花沢英作について語る言葉を多くは持たない。
陸軍第7師団長である花沢中将閣下の第二子、祖父の代よりも以前から連綿と受け継がれた武人の血を同じ歳の兄よりもはるかに色濃く継いだ俊才であるという前評判くらいのものだ。
何度か直属の上官について東京にある花沢邸を訪ねたことがある。
黒塗りの板張りという将官という地位を思えば、随分と簡素な造りの木造二階建てだった。
花沢中将閣下の合理を好む人柄をよくよく表していたのだろう。
果たして本当に?
花沢中将がまだ若い時分に多く流したという浮名の数々が脳裏をよぎる。
あくまで伝聞。しかして浅草の芸者に産ませたという庶子の存在もすでに突き止めていた。
派手な女性遍歴の数々、それでも正妻とその息子たちを住まわせるのはなんとも簡素な造りの母家である。
はてそれは本当に閣下が合理を好む気質であるがゆえか。
そしてそれから花沢の令息たちと初対面を果たすのは戦争も間近の兵営でのことだった。
「よく来た、花沢英作少尉」
「はっ。何の用でありましょうか、鶴見少尉殿」
「そうかしこまるな。私と貴様は同じ階級なのだ」
「いいえ、先の戦争にも参加なさった鶴見少尉殿に失礼を行うわけには参りません」
「そうか……」
吐き出す言葉ばかりは硬い。けれどその視線、口元には目の前の古参少尉を測ってやろうという不遜がちらついている。
恐れ知らずな若者特有の姿に、軍人の鑑とまで言われてもこんなものかと鼻白む。
有能であれ自尊心が高いのならば、それはそれで手中に収めることは容易かろう。
ゆっくりと口の端を持ち上げて、ではどう料理してやろうかと新任少尉へ微笑みかけた。
能力に裏打ちされた自尊が根底にあるならば、まずはそれを粉々に打ち砕いてやるのはどうだろう。
不遜な士官を慕う兵卒は少ない。
多くの前で大敗させて、笑われたところを”私“が優しく、ときに厳しく立ち上がらせるというストーリーだ。
ズダァン。
道場の床が揺れた。
宇佐美が顔を赤黒く染め筋を浮かばせて、自分を投げ飛ばした相手を床から睨みつけている。
道着をひどく乱れさせて、投げ飛ばした当人である花沢英作もまた同じように青筋を浮かばせながら宇佐美を見下ろした。
柔道の修練である。
ふむ。あの時重くんが負けるとは……。軍神の再来などというあだ名は伊達ではないというわけか。
柔道で宇佐美上等兵が負けたとなれば。先のストーリーは使えまい。
武器アリの殺し合いならばまだ何とか見込みもあるかもしれんが、そうなればどちらかを無駄に失うことになる。
一つのために一つを失うのも馬鹿らしい。
他の手を考えよう。”本妻の息子“も手に入れておきたい。
もう一人の本妻の息子である花沢勇作に関しては、異母兄の尾形へ丸投げしている。
花沢勇作の方は尾形を慕うような振る舞いをするため、その方が勝率が高くなりそうだと踏んだのだ。
逆に尾形に敵愾心も親密さも見せない花沢英作は、……。うむ、今のところ攻略法が全くわからん。
「英作少尉、まだ任官したてで分からぬことも多かろう。何かあれば私にお言い。力になる」
また微笑みかけて、その肩へ手を置いた。とはいえどうにも花沢英作は予想に反して兵卒たちからの評価もいいらしい。
あっれ〜〜〜?
おっかしいにゃあ?
