勇作殿の片割れは即断即決裏目ボーイ   作:あん仔

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偽アイヌと白石奪還作戦

 

 夜も更けて、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 

 月形へ向かう道中である。

 風に踊る火を何をするでもなく眺めている。火の番をしていた。

 

 

「……英作殿」

「なんだ、起きてたのか」

 

 

 すっかり皆眠ったものと思っていたら、ポンチョを被って丸くなっていた尾形がムクリと身体を起こす。

 尾形は火から一番遠いところで、体育座りをすると顔を俯かせる。

 ポンチョのフードを目深にかぶって表情が分からない。

 

 

「……俺に話したいこと、というのは?」

「あぁ、いや……大したことでは」

「コイツらが静かなのは今だけですよ」

「ははあ、まあ人に聞かせる類の話ではないわな」

 

 

 顎をしゃくって眠る杉元アシㇼパ、ついでに牛山へ毒づく尾形である。

 どうしたものかと口を閉ざせばパチパチと風に吹かれて揺れる焚き火の音だけが聞こえる。

 ポンチョのフードの下で尾形の目だけが光って見えた。

 誤魔化さずに話せと言いたげだ。

 

 

「……谷垣に花沢閣下が自刃したと聞いたのでな」

「ああ……」

「確かめると言っていたアレは確かめられたか」

「いいえ」

 

 

 フードの影のさらに奥へ頭を引っ込めたのか尾形の瞳が見えなくなった。

 抑揚のない感情を感じさせない声音だった。

 しかしその後に続く言葉には自嘲が込められていた。

 

 

「ハハッ……父上には見向きもされませんでしたよ、それどころか出来損ないの倅だ、呪われろ、と」

「………はあぁ………」

 

 

 空気が重い。

 息を吐き出して、どうにか呼吸を続ける。

 父に対する怒りは、最早湧くことすらなかった。

 

 

「父上の仰ったことは気にしなくていい。話したならわかるだろうが、……ああいう人だ」

「はい」

「よりにもよって呪われろなぞ、……何故己の血を分けた息子にそんな言葉を吐けるんだ、本当にあの人は……」

 

 

 自分で蒔いた種のくせにねえ……。

 フードの向こうの尾形の目がパチパチと瞬きしている。

 目だけが浮かぶって本当に猫みたいだな。

 立ち上がると、尾形の身体が大きくビクついた。

 それには触れず尾形の隣へ座る。

 影の中に浮かぶ濁った黒目だけがジッと私を見つめ返した。

 

 

「それにしても、よくぞあの父上が……ああいやどこで父上とは会ったんだ?」

「ハハッ……あなたの葬式ですよお」

「……この話はやめよっか」

 

 

 ズルリとポンチョのフードがズレる。満面の笑みを浮かべた尾形の表情がようやく見えた。

 この話が嫌いなのか? とでもいうように鬼の首を獲った猫みたいな顔だ。

 つまり嫌がらせをしてやろうと笑ういじめっ子のそれだ。

 

 やだぁ、気まずいし嫌な予感〜。

 

 死の偽装をした男と、それを唆したというか脅して行わせた男だ。

 葬式。

 そうか、死んだとなれば当然のごとく葬式もするんだよなあ……。

 当然母と勇作は私が生きていることを知らないわけだから、……私が戦死したと聞いてなんと感じたろうか。

 

 その辺りを想像するとチクチクと胸の内側が痛んだ。

 生きていることだけでも知らせてやりたいが、そうすれば花沢の汚名となって迷惑をかけてしまう。

 あの二人の枷となることは、これ以上は憚れる。

 

 

「勇作殿が、あなたの葬式でどんな様子だったかお教えしましょうか」

「やめてくれ」

「衆目も憚らずに、啜り泣いては幾度もあなたの名前を呼んでおりました。見ているだけでも悲痛そのもので」

「……やめろって」

 

 

 尾形の囁きに罪悪感を刺激され思わず身体が傾く。

 

 空の棺桶に、縋り付いて涙を流す勇作の情景が脳裏にありありと浮かんだ。

 

 

「はあぁ……」

 

 

 憂鬱を紛らわせようと、深く溜息を吐き出す。

 尾形の目が微かに丸く見開かれ、スッと再びフードを目深に被った。

 どうやらこれ以上は勘弁してくれるらしい。

 一瞬だけ優しい、と思ったけど私は騙されんからな。

 尾形から顔を逸らして、俯く。ブーツのつま先をじっと見下ろした。

 

 

「父上はなにか仰っていたか」

「……………英作殿のことは特に何も聞いておりませんなあ」

「そうか…まあそうだろうな」

 

 

『勇作を生かしたいならば、貴様がロシア兵を皆殺しにすればよい。それが出来ぬならばさっさと去れ。英作』

 

 

 出征前の父の言葉が蘇ったが、すぐに振り払う。

 

 

 これ以上話をする気分ではなくなってしまった。自分で振っておいてアレだけど、尾形とするなら、どうにも家族の話題は不適当だ。

 これからは控えよう。

 

 

「日の出まで時間がある。私も少し眠るよ。おやすみ尾形」

「……ええ、」

 

 

 そう告げてから再び立ち上がり元の座っていた位置に戻る。

 幹に背中を預けて、目を閉じた。

 

 

「…………」

 

 

 聞き耳を立てていた者の気配と、じっと注がれ続ける視線には気づかないふりをして。

 

 

 ほんの少し期待していたのは、もしも旅の途中で尾形の抱える背景を杉元に知る機会があったならば原作ほどに躊躇なく殺しにかからないのでは、ということだった。

 そんな企みを知る由もない尾形にものの見事に返り討ちにされてしまったけどな!!

