泥中之蓮   作:ふみどり

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 父と母が去った実家は、以前よりはやはり静かになった。

 長く勤めてくれている女中はいるが、通いなので俺の帰宅時に家にいることは少ない。俺の帰りを迎えてくれるのは、住み込みで家に仕えてくれている、そしてその顔を見ると鏡を見ているのかと思えてならない彼のみである。

 

「晴仁さま、おかえりなさいませ」

「ただいま」

 

 言葉のうえでは丁寧だが、長い付き合いだ、軽い調子で俺を迎え、夕食の用意は出来ていますよと荷物を受け取ってくれる。

 こきりと肩を鳴らして、すぐ食べる、と俺は答えた。

 

「かしこまりました。しかし、珍しく遅かったですね。急ぎのお仕事でも?」

「帰り際に知り合いに呼び止められてな」

「それはそれは、迷惑ですね」

「相変わらずばっさり言うね、お前」

 

 失礼しました、と笑顔で言う彼は、どう見ても少しも悪いとは思っていない。まあ、そういうやつなことは百も承知だし、俺としても彼の言葉を諫める気はなかった。少し笑って、続ける。

 

「尾形上等兵だよ」

 

 ほう、と、彼の瞳が面白そうに輝いた。俺が見聞きしたことのすべては、彼にも共有されている。それは昔からの習慣であり、契約でもあった。

 

「夕飯ついでにその話をしよう。……お前にも動いてもらうことになるかもしれないな」

「おや、愉快な話だと良いのですが」

 

 お前にとっては厄介ごとなんて全部愉快だろ、と軽口をたたくと、俺と同じ顔をした彼は、何を仰っているのかわかりませんね、と軽く空とぼけてみせた。

 

   *

 

 その翌日のことだった。仕事を終え、帰路につこうとすると、またもや見知った顔に声を掛けられる。正直、うわこいつか、と思ったことは否めない。

 

「久しぶりに会った知己に対して何だ、その顔は」

「悪いな、根が正直でね。久しぶりだな、鯉登少尉」

「公の場でもない、いつも通りでかまんぞ、晴仁」

「……音之進」

 

 音之進ともまた、親同士の縁で知り合った。勇作ほどではないが、それなりに付き合いの長い知り合いと言える。友人と言えるほど腹を割った付き合いをしていたかは微妙なところだが、彼自身の人間性は別に嫌ってはいなかった。控えめに言って尊大な性格ではあるが、そのぶん馬鹿正直でもあるので話しやすくはある。ただ興奮させるとちょっとばかりうるさいので、声を落とせと思うだけのことだ。

 

「お前も帰りか?」

「ああ。聞いていると思うが、もう数日で北海道に発つのでな。その前に酒でも飲もうとお前を待っていた。店はとってある、ついて来い」

「……せめて形だけでも俺の予定を聞いたらどうだ」

「どうせ暇だろう。お前の家には知らせをやってあるぞ」

 

 感謝しろと言わんばかりの態度に、やれやれと首を振ってみせる。言ったら聞かないやつであることは百も承知、どうやら誘いに乗るしかなさそうだ。

 音之進と飲むこと自体は別にいい。だが、こいつが誰に心酔しているのかはよく知っている。さて、これが本当に音之進の気まぐれによるものなのか、さて。

 

「……誘ったからにはお前の奢りだな?」

 

 とはいえ、虎穴に入らなければ虎子は得られない。音之進は相応に優秀な軍人だが、腹芸なら俺の方が上だ。俺から情報を引き出すつもりにしろ、俺を取り込むつもりにしろ、「あのひと」の意図を欠片でも得られれば重畳だ。

 俺の言葉を聞いた音之進は、呆れたと言わんばかりに溜息をついてみせる。

 

「相変わらず仕方んなか奴じゃ。年上のくせに」

「じゃあ少しは年上を敬ってみせろよ。年下のくせに」

 

 黄昏の路地に、烏の鳴き声が響く。

 

   *

 