何かを見誤っているというような、そういう違和感である。
「ありがとうございます、鶴見少尉殿。ですが、私事ならば少尉のお手を煩わせるまでもございません。自分でどうにかいたしますので、どうかご自身の職務を全うされますよう」
そして私と全く同じように、花沢英作が微笑む。
「くだらん籠絡に手間暇をかけるくらいならば」という副音声が聞こえた気がした。
以前に見せた不遜の影も形もない好青年然とした振る舞いに内心で目を瞠る。
もしやこれは……はなから化かされていたのはこちらの方か。
う〜む……一筋縄ではいかなそうだ。
せめて、弱みを見せてほしい。こちらがつけ込める程度の瑕疵を、柔い部分を、弱さを。
柔い部分のない人間などいない。どれだけ見ないふりをして完璧に繕ったとして、心ばかりはないことに決して出来ない。
「そうだろう。フィーナ、オリガ」
花沢英作をどう籠絡してやろうかと頭を働かせながら、手の中で小さなちいさな×を転がす。
もちろん君たちを私の瑕疵であるとは微塵も考えないが、けれど花沢英作にもあるはずだ。
そしてそのときが訪れる。
「いま……なんと?」
「ん? ああ、兄君の勇作殿が正式に聯隊旗手に任ぜられたのだ、喜ばしいことだろう」
ヒクリ、と花沢英作の口の端がごくわずかに痙攣した。
瞬きを繰り返しながら、その様子を一瞬たりとも見逃さないとジ、と見つめる。
ようやく見せた動揺。
「ええ、もちろん。双子の片割れが名誉な任にあたる、実に喜ばしい」
嘘であるとすぐにわかった。
ほんの一瞬だけ見せた動揺はすぐさま隠された。それは花沢英作自身が隠すべきと判断した何よりの証左である。
サッと周囲に視線を巡らせ人の気配がないことを確認する。
「心中察する」
花沢英作の肩に手を置き、手のひらを滑らすように背中へ回す。その首筋にフツフツと鳥肌が広がっていくのを確認した。
耳元へ口を近づけ、小さく花沢英作にだけ聞こえるよう囁く。
「兄君が今回、聯隊騎手に任ぜられたのはお父君の推薦が大きいようだな」
返事はない。
「ああ、もちろん聯隊旗手とは名誉なことだとも実に喜ばしい……が、聯隊旗手は他の兵よりもはるかに死亡率の高いのもまた事実」
しかし何よりも雄弁に、ギョロリと瞳だけでこちらを向いた目が語ってくれる。
怒り、憎悪。不安に恐怖。
ああ……!
ようやく見せた柔さに心が弾んだ。
花沢兄弟がお互いを強く思い合っている仲の良い兄弟であることはよく知っている。
「……花沢中将閣下がそれを知らぬ筈もない。ああ、そうか、もしや彼の方は勇作殿の生死など、どうでも……?」
今度は更に分かりやすく、歯の軋む音がした。ギリギリと軋む音が聞こえる。
血を分けた兄を思いやり、不和を起こさぬよう必死に父への怒りを飲み込んでいる。
存外に血縁への情に篤い。いや、父という存在に求める理想が高いのか。
「………いえ、そんなことはありません。父は私たち兄弟をよく思ってくださっております」
血を吐くような言葉である。
自分が耐えて家族間の均衡を保とうという振る舞いはどちらかというならば、家庭の中での長女のようなそんな……?
「む、そうか。すまない、今の言葉は忘れてくれたまえ。ただ少し、思ってな。私がもしも貴様の“父”であったならば、愛する子を死にに逝かせることなど決してしないのに、と」
単純な嘘を吐いたところで、この花沢英作にはにべもなくあしらわれるだけだろうという確信が何故かある。
だから、私は真実を。
脳裏に浮かべるのは喪った娘である。ああ、オリガ。このようなことに君を利用することをどうか許してくれ。
それを受けてか花沢英作の目がスッと細まる。
「さようですか。それは素晴らしい父性でありますな。ではこれで失礼させていただきます、鶴見少尉殿」
分の悪さを感じ取ったらしい。いつになく花沢英作は足早にその場を立ち去った。
立ち去った背中を見送り、ポケットの中の二人をまた手のひらで弄ぶ。
「ふふっ……」
ようやく見せた弱さである。さあ、どう食らってやろうか。