 やーい尾形のバーカ!

 

 

 

 ★

 

 

 

 木々の隙間にアイヌの村が見えた。

 

 

「見ろ、杉元。コタンがあるぞ、樺戸までもうすぐだけど休ませてもらおう」

「この村にもアシㇼパさんの親戚がいるの? 婆ちゃんの15番目の妹とか? うふふっ」

 

 

 アシㇼパと杉元の会話を聞きながら村の様子を注視する。

 しかしそこは村というにはあまりにも静かすぎた。

 子供の笑い声や、アイヌ語の世間話の一つも聞こえない。

 

 若いアイヌが街に流れたとか?

 アイヌにも過疎が?

 何らかの理由で村を捨てたとかもあるのか?

 

 

「やあ、こんにちは。あんたら何の用だい?」

 

 

 なんて、不吉な想像を巡らしていると、アイヌの男が顔を出した。

 保護者として牛山が村人と交渉を始める。他に責任者がいると楽でいいな。

 

 ふと視線を移して、小熊の檻を見た。

 スッと神経が冷えていく。

 

 成長しきった小熊に、檻はミシミシと軋んでいる。糞尿は掃除もされすに垂れ流しで……。

 

 

「あの小熊の檻……いつからあのままなんだ?」

「ちょっと小熊が大きくなるのが早くってな、大きい檻を作って移すところだった。気にしないでくれ」

「へえ」

「俺はエクロク。俺の父であり村長のレタンノエカシに滞在の許可を貰うといい」

 

 

 そう名乗ったアイヌの男へニッコリと笑い返した。

 

 まだ判断は早いかなあ〜……。

 家の窓から口の周りに刺青をした女の姿が見えた。

 さすがに口の周りの刺青まで“フリ”で行う者はいないだろう。

 まだ実害があったわけでもないしなあ、うん。

 

 

 杉元によるアイヌの作法講座を聞き流しながら、村の様子を窺い続ける。

 家の窓からヒョコヒョコと男が顔を出したり、女の顔が覗いたりとしている。

 様子を見ているのはお互い様であるらしい。

 

 

 しばらくしてアイヌの男が戻って手を差し出された。

 一列に、私は尾形とアシㇼパと手を繋いで、家の中へと進んだ。

 

 

「ムシオンカミ」

 

 

 突然、そんなことを言ったアシㇼパに、アイヌの男たちも、杉元たちもポカンと呆気に取られている。

 そんな中で口の周りに刺青をしたアイヌの女だけが吹き出す。

 ならやっぱり女は本物か。

 ならず者に襲われて、村を乗っ取られでもしたのだろうか。

 なら元の村の男たちはどうなったのか。閉じ込められているのか、殺されているのか。

 ……まあ、殺されているだろうな。

 

 アシㇼパがオソマ宣言をして、外へ出た。

 

 

「ムシオンカミってどういう意味だ?」

 

 

 重い空気の中、尾形が口火を切った。

 村長もエクロクも答えない。

 

 

「おや? もしかしてわからんのか?」

 

 

 尾形の視線が私に移る。

 目が合うとス、と細められた。

 アイヌに潜伏していたアンタならコイツらのこともわかんだろ、と言っているような気がする。

 多分合ってる。

 

 アイヌ語の方言だというエクロクに杉元が同意を示した。

 

 

「うんうん、アイヌには方言があるからね」

「そうだよね、英作さん。一体何を疑っているんだ尾形! この人たちに失礼な真似は許さんぞ!」

 

 

「……コイツらほんとにアイヌか?」

 

 

 杉元に雑に同意を示せば、スン、とした表情で尾形が睨みつけながら問いかけてくる。

 まあ、違うと思います。少なくともこの村のアイヌではない。

 

 

「ほら見ろ! この耳たぶ! アイヌは耳たぶが分厚いんだ、シンナキサラじゃない!」

「福耳にしか見えねえけどな」

 

 

 尾形と杉元の言い合いを眺める。

 杉元はマジでこのアイヌの村になんの違和感も抱いていないのかな?

 尾形が怪しんでてムキになってるだけ、とかじゃないよな、さすがに。

 

 

「ウンカ オピウキ ヤン!」

 

 

 窓の向こうで女が叫んだ。

 すぐに口を塞がれて、家屋の中へ戻されてしまう。

 

 

「今のご婦人はなんと?」

「わたしたちを助けて、だ」

「えっ」

「もしかして、彼女はこの村で不当な扱いでもされているんですかね? 村長さん」

「いいや違う。今の女は以前、村で罪を犯してね。今は償ってもらっている途中なんだが、それでも逃げようとああして旅人に助けを求めるんだ。全く困ったものだ」

 

 

 牛山の問いに答えて、今度は私が村長へと問いかけた。

 村長でなくエクロクが首を振りながら大嘘を吐く。

 

 

「あらぁ、それは大変ですねえ」

「っ、ウンカ オピウキ ヤン!」

 

 

