄するわけにはいかない。
「もう、こわいことはないよ」
それをできるのは、俺たちではないのだけれど。
ついさっき下ろした夜の帳が、ほどけるように消えるのを感じた。
*
「ご協力ありがとうございました」
「相変わらず堅いね、伊地知くん」
その夕方、よく顔を合わせる補助監督の彼から連絡を受けた。わざわざ署の近くの公園にまで来てくれた彼によると、呪霊の抜祓は完了し被害者の遺体も運良く回収できたのだという。
そちらの関係各所への通達も済んでいますと真面目な顔で言う伊地知くんは、別にいいのに俺にまで妙に気を使うところがある。
「別に俺に報告しなくてもいいんだよ、どういう決着になったかは警察側から聞くし。ただでさえ山のように仕事抱えてんだからこの時間はそっちに使いなって」
「いえ、関係者にはきちんと報告すべきだと思いますので」
「真面目だね。まあ俺はいいけど」
二級呪霊が数体って感じに見えたけど合ってるか、と尋ねれば伊地知くんは頷いて眼鏡のブリッジをあげた。
「二級呪霊が三体とのことです。相変わらず貴方の呪力感知は精密ですね」
「それしか取り柄がなくてな」
「そんな言い方をなさらなくても。あの五条さんだって褒めていたくらいですよ」
「『犬みたい』となら前に言われたけど、あれ褒めてるつもりなのかね」
まさに警察犬だねと笑顔で言い放ったあの「最強」、たぶん人間離れした力を得るかわりに人間性というものを犠牲にしたのだろう。精一杯褒めてるつもりなんだろうなとむしろ同情してしまった。いくら言葉が下手でもそれはない。
さっと視線を外した伊地知くんは冷や汗を浮かべているが、特に気にもしていないので適当に手を振ってこの話を終わらせる。
「警察への根回しも済んでるんならそれでいい。現場の人間は適当に黙らせておく」
「……よろしくお願いします」
貴方がいると本当に仕事がスムーズです、とほっとしたように言う伊地知くんに背を向ける。またお願いします、という声に片手をあげて返した。
***
俺はただ見えるだけ。離れていてもその存在を鼻で捉えられるだけ。ほかに何が出来るわけでもなく、ただずっと見ない振り、感じない振りをしてその気持ち悪さを堪えてきた。
それを武器として戦う人間がいることを知ったのは、警察官になってからだ。
『え、ケーサツのおにーさん、もしかして見えてる?』
『見えてるみたいだね。話が早い』
この子の保護よろしくお願いします、と「何か」に襲われていた子どもを託してきた長髪の彼も、サングラスを掛けた白髪も、どう見ても未成年だった。だというのに彼らは、異形のそれを瞬く間にかき消して見せたのだ。
通常有り得ない捜査体制が敷かれる現場があることは聞いたことがあった。奇妙な圧力で捜査が打ち切られる陰惨な事件があることも。
それが権力だの何だの以上に超常的な力の存在によるものだと気づいてしまったとき、俺のその後は決まったと言ってもいい。あのときはふたりだった「最強」に見いだされてしまったことが、俺にとってはすべての始まりだった。
今日の事件について、監視カメラの映像から得た情報と証言をとりまとめて報告書をつくる。あれがどう処理されるにしろ、きちんと報告書をつくって提出するのが俺の仕事だ。ぶちぶちとうるさい後輩を黙らせ、誤字脱字のチェックをして上長にそれを提出する。
今日の仕事はこれで終わり。当番の時間もとっくに過ぎている。くすんだグレーの上着を手に持ち、さっさと分駐所を後にした。こういう日は早く帰らないと捕まることがある。
「やっほ~お疲れ」
「……特級って死ぬほど忙しいんじゃないのか?」
「僕じゃなかったら過労死してるくらいには忙しいよ? あのあとさらにふたつも任務入れられてさ~」
へらへらと笑いながら歩み寄ってくるそいつと特に仲良くしているつもりはない。ただ必要以上に畏まることがない俺の態度が面白いのか、ふらりと俺の前に現れることが多かった。これで俺が女だったら世に言う「おもしれー女」現象なのかと思うところだが、わざわざ自分より年上の野郎に寄ってくることなかろうに。
何の用だよとため息交じりに言えば、わあ冷た~いとしなをつくる俺よりガタイのいい野郎。正直な感想が顔に出てしまったのか、その顔やめてと真顔で返された。
「時間取れたしゴハン付き合ってもらおーと思っただけだよ」
行こっか、と俺の返事など聞くもないこの男。断ったところで拉致られるだけなのは実験済みなので、仕方なく五条に続いて歩き出した。こいつの言う「ゴハン」が「情報交換」と同義だということも理解している。
情報交換と言っても、ごく稀に五条に頼まれる個人的な調べもの以外は大したことを喋っているつもりはかった。それこそ世間話と言えるような範疇だが、五条にとってはそれが妙に愉快で興味深かったりするらしい。
『僕は生まれたときから
いつだったかそう言われたとき、何をわけのわからんことをと反射的に返したが、言いたいことはわかるような気がした。それは自慢でも僻みでもなく、生来の「特別」である五条にとってはきっと事実としてそうなのだろう。だから五条は、健気にも自分の知らない世界を知ろうとしている。俺なんぞに声を掛けて、こつこつと。
でも別に俺じゃなくてもいいだろとは言いたいところだが、そう思うようになった原因が思い当たらなくもないだけに何となく拒みきれなかった。
脳裏に浮かぶのは、かつてこいつの隣にいたもうひとりの「最強」。
「……五条、」
「何?」
「お前に会ったら確認しなきゃならないと思ってたことがある」
周囲の気配を探る。陽の沈んだ裏通りに人影はない。下手な店に入るよりも、こういう場所のほうがひとに聞かれる心配は少ないだろう。
立ち止まった五条は、不思議そうな顔で俺の顔を見つめている。
いま俺が考えているのは、きっと五条ですらも有り得ないと笑い飛ばすことだ。いや、ともすれば激怒するかもしれない。
だが、確かめなければならない。呪いの存在を知りながら一般社会に身を置き、なおかつその境で両方の闇を見つめる俺だから見つけてしまった、この可能性を。
「夏油は、本当に死んだのか?」
この問いが、どれだけ残酷なものかわかっていたとしても。
Q、特級呪術師を「あんた」とか呼んで適当に扱ってもいいんですか?
A、警察官という立場もあり、畏まりすぎるとかえって五条の素性を怪しまれてしまう。もし現場近くで五条と話しているところを見られても、あの感じなら「日本ではコスプレをしなければいけない」と勘違いした外国人旅行者に道案内をしていたと言えば納得してもらえるため、あえてそういうふうに接している(ことにしている)。ちなみにこの言い訳の効果についてはすでに実証されている。
*
袈裟姿の長髪の大男なんて目立たないはずがないし防犯カメラにもちゃんと映ってるんですよ。彼はそれを見られる立場にあるんですよ。