 上等な清酒が舌に馴染む。さすがは音之進の選んだ店、さらりと個室に案内されたどころか、酒のひとつをとっても質が違った。

 俺もそれなりに裕福な生活をしているのだろうが、父が美食には大して興味をもたなかったこともあり、彼ほどの高級志向は身についていない。それに、こういうものはたまに口にするから良いのだと思っている。

 

「ひとの金で飲む酒は格別に美味いな」

「思っちょっても口に出すな」

「まあ許せよ、最近安酒すら飲む暇はなかったんだ」

 

 少しばかり昇進したが故の軽口であったが、音之進はそうは取らなかったらしい。少し表情を改め、言いにくそうに口を開いた。

 

「……お父上のことは、大変だったな」

 

 言われてようやく「あっそういえばそんなことあった」と思ったが、せっかく同情してくれているようなので乗っておくに越したことはあるまい。

 音之進は孝行息子だ。自身のお父上を心から尊敬しているし、息子が出世のために父を蹴落とすなど考えもしないのだろう。まして、己の知己がそれをしたなどと。

 

「俺は筋を通しただけだ」

 

 まあ、正しくは「筋を作った」のだが。

 素知らぬ顔でまた酒を傾ければ、音之進はそれを強がりだと受け取った上で、俺の顔を立てることにしてくれたらしい。難しい顔をして頷いた。

 

「……む。じゃっどん、お前(わい)は間違うちょらん」

 

 正しいことをしたのだと、音之進は言う。知っている、性格にまったく難がないとは言わないが、こいつも悪いやつではない。勇作とはまた違う意味で世間知らずであり、どこか人が好い。無論、音之進の場合はある程度見知った人間が相手である場合のみであるが、それでも。

 こいつ俺の腹の中知ったら叩き斬りに来るんだろうなと、笑いが零れそうになるのを酒と一緒に喉に流し込んだ。

 

「俺もそう思うよ。……そう気を遣うな、済んだことだ。別に父上や母上と仲違いもしてないぞ。今も文でやりとりしてる」

「なら良いが……」

 

 残念ながらあのクソ親父、母上とともに思い切り余生を楽しんでいる。

 なかなか良い湯だぞ、お前も政争に負けたら来るといいとか何とか書いて文を送ってくる程度には、湯治を満喫しているようだった。母も母で、生きていて飯が食えるなら全てのことは「あらあらまあまあ」で済ませるようなひとなので、父が軍を辞めたことも辞めた理由も一切気にしていない。

 そんなわけで、良心の呵責など起こりようもない両親だったことには心から感謝している。もちろん仮に恨み言を言われても、心痛んだりするようなことはないのだが。

 

「皮肉にも、おかげで仕事が順調でな。今はそれ以外を考えている暇はないよ」

 

 そこまで言って、ようやく音之進はうむ、と大きく頷いた。

 

お前(わい)のように頭が使えるやつが上にいくんは良かこつじゃ」

「何だ、珍しく持ち上げてくれるじゃないか」

 

 ほう、と少し目を見開いてみせた。先ほどまでの神妙な顔を消し、褐色の肌をした薩摩隼人は力強い眼を見せる。

 

「上の無能で、下は苦しむ」

 

 そう、吐き捨てた。

 

お前(わい)もわかっじゃろう?」

「何だ、酒の誘いじゃなくて造反の誘いか? 音之進」

 

 熱弁される前に、釘を差した。今程度の薩摩弁ならともかく、こいつに興奮して喋られたらさしもの俺も聞き取れない。何より、好き勝手喋られたことを聞き流し、「否定をしなかった」と受け取られてしまうわけにはいかない。

 俺は無能な上層の味方をする気はないが、音之進の味方になる気もなかった。下手に都合良く解釈をされては困る。

 

「すぐに取り戻せるだろ。陸軍最強が冷遇で終わるなどあり得ん」

「そげん問題じゃなか!」

 

 勢いよく振り下ろされた腕に、酒の雫が飛ぶ。もともと頭に血が上りやすいやつではあるが、ここまでだっただろうか。どうやら少し見ないうちに、ますます第七師団──いや、「あのひと」への忠誠を強めていたらしい。

