乾燥した蕎麦の実を見つけた。ペチカの上で暖をとりながら安静にする尾形をチラリと確認する。
樺太で手に入れた干し椎茸もある。
あと肉も欲しいなあ……それか牛乳。
「尾形、ちょっと出てくる」
「……はい」
「いい子で待ってるんだぞ」
布団の代わりにもならないが、外套を敷きニヴフから買い取った毛皮に身を包んで丸まる尾形が空返事を返した。
目を閉じたままの返答に、手を伸ばして雑に頭を撫でておく。
暖かなところで丸まっていると猫ちゃんのようにしか思えず、わざとである。
痛み止めが効いてはいるらしく、呼吸は深い。猫ちゃんだったら喉をグルグルと鳴らしているところだろう。
んネコチャンッんネコちゃんッ!
相手が年上の成人男性だと忘れるなよ。
ペチカにあるだけの薪を突っ込み小屋を出た。帰りに、また薪を見繕っておかないとなあ。
樺太の寒さは身に堪え過ぎる。
森の中で群れからはぐれたのか一匹だけの馴鹿を見つけた。
銃を構え、それを撃つ。視力が下がるかもといわれていた右目もさほど問題なさそうであった。
その場で毛皮を剥ぎ、血抜きを行なっていると声をかけられた。
銃声を聞きつけたのか、ロシア人の老人がひょっこりと木の間から顔をだした。
※『』=ロシア語
『その毛皮を売ってくれんか?』
『構いませんが、いくら支払ってくれますか?』
運よく売れた。いや本当に運が良すぎる。なんだか怪しすぎるので、そろそろ日本領に戻ったほうがいいかもしれないな。
二束三文で毛皮を売り、ついでに食べきれないだろう肉も物々交換させてもらった。
小麦粉と野菜類だ。
え〜〜、それは素直に嬉しい〜。
『アンタは日本人だろう。なぜロシア領にいるんだ?』
『話せば長くなります。日本では色々とあったのです』
日本人がロシア領にいる理由を問われたが、諸々を誤魔化す。
老人がポケットから古びた写真を取り出して、私へと差し出した。
赤子を抱いたロシア人女性と丸めがねをした優男風の男が写っていた。画質が悪いもののその二人をどこかで見たような気がして内心で首を傾げる。
『日本に戻ったときに、もしもこの男を見つけたら義父が探していると伝えて欲しい』
『日本人のように見えますが息子さんなのですか?』
『16年前にウラジオストクで、娘とこの日本人の男が結婚した。けれど娘と孫は死体で見つかった……』
『復讐ですか』
『いいや……ただ娘たちの死の真実を知りたい』
OH……。思わぬシリアスに眩暈がした。写真を受け取り、見かけたら必ずと約束を交わす。
とはいえ16年も前の写真である。多少は老けて現在とは容貌も変わっているだろうが……。
『彼の名前は?』
『長谷川幸一。娘の名はフィーナ、孫の名は──』
青い空を切り取った小窓にほっそりとした白い手が触れる。その手のひらに紅葉の葉に似たふくふくとした赤子の手のひらが重なる。
少し視線を下に傾ければ、少しずつはっきりと見えてくるのはビルや住居の建造物に、地面を四角く切り取ったように緑の田畑だ。
ごおごおと鳴るのはエンジンの音。
──ほら見て、×××。あそこがあなたの
──××はあなたのもう一つの××なの。だから好きになってくれると嬉しいな。
ノイズまみれの声が唐突に蘇る。それは美しい金髪の女性の言葉だった。
顔が真っ黒に塗りつぶされて、容貌はわからないが、それでも彼女が微笑んでいることはわかる。
「Ольга」
『──オリガだ。それじゃあもしも長谷川を見つけたら、くれぐれもよろしく頼む』
『はい、出来る限りの協力は約束しましょう』
思わず漏れた小さな呟きは、どうやら老人の耳には届かなかったらしい。それに息を吐き出し上辺だけの口約束を交わした。
馴鹿の肉と交換したばかりの小麦に野菜を背負いながら、泣き出したい気分で踵を返す。
まさか関係してくるのか?
