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「今日は?」
「んー、登校日。」
トウカが学校へ向かうために家を出ると、派遣先の会社の自社アプリを立ち上げ、パソコンに向かってその日の業務を始める。とは言っても、ユウマがこの仕事を始めてから既に三年目。まだまだ上司から 責のダイレクトメッセージを受け取ることもあるが、それでも専用の資格を取り、技術を学び、今では家事掃除を行っていても仕事が回せるだけの余裕を手に入れていた。
普通に努力ができて、普通に手が抜けて、普通に生活できる。そんな、ただの十八歳の中卒社会人だった。
「ん……昼休憩か。」
ユウマがトラックに撥ねられた事故から既に一か月が経とうとしていた。目立った傷痕も残らず、手術の痕跡は服さえ着ていれば十分に隠せる規模に留まっている。退屈な業務に思わず伸びをしながら欠伸を漏らしても、どこかが痛むわけでもない。
「ほんと、人間の身体機能恐るべし、って感じだなー。」
そんなことを誰に聞かせるわけでもなくぼんやりと口にして、膝の骨から音を鳴らしながら立ち上がる。
「……天気良いし、外に食いに行くかな。」
そうして部屋着から外出用の服装に着替え、トウカとペアルックの赤いパーカーを羽織ると、姉弟で住んでいるアパートのドアを開け、初夏の街へと繰り出して行くのだった。
圷ユウマは、平凡を絵に描いたような青年だった。だから、こんな事態に慣れているはずもない。
「……は?」
アパートの階段を降り、道路に降り立った時の事だった。一瞬の立ち眩みを覚えたユウマはその場で立ち止まり、目を瞑って頭をコツコツと叩いた。そして再び瞼を開けて世界に目を向けた時――世界は、その姿を変えていた。
世紀末、と言われた方がまだ納得できる。ビルは朽ち、道路には亀裂が走り、至る場所から無造作に植物や樹木が生い茂っている。電柱は途中から真っ二つに折れ、電線はたるんでいた。錆びついた自動車のボンネット内部に出来上がった水溜まりには、どこまでも澄み切った青空と、白い雲が反射して映っている。
「は――。」
その場で思考機能がフリーズし、ユウマは立ち尽くしてしまう。
「――は、ぁ。」
そよそよと吹く風が、ユウマの頬を冷たく通り過ぎ、その感覚にユウマは、これが『現実』だと悟った。もとより、明晰夢などは見るような体質ではない。
「えと。」
とにかく、動かなければ。ユウマの足は、最寄りの駅の方角へと進み出していた。苔と砕けたアスファルトが、スニーカーの底を滑ってはサクサクと音を立てる。
サクサク、サクサク――。どれだけ歩いただろう。ユウマの感覚では、もう駅についていてもおかしくないはずだった。しかし、周囲の景色は一向に変わらず、否、さらに樹木の密度が増して、荒廃したビル群の中はもはや小規模なジャングル地帯と化していた。
「ここ曲がって……まっすぐ行った先に駅が……。」
なかった。同じ光景しか広がっていなかった。
「……。」
とうとう、ユウマはその場に座り込んでしまった。
「くそ、何だってんだ……!」
これだけ鬱蒼とした緑が広がっているというのに、ユウマの足音以外に生物の気配は無く、小鳥のさえずりも聞こえず、まるで。
「これじゃ、この世界に俺一人だけみたいじゃんか……。」
携帯電話を開いても、圏外状態で方位磁針アプリもエラーを吐いて止まる。それどころか、バッテリー残量が見る見る間に激減していっている。ユウマは慌てて携帯電話の電源を落とすと、蒼天に向かって荒々しく溜息を吐き出した。
「これ以上歩いて、何になるってんだ……。誰もいない、何もない。何なんだよこれ、どこなんだよここ! 俺は……俺はどうなっちまうんだよ……トウカ……!」
思わず姉の名前を呟いた時だった。
『イィ……タィ……ゴ……タィ……タェ……タィ……ミ……タィ……。』
それまでユウマ以外の音源が存在していなかったジャングル大都会の向こう側から、微かに声が聞こえてきた。ユウマはがばっと顔を上げると、藁にも縋る想いで声を張り上げた。
「誰かいるんですか!? 助けてください! 俺――っ!」
だが、その表情は次の瞬間には、恐怖と絶望で冷たく硬直していた。
『シ……タィ。ニタィ。タイ、タィ。クィ……タィ……。』
「なん……だよ、あれ。」
樹木の幹と根の先からこちらへ接近してきていたのは、全身がどす黒い流動体で構成された、不定形の怪物だった。見ようによっては、四足歩行の獣のように見えなくもない。が、その全高は優に3メートルを超えている。明らかに、地球上には存在していない動物だ。
「あれ……見つかったらどう……っ。」
ザクッ、と。苔と砕けたアスファルトが、その答えを見せてくれた。結果として、怪物は数十メートル先から金色の瞳でユウマを視認し、ズルズルと音を立てながら超高速でユウマの方へと迫ってきた。
「うわあああぁぁ――ッ!!」
悲鳴を上げるばかりで動こうとしない脚で無理に逃げようとするあまり、ユウマはその場で無様に転んでしまう。その直後には、流動体の四足獣はユウマの目の前に肉薄していた。