 今度はエクロクの妻というアイヌの女が先ほどの女と同じ言葉を叫んだ。

 その目がじ、と私をまっすぐに見つめている。

 

 

「すまない、さっき妻とは喧嘩をしたばかりで──」

 

 

 ダアン。

 血飛沫が舞う。エクロクの腹にじんわりと血が滲んでいく。

 

 

「──っ、えぇ?」

「いいだろう、助けてやる」

 

 

 小銃を持って、立ち上がる。

 武器を持ち、攻撃してきたなら皆殺せばいい。

 目の前の惨劇に顔を青ざめさせた村長は動こうとしない。敵意なし。

 

 

「てっめええええ!!!! 罪のないアイヌの人になにしてやがるっっっ!!!!!」

 

 

 鬼のような形相に変わった杉元に襟首を掴まれた。

 鼻と鼻がくっつきそうなほどの至近距離で杉元と睨み合う。

 

 

「助けを求められたから撃った。それに罪のない? アイヌ? 寝言は寝ていえよ、杉元。コイツらは偽物だ」

「てめえええ!!!!!!」

 

 

 杉元の怒りは収まらない。これでは仕方ない。

 殺すしかない。感情を遠くへ追いやって手元の小銃を操作する。

 ひどく冷めた頭で杉元を見つめかえす。

 

 

「えっなっ」

 

 

 ダアン。

 戻ってきたエクロクの弟の戸惑う声が聞こえたかと思えば、銃声。

 私ではない。

 エクロクの弟が腹を押さえてしゃがみ込んでいた。

 

 

「ふーっ、一つ貸しにしといてやるぜ、英作さんよ」

 

 

 尾形が髪を撫でつけて、ドヤ顔をする。

 エクロクの弟の足首に、アイヌのものではない刺青が見えていた。

 

 

「あ、なんだその足」

「そうそう、さっきも出ていく時にちらっと足首に見えた気がしたんだよなあ。その“くりからもんもん”が……ヤクザがアイヌのふりか」

 

 

 私の襟首を掴んでいた杉元の手が離れる。怒気は掻き消え、オッ? と思って杉元の動向を見守る。

 

 

「テメエら……アシㇼパさんをどこへやった!!!!!!!」

 

 

 今度は私でなく、腹に穴を開けたエクロクとその弟のヤクザものへと杉元が吠えた。

 

 

 

 ★

 

 

 杉元の吠え声で、外にまで異変を察知されてしまった。

 

 アイヌの女に手を差し出して立ち上がらせる。

 

 

「〜〜〜〜〜」

「悪い、アイヌ語はちょっとしかわからん」

「〜〜? 〜〜〜!!」

「だからわからん。でもそうだな、村の女たちの安全を確保した方がいいだろうな、子供もいるなら子供もだ」

 

 

 何を伝えようとしているかはわからないけど、とにかく頷いておく。

 下手にヤクザものに人質などにされても動きづらい。

 

 

「俺の一声で外にいる仲間が、あのガキの喉を掻っ切るぜ!! お前ら武器を捨てろ!!」

「一声出せるもんなら出してみろッッ!!!」

 

 

 杉元がエクロクの弟の首をへし折ってさらに怒鳴る。

 その隙をみて、エクロクが壁に立てかけられていた杉元の銃へ手を伸ばすが、尾形の放った弾がその肩を撃ち抜く。

 

 

「エクロク助さん、アイヌ語で命乞いはどういうんだ?」

 

 

 この期に及んで、この煽りである。さすがだよ、尾形。

 よっ輝いてるッ!

 

 

 

「銃から目を離すな。一等卒!」

 

 

 そう尾形が言って、杉元へ銃を投げているのを見てから

 

 

「〜〜〜っ!!」

「ああ、わかった。行こう」

 

 

 女に袖を引かれて、家の外へと出た。

 現れる鉈や包丁で武装した男たちを銃で撃ち、銃剣で斬りつけながら、女の後を追う。

 女は家の一つ一つに顔を出して、他の女に声をかけている。

 

 

 やがて女たちは鍬や杵で武装して、集団となった。

 そこでようやくああ、この女たちは戦うのだと理解する。

 

 

「クホクフ エシライケ クス エシモンサタアシ ナ!」

「ロンヌ ヤン!」

 

「ははあ……」

 

 

 この時代に男として生まれて、さらに軍人などをやっているとつい忘れてしまう。

 女が決して守られ庇護されるだけの弱い存在でないことを。

 

 

「まあいいや」

 

 

 女たちが復讐をしやすいように武装した男の武器を狙って狙撃した。

 武器を取り落とした男を女たちは取り囲んで滅多打ちにしていく。

 亡くしたのが夫か息子かは知らないが、復讐はそりゃしたいよな……という気持ちにさせられた。

 

 

 村は樺戸からの脱獄囚たちが贋札作りのために潜伏していたのだそうだ。

 男たちを殺して檻に囚われた熊が暴れるという、すったもんだもあった。

 そのどさくさに紛れて樺戸へ行く目的だった熊岸長庵まで死んでしまう。

 

 村を占拠していた男たちの死体を埋め、女たちにオオウバユリの料理でもてなされた。

 

 

