ずっと昔の話だ。今となっては笑い話だけれど僕は双子の片割れを苦手としていた。
硝子の砕ける音が耳をつんざく。
目の前には手を差し出した双子の弟、そしてすぐ足元に転がるのはたった今受け取ろうとした陶器のお人形。
真っ白な天使の形をしたそれは、無惨に砕けて首だけが僕を見上げていた。
転がる天使の首と目が合ったような気がして、身体が縮こまる。
「あっ……」
「あ〜あ……、何やってるんだよ。勇作、おまえがちゃんと受け取らないから割れてしまった」
「ち、ちが」
父のお土産だというそれを僕はきちんと受け取ろうとした。受け取る直前に、この片割れが手を離したのだ。
僕ではない、と続けようとして片割れの目が呆れを含んで細められる。その瞳の鋭さにの喉が締め付けられて音にはならなかった。
「一体、何が違うと? ではおまえはこれが割れたのは俺のせいだと言うわけか」
「そうじゃない、けど、で、でも…」
「はあぁ……全くおまえという奴は、なんて無責任なんだ。まさか俺に責任を押し付けようとは、意地が悪くて嫌な奴だな」
片割れが愉しそうに言う。その口の端は持ち上げられて、僕が戸惑っているのを愉しんでいる。
双子の弟である花沢英作という少年は、誰にも気づかれないように意地悪をするのがとても上手い少年だった。
悪意に晒され僕はいとも簡単に何も言い返せなくなってしまう。それ以上に天使像が割れてしまったのが悲しかった。
せっかく、父上がお土産に買ってきてくれたものなのに……。ジッと、天使像を見下ろす。
せめて拾い上げようと手を伸ばしかけたとき──。
「何の騒ぎだ」
「ッ……」
「勇作が陶器の置物を落として割ってしまったのです。けれどきちんと渡せなかった私にも非があります、父上。どうかお許しください」
「……そうか、ヨネに片付けてもらえ。おまえたちは部屋に戻って勉強をしなさい」
「はい、父上」
騒ぎを聞きつけ現れた父にニッコリと雰囲気を一転させて英作が笑う。瑕疵のない完璧な微笑み。それでもとても、とても嫌な気持ちにさせられる。
どうして英作は、と唇を噛み締めて疑問を飲み込んだ。
英作は何も初めからこんな意地悪で嫌な子だったわけではなかった。
もっとずっと幼かった頃、英作に優しい目で見つめられたことがあったような気がするのだ。名前を呼ばれて、頰を優しくつつかれて、それから……それからどうしたっけな。
小学校に入学してからは、英作も学友との付き合いを優先しはじめて表立って意地悪をされることは随分と減った。
ああ、よかった……、と安心し始めたころ、それは起きた。
階段を降りようとして、ドン、と軽く背中を押された。足が宙を浮き、階段を踏み外した。
心臓が止まりかける。咄嗟に手すりにしがみついて、その場にしゃがみ込んだ。
一拍遅れて、バクバクと心臓が大きく鼓動を始める。
背後を振り向けば、予想通り英作が階上で僕を見下ろしていた。真っ黒な硝子玉のように底知れない瞳で、たった今突き落としたと手のひらを見せてたままだ。
「なんだ、落ちなかったか」
「え、いさく……どうして」
泣き出したいような気持ちで英作を見上げる。英作の名を呼んだ声は震えていて、今にも泣き出しそうだと我ながらに思う。
階段から落ちて打ち所が悪ければ、死んでいてもおかしくはない。運よく打ち所がよくとも後遺症は残るかもしれない。
明確な悪意。殺意に、それを向けるのが他でもない双子の片割れであることが、どうしようもなく悲しくてたまらない。
「どうして、そこまで君は、僕を嫌うの……?」
震え声のまま問いかける。
すると英作はキョトンと瞬きをして、それから軽い足取りで階段を降り、僕のすぐ隣に同じようにしゃがみ込んだ。
真っ黒な硝子玉が僕の顔を覗き込む。感情が分からない。
英作の手が頰に触れた。小さな手のひらの冷たさに背筋にゾッとしたものが走る。
「おまえこそどうして?」
「え…?」
逆に問われて困惑する。
ガリ、と英作の親指の爪が立てられ、目のすぐしたの皮膚を引っ掻く。
「ここまでされてどうして怒らない? 仕返しをしない?」
「え、え……?」
「私はいい弟じゃなかったろうが、理不尽で暴力的で、その悪意に晒されて悲しんでる場合かよ。テメエのすべきは私の告発だ」
「こ、こくはつ」
英作の言葉を理解しようと、何度も頭の中で繰り返す。
硝子玉の目に変化はなく、相変わらず英作の考えは分からない。けれど……、どうしてか今の英作となら話が出来るのではないかと思えた。
この瞬間だけ英作が本心のようなものを晒しているからか。
少なくとも英作のこれまでの所業は全て僕を怒らせるためにしていたのだと、それだけは分かった。ならばなおさらにどうして、と疑問が湧いた。
「どうして、どうして僕を怒らせたいの」
英作の目が細められる。目の下を抉る親指の爪にさらに力が込められ鋭い痛みが走った。
「テメエらみたいなお人好しってのはこうでもしねえと馬鹿の一つ覚えで他人を信じ続けるからだ」
英作の黒目がわずかに揺れる。僕を見ているようで、見ていない。眉間にぎゅっと皺が寄り、能面だった英作にようやく感情が浮かんだ。
苦悩、苦痛、悲哀。
今にも泣き出しそうな、痛みを堪えるような、初めて見せる表情だった。