時代も何もかも違うだろう。きっとただの思い過ごし、偶然の一致に過ぎない。そうだそのはずだ。
せっかく塞がっていた傷のかさぶたを勢いよく剥がされたようだった。ジクジクと未だに完全には癒えない傷が痛みだす。
長谷川幸一……。老人から渡された古い写真を見直す。手の中で丸めがねの男を握り潰した。
自分の蒔いた種の責任が取れない男なんて、どいつもこいつも死ねばいい。
小屋に戻ると部屋の中は相変わらず暖かいまま、ペチカの上で尾形が寝ていた。
放置されていた鍋を二つ取り出し、一つに雪を入れて溶けるのを待つ。
その間に残る鍋で玉ねぎと干し椎茸を炒め、獲ったばかりの肉を微塵切りにしてぶっこむ。
そこに雪溶け水と蕎麦の実をさらにぶっこんで、あとは待つだけだ。
ロシアの伝統的な料理らしい。カーシャという穀物のお粥である。
又聞きであるため私も詳しいことは知らない。私がほぼ唯一作ることの出来る料理だった。
「……いい匂いがしますな」
「食べれそうか?」
「……そこまで心配されるような病人じゃありませんよ」
炒めたことで肉のいい匂いが部屋に広がっている。もぞりと動く気配がして、ペチカから尾形が顔を覗かせた。
モソモソと尾形が動き始めて、外套を被ったままテーブルにつく。
その目の前にカーシャをついだ皿と匙を置いた。
クンクンと匂いを確かめるように尾形の鼻が動く。
「なんです、これは」
「ロシア風の粥だな。一応粥だから、元気がなくても食べやすいと思うぜ?」
「はあ……いただきます」
カーシャを匙ですくって口に運んだ尾形に度肝を抜かれた。素直に口にするとは思っていなかったのだ。
アシㇼパの脳みそはあんなに拒んでいたくせに?
いやまあ、馴染み深い料理名で紹介したし脳みその生食よりは遥かに食べるハードルは低いか。
尾形の目が丸く見開かれ、黒目が点になる。
どうだ、どうなんだ。とその反応をじっと見つめる。
固まり、ブルブルと震え出す尾形。不安が煽られていく。
「…ゥ……美味い、ですなあ……?」
「何その疑問符! ねえ!! 本当に大丈夫かよ!?」
ブルブルと震えながらの一言に余計に不安が煽られた。
何か食べれない物でも入ってたか?
いやまあ蕎麦の実をそのまま食べるのは日本人には馴染みがないかもしれんが、肉をいれたし、牛乳で煮込んでないし、砂糖も入れていないんだけど?
ブルブルと震えながら食べ続ける尾形を尻目に私もカーシャを口に運ぶ。
うん、比較的日本人にも合う味である気がする。
入れた材料だって玉ねぎと干し椎茸くらいなもので……。
「あ、もしかして椎茸だめだったか?」
「………ヴえっ」
「なんか椎茸がダメなやつ多いよな〜、どうしても無理なら残していいぞ。馴鹿の肉はまだあるし、それでオハウでも作るか」
「……いえ、食べます」
そうだけ言うと黙々とカーシャを口に運び続ける。
そりゃ全部食べてくれたら嬉しいけども!
「え〜〜、無理はしないでねぇ?」
「…………」
返事はない。吐き出さないように集中しているようだ。
食事を終えて、尾形の右目の様子を確認する。包帯を新しいものに変えて、巻き直す。
「そろそろここを移動する」
「はい」
大人しくされるがままの尾形が素直に頷く。なんだろうなあ……素直すぎて調子が狂うよなあ……。
★
「俺の産まれた当時……花沢閣下は近衛歩兵第一聯隊長陸軍中佐だったそうです。近衛は天皇に直結する軍ですからね……。世間体を考えれば浅草の芸者と、その子供は疎ましく感じたことでしょう」
雪原を歩きながら、ポツポツと尾形が話してくれた。これまでのことを話そうと言ったのは私だけど、まさか産まれたところから話し始めるとは思わなかった。
でもきっと尾形にとっては、そこも大事なことなのだろう。全てを聞き終えるまでは口を挟まないと決めて相槌だけをうつ。
「──母はよくあんこう鍋を作ってくれました」
あんこうは地元で安く手に入り尾形自身も好んではいたが、それが毎日続くとは……。