「ここの村は男がいなくなったからずっとコタンにいろと言ってる」

「チンポセンセェ」

「エィサクサン」

「ちんぽ先生と英作が人気だ。熊に勝ったし強い子供が出来ると言ってる、英作は守ってくれて惚れた女が多い」

 

 

 女たちの方へ行こうとする牛山の腕を両脇から杉元と押さえる。

 そのまま引きずって村を後にした。

 

 

「悪いが用事があるんでね」

「子種だけ置いていけないだろうか」

「弱みに付け込むのは良くないぞ、牛山。責任は取れるのか?」

「そうだそうだ。種を蒔くなら責任も取れアホ」

「弱くなんかない。アイヌの女だって強かなんだ、このコタンは必ず生き返る」

 

 

 そうアシㇼパが言い残して、本当に村を出た。

 牛山の悲痛な叫びは無視である。

 たりめえだろが、ぶっ殺すぞ。

 

 

 

 

「あなたは止めるかと思いましたよ」

「え、なに?」

「あの村の女たちが脱獄囚どもを殺すのを、止めるものかと」

 

 

 そうして全てが済んだ後、尾形がポツリと漏らした。

 この問いかけが何を意図したものかと考える。

 考えても分からず、素直に話すことにした。

 

 

「あの女たちは夫と息子を殺されてるんだ、誰だって復讐はしたいものだろ?」

「…………」

「憎い相手を自分の手で殺せないのは一生の悔いになる。この際、その善悪は置いておいてな……復讐は虚しいだけだというけど、愛する者の仇をとることで心の整理がつくこともあるさ、多分な」

「……それは御自身と御父上のことですか?」

 

 

 尾形の言葉にキョトンとしてしまった。

 双眼鏡で辺りを警戒していた尾形が私を振り向く。

 いつもと変わらない能面に、黒く濁ったドブ川のような目だ。

 ジッと答えを待つように尾形が見つめてきた。

 

 

 勝手に憎い父が死んだことを、一生の悔いとして抱えているのか。

 あるいは父が殺されたことで犯人へ私が復讐したがっているのか。

 どちらの意味にも受け止められる。

 

 けれどこればかりは悩むまでもない。

 これまで私は父を慕うような言動をしてない。

 実際に父のことはそこまで、好んでもいない。

 

 ならば前者だと、答えを出して尾形へと笑いかける。

 

 

「私はそんなに父を嫌ってるように見えたか?」

「……いえ、ですが、思うところはあるのではありませんか」

「いやあ、う〜ん。父上に対して殺したかったとまでは思わないんだよな。確かに嫌ってはいたけど、いつか乗り越えてやろうと思ってたからかな……?」

 

 

 ジッと尾形が見つめてくる。

 ちゃんと瞬きしてる?

 

 

「うーん、言語化が難しいな。いつか殺してやろうとは何度も思った、けど、実際に殺すつもりは欠片もなかったっていうか。あんな不愉快な男でも身内だったからなのか、もう会えないのだと思うと少し寂しい気持ちもあったな」

 

 

 言いながら考え続ける。

 父が死んだ。

 自死ではない、と確信を持って言えるものの、私はそれを聞いたときなんと思ったろう。

 然もありなんと思った。

 捨てた女の息子に殺されても仕方ない、とも思った。

 でもあのとき寂しい気持ちも確かにあった。

 

 

 やたらと厳しく、偉そうな嫌な父親だった。

 出来ないことを無理にやらされ、遊ぶ時間もなくなるほどに体術や勉学を詰め込まされた。

 

 

『英作、貴様はいずれ将校となり、この国のために戦って死ぬだろう。死を恐れるな、おまえが戦い庇護せねば、おまえの後ろにいる母や兄弟や、その他の多くの人々が死ぬ』

 

『……どうか愚かな父を、許せ、英作』

 

 

 唐突に父に頭を撫でられた記憶が蘇った。

 頭の奥底にしまい込まれていたような古い記憶だ。

 頭を撫でられたのは、その一度きりだった。

 父から謝られたのもだ。

 

 髪を撫でつけ、後ろへと流す。そして普段と変わらぬ能面の尾形へと笑いかけた。

 自分で勝手に答えを見つけてスッキリしている。

 

 

「生きていれば、いつかは父とも和解ができるものと信じていたのかもな」

「和解ですか」

「もしかしたら私の見ていた父は、父自身がそのように振る舞っていただけなのかもしれない。父が何を考えていたのか、もしも見た通りだったなら心置きなく嫌えるし、そうでないなら修復も叶ったかもだろ」

 

 

 きっと私は父とのわだかまりをなくしたかったのだ。

 喧嘩をしたわけではないけど、いつか家族みんなで笑い合える日が来ることを望んでいた。

 

 

「大嫌いな父上もきっと、私の守りたいものの一部ではあったんだろうな」

 

 

 尾形の黒目がキュッと小さくなった。

 器用なことしやがる。

 その肩を軽く叩いて、先を行く杉元たちを追う。

 

 

「それも今となっては遅い話だ。父上は亡くなっておられるのだから」

「……はい、そうですね」

「だろ」

「失礼します」

 

 

 私を追い越すと足早に尾形は杉元たちの方へと行ってしまう。

 話は済んだ、ということだろう。

 

 

「何をしてるんだ、英作。置いていくぞ」

「あ〜ん、待って待ってえ」

 

 

 ふと振り返ったアシㇼパの言葉に私も足を早めた。

 

