──ダアン、ダアン。
響いた二発の銃声に宇佐美はイキそうになってしまう。
瞼を開けば、途端に自覚する肩と腹の痛みに思わず呻いた。
誰かに肩を組まれて支えられている。ぼやける視界をゆっくりと瞬かせれば、麦酒工場の煉瓦の床が目に入る。
カツカツ、と軍靴が足音を立てている。
誰に支えられているかを確認しようと視線を上げれば、高い位置にある黒い瞳がゆっくりと宇佐美を見つめ返す。
(光のない、夜の湖畔みたいに静かで真っ黒な瞳……それでも僕らを見つめる視線はいつだって──)
宇佐美の脳裏に浮かんだのは愛しい人の顔だった。
「……とく、しろ、さ、ん?」
「違う」
その声帯から絞り出された花沢少尉の声に、ゾッとしたものが宇佐美の背を駆けた。
(よりにもよって、このボンボンとあの人を間違えるなんて!!)
あまりの屈辱感に頭に血が昇っていくのがわかった。
とにかく、宇佐美を支えて歩く者の正体は花沢少尉であるらしい。ピトリと密着する身体が不快で押しのけようと身体を捩らせる。
「……大人しくしておいたほうがいい。その傷でこの出血では、死んでしまってもおかしくないから…いいのかい、こんなところで死んだら無駄死にになるのでないかな」
「ッ……馬鹿にしないでくださいよ、兵士に覚悟を問うおつもりですか、勇作殿はッ!」
図星を刺されて宇佐美は誤魔化すように吠える。その大声が傷に響いて、また呻く。
兵士となった時点で、死ぬ覚悟などとうに済ませている。
けれど、どうせ死ぬならばこの命を愛しいあの人の役に立てて精一杯の愛を伝えて死にたかった。
ギリギリと痛みに耐えながら宇佐美は花沢少尉を睨みつける。
宇佐美からすれば何もかもが最悪だった。
花沢英作に負けたこと、あの尾形にすら負けたこと、そして今、鶴見中尉を裏切った男に助けられようとしている。
「なんであんたがここにいるんですッ、いとしの片割れ殿のために鶴見中尉殿を裏切ったくせにッ!」
苛立ち任せに宇佐美は怒鳴りつける。しかし花沢少尉は、何も答えず静かな目で宇佐美を見つめてからまた前へ視線を戻すのだ。
宇佐美など──安い駒など意にも介さぬようなその様子がまた宇佐美の癪に障る。
宇佐美は花沢少尉たちのどちらもを嫌っていた。
花沢勇作の良い子なさまが気に入らない。清廉高潔。兵卒どもに祭り上げられて結構なことだ、どうせ全て親の七光りだろうに。
花沢英作に関してはいうまでもなく、鶴見中尉へと色目を使うのが気に食わない。生まれのおかげで相手にされていることも、自覚しているくせに尚も居直るのだから始末が悪い。
それから……宇佐美の脳裏によぎるのは、小さな小さな白い欠片を愛おしそうに手の中で弄ぶ鶴見中尉の姿だ。
すでに埋まった一番の座を塗り替えようとするのが何よりも気に食わない。
(気に食わない、気に食わない、身体が動くなら今すぐにこの首を縊り折ってやるのに…ッ)
「っ、おっと、勇作殿、と宇佐美…か?」
聞こえた声に宇佐美は思わず頰を緩める。ああ……良いことを思いついた、と。
「ああ、菊田特務曹長…実は先ほど…」
「勇作殿おぉ、私をこうして助けようとするとなると先ほどの裏切り行為は私の勘違いであったということでありますか?」
それまでに滲ませていた苛立ちを一転させて、お手本のような猫撫で声だった。
突然声音を変えた宇佐美に花沢少尉はわずかに眉を寄せた。
「……わたしは弟から預かっていた物を返しただけだからね」
「ああ……ではあなたは鶴見中尉殿を裏切ったわけではない、とそう仰るのですか」
「もちろんだよ。何が言いたいんだい、宇佐美上等兵」
花沢少尉の肩に回された手を動かし、少尉の後頭部の髪を力任せに掴んだ。手のひらの中でブチブチと毛の抜ける感触が伝わってくるも、そんなこと宇佐美が気にするはずもない。
掴んだ髪を無理矢理に己の方へと向かせてごく至近距離で花沢少尉の黒い目と宇佐美は視線を交わらせる。
少尉の黒目に宇佐美のいやらしくニヤけた顔が映り込んだ。
「殺してください」
唐突なそれに少尉の目が険しさを増す。
「本当に鶴見中尉殿を裏切っておられないのならば、今すぐに菊田特務曹長殿を殺してくださいよ、勇作殿」
「おい、おいおい!? 突然なんだってと言うんだ、宇佐美!」
真っ先に狼狽を見せるのは菊田特務曹長である。
宇佐美の身体から力が抜けて、花沢少尉の胸のうちに倒れ込む。その胸に顔を寄せ、大して速くもならない鼓動に宇佐美は耳を澄ませる。
(動揺しろよ、底を見せろ)
そんな胸のなかから菊田特務曹長へギョロリと視線を向ける。宿るのは明らかな敵意だ。
そんな宇佐美からの視線を受け、菊田特務曹長はただダラダラと冷や汗を流すことしかできない。
「菊田特務曹長は中央のネズミです、あんたが本当に鶴見中尉殿を裏切っていないなら、殺せるだろう? 今すぐ殺して、殺せよ」
ギラギラとその身に潜む残忍さを露わにさせて宇佐美が花沢少尉をけしかけていく。
「殺せッ!」
「……そうか、よくぞ尻尾を掴んだな。宇佐美上等兵、きっと鶴見中尉殿もお喜びになる」
「、な、ちょっ、待ってください勇作殿…、まさかそんな戯言を信じるのですか? 宇佐美の言葉には証拠も何もない、傷を負って意識が朦朧としているのですよ!」
宇佐美をそっと床に座らせた花沢少尉が菊田特務曹長の元へ歩み寄っていく。
花沢少尉たちにどんな思惑があるにせよ、宇佐美を助けたということは何かに利用しようとしているということに他ならない。ならばここで宇佐美に裏切り者の烙印を押されることは避けたいはずだと宇佐美は考えた。
花沢少尉は宇佐美の信用を得るために、菊田特務曹長を──人間を殺すしかないのだ。
(百之助が見たら、どんな顔をするかな)
腐れ縁の能面が浮かぶ。
花沢少尉の右手には拳銃が握られている。それを見て困惑を浮かべていた菊田特務曹長はゴクリと生唾を飲み込むと一転し強い視線を花沢少尉へと向けた。どうやら菊田特務曹長もまた腹を括ったようだ。
裏切り者同士の殺し合いだ、と宇佐美は己の頰が緩んでいくのを自覚する。
菊田特務曹長が両手にナガンを構えた。
「……申し訳ありませんが、俺もここで死ぬわけにゃいかねえんでなっ!」
ダアン。ダアン。
そうして放たれた銃弾は二発。
「……あははっ童貞喪失おめでとうございます、勇作殿」
早撃ち勝負の末に胸を押さえながら床に倒れたのは菊田特務曹長だった。
宇佐美は嘲笑いながら、花沢少尉の童貞喪失を見届けた。