「おまえだけは殺すな」
父にそう言い聞かせられるようになったのはいつ頃からだったか。
士官学校へ入学した頃には、すでに父はわたしを聯隊旗手に推挙するよう心に決めていた気がする。
「おまえは聯隊旗手として兵士たちを最前線で鼓舞し、人を殺さぬことで偶像となり勇気を与えるのだ」
「はい、父上」
着物を着て、じっとわたしを見つめる父に私は答えるように頷く。
花沢という家に生まれ、その恩恵をこれまで受けて育った。国のために戦い戦場で死ぬだろうことにも一片の疑問はなかった。
戦場で戦うことは、国を守ることで──国を守ることは、大事な人たちを守ることであるからだ。
「勇作、父上はなんと?」
話しを終えて、自室へと戻れば片割れが待ち構えていた。
よく似た顔で、他の兄弟たちよりも随分と仲のいい自覚のある兄弟だ。
「より精進しなさいと、喝をいれられてしまったよ」
「ふん…? 父上なら言いそうだ」
正直に話してしまえば英作が怒り出してしまう気がして嘘を吐いた。士官学校の試験に落ちてしまった片割れは、鼻先だけで笑うとすぐにそっぽを向いてしまう。
その手元のノートには鉛筆で落書きのように花や動物が描かれている。少しだけ普段よりも線が荒く、おそらく試験に落ちたことを気にしているのがわかる。
ああ、けど──。
「ねえ、英作」
「あんだよ」
「英作は絵が上手だね」
「今更だな」
「うん、ねえ英作。絵を本気で勉強してみるつもりはないの?」
「ない」
片割れの返答はそっけない。──気にした様子の英作にはほんの少しだけ悪いけれど、英作が軍人にならずに済むのなら……僕はその方がずっといいのになあ。
ずっと昔、意地悪で嫌な子だった片割れが、本当はずっと何かを怖がっていたことを知っている。
それはきっと好きになったものを喪うことそのもので──この片割れは喪失を避けるためならどんなことでも行うという確信がある。
そしてそれを父もまたよく知っている。
…………きっと、僕は英作を戦争へ向かわすための…わたしが戦場にいる限り、英作もまた戦場へとやって来る。
『おまえだけは殺すな』
父の言葉が蘇る。英作は人を傷つけることができて、わたしはそれが苦手だからときっと適材適所のつもりだったのだろう。
わたしはずっと人に大して力を振るうことが苦手だった。暴力だなんてもっての外で、出来るなら目に映る全ての人に笑って生きて欲しい。
ずっとそんなふうに思っていた。
『もしもおまえの身に危険が迫れば迷わずに逃げて欲しい。…おまえが手を汚す必要は決してないから』
別れる直前の英作の言葉だ。目を伏せ、労わるように肩を叩いた。
英作もまた父と同じく…いや、英作はきっと父とは異なる理由だろうが──わたしが人を殺すことを望んでいなかった。
だがもしも道理があるなら、わたしだってきっと躊躇わない。
凶器を持ちすぐ目の前に迫る男へと銃口を向けた。──躊躇う必要はない。
しかし引き鉄を引く寸前に横から手のひらが伸びてきて銃口をそらされた。
「……やめときなよ」
「きみは……」
軍帽を被った顔に傷のある青年がそのままフラリと洋装の男とアイヌの少女の元へ近づいていく。
「おい相棒、そいつは俺の仕事だろ?」
「杉元! 英作っ!」
少女が片割れの名前を呼んだ。洋装の男と杉元が取っ組み合いの殺し合いを始める。
そのあまりの血生臭さに今になって手が震え出す。
拳銃を構えたまま、結局動くことのできない己にまた唇を噛んだ。
殺す道理はあったはずである。相手は罪のない少女を手にかけようとする卑劣な犯罪者だ。殺さねば己が死ぬだけでなく、アイヌの少女もまた殺されてしまったろう。
「何が“処女”だ。このやろう。気持ち悪い理由で殺しやがって…人殺しの風上にもおけねえぜ」
自分だけは人を殺すなと父から厳命されて育った。手を汚さず、兵士たちの偶像であるべきだと……。
「誰から生まれたかよりも、何のために生きるかだろうがッ!」
杉元が叫ぶ。
杉元が満身創痍のジャックザリッパーを蹴り上げて、窓から投げ飛ばした。
けれど、わたしが人を殺さないことで、他の誰か手を汚すことになるのなら次は必ず……。もう何度目かになる覚悟を決めて、拳銃の持ち手を握り直した。
今度こそ。
「あぁ、ここにいらっしゃいましたか、勇作殿」
「あ、兄さまぁ!? どうなさったのです! そのお怪我は!?」
「えっ!? 英作じゃないのか!?」
「うげぇクソオガタ!」
「ははぁ、うるせえな」
そんな決心のすぐあとに現れた異母兄の傷だらけな様に思わず白目を剥いてしまった。