 

 

 ★

 

 

「おそらく白石は今頃は旭川へ着いて行ってしまっているだろう」

 

 

 土方たちと合流すると、まず白石が捕まったことを知らされた。

 そして杉元の言葉に助けに向かうことも決まったが詐欺師の鈴川が逃げ出してしまった。

 命からがらアイヌの家に逃げ込んだ鈴川である。まあ、そこにはとっくに私たちがいるんだけどな。

 

 

「俺たちから逃げられると思ったか」

「サルカニ合戦か!」

「鈴川聖弘よ、この三十年式歩兵銃の表尺を見ろ。二千メートルまで目盛があるな? 二千メートル先まで弾丸が届くってことだ。二千メートル以上俺から逃げきれるか試してみるか?」

 

 

 まあ目視で二千メートルはさすがにブラフだけどな。

 

 

「その前にストゥでぶん殴ってやる!」

「制裁棒がデカすぎるッ!!」

 

 

 そんなてんやわんやに、尾形の目が物言いたげに私を見てくる。

 そうだね、前に私が尾形にお土産であげようとしたストゥだね。

 

 

「悪いね、突然騒がしくしちまって」

「構わんよ英作。おまえには前から世話になってる」

「世話になってるのは私だったろ」

 

 

 このこのと、知人のアイヌの腕を肘でつついた。

 旭川の街ではさすがに目立ちすぎる一行であるので、近くのアイヌの村に潜伏することになったのだ。

 

 

「白石が旭川第7師団の兵営のどこにいるのか……中に潜入して探らなければなるまい」

「関係者に成りすますか?」

 

 

 死んだことになっている私はとくにやることもない。

 旭川で知り合いに見つかったら大変だしなあ。

 

 

「カムイコタンの一件で警戒してるはずだから、よほどの関係者じゃない限り、簡単に教えるはずがない」

「東京の師団の上級将校とかは?」

「いや……軍は上に行くほどヨコの繋がりが強いから、架空の上級将校はバレる」

「……英作さんはどう思う?」

「そら知ってる上級将校は何人かいるけど、戦争前の情報しかないぞ? 最新の情報がない以上は、どこで繋がるかわからないし避けた方がいいと思う」

 

 

 それだけ告げて口を閉じる。

 家の外で犬の鳴き声がしている。さっきの一幕で犬が興奮してしまっているのだろうか。

 

 

「……犬。犬童四郎助はどうだろうか」

 

 

 そんな鈴川の提案に白石奪還作戦の計画がなんとなく決まった。

 心の歪みが顔に出る。

 私と勇作も顔のパーツは似通っているけど、全然間違われたことないもんな〜。

 どっちが歪んでるの〜?

 私〜!

 勇作が歪んでるわけないだろ! いい加減にしろ!

 

 

「アンタ、薩摩の方言は分かるかい?」

「あ? 日常会話程度なら分かるけど?」

「それでいいそれでいい。いくらか話に付き合ってくれ」

 

 

 なんて、鈴川に声をかけられた。

 なんで私が薩摩の方言がわかると気づいたんだろう……。やだ、こわい……。

 

 まあ土方だろうな。

 何やら独自の情報網を持つらしいから、私が花沢幸次郎の息子であることも知っていそうだ。

 尾形や杉元が鈴川に私の出自を話すとも思えない。

 

 衣装や小道具を用意して、作戦が決行される。

 

 

「スケキヨかよ」

「なあにそれ、英作さん」

「とある物語の登場人物さ。杉元にもあとで話して聞かせてやるよ」

「えっなになに、すてきなお話?」

「ふふふっ、きっと杉元も気にいるぞ」

「やだぁ、たのしみい」

 

 

 犬童に変装した鈴川と、白いマスクを被った杉元に思わずツッコンでしまった。

 時代的にまだ書かれていない物語だけど、まあよかろう。

 キラキラとマスクの下で目だけ輝かせる杉元が、話して聞かせたあとどんな反応をしてくれるか俄然楽しみになる。

 偽物アイヌの村で睨み合った男とは思えない。

 杉元のこの豹変ぶりがわりと厄介なんだなあ。

 

 

 

「随分と仲良しですなあ」

「杉元? いい奴だよな」

「ははあ、英作殿はああいうのがお好みでしたか」

「いやアイツは部下にはいらん。いかに不死身だろうと杉元は戦争に向いていない」

 

 

 もう一生、戦争に関わらずアシㇼパと一緒にチタタㇷ゚してヒンナヒンナしてろ。

 ああいう優しい男は戦争には向かない。というより戦争に関わってほしくないのが本音だ。

 木の上から尾形とともに様子を窺う。

 

 双眼鏡を覗いていると、見覚えのあるような気のする顔が少尉服を纏い駆けていく。

 

 

「少尉が慌てて入っていった。うん? あれ音之進か?」

「ああ……日露戦争後に少尉に任官されたんです。しかしまずいですよ、それは。奴は鶴見中尉お気に入りの薩摩隼人だ」

「少しの間、監視を変われ」

 

 

 そういや陸士に入るとか言っていた気がする。

 アイツまで第7師団に配属されていたのか……。

 しかしここで、音之進と遭遇してしまうのは非常に都合が悪い。

 双眼鏡から手を離して背負った背嚢を漁る。

 

 

「……何をなさってるんで?」

「生存バレたら勇作たちに迷惑かけちゃうだろ。じゃじゃじゃ〜ん、持っててよかったスケキヨマスク〜(予備)!」

 

 

 背嚢から予備のスケキヨマスクを取り出して、装着した。

 ゴムでなく白い布製だが、何故か脂臭い。おじさんの枕の臭いがする。

 はっ!? 私はまだおじさんじゃないけど!?