 熱病にでもかかったかのような音之進に、狂気めいたものすら感じてしまう。

 

「音之進、」

「大きな声が聞こえたが、どうかしたのかね?」

 

 ふすまの向こうから聞こえてきた声に、背が震えた。

 

   *

 

 これは完全に俺の落ち度だ。まさか本人が来ることはあるまいなどと、俺は何を呑気に構えていたのだろう。必要があれば躊躇なく動けるひとだとは理解していたが、俺にそこまでの価値を見出しているとは思っていなかった。

 目の前でにこやかに杯を傾けるひとに笑顔を向けながら、内心の冷や汗を抑え込む。

 

「すまないな、気楽な場であったのだろうに。私がいては気も抜けんだろう」

「お気になさらないでください。鯉登少尉からいつもお噂は伺っておりまして、是非お話ししてみたいと思っておりました。御同席頂けるなんて願ってもない幸運です」

 

 そう言う以外に、俺に何ができると言うのか。

 きっといつかは対面するときが来るだろうとは思っていたが、まさか今日になるとは。まったく、この百戦錬磨の策略家を相手にするならもう少し準備を整えてからにしたかったものだが、とにかく今ある手札と情報で乗り切るしかあるまい。

 

「よろしければもう一献、如何でしょう。──鶴見中尉殿」

 

 ああ、ありがとうと杯を差し出すそのひと。静かに流れていく透き通った酒が、灯りを受けてきらりと輝いた。

 鶴見中尉が来て即刻猿声をあげた馬鹿は、どうやら中尉がいることは知らなかったらしい。もはや聞き取れない早口の薩摩弁を並べ立て何度も土下座を繰り返すので、とりあえずその頭を畳に叩きつけて黙らせた。喧しい声が途切れた瞬間に、鶴見中尉がさっと口を挟む。

 

『柊木少尉とは一度ゆっくりを話をしてみたかったんだが、同席しても構わないか?』

 

 続けて表に迎えが来ているはずだから遅くなる旨を伝えてきてほしい、と音之進に申し付ける。

 忠犬音公は喜び勇んで飛び出していったのだが、戻る気配がないところを見ると、その「迎え」はこの状況を承知しており、そのうえで音之進を引き留めている。

 すべて計画づくらしい。まったく、嫌になる。

 

「君の噂はよくよく聞いているよ、柊木少尉。非常に優秀な頭脳を有しており、その人柄も公正明大、欲に負けず情にも流されず、道理でものを考えられる人間だと」

「過ぎた評価ですよ。毎日必死です」

「はは、昇進してすぐにそうは慣れまいよ」

 

 そこで中尉は声を落とし、もう聞き飽いているかもしれないが、と前置きして続けた。

 

「……お父上は、ご立派だった。手段はどうあれ、その志は賞賛されるべきだろう」

 

 その言葉に、なるほど、と内心で膝を打つ。さすがは情報通の鶴見中尉、一応伏せられている父の「罪を犯した動機」を知っているらしい。口の軽い上層が漏らしたのだろうか、音之進でさえ横領したということまでしか知らない様子であったのに。

 

「……そこまでご存知でしたか」

「偶然な。……それを知って、納得したよ。柊木中将のお人柄は知っていたが、決して私利私欲で動く方とは思えなかった。その方が公金の横領などと……上層がその罪をできるだけ隠したのも頷ける」

 

 目を伏せ、手の中にある杯を揺らす。水面でゆらりと光が揺れた。その光ごと喉の奥に流し込み、ひとつ息を吐く。十分に間を作り、口を開いた。

 

「父が横領した金は、すべて戦死者、あるいは戦争での怪我や病気が原因で動くこともままならなくなってしまった者たちの家族に送られていました。補助金や見舞金という体だったため、その者たちは疑わずに受け取っていたようです。……罪が明らかになった今でも、回収はされていないとか」

