ヌル・ヒューマニオン   作:和泉キョーカ

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すべての『俺』が始まった日

 物心ついた頃、親父は既に俺たちの家族ではなくなっていた。どこへ行ったのか、誰といるのか。誰も知らないし、誰もが諦めた。それくらい、親父の行方は完全にわからなくなっていたらしい。

 そんなことはどうでもいい。顔も覚えていない親父など、最初からいないのと同じだ。それより、俺と――俺の双子の姉にとってもっと重要だったのは、やはり母親が俺たち姉弟を連れて無理心中を図ったことだった。

 よく覚えている。これから何が起こるのかもわからないような状況で、姉が俺の手をぎゅっと握ってくれていたその温かさ。「ごめんね、ごめんなさい」と何度も連呼しながら、俺たちを離すまいと抱き締めていた母親の腕の冷たさ。視界が真っ赤になって、海水が体中の穴という穴に襲い掛かってくる苦しさ。意識が朦朧として、やがて心地良さすら感じられた安心感。

 結局、俺も姉も死ななかった。死んだのは母親だけだった。何とも皮肉的で壮絶な過去だ。それから一層、俺と姉の絆は強固なものになった。NPO法人の金で高校に進学する頃には、俺たち双子はアパートの一室で同居生活を送っていた。

 

 で。

 

「ユウマ! いやっ……起きて! 嫌だよ! アタシを置いてかないでよ!」

 

 飛び出した子供を避けようと、急ハンドルを切ってしまったトラックのバンパーが眼前に迫る光景を最後に、こうして俺の走馬灯は終わった。人生二度目の死は、案外とつまらなく訪れてしまった。

 

 そういえば、走馬灯というものを見るのは今回が初めてなわけだが、これはいったいどういう原理で見せられているのだろう。脳の記憶処理? これから死ぬ人間が記憶を処理して何になるっていうのだろう。これが例えば、記憶を消去していくその過程を見せられているとかだったら、ちょっと物悲しい気もする。

 ――ところで、俺は今死んでいるのか? にしては自意識が鮮明すぎやしないか? こんなだらだら独白する暇があるなんて知らなかったんだけど。いや、知ってる人間はみんな生きてないわけだし、仕方ない……のか?

 

『厳密には死んでいない。』

 

 なんと、この期に及んで他人の声まで聞こえ始めた。他人? いや、これ俺の声だな。え?

 

『確かにお前は致命傷を負った。外界の見えないお前ではわからないだろうが、お前の肉体は今見るも無残なまでに引き裂かれている。トラックに吹き飛ばされたあと、そのまま制動がギリギリ届かなかったトラックに踏み潰されたわけだからな。』

 

 うわ、そりゃ見たくないな。というか、何で俺が俺と会話してて、俺じゃない俺が俺の知らない俺の姿を知ってるんだよ。ゲシュタルト先生もびっくりだよ。

 

『ゲシュタルト崩壊のゲシュタルトは人名ではない。ドイツ語で形態や姿を意味する単語だ。』

 

 まじで?

 

『哀れなものだな。姉を大学に進ませたい一心で複数のアルバイトを掛け持ちし、勉学も疎かになっていた末路がこれか。』

 

 ほっとけ。それで? もうこの際なんでもいいや、なんかパニックとかそういうのも起こりそうにないし。なんで俺こんな順応しちゃってんのかな。それで、お前は一体俺の何なのさ。真なる我とかそういうやつ?

 

『言い得て妙ではある。』

 

 そうなの!? やば、女神が転生しちゃうじゃん。

 

『あのゲームは女神が転生するゲームではない。』

 

 まじか。

 

『遊んでからそういうことは口にしろ。』

 

 オカンかおのれは。

 

『オカンが何たるかもお前は知らないだろう。』

 

 ……確かに。もうほとんど覚えてねーや。

 

『――お前に猶予をやる。』

 

 猶予?