 

 

「ウッ臭いッ」

「……本当に何をしとるんですか」

「鯉登少尉が向かったということは中尉殿にもすでに報告がされているな。狙撃用意」

「了解」

 

 

 尾形が銃を構え直して、私は再び双眼鏡を覗き込む。

 部屋の中では犬童に変装した鈴川とスケキヨと白石、それから淀川中佐に鯉登が何かを話している。

 

 

 鯉登が発砲。鈴川とスケキ、杉元が撃たれた。

 気合いで窓から逃走した杉元と白石を追おうとする兵士へ尾形が援護狙撃を行い、木から飛び降りた。

 

 

 さきほどの銃声で兵士が集まってきており、キロランケとの合流地点へ向かえない。

 兵営の地図で抜け道を探すも、私の知る抜け道なら常在している兵士も当然知っているため使えない。

 とにもかくにも兵士のいない方へ進むしかない。

 

 

「杉元! こっちはダメだ! 南へ逃げろ! あっちだ!」

 

 

 血塗れの杉元が白石を連れて走ってきていた。

 尾形が叫ぶ。

 杉元の腕を肩にかついで、走る補助をする。

 

 

「死ぬ気で走れよ、杉元。足を止めたら死ぬと思え」

「……、英作さん」

 

 

 杉元がわずかに目を見開き、すぐに口元を緩める。

 杉元の腕を引きながら白石が血相を変えて叫んだ。

 

 

「無理だって! こんな傷の杉元が走り続けられるわけねえッ!」

「……俺の、足が……止まったら、……英作さんと白石ッ……アンタらが、アシㇼパさんを網走監獄まで……なんだありゃあ!?」

「なんだありゃあ!?」

 

 

 道の先に見えた気球に白石と杉元が息を揃えて叫ぶ。

 途端にシリアスは霧散した。

 霧散していいシリアスだったよ。

 

 

「気球隊の試作機だ!」

「アレだッ! あれを奪うぞ!」

 

 

 ★

 

 

 なんて手際のいい気球強盗だろう。

 

 

「銃をよこせ!」

「全員下がれ! もっと離れろ!」

「早く動かせ、撃つぞ」

「動かしたらさっさと降りろ!」

「い、いまやってる……」

 

 

 操縦している兵士へ銃を向けながら思わず遠い目になってしまう。

 マスクで隠れているのでセーフです。

 

 そうして気球を奪い、浮かび出したそれに飛び乗る。

 

 

 撃ってこないと意を決して気球にしがみつく兵士を殴り落とす。

 蜘蛛の糸ばりにしつこくしがみつく兵士たち。

 軍用の試作機が盗まれかけていると思えば、いい働きだ。

 

 

「いい粘りだ」

「何褒めてんのォ!? 英作ちゃんッ!!」

「バカ白石っ、名前で呼ぶなッ!」

「えええ!?」

 

 

 

 兵士の山を駆け登り、鯉登が気球に飛び乗ってきた。

 手には軍刀。

 

 

「鯉登少尉……!」

 

 

 そこで気球は完全に地上を離れて浮かび切った。

 

 

「下がっていろ、杉元。俺がやる」

 

 

 前に出ようとした杉元を押しのけて、腰の銃剣を抜く。

 

 

「示現流を使いますよ、銃剣で足りますか」

「誰にものを言っている」

「ははあ」

「……尾形百之助……貴様……!」

 

 

 鯉登の視線が尾形へと移る。答えるように尾形がフードを外した。

 

 

「よくも鶴見中尉どんをだまけっせ裏切ったな! 前からわいのこつぁはわっぜ好かんかった!! おいがこっつボンボンち舐めくさっせ!! 知らんとこいでわれこ××× 言ちょったとは知っちょった!!」

 

 

 早口の薩摩弁である。

 ちょっと聞き取れないところがあったけど、尾形のことが嫌いらしい。

 初任少尉を舐めるのよくないよ〜……。任官したての時期に兵卒、下士官から舐められるのは私も覚えがあるため、こればっかりは鯉登の味方をしたくなってしまう。

 

 

「相変わらず何を言っているかサッパリ分からんですな、鯉登少尉殿。興奮すると早口の薩摩弁になりモスから」

「尾形、煽んなぁ!!」

「きえええええええええ!!!!!!!」

 

 

 振り上げられた軍刀が目に入る。銃剣を両手で構え振り上げる。

 軍刀が振り下ろされる前に間合いに飛び込み、銃剣を降り降ろした。

 鯉登の肩に銃剣が食い込む。

 猿叫を飲み込んだため、少し浅い。

 鯉登の血飛沫が飛んだ。

 

 

「ぐあっ!」

 

 

 初太刀を途中でやめて、鯉登が呻く。

 一の太刀に己の全生命を注ぎ込めと教わらなかったのか?