「今更回収するのはあまりにも酷という提言があったそうだ。……日露戦争は得るものがほとんどなかったために、彼らへの援助は十分ではなかった。それを柊木中将は憂いておられたのだろうな」

「……しかし、罪は罪です」

 

 少し、強い言葉で言い切る。

 同情するようなまなざしを振り払うように、俺はまっすぐに中尉の眼を見据えた。

 

「中将という立場にありながら、左様な方法でしか彼らを援助できなかったこと。それが何よりの罪であると、私は考えております」

 

 ほう、と続きを促され、そのまま続けた。

 

「中将という立場、その頭脳があれば、正当な手段を用いて彼らを援助することができたはずです。そういう制度をつくるだけの能力はあった。身内贔屓を差し引いても、その程度には有能なひとでした」

 

 確かに時間はかかるだろう、今すぐにとはいかなかったかもしれない。けれど、すぐに援助のための制度案を作成して議題にするだけの地位と能力は確かに父にあった。しかし父はそれをせず、違法な手段で手を差し伸べることを選んだ。

 人道的、人間的には決して間違っていない。けれど、それは「今」しか救えない手段である。この先また戦争が起こり、同じ事態に陥ったとき、軍から追い出された父にはもう何もできない。制度をつくって真っ当に手を差し伸べることも、また違法な手段を用いて援助をすることさえ、叶わないのだ。

 そんな一時凌ぎでしかない手段を用いたこと、それ自体が「中将」としての罪である。

 

「挙句、私程度にそれを見抜かれるなど。……正直なところ、罪悪感はありません。父は、もはやその立場として相応しい人間ではなかった」

 

 と、()()()()()()()()()()()()()()

 もちろんあのひとでなしの父がひとに援助などするはずもないし、後ろ暗い手段を用いて弱味をわざわざ作ることなどない。弱味も隙も見せない以前に作らない、それが我が敬愛する父だ。

 だからわざわざつくった。父上を、正々堂々蹴落とすための「罪」を。最後まで父には露見せずに裏工作できたあたり、俺もなかなか成長したというものだろう。

 この「横領の動機」が露見すれば「援助が不十分な上層の無能」も露見することになる。だから決して大声で語られることはなく、それ故に真実味も増しているはず。

 父の表向きの顔しか知らないひとにはこの動機を疑う理由がないし、あの父がそんなことをするはずないと知っているひとは基本的に父の政敵だ。わざわざ父の無実を証明してやる義理などない。

 誰も「真実」を暴く必要がない、そういう筋書きを拵えたが――さて、このひとにそれが通用しているか。

 

「……いや、美事。噂に違わぬ──噂以上だ、柊木少尉」

 

 手すら叩いてくれる鶴見中尉に、軽く頭を下げる。感嘆してくれている気持ちはどうやら嘘でないらしい。

 ゆっくり頭をあげながら、次の言葉を待った。

 

「君は、己がなすべきと断じたことを果たした。正義感とはまた違う、確たる信念をもって。それをできるものが上層でもどれだけいるかどうか」

 

 ゆったりと鶴見中尉は首を振る。それに合わせて、その額を覆うホーローの表面で光が揺れた。

 そのとき、何の前触れもなく直感が告げる。嗚呼、駄目だった、と。

 

()()()()()()()()()()()

 

   *

 

 この次の行動について、いくらかの選択肢が頭をよぎった。が、その次の瞬間にはもう、俺は肩をすくめて笑っていた。俺は、意味のない問答は好かない。

 

「……お褒めに預かり光栄です」

「いや全く脱帽の想いだとも。そこまで言われてお父上の罪を疑う者はいないだろう」

「どうでしょう。実際、貴方には通用しませんでした」

 

 はったりの可能性も考えはしたが、どちらにしろその可能性を悟られた時点で負けも同然なのだ。さすがというべきか鶴見中尉、情報を扱う立場なだけあって、その真偽や隠された意味を捉えるのがお得意とみえる。ならばもう、誤魔化すだけ時間の無駄というものだ。

 

