かつて海洋生物で賑わった水族館の屋外の水槽の水は、生暖かい夜風に揺蕩い、縁にとぷとぷとさざ波を立てている。その様子はすっかりお馴染みになった人魚の来訪を歓迎しているかのようだ。手入れはされているものの、長い間使われなくなったその大きな水槽は、普段は水族館の裏で人気もなくひっそりと佇んでいる。
いつもなら水中に飛び込むと優雅に旋回して水と戯れる彼女も、今日は元気がない。水色の瞳に憂いを湛えながら、ただゆらゆらと水面に浮かんでいるだけだ。
夏休みは半分が過ぎ、八月も中旬に差し掛かろうとしている。
ローラは水槽の水に浮かびながら星空を見上げた。水に身を浸していると、火照り切った身も心もひんやりと癒される。星空の天井には、そこ此処で奏でられる虫の音が深々と鳴り響く。その音はローラの脳内に反響し、混乱した頭の中を鎮めていく。
目を閉じると洋樹の横顔が浮かんでくる。
『だから、ローラが俺の生き方が好きって言ってくれた時は、本当に嬉しかったよ』
『ローラ……。好きだ。付き合ってほしい』
昨日から何度、彼の言葉を頭の中で反芻したか分からない。こんなにも心を満たし、解してくれる言葉が他にあるだろうか。洋樹と共に、その愛情に包まれて生きて行けたら、どんなに幸せだろうと思う。
しかし、それは甘い幻想に過ぎない。
私は人魚で、いづれグランオーシャンの女王になるのだから。洋樹だって、いづれは別の人と心を通わせて、またあんな風に……と、そこまで考えを巡らせるとローラは耐えられなくなって、とぷんっ、と水中に潜る。
その瞬間に、地上の世界は遮断される。水の中から厚いガラス越しに見える外界は揺らめき、もはや輪郭すら心許ない。先程まで響いていた虫の音はぱたりと消えて、水流のうねる様な雑音とこぽこぽという水泡の音が聞こえるだけだ。
これが、私の世界。
胸の奥の疼きを振り払うかのように、ローラは水中を旋回しながら潜水する。そして水槽の奥深くから水面に向かって加速するとそのまま上空に舞い上がった。
やはり、月明かりに照らされ、夜空を舞う人魚の姿は、美しい。
着水した後、ローラは深い息を吐いて再び水面に浮かび、ぼんやりと星空を眺めている。すると、そこへ水族館の方角から近づいてくる人影がある。
恐らくやって来るだろうと思っていた。その心当たりがあるシルエットを見ると、ローラは深呼吸を一つして、呼吸を整える。
洋樹は水槽の前まで来ると、ガラス越しに人魚のローラに声をかける。
「ローラ」
「洋樹……」
「電話したら、さっき外出たって聞いたから。ここにいるんじゃないかと思って」
洋樹は人魚のローラの姿を見つめ、初めて会った日のことを懐かしく思い出す。
「人魚の姿見るの、久しぶりだな。初めて会った時以来だ。やっぱり……、綺麗だな」
「……当然じゃない」
ローラは水槽から上がると、人間の姿になって洋樹と並んで客席に腰を掛けた。
「昨日は突然ごめん。驚いた?」
「ううん。そんな話になる気がしてたから」
「なんだ、お見通しかよ」
子どものように口を窄めてぼそりと呟く洋樹に、ローラは一瞬肩の力が抜けたようにふっと笑う。
洋樹は夜空を仰ぐと大きく息を吸って、ゆっくりと吐きだす。両手の拳を膝の上でグッと握り、そして意を決して切り出した。
「あの後話、できなかったけど、でも、の後の気持ち、教えてくれる?」
洋樹は上半身を屈めて膝に肘を乗せて両手を組むと、ローラの顔を横から覗き込む。
ローラは俯きながら、昨日から考えていた言葉を紡ぐ。
「……洋樹のことは、好きだけど」
「……けど?」
「……付き合うことは、出来ないわ……」
ローラは声を絞り出す様にそう告げた。言い終えた後に、鼻の付け根の辺りが徐々に熱くなってくるのを感じ、ぐっと堪える。一方で洋樹は予想はしていたものの、振られたショックで気が動転しそうになるのを必死で平静を保っている。
「……何で?」
「だって、私、人魚だし……」
「そんなこと、分かってるよ……?」
「本当に、分かってるの?」
ローラは顔を上げて洋樹に問いかけると、再び俯いて囁くように続ける。