 

『そう、猶予だ。私にできなかったことを、お前は成すんだ。俺は諦めた。私は辿り着けなかった。俺は果たせなかった。だから私はお前に託す。お前ならば、私の――。いや、よそう。これはお試しトライアルだ。ここから先はお前の目で見て、お前の耳で聞いて、そしてお前の脳で判断しろ。』

 

 はあ、ごめん。ごめんな、俺にはお前が何を言ってるのかがさっぱり理解できない。急に出てきて何なんだこの野郎とか言いたいこともあるし、何ならマジギレ一歩手前まで来てる。俺は一体ここからどうなるんだよ?

 

『自分の目で。』

 

 うわ、お前絶対人に嫌われてるって。

 

『そうだな。自覚している。……だからこそ、こうしてお前に頼み込んでいるんだ。』

 

 え、俺何か頼まれてたの? むしろ一方的に上から目線であーだこーだ命令されてるようにしか思えなかったんだけど。

 

『今のお前はまだ、ただの圷ユウマだ。少し人より不幸な半生を生きてきた、貧乏な学生なままだ。だが、ここからお前の人生は劇的――ないし悲劇的に変貌していく。耐えろ、これは現実であり、そして非現実だ。手放すな。お前の判断が、決断が、多くの人々の命と――意思を、共鳴させていくんだ。』

 

 ――見えた。その姿が見えた。視覚もないはずの眼に、その男の姿がはっきりと映った。確かに俺だった。神々しいまでに輝く後光に包まれ、希望を見失って淀んだ瞳で、その男は――俺は、微笑んで見せた。

 

『生きろ、圷ユウマ。俺の命をやる。お前は間違えても、その間違いを間違いのままで突き進む男にはなるな。間違ったら止まってもいい。だから、間違いのない道をきちんと見極められる男になれ!』

 

 ――肺の中に空気が流れ込む感覚が、まるで生まれて初めて脳に認識されたかのように一瞬の拒絶。体中に血液が濁流のように伝達されていく気色の悪い感触と、それに付随して神経が各器官へパスを繫いでいく。

 聴覚。至近距離でジェット機でも飛んだかのような耳鳴りと、体内圧の調整で鼓膜がビリビリと震える。

 嗅覚。除菌されたシーツと薬液のツンと突き刺すような香りを感じ取る。

 そして、視覚。俺の目の前には、驚愕に瞳孔を全開させた少女がいた。

「ユウマ……?」

「あぅ……。」

 声帯。ものを喋るにはまだ各種再起動が足りないようだった。

「起きたんですか!?」

 次に視界に飛び込んできたのは、水色の制服に身を包んだ、看護師と思しき女性だった。ゆっくりと脳が現状を理解し始める。看護師が連れてきた医師と思われる初老の男性に身体のあらゆる場所を触られたり捻られたりしながら、この事態を整理していく。

 つまり、ここは病室なのだろう。俺は事故に遭い、目を覚ますのが想定外なほどに重体となっていた。だからこそこうやって医師と看護師が総勢四人も集まって、俺の事を念入りに調べているわけだ。よし、だいたい理解した。じゃあ、俺は何で――。

 『俺の命をやる』。生と死の狭間、現実と夢想の中間点で出会った謎の『俺』が最後に口にしていた不穏な台詞を思い出す。もしもあれが、走馬灯の一部ではなく――まるで普段睡眠時に見ている夢のように、何の脈絡もない記憶の処理から生まれた不可思議体験でないとしたなら――。

 ――まさかな。

「ユウマ! ユウマ!」

 なんだかんだと考えているうち、俺は少女の声が聞こえていることに気が付いた。

「ユウマ! ああ良かった……ちゃんと聞こえてるのね! アタシのことわかる!? わかるよね?」

「大丈夫……忘れるわけないだろ、トウカ。」

 俺に名前を呼ばれて心底安堵したような涙顔を見せるこの少女は、俺より二時間先に生まれてきた俺の双子の姉で、俺の唯一の肉親である『(あくつ)トウカ』と言い、現在十八歳の高校三年生――俺もそうだけど――である。