「真実がわかったところで公表は出来んよ。閣下の失脚で喜び勇んどる上層の存在がある限りはな。そこまで織り込み済みなのだろう」

「辿り着く方がいた時点で策としては失敗ですよ。私もまだまだです」

「はは、厳しいな。それもお父上の教育の賜物かね?」

「仰る通りです。まあ今となっては説教される謂れはありませんがね」

 

 ひとしきり笑顔をかわして、黙る。お互いに笑顔を保っているが、その間には火花が散ったような気がした。

 まったく、これだからこのひととは極力関わり合いになりたくなかったというのに、どうして北海道へ向かう前に接触を持ってしまったのか。音之進あとで見てろ。

 

「ひとつ、尋ねても良いかね?」

「何なりと」

「何故、そのようなことを?」

 

 そこで何故、と問うあたり、俺のこともしっかり調べて来てくれているらしい。つまり、立身出世のために父を蹴落としたわけではないことを理解されているのだろう。尾形上等兵にも言われたが、俺はそんなに権力に興味のない人間に見えるのだろうか。もう少し自分の人間性の演出というものも考えるべきかもしれない。

 

「ひとの言葉を借りるなら、『親殺しは巣立ちのための通過儀礼』だそうですよ」

 

 とはいえ、馬鹿正直に「あんたへの対策です」とはさしもの俺も口には出せない。

 もっとも、この言葉もあながち嘘ではなかった。いつかは父を越えねばという想いがあったことは否めない。まさか直接的に手を下すことになるとは思っていなかったが。

 鶴見中尉はふむ、と頷いてはくれたが、おそらく納得はしていないだろう。しかしそれ以上の言及はせず、君は、と言葉を続けた。

 

「使命感で動く人間には見えんな」

「仰る通りです」

「かといって、私欲で動くわけでもない」

「そうでしょうか」

 

 自分ではわりと私欲で動いていると思っているのだが、確かに金銭とかそういったものには興味がない。財力も権力もあったら便利だが手間は増えるし、不足すればその分ほかで補えばいいのだ。頭を使えばさほど世の中に不可能はない。

 

「だからこそ、難しい」

 

 どうすれば君は私の部下になってくれるのだろうね?

 面白そうにそう問うてきた鶴見中尉に、こちらも口角が吊り上がる。

 

「──貴方にそこまで率直な言葉を使わせた自分を、心から誇りに思います」

 

 絡め手でなく、直球を使わせた。それがどれだけ希少なことかはわかるつもりだ。

 にっこりと微笑んでみせると、やれやれと言わんばかりに鶴見中尉は両手を広げる。相変わらず、大袈裟に身振り手振りをつけるひとだ。そこから受ける印象も計算のうちなのだろう。警戒から手に力が入る。

 

「手段があるとすれば利害関係を結ぶことなのだろうが、君が望む利益というものが一向に見えん。君、何か欲しいものとかないの?」

「強いて言うなら平穏で腹の探り合いをしなくていい日々が欲しいですが」

「何で君は軍に入ったのかナ~~~?」

「あの父の息子に生まれたことが運の尽きですかねえ」

 

 はっはっはとふたりして大きく肩を揺らした。

 鶴見中尉には悪いが、俺がこのひとの下につくことはないだろう。何故と言われれば話は簡単で、俺はひとの盤上で駒として踊る気はないからである。ましてひとの盤上で駒として「散る」つもりも一切なかった。

 そういう意味では、このひとは父に似ている。このひともまた、必要とあれば必要なだけひとに「死ね」と言える類のひとだ。そのときに喜んで死んでくれるひとを日頃からせっせとつくっているのだろう。

 不気味なのは、その目的が見えるようで見えないということ。

 

「……鶴見中尉殿、貴方に習って私も率直に伺ってみたいと思うのですが」

「いいとも。何だね?」

「貴方は、北海道で何をなさるおつもりなのですか?」

 

 多数の部下を心酔させた。おそらくは中央を仮想敵と見なすことで、第七師団の結束をさらに強固なものにした。上層に取り入り、弱みを握り、より動きやすくなるよう工作していることも知っている。