「言ったでしょ。いつかグランオーシャンに帰って、女王になるって。それが私の夢だって」
「……うん」
「ずっと一緒にはいられないのに、離れ離れになる事が分かってるのに、付き合う意味が、あるの?」
ローラは洋樹に訴えかけるような視線を向けて問う。
「それは、俺も、考えなかった訳じゃないよ。ローラが人魚の国に帰ることは、初めから分かってた事だし……。それでも、いつかその時が来るって分かっていても、俺はローラと一緒にいたい。それじゃダメかな?」
「でも、恋愛は、友達とは違うでしょ?グランオーシャンでは、みんな家族みたいなものだから、恋愛っていう概念はないの。人間は、好きになって、付き合って、別れたらまたいつか新しい人と出会って、そのうち結婚して……」
そこまで言うと、ローラは膝の上に置いた手を握り、一呼吸置き続ける。
「付き合って、楽しい思い出を重ねて。今が楽しければいいとか、別れることが分かっていてもいい、なんて……。私は、思えない」
ローラの囁く声は虫の音の中に消え入るほどに小さいが、語尾にははっきりとした意志が感じられる。
洋樹は何とか言葉を返そうとするが、ローラが口にする不安に対して、納得のいく答えが出てこない。下を向き沈黙する洋樹を見て、ローラは再び目を伏せて語り出す。
「だからもう、これ以上会わない方がいいと思うの。……会いたく、ない」
何か、言わなければ。焦燥感がじわじわと洋樹を追い立てる。何か、言葉を繋がなければ、ローラは行ってしまう。
「少しの時間だったけど、すごく……楽しかった。どうもありがとう」
もう、会わないってこと?突然の別れの宣告に洋樹は動揺を隠せない。
「ローラ、ちょっと、待って」
「ごめんなさい」
ローラは唇をぎゅっと噛み、目を伏せたまますっと立ち上がり寮の方角へ立ち去ろうとする。その瞬間洋樹の胸は激しく動悸を始め、冷静さが失われてしまった。
「ちょっと待って!じゃあ、じゃあ!今まで通り、友達のままでいいから!」
ローラを失いたくない。咄嗟に心にもない言葉を口を突いて叫ぶ。同時に、激しい後悔が渦を巻く。そんな誤魔化しを、ローラが望むわけはない。
ローラは鋭い視線で洋樹を睨むと、声を震わせて反論する。
「そんな、自分の気持ちに嘘をついて一緒にいても、虚しいだけじゃない!見損なったわっ……!」
そうしてさっと身を翻すと、寮の方角に向かって足早に駆けて行った。
「ローラッ!!!」
追いかけるべきであることは分かっている。しかし、今追いかけたところで、思い浮かんだ言葉を並べ立てるだけでは、今のように更に傷つけてしまうだけだ。
「俺の……バカやろうッ!!!」
洋樹は客席に荒々しく腰を落とすと頭を抱え、髪の毛を両手でグシャリと掻き乱しながら激しい自己嫌悪に陥った。
何という失態だろう。
一度冷静になってローラの言葉や自分の気持ちを整理し直さなければ。
「くっそ、何やってんだよ……っ!」
洋樹は肚から煮え立つ自身への怒りとともにその場に頭を抱えて蹲った。
玄関のドアが開くと、まなつはダイニングテーブルの椅子に座ったまま、玄関の方に身を乗り出してローラを出迎える。
「あ、ローラおかえりー。春波君と会えた?」
「……うん」
帰ってきたローラにまなつが声をかけると、ローラは俯いたまま足速にリビングを通り過ぎ部屋へと入る。そのまま静かに扉を閉めた。
「ローラ?」
その後も部屋からなかなか出てこない。まなつがローラを気にかけて部屋に入ると、明かりがついていない。まなつは扉の脇のスイッチに手を伸ばしたが、直前で思い直してやめた。
月明かりを頼りにロフトの階段を登ると、ローラはうつ伏せになってベッドに突っ伏していた。
まなつはベッドの脇まで歩み寄ると、床に膝を付いてローラに話しかける。
「ローラ?春波君と、何かあった?」
ローラは枕に顔を埋めたまま、口を開こうとしない。
「ローラ……泣いてるの……?」
少し間を置いて「泣いてなんか、ないわよ」と、掠れるような声が聞こえた。
「でも……」
声が、震えてるよ……?