どうかなあ……味付けを変えてくれるなら、毎日あんこう鍋でもイケるかなあ……。
どうも父が尾形の母君に美味しいと言ったことがきっかけであるらしい。そうして会いに来もしない男の好物を時期になれば毎日作り続ける。
なんとも言えない暗澹たる感情が腹の底に沈んでいく。
「俺は祖父の古い猟銃を持ち出して、畑へ行って鳥を撃った。鶏肉があれば母はあんこう鍋を作らないだろうと、思って……でもいくら鳥を撃ってもあんこう鍋を作り続けるんです」
尾形が深いため息を吐き出した。尾形もまた同じように暗く沈むような気分になっていると察せられた。
せっかく獲ってきた鳥を無視されるのはどんな気持ちだったろうな。
何度となく説き伏せても聞く耳は持たれず母の目に自分が映ることのないというのは……。
本当にほんの少しだけ、状況はあまりにも違うけれど私にも覚えのある感傷だった。
「そんな頃ですよ、あなたからの手紙が届き始めたのは」
「……ああ」
「母はもうとっくにおかしくなっていたんです。……男に捨てられて、いつまでも来もしない男を待ち続けることに、きっと耐えられなかったのでしょうね。一年後に、次のあんこう鍋の季節が来る前に自ら首を吊りました」
尾形の声は低く地を這うようだった。
けれどそこでおっ? と私は首を傾げることとなった。流氷原での話しぶりでは母君の自殺は私の手紙がきっかけとなった、と言っていたはずだ。
今の言い方では、いずれ手紙がなくとも自ら死を選んでいただろうとも受け取れる。
疑問に抱きつつも初志貫徹というわけで口は挟まない。
「死装束に着替えて寝かされた母を見て、俺は思ったんですよ。少しでも父の中に母に対する愛情は残っていれば父上は葬式に来てくれるだろう。……母は最期のとき愛した人に会えるだろう、でも、花沢閣下は来ませんでした」
尾形が私を振り返る。相も変わらずドブ川のように濁った目でじっと私を見つめてくる。
「子供は親を選べません」
「そうだな」
「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものでしょう……。もしも、本当に英作殿が“俺が生きるための道理”を用意してくださるのなら、それは愛に寄るものではないといい。……今更愛なんぞといわれても俺は信用することなど出来んのです」
「ああ、わかった」
そう締めくくられた尾形の語りに、その真意へとようやく理解が及んだ。
つまりは“自分はあなたを信じたいので別の道理をどうか用意してください”というわけだ。
尾形の母君が、父にあっさりと捨てられたことを思えば尾形が愛は不変であると思えないだろうことも察する。
時間とともに愛は移り変わってしまうものだ。それが常に変化をし続ける人間であるならば、なおさらに変わらないことなどありえない。
「なら、話はずっと簡単になるな」
「そうですか?」
「ああ。だっておまえは優秀な兵士だろう? いずれ軍に戻る俺をおまえが右腕として支えてくれたら助かるな。なんて、こういうのはどうだ?」
「ははあ、俺が、あなたを、支える? ハハッ」
「笑いすぎじゃない?」
ニヤニヤと笑い出した尾形に思わずツッコミをいれる。
「俺が優秀な兵士であるという論拠が薄いので説得力がありませんなあ。利き目を失った狙撃兵に何ができますか」
「そうかな?」
「他にありましたかな?」
フフン、と何故かドヤ顔で尾形が鼻を鳴らす。自分の長所が狙撃の腕にしかないと思っているようだった。
あとその内容でドヤ顔は違うと思うなあ。きっと私を論破した、と面白がっているんだろう。バカめ。
「確かにおまえの最も秀でた能力は狙撃だが、冷静さや慎重さにも目を見張るものがある。即断即決が私の長所だが、それが裏目に出ることも少なくないからな。おまえのような冷静で慎重な男が傍にいてくれたら助かるよ」
「……はあ、そうですか」
ナデナデと頭を撫でながら尾形に目をそらされた。尾形ぁ、返事はぁ?
