走る。走る。走る。
息を切らし、足をもつれさせ、できるだけ無様に。
絶対に、
これが、俺にできる唯一の──、
*
夏油傑は本当に死んだのか。
そんな最低なことを尋ねた俺に対し、五条は軽く笑って頷いた。
『ちゃんと殺したよ? なぁに、いまさら~』
わずかの躊躇いもなかった。怒りも、動揺もなかった。
まだ殴られたほうがマシだった。何てことを聞くんだと声を荒げて欲しかった。
五条は、そうしなかった。
思い出すたびに罪悪感で吐きそうになる。だが、絶対に必要な問いだった。
どんな呪術を用いても死人は決して蘇らない。だから夏油傑という人間がこの世に存在するはずがない。
*
残穢がないことが逆におかしい現場だった。
パニックが過ぎて要領の得ない通報をもとに駆けつけた先にあったのは、ヒトの形を残した煤けたモノ。どう考えても真っ昼間のファミレスに突如として現れていいものではない。ようやく遺体に慣れてきた後輩もさすがに口元をおさえていたので、吐くなら外で吐けと自動ドアの外に蹴り飛ばした。
勝手に人間が燃える自然現象なんてあっていいはずがない。しかし、防犯カメラの映像をどう見てもそうとしか思えない状況だった。当然ながら店内に不審なものはなく、ごくごく普通のファミレスの光景に見えた。そう、突然ひとが火だるまにさえならなければ。
残穢はないが、これはどう考えても呪霊の仕業。そう判断した俺がいつものように左のポケットに手を入れた、そのときだった。
まだ青い顔をした後輩が俺に報告に来た。店内に横たわるご遺体の数と事件当時店内にいた人間の数が合わないこと。いつのまにかいなくなっていたひとがいること。
このひとですと後輩が差し出したスマホの画面には、かなり荒い画質ではあったが、あまりにも特徴的な男がひとり。
袈裟らしき和服をまとった、黒い長髪の大男──俺には夏油にしか見えなかった。
*
呪霊案件とのことで、その事件の捜査はすぐに打ち切られた。あの人体発火現象をどう誤魔化したのかは知らないが、俺の関心はそこじゃない。
夏油の姿こそ直接見ていないが、その「大義」とやらは叶うことなく呪いは祓われたと聞いている。夏油と戦ったのは乙骨憂太という何かと話題の学生で、とどめを刺したのは他でもない五条だったと。
五条と夏油は親友だった。本当に仲が良かった。だが、五条が夏油を逃すはずがない。五条だからこそ逃したりしない。夏油だって絶対にそんなことは望まない。そんな生温い性格でも関係でもなかった。
大前提、呪術で死人が蘇ることはありえない、らしい。呪術に詳しくない俺には詳細などわからないが、──いや、これは今それほど重要ではないか。混乱する思考を意志の力で抑え込む。
夏油傑と思しき「人間」が、素知らぬ顔で外界を歩いている可能性がある。俺がすべきは、ただ事実を調べることだ。
*
呪術高専に夏油(仮)のことは報告しなかった。
あまりに画質の荒い画像から彼を夏油だとしたのはほとんど俺の直感だったし、俺がその可能性を伝えることで夏油(仮)にも悟られる可能性があると踏んだからだ。
ファミレス内での人体発火、もしあれに夏油(仮)が関わっているのなら、おそらく動機は「特に意味がない」か「口封じ」だ。呪霊関連の案件だと「特に意味がない」が有力にはなるが、「口封じ」の可能性がわずかでもあるなら情報の取り扱いには慎重にならなくてはならない。