「ごめん、まなつ。今日は……、今日だけは、一人になりたいの」
「……うん。分かった」
まなつはローラの言葉に素直に頷くと、ロフトを降りてそのまま部屋を後にした。
深夜、どすんっという何か重量のあるものが床に落ちる音でローラは目を覚ました。ロフトから顔を出して下を見遣ると、やはりまなつがベッドから滑り落ちている。
ローラはロフトから降りると、全開に開け放している窓を拳一つ分くらいまで閉めて、床でお腹を出して寝ているまなつにタオルケットをかけてやる。
「ほんと、世話が焼けるんだから」
枕に顔を埋めているうちに、そのまま寝てしまったらしい。時計を見ると夜の十一時過ぎを指している。
部屋を出ると、リビングでは碧がテーブルでパソコンに向かっていた。碧はローラに気づくと「あれ、ローラ、まだ起きていたの?」と、声をかける。
「いえ、ベッドで考え事してたらいつの間にか寝ちゃって」
「そっかぁ。それだったら、お風呂で少しぬるいお湯に浸かって温まるといいわよ。この時間に起きちゃうとなかなか寝付けなくなるでしょう?入眠には体を温めるのが一番だからね」
「はい。ありがとうございます。碧さんは、まだ寝ないんですか?」
ローラが尋ねると「うん。水族館の新しい生物の展示のことで、少し調べ物しててね。つい夢中になっちゃって」と、碧はあはは、と明るく照れ笑いをする。
ローラはその様子を見て、何かに夢中になっている大人というのは素敵だな、と思う。 そして洋樹もこんな風に楽しそうに働いているのかな、などと思うと同時に、さっきもう会わないって話をしたばかりじゃない、と心の中独りごちる。
「ローラ?どうかした?」
「あ、いえ……お風呂、入ってきます」
「ごゆっくりね」
ローラが風呂に向かおうとすると、碧はふとローラを呼び止める。
「ローラ?もし何か考え事をしているなら、早急に答えを出そうとしなくてもいいんじゃない?思い詰めているときは、いい答えは浮かばないって言うし、ね」と、ウインクをした。
「はぁ〜……」
重たい気持ちを溶かす様にぬるい湯船に浸かる。湯気でぼんやりと霞む浴室の中、また洋樹の顔が浮かんでくる。
昨日から、自分の気持ちを一つずつ整理してきた。はっきりしていることは、洋樹のことが好きだということ、しかし、自分はいつかグランオーシャンに帰るということ、そして、いつか別れの日を迎えた時に友人として洋樹の幸せを願うことは出来ないということだ。
好きだけど、付き合うことはできない。そして、それならばもう会わない方がいい。何度も考えたが、自分の出した答えに、間違いはない様に思われる。
そんな折、洋樹から聞いた彼の母親が遺した言葉が思い起こされる。
『自分の思う通りに生きていれば、必ずそれを認めてくれる人が現れるからって』
きっと、自分が側にいられなくなった後も洋樹が前を向いて歩いて行けるように、強い祈りと励ましを込めて遺した言葉に違いなかった。出来れば自分が、彼女が誰かに託した洋樹への思いを受け取りたかった。
洋樹を、傷つけてしまって、ごめんなさい。でも、私は、ずっと彼の側にはいられないから……
一方、こちらは時を同じくして暗い部屋のベッドの上で眠れぬ夜を過ごしている洋樹である。
少し開けた窓の隙間から、生温い風がベッドを掠めて行く。天井に吊るしている太陽系惑星のモビールが暗がりの中ぼんやりと光りながらゆっくりと回る。
『洋樹のことは、好きだけど』
洋樹はローラの言葉を思い返していた。ローラは、最初に確かにそう言った。
なんだ、両思いではないか。両思いなのに、離れ離れにならなくてはいけないなんて。結ばれない運命というのが、この世にはあるものなのだなぁ、などと、他人事のように思いつつ、これだからいけないのだ、と自戒する。いざその時にならないと、当事者として現実的に自覚できないのだから。だから、ローラが人魚の国に帰る段の話になったら何も言えなかった。
ローラは人魚であり、いづれ人魚の国に帰る。それは動かしようのない事実であり、考えても仕方のない事だと諦めていた。それならば、できる限りの時間を一緒に過ごしたい。いづれ傷付くことになろうとも、それでもいいと思っていた。
しかし、傷付くのは自分だけではない。ローラも同じではないか。なぜ、それに考えが及ばなかったのか。
ローラも自分のことを好きでいてくれていることが分かった以上、ローラを諦めるつもりは毛頭ない。しかし、結ばれない運命であるのに、付き合う意味があるのか、というローラの問いに、十分な答えが出せない。
己れの不甲斐なさに、洋樹はぐったりとしながら寝返りを打つと、壁のタペストリーが目に入った。
俺は、再び大切な人を失うことに、耐えられるだろうか。
そんな自問が浮かんでくると、洋樹はまたここで考えるのを中断する。それは、今考えても仕方のないことだ……。
こうして堂々巡りを繰り返し、夜は更けていくのであった。