「Баю-баюшки-баю……」
囁きにも似た柔らかな歌声が寝室から聞こえてくる。木の床を歩けば靴底がカツカツと軽やかに音を鳴らすもので、寝室へと近づくにつれ足音を消すように心掛けた。
歌声の聞こえてくる寝室の扉をソッと音を立てないようにゆっくり開ける。
部屋を覗き込めば、おくるみに包まれた幼い娘
を妻が抱いて揺り椅子に座っていた。
「Придет серенький волчок……」
口元に微笑みを浮かべて腕の中に抱く娘を見つめていた妻が私に気がつき、顔を上げるとゆっくりと目元を和らげる。
今は平気か、と首を傾げ声なく妻へとといかけた。妻の密やかな笑い声が歌声の代わりに寝室へ満ちていく。
「ふふ…コウイチ、小さな声でなら大丈夫。もう寝ちゃうわ」
「ああ……本当だ。唇がむにゅむにゅと動いてる」
「ミルクを飲んでる夢を見てるみたいでしょ」
「オリガは食いしん坊だなぁ」
「元気なのはいいことよ」
「うん、もちろんそうだ」
妻の肩を抱き、その腕の中を覗き込めば妻は私にも娘の顔が見えやすいように腕をわずかに傾けてくれる。
夢うつつでも乳を吸うように小さな唇を動かす娘に思わず吹き出して、堪えきれずに人差し指を伸ばしてしまう。
人差し指の腹に触れる、まだまだ発生したばかりの人の皮膚の感触。あまりにも柔らかく、繊細なその感触に胸中に広がるのは一人ではとても抱えきれないようなどうしようもない庇護欲だ。
妻の頭が傾いて、私の胸に寄り添う。ああ、君がいてくれてよかった。
慣れない育児でほんの少し以前より細くなった妻の肩を労わるつもりで撫でる。
娘への愛を妻と共有して、ようやく己を保てている。そんな感覚である。
「そうだ、一つ聞いてもいいかな」
「なあに? なんでも聞いて」
「さっきの歌の“Баю-баюшки-баю”ってどういう意味なのかなって、ずっと気になっていたんだ」
「ふふ、実はね意味なんてないの」
妻と娘との穏やかな時間。幸福の奔流に耐え切って、直前まで考えていたことを思い出した。
「この国の子守唄では、いつもそういうのよ。お決まりの句っていうのかしら」
「う〜ん、日本語でいう“ねんねんころりよ”と同じ意味合いなのかな? いっぱしに話せるようになったとばかり思っていたけど、まだまだロシア語の勉強が足らないみたいだね」
「日本語ではそう言うのね。ふふ…いいのよ、これから知っていけば。だからコウイチ、私にも日本語を教えてね。二人でオリガと一緒に一から言葉を学んでいきましょう」
微笑む妻の白い手が私の頰へと当てられた。石鹸と、わずかに残る甘いミルクの香りだ。
「だって時間はこれからたくさんあるのだもの」
「そうでしょう、コウイチ」と微笑む妻の輪郭がゆっくりと解けて消えかける。指折り数えても足りないほどの”これから“が、妻と娘にもあるはずだった。
「И ухватит за бочок.
Он ухватит за бочок,……」
揺り椅子に座る妻が再び子守唄を口遊む。
「И потащит во лесок.
И потащит во лесок
Под ракитовый кусток.……」
妻の姿はやがて完全に掻き消えて、歌声もゆっくりと……。
「К нам, волчок, не ходи……」
妻の声とは異なる低い男の声が歌を結んだことでハッと意識が一気に覚醒した。兵営にある執務室である。
どうやら執務の最中にうたた寝をしてしまったらしい。疲れが溜まっているのか。迂闊なことを、と内心で舌打ちをした。
しかしなぜ、この場所で彼女たちの夢を……?