呪詛師がまず警戒するのは呪術師だ。この夏油(仮)が何か企んでいるとして、少しでも頭が働くなら呪術高専や総監部の動向を警戒しているはず。下手に中途半端な情報を高専に流して余計な動きを煽るよりは、ある程度情報を掴んでから流すべきだ。
それに、力のあるやつは呪術に対して警戒しても、力のない者のことにはとことん無関心な傾向がある。別に卑屈で言っているわけじゃない。
補助監督の真似事をやっていようとも本職は警察、人捜しなど慣れたもの。足を使った捜査を面倒がるようでは警察などと名乗れない。
*
結果として、人捜しとしてはわりと楽な部類だった。
何せ相手は普通にしていても目立つ長髪の大男。しかも本当に袈裟姿でうろついていた。いくら都会の雑踏とはいえ隠れる気ないのかこいつ。
基本的に単独で行動しているようだが、何やら誰かと喋っているように独り言を言っていたという証言も得た。もしそこに見えない「何か」がいたのだとしたら、呪霊と行動をともにしているということだろうか。
会話が成立するような自我のある呪霊なんて脅威としてはトップクラス。それを連れているのだとしたら、もしその呪霊が人体発火に関わっているのだとしたら。
雑踏のなかで撮られた画像、その端にかろうじて映っていたどう見ても夏油傑としか思えない人物を見つめながら、俺は薄暗い自室で煙草に火を付けた。
『五条さんですか? ああ、いま海外出張中なんです。急ぎの御用事でしたか?』
夏油(仮)について、おおよその調べはついた。
あとは報告するだけだと五条に連絡をとろうとしたが、珍しく繋がらない。伊地知くんに確認したら運悪く海外出張に出ているという。
夏油(仮)が少なくとも見かけ上は「夏油」であるとはっきりした以上、逆に高専に迂闊に情報は流せなくなった。これを根拠に「五条が夏油を逃がした」などと妙ないちゃもんをつけられてはたまらない。
かといって、たとえばこれを伊地知くんに渡すのはさすがに気が引けた。彼は信頼できる人間だが自分の身を守る力はない。じゃあ七海くんとか、と順を追って考えるが、向こうの実力が未知数である以上、迂闊なことはできなかった。
何せ相手は見かけだけとは言え「夏油傑」なのだ。実力・知略を踏まえれば、対抗できるのは五条悟しかいない。
では、五条が出張から帰ってくるのを大人しく待っているべきか。
反射的にすん、と小さく鼻を鳴らした。この数日、俺の周囲でほんのわずかだが呪霊の気配が濃くなっている。
ぎり、とだいぶ短くなっていた煙草のフィルターを噛みしめた。
「……どう、するかな」
口ではそう言いながら、俺の選択は決まっていた。
俺は、俺の最善を果たすだけだ。
*
もともと最悪の事態には備えてあった。それを現実にして、さらに利用してやろうというだけの話だ。
いつもより少しばかり
背後に迫る膨大な気配。もはや寒気がとまらないとか言っている場合ではないほどのそれら。本能的な死の恐怖を感じながらも、かかった、と強がらずにはいられない。
雑多にごみの転がる路地裏を走り抜けながら、頭の中で近隣の地図を広げる。間違っても通りにでるわけにはいかない。誰も巻き込んではならない。この時間にひとがいる建物の裏口も避けるとなれば、おのずと道は決まってくる。
辿り着いたのは、狙い通りの袋小路。ここまでだ、と振り向いた瞬間、呪霊の気配が消える。
かわりにそこに立っていたのは、袈裟をまとった長髪の大男。
「どうも、久し振りですね」
私のこと、わかりますか?