結局スン、と顔を背けられまま返事はなかった。
「次はあなたの番です。どうぞこれまでについて語っていただいて結構ですよ」
「ええ……とは言ってもな、私に語れることなんてないぞ。……でもそうだな、何も話さないのも収まりが悪い。私のことを話す代わりにこういう与太話なんてどうだ」
「与太話、ですか」
「前世の記憶を持つ男の話だ」
キョトンと瞬きをする尾形に百年先の前世を持つという軍人の男の話を聞かせた。
ああ、本当にこうして改めて思い返せばなんて、バカみたいな話だろうなあ。
「意味がわかりませんなあ……、その話のどこがあなたの話の代わりになるんです?」
「そこまで突飛か? 男の状況はある程度私と重なる部分もあったろう? 軍人の名家に生まれて、父を憎みながらも父性に憧れていた、な?」
「な、と言われましても俺からはなんとも。例え話をするにしても、もう少しどうにかならんかったのですか」
「ならんな。……信じるかどうかはおまえの好きにしていい。でもどうか否定はしてくれるな。その男は今も必死に過去の日本を生きているんだ」
「……作り物の与太話なんでしょう?」
「もちろん与太話だよぉ?」
頰に人差し指をあてる。高速で瞬きを繰り返し首を傾げて誤魔化した。
尾形はグッと左目を細めて、不信そうだ。それでいいのだ。
真実を語った尾形に、私も誠意を返したかった。それだけなのだから。
「その前世を持つ男は、軍人になってそれからどうするんです?」
「あら、気になる?」
「まあ、くだらん与太話でも暇つぶしにはなるでしょう」
「男は自分の知る歴史で起こる日本の悲劇をどうにかしようと心に決めたところだな。男の背中にはすでに守りたいものが多くあったから」
そこで言葉を切る。
「これから日本は数多くの数えきれない悲劇に見舞われる。それが日本人の選択ゆえであるとしても、軍人である男にはもしかすれば回避できる悲劇もあるのでは、と思わずにはいられない。……そのための力があるのなら、守りたいもののために人は戦わなければならない」
「…………」
「私も男と同じ気持ちだ。なあ、おまえも私と一緒に戦ってくれるか、尾形」
ニイ、と口の端を持ち上げて、尾形へ問いかけた。ジ、と感情のない目で見つめてくる尾形に手のひらを差し出す。
「それには貴様が必要だ。尾形上等兵。私の右腕として私を助け支えてくれないか」
「…………ははあ、今の口説きはなかなか……グっときましたな」
尾形が顔をそらして、髪を何度も何度も撫でつける。ねえ、手ぇ取ってぇ?
今度は私がジっと尾形を見つめる。するとしばらくして視線に気がついた尾形が恐る恐るなのか。
手を彷徨わせながら、ゆっくりと持ち上げ始めた。
「…………」
選択は尾形にかかっている。大人しくその手の行先を待つ。
しばらく尾形の手が宙を彷徨うのを観察していた。信じようとも信じきれない、そういう尾形の内心が表れているのかもしれない。
「…………、一つだけ、条件をつけてもよいでしょうか」
「なんだ、言ってみろ」
「……いつの日にか、あなたが俺を必要としなくなったときが来たら、打ち捨てる前にあなたの手で俺を殺してください」
「……ああ、」
思わず吐息が漏れる。
ほんの少しだけ尾形は素直で、まるで私に心を開いてくれているようだったけれど、その求めるものは何一つ変わっちゃいなかった。
きっと流氷原で、私がみっともなく殺したくないと泣き喚いたから今でなくてもいいだろうと諦めさせただけだったのだ。
尾形の指先が私の指先にかする。その手を掴んで、握り締める。
なんとも言い表せない……いや私はすでにこの感情の名前を知っている。
愛した相手を命を賭して守りたい。
いつの日にか尾形を殺す。
その二つは私の中で矛盾なく両立できるのだと悟った。
異母兄よ、私はおまえをどうしようもなく愛している。おまえを独りには決してさせない、ならば──。
思考を遠くへ切り離さずとも自然とそう決断できた。
それだけがおまえが救う方法ならば、今おまえを愛するのと同じように、私はおまえを殺せるだろう。
「貴様がそれを望むならば、そのときが来たときには必ず俺自ら貴様の命を摘み取ろう」
「……」
するとニッコリと、尾形が笑った。
初めて見るような、あどけない笑い方だった。ならやっぱりこれが正解なんだろう。
尾形の手が握り返した。お互いに改めて握手を交わす。
真っ直ぐに尾形を見つめる。尾形もジッと見つめ返してきて、これまでのように目がそらされることはなかった。
「死が二人を別つまで、貴様は俺の右腕だ」
「ええ、わかりました、英作殿。いつか必ず約束を果たしてくださいよ」
手袋越しに伝わる熱はない。
樺太の冷たい風がただただ吹いている。