「いい加減に思い知ったろ? 血縁は他人を信じる根拠にはなりえねえ。血縁があろうと他人は他人だ、他人はいつかテメエを裏切って踏み躙って食いもんにするんだよ」
英作が吐き捨てる。その目はしっかりと僕を見つめているのに、目の前の僕を見ていなくて、どうして、何故と疑問が次々と浮かんで浮かぶたびに霧散していく。
これまで僕が英作に仕返しをしなかったことに、英作は怒っていて、悲しんでいて、別の何かに苦しめられている。
なんだよ、それ。
腹の底にぐつぐつと湧き出るような衝動が起こる。生まれて初めての感覚に頭ごと沸騰しそうになりながら、衝動のまま行動をする。
爪を立てる英作の手をつかんだ。英作を睨みつける。鼻の奥がツンと痛んで、どうしようもなく視界が歪んだ。
「……なんだ、ようやく怒ったのか?」
再びキョトンと目を丸くし、けれど満足げに英作は口の端を吊り上げ……。その頰を左手で叩いた。
ぺちん、と弱く頰を打つ音が階段に響く。
「……はあ?」
「僕が誰を信じるとか、そんなの僕が決めることだろう! 英作には関係ない!」
「あん?」
何故だかイラついたように声を荒げる英作。でも僕だって腹が立っているのだ。
決して引かない、と握りしめる英作の手に力を込める。
グス、と鼻を啜る。頰を溢れた涙が伝っていった。
英作は嫌な子だった。意地悪なことや意地悪なことばかり言ってきて、正直なところ苦手だった。
けど、それでもそうでなかった頃もあって、その記憶が英作を嫌わせてはくれなかった。
英作は何か、僕の知らないものに苦しめられて悲しんでいて、それが今までの意地悪の原因で……何だよ、それ。
「いままで意地悪は僕のためで、なら君が意地悪をするのは全て僕のせいなの?」
「そ、それは、違う……けど」
「けど、なんだよ…、何が違うんだ」
珍しく狼狽する英作をさらに問い詰める。離れようとする英作に、そうはさせないと手を決して離さない。
「なんで一人で苦しんでるんだよッ! 君には僕がいるのに……ッ!」
それでもなお逃げようとする英作の身体に腕を回して、しがみつく。
何かに苦しんでいる。その何かが分からない。
その何かによる苦痛が英作に僕へ意地悪をさせていた。
「初めからぜんぶ話してくれたらよかったんだ、そんなことで悲しむくらいなら……ッ!」
怒りは何も話してくれなかった英作と、その苦痛に気がつけなかった自分自身に向いていた。どうしてなにも話してくれないの?
「僕は兄で、僕たちは双子の兄弟なのに」
「お……おい、泣くなよ、こんなくだらないことで……」
「くだらなくない! 僕たちは兄弟だろ! 君は僕の弟だろ!」
僕を引き剥そうと動く英作にさらに力いっぱいしがみついた。
英作の冷たい手のひらが腕に触れている。
困ったような英作の反応がまた悲しくて、勝手ばかりな弟に腹が立って、頼ってくれないことがどうしようもなく寂しい。
「…だから、自分から独りになろうとするのは、やめて……悲しいことがあるなら僕に話して、君を苦しめることがあるなら、一緒に考えよう? 僕は君の兄なんだ、一緒に、背負いたいよ……」
「………なんだそれ、馬鹿みてえ。言ってんだろ、血縁に意味はねえ、そんなものに価値はないんだってよ」
「ッ、でも──」
「──でも、これは、まあ、悪くはないかな……」
思わずこぼれ落ちたというようなちいさな呟きだった。英作の顔が僕の肩へともたれかかって、冷たかった手のひらが背中に触れた。
ポカポカと、布ごしに英作の手のひらの熱が伝わってきて、なんとも言い返せない気分にさせられた。
足りていなかった欠片が、ようやく嵌まったような満足感。手のひらの熱が心臓に伝わって、同じように熱を生む。
その感覚が心地よくて動くことが出来なかった。
「まあッ! 坊ちゃん方、そんなところでどうしなすったんですッ!?」
ヨネさんが現れるまで、そうして階段で抱きしめ合っていた。
「意地悪して悪かったな、別に許さなくても──」
「許すよ、だって君は僕の片割れだもの。大丈夫、僕は君を嫌いになったりしないから」
「……あっそ」
そうして少しずつ、英作は遠い昔の幼い日のように笑ったり僕の名前を優しく呼ぶようになり、意地悪をすることはなくなった。
きっとあの日に僕たちは本当の意味で兄弟となれたのだろう。
「ああ、貴方が──わたしには同じ歳の弟がおりますが、実のところずっと兄という存在に憧れてもおりました」
英作とも兄弟になれたのだから、だからきっと貴方ともそうなれるはずなのです。
「兄様、とお呼びしてもよろしいでしょうか、尾形百之助、上等兵…殿」
「……ははあ、組織の規律が緩みますので遠慮してくださると嬉しいのですがね……」
「規律など…いえ、では二人のときならば、良いでしょうか?」
「……止めはしません。花沢少尉殿のご随意にどうぞ。私にその権限はありませんので」
そう告げる異母兄は、あの頃の英作とよく似た真っ黒で硝子玉を嵌め込んだような生気のない瞳をしていた。
相貌もまた父によく似ており、ああ血縁を感じずにはいられない。
貴方は僕の父と弟によくよく似ております、兄様。どうか貴方とも、わたしは兄弟となりたい。