そうにこやかに宣った声は、やはり「夏油傑」のものだった。
「……夏油」
「はい。驚きましたよ、まさか貴方にバレるだなんて」
纏う気配も、笑い方も、話し方も、どう見ても夏油だ。
額に大きな縫い目はある以外に大きな違いがあるようには思えない。
今見ているソレが何なのか、俺には何もわからない。
だが、それでもひとつだけわかることはある。
「
ほとんど自分に言い聞かせるようにそう言った。
目の前の男が、少し困ったように眉を下げる。
「ひどいな。私の名を呼んでおきながら否定するなんて」
そう言ってそいつは俺の名を呼んだ。呼び方もイントネーションも、俺の記憶の中のそれと重なる。
だが、それでもやっぱりそいつは夏油じゃない。俺よりも誰よりも夏油傑を知る人間が、それを否定しているのだから。
「
俺は俺の目と耳が捉えた情報より、五条悟の言葉を信じる。
唯一無二の親友が示した生き方を選び取り、唯一無二の親友を殺す決断をした、誰よりも苦しんだはずの「最強」の言葉を信じる。
目の前の「夏油傑」の顔が崩れる。その顔にのったあまりにも歪んだ笑みは、夏油傑の笑顔とは似ても似つかない醜悪さを孕んでいた。
はは、と嘲るような声、そこに滲む下品さもあの格好付けのものではない。
「五条悟の信者かよ。ウザすぎ」
もういいよ、とその右手の中で黒い光が渦を巻く。
疲れ切った脚から力が抜け、とん、と薄汚い壁に背をついた。
これでいい。俺にできることは全てやった。ここで俺が死ねば、俺が得た情報の信憑性は高まる。情報が流出する前に始末できたと、夏油(仮)の油断を誘える。
だから、これでいい。ようやく俺も、役に立てる。
『あ、またケーサツのおにーさんじゃん』
『いつもお疲れさまです。怪我はありませんか?』
今さらのように、学生時代の
呪霊という超常的存在を祓う圧倒的な力をもつ彼ら。ふたりで最強だと、息をするように目の前にあるひとびとを助けていた。
そんな彼らを前にしたときの、無力感といったら。
俺には何も出来ない。誰も助けられない。わずかの使命感をもって警察の道を選んだにもかかわらず、結局俺も彼らの手を借りるしかない。
その強さが上手く理解できない俺にとって、彼らはただの学生だった。
破天荒で、生意気で、傲慢で、いつも肩を組んで馬鹿笑いしていた、ただのクソガキどもだった。なのに。
──ひょっとしたら俺は、ずっと死にたかったのかも知れない。
だからだろうか、「自分が死ぬ」という事実をあまり抵抗なく受け入れられるのは。
眼前に明確な殺意が迫る。
「……ごめんな」
あんなひどいことを聞いてごめん。
親友を殺したなんて笑顔で言わせてごめん。
こんな方法でしかお前たちの力になれなくてごめん。
結局背負わせることしかできない弱い俺でごめん。
本当は、俺、……本当は、どんなに身分不相応だったとしても、
──お前たちを守れる俺になりたかったよ。
***
僕が海外に出ている間に、実は結構付き合いの長い
あれだけ鼻が利く人間が呪霊に襲われたことに違和感はあったが、彼自身戦う力があったわけではない。逃げ切ることができなかったのでしょう、と伊地知は目を伏せて言った。
力のある呪術師だっていつどうやって死ぬのかわからない。だから彼が亡くなったこと自体に大きな驚きがあったわけではなかったが、その彼から託されたものだよ、とまさかの冥さんから手紙を渡されたときにはさすがに六眼を見開かざるを得なかった。
『依頼を受けていたんだよ。自分が残す全財産を対価に、これをきみに渡すだけ。ずいぶん破格の依頼だと思わないかい?』
どれだけ価値のある中身なんだろうね、と面白そうに渡された封筒の中にはメッセージも何もなく、ただURLが走り書きされたカードだけ。走り書きでもちゃんと読める字であることが、彼の性格を物語っていた。
僕も彼のことをよく知っているとは言えない。しかし、どうでもいいことにこんな手の込んだことをするひとではない。
冥さんとわかれあまり帰ることのない自宅へ戻る。
自前の端末にURLを打ち込めば、パスワードが幾重にも掛けられていた。僕とあのひとが最後に会った店の名前、そのとき食べた料理、話の流れで出たコンビニスイーツの新商品。何てことのない情報だからこそ、これらの答えは僕にしかわからない。
ひとつひとつ鍵を入力した先にあったのは、いくつかの画像ファイルが添付された報告書らしき文書データ。
それをクリックした瞬間、僕の口は勝手に慣れた音を辿っていた。
「──傑?」
これで獄門疆は回避できるかもしれない。