「ええと、それで……今は?」

「それが、さっきお医者さんが誰かに呼ばれたらしくて……少しの間だけ、自由に話せる時間をくれたの。」

「なるほどな……。俺はどんぐらい気を失ってたんだ?」

「二週間くらいかな。最初は、もうずっと寝たきりもあり得るって……お金がないなら家で看取ることも視野に……って言われてたくらいなんだよ。」

「そんなバカな……。」

 けれど、トウカの言うことがすべて真実なら。きっと彼女は、これ以上ないほどの心労と絶望を抱えていたのだろう。何しろ、俺は唯一の肉親であると同時に、一家心中を乗り越えた家族以上の『何か』なのだから。

「でも……良かった。目を覚ましてくれて。アタシ、ずっと隣で見てたんだよ。面会可能時間いっぱい、毎日毎日……ずっとユウマの隣にいた。」

「はあ? お前な、人がどんだけ頑張ってお前の学費稼いでると思って――!」

 遠回しな高校バックレ宣言に苦言を呈そうとしたときだった。トウカが俺の首筋に飛びついてきた。背中に腕を回し、瘦せ細った俺の身体をぎゅうっと抱き締めてくる。

「――おかえり。」

「……ただいま。」

 なんと返せばいいのかもわからず、俺は間抜けた声を絞り出す。そのハグには、あの日のような冷たさは無かった。温かく、優しい抱擁だった。

 

 あの後病室に訪れた医者が曰く。『あと数日検査や診察が終わり次第、退院を許可する』とのことだった。正直、二週間寝たきりだった患者をたった数日で解放して良いものなのかとは思うが、どうやらそこには少々事情があるようで、医者も何とも言い切れない微妙極まりない表情でその旨を俺に伝えていた。

 そして、その『数日』が経った今、俺は特段問題なく日々を過ごしていた。五体満足で、事故に遭う前と何ら変わらない身体能力を発揮できている。筋肉も栄養も、何とか数日のうちに事故前と近い段階にまで戻せた。

『おかしいんですよ。人間にこんな回復能力があっていいはずがない……。本当だったら是非色々と診てもらいたいものですが、それも止められていますから……。』

 そう、医者は言っていた。止められているとは、また奇妙な表現だ。医者が患者を診ることを止める何者かがいて、ソイツが俺の身体を診察されることを恐れている? なんだその、三文小説にありそうな展開は。

 ――何はともあれ、それ以外は特段さしたる違和感もなく、俺の日常は再び戻ってきた。

 

 ただ、トラックに轢かれて、二週間入院して、退院した。それだけだった。

 

 退院の日、俺はトウカに手を引かれながら、大学病院のエントランスをくぐり出た。二週間ぶりに浴びた日の光に目を細めながら正門前に設置されたバス停に立っていると、ほんの少し――ただ一瞬だけ、俺の頬を電気のような感覚が撫ぜた。

「ユウマ様。」

 その感覚はやがて、確かな声となって、俺の鼓膜に届いてきた。聞き慣れない少女の声に振り向けば、そこには白髪に赤眼を宿した、小柄な――世間一般の価値観に照らせば、十二分に美少女と形容可能なコーカソイドの女の子が、俺の方をじっと見つめながら立っていた。

「――いつでも、お待ちしております。」

「は……?」

 両手をへその上に添え、恭しく頭を下げるその少女の姿は、あまりにも異質で。

「ユウマ?」

 だからこそ、トウカのその言葉で我に返った時、その少女が目の前から消えていたことに、俺は妙な納得感すら抱いてしまっていた。

「あっ……いや、何でもない。病み上がりだからかな……変なモンを見た気がした。」

「ちょっと、やめてよ! 縁起でもない。」

 ただ、その時の俺が感じていたのは、疑心や恐怖だけではなく――。

 

「そうだよな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 懐かしさもまた、混在していた。

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