 さらに切り返すため銃剣を振り上げる。

 

 

 この間、一秒にも満たず。

 

 

「きえええええええい!!!!」

 

 

 歯を食いしばった鯉登が再び軍刀を振り上げた。

 それを止めるように矢が飛んでくる。

 そちらへ鯉登の意識が一瞬移り、私が今度こそトドメを刺そうと腕に力を込めたところで、白石が飛んできた。

 大きな影を作る白石に思わず後退する。

 

 

 白石の足が鯉登の腹を蹴り、ともに気球から落ちていく。

 

 

「白石ぃ!!!」

 

 

 杉元が叫んだ。

 びいんと白石に繋がっていた縄が張り、鯉登だけが落ちていった。

 

 

「あはははっあばよッ! 鯉登ちゃん!!」

「白石! 木に突っ込むぞお!!」

「いでっいででっ!!」

 

 

 木に突っ込んだ白石の叫び声が聞こえる。木から出てきたと思えば、アシㇼパが白石に乗っていた。

 

 

「アシㇼパさん!!」

 

 

 

 ★

 

 

 

 白石奪還は成功、アシㇼパも合流し、追手も退けることに成功した。

 ようやく、と言った具合に気球の上で一息つけた。

 つけたままだったスケキヨマスクを外して、深呼吸をする。空気が臭くない。

 空気おいしっおいしっ!

 

 鯉登の血で汚れた銃剣の刃を布で拭う。人間の血と脂は刃をだめにするからね。

 

 

 杉元の傷の具合を診るアシㇼパたちをよそに、銃を弄る尾形を見て、少し呆れてしまった。

 

 やたらと上機嫌な尾形の手にあるのは先ほど杉元が兵士から奪った歩兵銃だった。

 三十年式とは少し違う。どうやら最新式だ。

 

 

「おまえな……」

「し〜〜〜っ」

 

 

 黙ってろというように尾形に片目を閉じてジェスチャーをされる。

 手癖が悪いな、全く。

 

 

 途中で白石が気球から飛び降りようとするハプニングもあったものの、その他はとくに問題なく進んだ。

 遠く地上から気球を追う兵士たちが見えているくらいだ。

 

 

「おい、なんか止まったぞ。白石直せるか」

「どれどれ」

 

 

 ガス欠となったエンジンを杉元と白石が囲む。

 直すもなにもガス欠でしょ、と思いながら様子を眺める。

 

 

「キ」

「キキッ」

「ウキッ」

「ウキーッ!」

「ウキーッ!」

 

 

 バンバンとお猿たちがエンジンを叩き始めた。

 

 

「ウキーッ!」

「ウキーッ!」

「んぐっ」

 

 

 吹き出しそうになるのを堪える。

 なんだコイツらはと怪訝な顔でアシㇼパがお猿をかき分けてエンジンの前に立つ。

 

 

「ウキーッッ!!!!」

「やかましいッ!」

「ブフォっ」

 

 

 一連の流れと尾形のツッコミについに耐えきれず、吹き出してしまった。

 予想は出来た。回避は出来なかった。

 お猿たちが私を振り返る。無言でエンジンを指差して、「お前にはわかるのか?」 と伝えてくる。

 

 

「もう燃料がねえんだよ、壊れたわけじゃねえから、ほっといていい」

「あとは風の吹くままだぜ」

 

 

 たかだか試作機へ満タンに燃料を注ぎ込むほど軍備は豊富ではない。

 風に吹かれて、気球は旭川から東へと進んでいく。

 

 

 気球から降りて、今度は地上の追手に警戒しなければいけない。

 

 

「グズグズしてたら追いつかれるぞ」

「杉元の出血が止まらない、手当をしないと」

 

 

 周囲を警戒し続ける。

 兵士は馬に乗っていた。徒歩のこっちとは速度は段違いだ。

 どこかで身をかくして撒くことが出来るなら、それが一番だけどこの周辺には知り合いも民家も見当たらない。

 

 そうして逃げるうちに大雪山を越えるしかなくなってしまった。

 八甲田山での出来事は記憶に新しい。

 

 登る道中で、天候まで崩れてきて余計に八甲田山と重なってしまう。

 しかし八甲田山の演習とは違って追手があるため、引き返す判断は出来ない。

 進むしかない。

 

 肌を刺すような冷たい風が吹き荒れる。

 

 

「手分けして風を凌げる場所を探せ、なんでもいい。早く」

「ユクだ! 杉元、オスを撃て!」

「エゾシカを撃つのか?」

「大きいのが4頭必要だ!」

 

 

 そこで白石が服を脱ぎ始めたのを見て、背筋が凍った。

 白石の腕を掴み、その顔を殴りつける。

 

 

「脱ぐなッ!!!! 死にてえのかッ!!!」

「あへぇ、いったぁあい」

 

 

 脱ぎかけていた半纏とシャツを着せ直す。

 襟首を掴んで引き寄せる。

 頰を腫らして、鼻血を垂らす白石と目を合わせた。

 焦点は戻っている。殴った衝撃で一時的に正気が戻っている。

 

 

「いいか、どんなに暑くても絶対に脱ぐな。脱いだら死ぬぞ。……俺が殺す」

「、あ、わ、わかったぁ」

 

 

