──夕焼けの空を見上げる。
赤く染まった空と反対側から夜の帳が落ちていく。
少しずつ少しずつ、夜の帳は降りきって辺りは真っ暗闇に包まれる。
それでも俺に迎えに来る親はいない。
俺を×してくれる親はいない。
だから、ただ一人だけで田んぼの脇に重たい猟銃を抱えて立っている。
どれだけ鳥を撃ってもおっ母に見向きもされやししないくせに。
するとふと泣き声がする。
押し殺そうと啜り泣く声。人のことは言えないけれど泣くのに慣れていないな、と思わせる下手くそな泣き方だった。
そんな声を頼りに辺りを見渡す。田んぼから、気がつけば鬱蒼とした森の中におり、声は大きな樹の窪みから聞こえてきていた。
「どうして泣くの?」
窪みを覗き込めば、同じくらいの背格好の、やたらと上等な洋装をした少年がしゃがみ込んでいた。
泣き続ける子に声をかけた。少年が顔を上げる。涙で潤んだ大きな瞳が真っ直ぐに見つめてきた。
ぎゅっと眉が下がって、それでも目は逸らされることがない。
見上げてくる瞳がキラキラと輝いて、星のように辺りを照らす。
少年の口がゆっくりと動き出した。
・
意識の覚醒を自覚する。視界は暗いまま、声だけが聞こえてくる。
ズキズキと眼孔だけでなく頭まで痛んでいる。痛みばかりはある癖に体は重く、ぼんやりと霧に覆われたように五感は曖昧だ。
それなのに手のひらを覆う柔らかな感触だけは、やたらとはっきりしていた。
「どうして尾形がキロランケと組んでいたのか、わかりますか。英作少尉」
「……」
「この男が少数民族の独立に共感するとは思えません」
「本当に純粋に金塊が欲しいだけなんだろうか」
「そうであって欲しいね。気兼ねなく殺せる」
「……殺すなよ」
低く絞り出されたような英作の声が他の者たちよりも幾分近くからした。
手のひらを覆うものに力が込められたのがわかった。そこで理解した。ああ、誰かに手を握られている。
そんなもの一人しかいない。
「英作さんは尾形を殺したくないんだろ? 今のままソイツに死なれちゃアシㇼパさんが傷つく。そうなる前に俺が殺す。何かおかしいところあったか?」
「ないな……尾形を殺すなら、その前に私を殺してくれ。おまえならできるんだろ」
「……英作さん、どうしてそこまで……」
「ないごてそこまで尾形に肩入れすっとな? あたと尾形にそこまでん絆があっとは思えもはん。他ん兵士ん話でもあたよりもむしろ勇作どんの方が親しかったち聞いちょっ」
「兄を弟が想うのに理由なんて……まあ、それは建前だけど」
「ないごてと?」
「……わからない、どうしてだろうな。でもコイツを独りにさせたくないんだ。本当にどうしようもないことばかりする奴なんだけどな……ただ健やかに生きてほしい」
「無理だろ」
頰を何かが撫でていく。杉元の断定にすぐ近くで深いため息が落ちていった。
ああ、無理だ。心の中で杉元に同意を示す。
こんな風に優しく接せられるたび、受け入れられていると感じるたびに英作へ疑問が過ぎる。
なぜ、どうして。
そんな風に接せられるようなことをした覚えがない。
英作に対して優しくした覚えなんぞはないし、申し出を受け入れたこともないはずだ。
不名誉極まる脱走を唆して父親を殺したのに、それを知って尚、右目を撃っても尚、英作の態度は変わらないようだった。
なぜ、どうして。
今も疑問は絶えず頭を過ぎり続ける。
「でも×してるから」
英作の言葉を最後に痛いほどの沈黙が続く。
一瞬呼吸が止まりかけた。近くにいるらしい英作に気取られぬよう呼吸を乱さないように努める。
「……はじめから、母君宛でなくおまえに手紙を書けばよかったんだろうな。きっと」
その言葉に、なんとも言い表せない感情が胸を占めた。
どうして、どうして、いまさらそんなことを言う。
英作。英作……ッ。
「生きるために道理が必要なら、必ず私が用意してみせる」
そんな言葉と共に頰に触れていた体温も繋がれていた手の感触も離れていく。
突然寒さを自覚して、身震いがするようだった。
「私の役目っていうのは、きっと一人だけじゃどうしようもならない沼の底からコイツをどうにか掬いあげることなんだろうと思う」
そんなわけねえだろッ!!!!
叫ぼうにも乾いた喉は張り付いていて音にもならなかった。
英作の言っているのはアイヌのことわざだろう。
天から役目なしに降ろされたものはひとつもない、だとかそのような意味の。
花沢幸次郎に次代と認められ、軍神の再来、軍人の鑑とまでいわれた男が、そんなくだらない理由で産まれてくるわけがないのに、何を言っているんだ。
俺なんぞのためになど、そんなことがあり得るはずがない。
バカだ。なんて、なんてバカなんだ……。
そんなはずがない、そんなわけがないのに……胸に湧く歓喜を見て見ぬふりは出来なかった。
──ああ……おれは英作に×されたかっただけだったんだなあ……。
──幼い俺が月を見上げながら呟く。
意識が再び沈んでいく。また眠るのだ。混乱と鈍痛からに逃げるため、微睡に意識を委ねた。
次に起きるとき、俺はまだ気づかないふりを続けられるだろうか。
──深い森の中。
夜の帳が降りきった空は完全に黒く染まり、道ならぬ道を瞬く星々と月が照らし出す。
森の中で幼い俺は泣き止んだ少年の手を引いている。
たった一つきりの欲しいものは俺の手に入ったのか。