 中央への造反への用意、ではあるのだろう。しかし、どんな大義をもって。どんな目的で。どんな手段を用いてそれを果たそうと言うのか。

 正面から中尉を見据え、返答を待つ。彼の真っ黒な瞳はただただまっすぐだった。

 

「君の言葉を借りるなら……『違法な手段』を用いて、『今』苦しんでいる者たちを救うつもりだ。散って逝った戦友たちにも報いねばならんと思っている」

 

 非常に真摯な声だったように思う。決意と覚悟がにじみ出るような。

 その声を聞いて思った。

 ──なるほど、これは()()()()()()

 

「……鶴見中尉殿」

「うむ」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ほとんど反射的に、俺の口はそう動いていた。自分の言葉に驚いて息を呑む。それを聞いた鶴見中尉もその一瞬は動きを止めた。

 次の瞬間、まるで破裂したようにふたりで笑っていた。なんとまあ、自分でも驚いている。いったい何を言っているんだ俺は。完全に何も考えないまま自分の口から飛び出た言葉だった。強いて言うなら鶴見中尉の雰囲気に流されまいという抵抗、それに負けず嫌いか。餓鬼すぎて自分でも笑ってしまう。

 

「は、はは、なるほど笑わせてもらった。いや失礼したね」

「いえ、どうぞ存分に笑ってください。私も笑います、ははは」

「ふふふふふ。そうかそうか、よくわかった。……どうやら」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 優しい声なのに、ひやりと冷たいものが背を走る。

 そんな自分を切り捨てて俺は微笑みを保ったまま頷いた。

 

「どうも、そのようです。申し訳ありません、我ながら筋金入りの負けず嫌いでして」

「うむうむ、若い時はそれくらいの方が元気があってよろしい!」

 

 しかし、と鶴見中尉はぐるりと視線を眼球を動かし、首を傾ける。ホーローの下から何か液体が零れ出ているのが見えた。それはたらりと不気味な線を顔に描いていく。

 

「君のように将来有望な若者が、私の敵にならんことを祈るばかりだな」

「……私も同じ気持ちです、鶴見中尉殿。ところで何か垂れてますよ」

 

 おっといけない、とそれは手巾で拭われ、真っ白な生地に跡を残した。

 

   *

 

 とっぷりと暮れた道を歩きながら、息をついて頭の中を整理する。

 あの後、鶴見中尉はすぐに席を立ち、見送りついでに俺も店を出ることにした。店の前には音之進と鶴見中尉の部下らしきひとが立っており、中尉の戻りを待っていたようだった。

 音之進は何かと理由をつけてそのひとに足止めされていたらしく、猿声をあげながら中尉のご相伴に預かれなかったことを嘆いていた。

 それを無表情で眺めていたそのひとは、確か月島基軍曹、でよかったと思う。鶴見中尉の腹心ともいえる部下で、音之進のお目付け役のはずだ。目があったのでにこりと笑っておくと、深く礼を返された。いやほんといつも音之進の面倒ご苦労様です。だがもうちょっと静かにするように躾けておいてくださいお願いします。その気持ちが伝わったのか、そっと目線をそらされた。おい職務放棄すんじゃねえ。

 

「では柊木少尉、なかなか楽しかったよ」

「こちらこそ。北海道での任務、どうぞお気をつけて」

「ああ、ありがとう。君もこっちで頑張りなさい」

「恐れ入ります」

 

 そんな和やかな挨拶をして、とりあえず俺はさっさと逃げた。音之進はまだ何やら言いたそうだったが、さすがに俺も疲れた。こんな日は余計なことを言う前に帰って休むに限る。

 無駄に回転させてしまった頭に夜風が当たって気持ちいい。もう今日は頭を使いたくないなと思いながら足を進めるが、そんな日に限って後ろからついてくる足音がやけに耳に障った。

 尾行がついているのは今日が初めてではない。結構に長い間、毎日のように俺を送り届けてくれる「誰か」がいることには気付いていた。こちらに危害を加える様子もないし、どうせまっすぐ帰るのだからと放置していたのだが、どうも疲れから気が短くなっているらしい。