「ああ、お目覚めですか。鶴見少尉殿。淀川中佐より書類を預かっております」
「英作少尉か。うむ、すまん。どうやら情けないところを見せてしまったらしいな」
紙束を抱えた青年士官が執務机を挟んで立っていた。花沢英作が微笑み、手にする紙束を机の上に差し出した。それから礼をすると頷き、私から背を向ける。
ふと気がつく。さきほどの子守唄を結んだ低い声は、彼のものだったと。
「私がうたた寝をしていたことは内密に頼むぞ、英作少尉。士気に関わるからな」
「ははぁ、承知いたしました」
扉に手をかけた青年士官の背中に声をかける。あくまで“頼れる父”のように見えることを心がけて穏やかな声音を選んだ。
こと花沢英作に関しては、尾形に接するような厳しい父として振る舞う必要はなかった。
「ところで眠っているあいだ、私は何か寝言かなにかを言っていたかな」
「いいえ? ただ子守唄を誦じていたくらいなものです。“ねんねんころりよ”とね」
「………そうか。ならいいのだ。引き止めたな、もう行っていいぞ」
「はい、では失礼いたします、鶴見少尉殿」
花沢英作は再度礼をすると、今度こそ扉を開けた。
さてロシア語のБаю-баюшки-баюが日本語では“ねんねんころりよ”と訳すのだと知る日本人がどれだけいるだろうか。
陸士の授業でも、子守唄の訳など決してしないもので……。
「ああ、休むときはしっかりと寝台で休まれた方が良いですよ、鶴見少尉。その程度の時間もまだ開戦まではいくらかあるのですから」
執務室を出る間際に花沢英作は、そんな言葉を残していった。
── だって時間はこれからたくさんあるのだもの。
吐かれた言葉は全く意味合いのことなるものであるはずだった。
それでも彼女の像が瞼の裏側で再び揺れた。廊下の窓が空いているのか、風に吹かれて花沢英作の髪もまた揺れて、そうして。
執務室にわずかな石鹸の匂いが舞い込むと、青年は微笑みを残して今度こそ去っていった。
残された石鹸の香りに揺れる彼女たちの像が、あの青年士官のものと重なったことを自覚し背筋がゾッと凍りつく。
もしや、食われかけているのは私の方か……?
それからもなんでもない花沢英作の仕草が、それ以外が、彼女たち──よくよく自分の中身を分析すればそれは妻でなくほとんど生きることなく奪われた娘の方と被ることが多いのだと気付かされた。
私が父として接するように決めたことが原因であるのか、花沢英作の存在自体が私の大事なあの子を思い起こさせる。
けれど当然、花沢英作はあの子ではない。私たちの愛したあの子は、私たちの娘は、もう──。
あの子が生まれ変わって、私の元に戻ってきたのではなどというありえもしない空想である。
気色が悪くおぞましい。
そもそも年齢が合わないだろうに、妻と娘を喪ったことで空いた穴を別の何かで埋めようなどと筋違いにもほどがある。
もはや私に、鶴見篤四郎にそんなものは必要ないのだ。
この
網走監獄ののち、確保した花沢英作は父の仇をとるため父を殺した尾形百之助を樺太まで追いたいのだと話してくれた。
そのゴツゴツとした男の手を握る。当然妻とは似ても似つかない。
その黒い瞳を真っ直ぐに見つめて、微笑みかけた。娘の瞳は鮮やかな青だった。
「もちろんだ。しかし、私におまえを殺す気などはないのだよ。殺して活きる得よりも、生かして得られる利益の方が遥かに大きい。全てを終えたら、生きて私の元へ帰ってきなさい。私の大願にはおまえが必要なのだ、英作少尉よ」
貴様は決して私の娘ではない。
花沢英作の瞳が揺れた。眼球を覆う水分が増えて途端に、その瞳の中で青が散らついた。窓より差し込む光の角度で花沢英作の瞳は鮮やかな青色へと変貌して……。
「月島」
「はい」
「樺太での旅路で花沢英作が……、我々の目的に歯向かうようなら殺せ」
「はい」
「……歯向かう意志もなく逃げようとするだけなら、放っておいていい」
「それは、いいのですか。花沢英作は……」
「構わん。逃げるようならそれまでの器ということだろう。こちらには幸いなことに花沢中将閣下の御子息がもう一人残っているからな」
「わかりました」
顔色を変えずに淡々と頷く月島に満足感を抱きながら、カチカチと顎を大きく動かして歯を鳴らす。
ああ、けれど貴様はきっと再び私の前に現れるだろうな。なんて、そんな予感だけがずっとしている。
果たしてそのときに、花沢英作は“私”の味方となるの否か。わかりきったことをあえて思考し、そんな自分自身を嘲笑った。