 顔を青ざめさせた白石の腕を引いて、アシㇼパたちのところへ連行する。

 アシㇼパは確か4頭と言っていたはずだが、倒れているエゾシカは3頭しかいなかった。

 鹿の皮を剥ぎ、どうやら鹿の中で風を凌ぐらしい。

 ちょうど剥がされたメスの鹿の中に白石を詰め込む。

 このなかで一番薄着なのが、白石だから子供のアシㇼパより優先させてもらった。

 

 

「俺がアシㇼパさんと入る」

「じゃあこっちは俺たちだな、尾形」

 

 

 簡単に組み分け、鹿の中に潜り込んだ。

 大の大人が二人。鹿の中はギチギチである。

 

 

「せ、せっまぁ……」

「お互い様です。文句言わんでくださいよ。4頭目を仕留めようとしたところで群れに逃げられたんです」

「も、も〜〜、尾形はぁ」

 

 

 ギチギチ、と私の腕のなかに尾形が入り込む形でどうにか二人とも収まっている。

 足は外だけど、防寒ブーツだから平気だし。

 それよりも鹿の腹が破けないか、と少し不安になる。

 

 しかし風を凌げるだけでも御の字と思うべきなのだろう。

 士官学校で八甲田山遭難の話を聞かされたとき、ゾッとしたものだ。

 

 将校は兵士たちの命を預かっている。

 少しの判断ミスで率いる兵士たちが死んでしまう。

 

 

「八甲田山の二の舞はごめんだ」

「ははあ、あの事件を聞かされたときは肝が冷えましたな」

 

 

 腕のなかで尾形の肩が揺れる。笑っているのだろう。

 尾形の刈り上げられた後頭部と頸をじっと見下ろす。

 

 

「いやしかし狭い」

「そんなに不満なら出てもいいですよ」

「やだぁ、それしたら死んじゃう〜」

「……随分と、」

 

 

 言葉が途中で切られた。

 随分、と、なんだ?

 

 

「随分と、あなたの振る舞いが以前と違うので、驚きました」

「ああ……」

 

 軍服を着ているころ、私はそれに相応しい人物であろうと努めていた。

 軍人は非情であれ。

 感情でなく合理によって物事を判断、行動せよと父に教えこまれてきたからだ。

 

 

「軍人であろうと努めてきたから……幻滅したろう、本来の私はこういう文句ばかりの情けのない人間なんだよ」

「いえ……あなたが間抜けであることは以前に茨城で会った頃に知っております。今更ですな」

「今それ言う〜〜???」

 

 

 尾形の頸へ息を吹きかける。

 

 

「ッ、やめてください!!!」

「尾形が悪口を言うからじゃ〜ん。間抜けとかひど〜〜い」

 

 

 脇に手を動かし、指を動かす。こしょこしょと擽れば尾形が身じろぎをする。

 手を掴まれ、擽れなくなった。

 

 

「……ぶっ殺すぞ、英作ゴラァ」

「わぁあ、ガラわる……上等兵殿ぉ、そんな顔をされては、まるでゴロツキのようであります」

「ははあ、少尉殿はまるでクソガキ……失礼、やんちゃ盛りの幼児のようでありますなあ」

 

 

 鬼のような形相で尾形が振り返った。とんでもな目で睨まれている。

 揶揄うように指摘すれば、ニッコリと作り笑いに変わった。

 

 

「チッ」

 

 

 舌打ちをすると、尾形が寝返りを打ち私と向かい合う。

 これ以上私に好き勝手させないために、向かい合うことを選択したのだろう。

 尾形が睨みを効かせてくるので、下手に動けなくなった。

 

 

 狭い鹿の腹のなかで向かい合う男二人……何も起きないはずもなく……。

 

 

「尾形……綺麗な肌をしてるな……おまえ……」

 

 

 尾形の頰に手を添えてキラキラと勇作スマイルでそれらしいことを言ってみる。

 尾形は白目を剥いて、今までで一番大きな舌打ちをした。

 

 

「冗談だっつの、本気にするなよ」

「してません」

「そのわりに顔こわ〜い」

「チイッ!!!」

 

 

 また舌打ちをされた。

 これ以上の悪ノリはよしておこう。

 鹿の中が狭いのは変わらないけど、お互いの体温でヌクヌクとしてきた。

 体温が高まり、眠気がやってくる。

 風が収まったら大雪山越えだ。

 体力温存のために一眠りしたほうがいいだろう。

 

 

「少し眠る」

「はい」

 

 

 目を閉じた。

 

 

 

 ★

 

 

 

「腹減った」

「……元気ですなあ」

 

 

 目を覚まして、開口一番に空腹を感じた。

 外の音へ耳を澄まして、風がおさまっているのを確認する。

 

 

「そろそろいいだろう。ちょうど鹿肉があるし、出るか」

「ええ、いい加減あなたの顔も見飽きましたしね」

「ははあ、ひどくない?」

 

 

 出ようと身じろぎをする。

 ガリガリ。

 そのとき外から鹿が揺すられた。

 

 すわ追手かと、警戒を強める。尾形を先に鹿の外へと出してから、私も続いた。

 

 目と目が合う〜、ヒグマ〜〜!

 

 羆の群れに囲まれていた。鹿の死骸の臭いで寄ってきたんだろう。

 

 

「尾形静かに!」

 

 

 冷や汗をかきながら、尾形が鹿から這い出た体勢のまま固まっていた。

 

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