 長期間に及ぶ尾行成功で油断しきっているらしい足音を聞きながら機を窺い、ちょうど角をまがるところで走り出す。わざと走る足音を大きくたて、そのまますぐに足音を消して路地に入り込む。息を切って走ってくる気配が横を通り過ぎたのを確認し、ゆっくりと路地から出た。忙しく周囲を見渡している軍服の後ろに立つ。

 

「こんばんは。よい月夜ですね」

 

 ぎくり、と震えて振り返った彼には、見覚えがあった。

 

「これは、宇佐美上等兵ではありませんか。ご挨拶するのは初めてですね」

「……まさか私ごとき末席の顔と名前まで憶えていてくださっているとは思いませんでした」

「何を仰いますか、第二十七聯隊の宇佐美時重上等兵。細身ながら非常に体術に優れた方だと伺っておりますよ。まさか私の警護まで務めてくださっていたとは思いませんでしたが」

 

 その両頬の黒子はなかなか忘れられるものではない。そうでなくとも出来得るかぎりの兵の顔と名前は基本的に覚えている。人心掌握やその他あらゆる状況において、知っていると何かとお得なのだ。こうしてうっかり「お話」することになってしまったときなど、特に。

 

「まあ、だいたい予想はつきますので、ご伝言をお願いしてもよろしいでしょうか」

「……どなたに、でしょう」

「無論、私の警護を言いつけた方にですよ」

 

 にこり、ともうひとつ笑う。

 

「私は父に情報を流したり、まして指示を仰いだりするようなことはしておりません。あまり……そう、『舐めるな』と、そうお伝えください」

 

 まあ、今日直接話したからもうわかってくれているとは思うけれど。

 これまでの全ては俺の判断によるもので、父の意向は一切関係ない。どうせまだまだ若い俺がどこまで自分の意志で動いていたのかを図りかねていたのだろう。どうせ父との間で交わされた文も検められていたに違いない。そんなことをしても何も出てこないというのに、わざわざご苦労なことだ。

 宇佐美上等兵は、警戒をしたようにわずかに体勢を低くして、言った。

 

「……柊木少尉殿」

「ご安心を。貴方のことを咎めるつもりも公にするつもりもありません。今日もご挨拶はさせて頂きましたが、改めて『遠路お気をつけて』とお伝えください。ああ、もちろん貴方も」

「……恐れ入ります」

 

 結構、と言い捨てて、俺はその隣を悠々と通り過ぎる。ついでと言わんばかりに、意趣返しのひとことも付け加えた。

 

「諜報活動の類、得意ではいらっしゃらないようで」

 

 通り過ぎてしばらくした後、背後から何かを殴ったような音が聞こえた。なるほど、やはりそういう任務には向かないひとであるらしい。

 

   *

 

 いつも通り、鏡合わせの顔がおかえりなさいませと俺を迎えてくれた。

 鯉登様から使いが参りましたが、楽しゅうございましたか、と含み笑いつきで投げられた言葉を軽く無視して、俺はそいつに笑顔を向ける。

 

「なあ、影臣(かげおみ)

「何でしょう」

「お前も随分働きづめだよな」

 

 何を企んでおいでですか、と同じ顔の共犯者は片眉を上げる。労っただけなのにひどいな、と返せば、影臣はわざとらしく溜息をついてみせた。

 

「何しろ()のことでございますので、それくらいはわかります」

 

 私とて、そう申し上げるときは間違いなく何か腹に一物あるときでございますから。

 その言葉に、なるほど道理だ、と笑ってみせる。それで、と彼は続きを促した。

 さすがに俺は中央を動けない。だが影臣なら構わない。うちの家人に過ぎない影臣がどこで何をしていようが、軍に咎められるはずもない。

 

「少し骨休めして来いよ。とりあえず、北海道あたりで」

 

 お給料の割り増しを要求しますと即座に言い返した影臣(はるひと)に、晴仁(おれ)は声をあげて笑った。

 

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