『タベタィ。タベタィ。タベタィ――!』
「食べ……っ!?」
その上半身がばっくりとふたつに割れ、何もない漆黒の虚空がユウマの眼前に広がった時だった。ユウマの視界に、カフェオレ色のロングコートが割り込み――。
「『ブロードベント』!」
――瞬間、流動体の怪物の躯体が、霧のように霧散していた。そして、その声の主は、呆然と尻込みするユウマの身体を軽々と持ち上げると、バックパックに設けられたラックにベルトを用いてユウマを固定し、すぐさまにその場から駆け出した。
「ふむ、緊急事態ゆえ自己紹介などは控えさせて貰うが、君は見たところ一般人とお見受けする。応答はできるかね?」
カフェオレ色のロングコートを身に纏ったその人物は、低い女性の声でユウマに問いかけた。進行方向とは正反対を向くように固定されたユウマは、その言葉でようやく我に返った。
「あっ……ありがとうございます!」
「うむ、感謝の言葉が素直に口にできるとは良きかな。それで、ワタシの質問には答えてもらえるかな?」
「えっ、あ、そうです! 俺、気付いたらこんな変なとこにいて……。」
「そんな状態で自力で動けていたのか? 良きかな良きかな。君はとても強い意志の力を持っているようだ。そうでなくてはな。」
「あの、あのバケモノが何なのか、知ってるんですか?」
「ああ、知っているとも。というより、ワタシの専攻分野がアレだからね。今はフィールドワーク中だったのさ!」
「あれは一体……?」
「……『バンシー』。
69キロの荷物を背に担いでなお、とても身軽に走り抜けるそのロングコートの女性は、廃墟となり森林の一部と化したビルの中に飛び込むと、破砕した窓際にユウマを下ろした。その際に、ようやくユウマは女性の顔を視認する。
その女性は、顔面の下半分はガスマスクに覆われて隠されていたが、翡翠の瞳を持った、見るからに純粋な日本人の血のみではない容姿をしていた。
「ふむ、ここいらで良いか。さ、て。」
そう言って、カフェオレ色のロングコートを羽織った女性は、窓の外に視線を向けながらユウマに問いかけた。
「君、名を何と言うのだね? ――ああ、こういうのはワタシから名乗るべきだったか。ワタシはだね……アルス・アルマデル・グレイヴ・レイヴンと言うのだが。……うむ、怪訝な面持ちも無理からんな。一般的な世界ならこのような姓名、偽名以外の何物でもあるまい。だが正真正銘、ワタシの本名だとも。ああ、アルス・アルマデルがファーストネームで、グレイヴ・レイヴンがファミリーネームだぞ。」
一気にまくしたてると、アルス・アルマデル――そう名乗った明るい茶髪の女性は、ユウマの方へひらりと手のひらを見せた。いわゆる、『どうぞ』のハンドサインだ。ぽかんとしていたユウマは、慌てて自身の名を告げた。
「お、俺は圷ユウマって言います! えぇと、助けていただき……助けてもらって……? ありがとうございます。」
「ふむ、圷ユウマ……。」
「あ、あの?」
アルス・アルマデルはすぅっと目を細め、ユウマの顔面をしげしげと観察し始めた。
「……なぁに、きっと今後も君を見る機会は幾度となく増えていくだろう。何しろ、この世界に迷い込んでしまった人間は……『マトモ』ではないからな。」
「それって……。」
「ああ、怖気付かずに疑問を率直に口にしようとするとは良きかな。だが今はそれどころではないな。」
窓枠の向こう側、顎を使ってアルス・アルマデルが示した方向を見ると、先ほどの怪物――アルス・アルマデルが『バンシー』と呼称していた怪物が、きょろきょろと辺りを見回すような仕草をしながら、ユウマたちが隠れている廃墟の横を通り過ぎていた。
「動くなよ。奴らは兎角、人間の動作とエネルギーに敏感だからな。」
「じゃあ喋らない方が良いんじゃ……!」
「いいや、奴らに感覚器官は無い。こちらは見えていないし、我々の声も奴には届いていない。だが……。」
次の瞬間、四足歩行のバンシーの首のような部分がぐいっと急に動作し、縮まって隠れているユウマと視線がぶつかってしまった。
アルス・アルマデルは「ちっ!」と小さく舌打ちをし、ユウマの腰を乱暴に持ち上げてその場から走り出す。
「どうにも君というのは、普通の人間より
アルス・アルマデルの掛け声を合図に、彼女の脚部からバチバチと火花が爆ぜ、その場から一瞬で二人の姿が消失した。
「ユウマくん、携帯電話は機内モード! シートベルトは無いがシートに深く腰掛けてGに備えたまえ! 翔ぶぞぉ!! ――『カルツォラーリ』、音を超えてゆけッ!」
アドバイス通りにアルス・アルマデルのロングコートの袖をぎゅっと握り締め、唇を真一文字に強く結んだ直後、ユウマを担ぎ上げたアルス・アルマデルは、宣言通りに大空へ向かって大跳躍を敢行した。
「ようこそ、ユウマ・アクツ! ――我らの『潜性世界』は、君を大いに歓迎しているぞッ!」
そして、アルス・アルマデルの腕の中で、どこまでも廃墟とジャングルが広がる地平線を視界に映した時。
ユウマの意識は、まるでコンピュータを強制的にシャットダウンしたかのように。
ばちんと、途切れた。