家に帰るなり自室に向かおうとした由真を寧々は呼び止めた。
「ごめん、今日は疲れたから寝たい」
「それはいいんだけど……」
寧々の目は、種がある人間に重なるようにして赤い光を映し出す。その光があれば能力者で、その光の様子でその能力者の状態を知ることができ、さらに目を凝らすとその能力がどんなものかを解析することもできる。けれど由真だけは他の能力者とは違う見え方をしている。無能力者とは明らかに違う気配はある。子供の頃の検査で種が普通に見つかったというから、間違いなく能力者ではある。けれど能力者であることを示す赤い光は見えないのだ。だから今、由真の能力がどういう状態にあるのかを寧々の目で見ることはできない。
「由真」
でも、数年間過ごしてきてわかったこともある。由真の力は彼女の負の感情によって増幅される。だから今日のように彼女の気が立っているときは、いつもとは違うものを感じるのだ。
――まるで由真が能力に引き摺られて、自分を見失っているように見える。
だから寧々はそっと由真を抱きしめる。彼女がここに戻ってこられるように。自分自身の輪郭を思い出せるように。できることといえばそれくらいだ。
「どうしたの、寧々」
「おやすみ前のハグ? なんとなくよく寝られそうな気がして」
「何それ」
本当は由真がどこかに行ってしまわないようにこうなって繋ぎ止めようとしているのだ、と言ったら、由真はどんな顔をするだろうか。少し困ったような顔で笑うだろうか。彼女を困惑させるつもりはない。ただ、この温度が由真に伝わることを望んでいるだけだ。
「いっそ一緒に寝よっか、由真」
「寧々寝相悪いから嫌だ」
「それ結構前の話じゃん! まあいいけど。おやすみ、由真」
自室に戻る由真を見送ってから、寧々はリビングのソファーで息を吐き出した。戸棚からマグカップとドリップコーヒーのパックを取り出して、電気ケトルのスイッチを入れる。まだ眠るつもりはない。やることが残っているのだ。
「……あの二人は同じグループってことね」
発信機をつけた売人の位置情報は寧々のパソコンで見られるようになっている。音質は悪いが会話も盗聴できるようになっていた。純夏の友人に薬を売ろうとしていたあの男たちはあるカラーギャングの一員らしい。そしてそのリーダーが二人の報告を聞いている。
『別にいいんだよ。あれは上客でもないし。そもそもあれの本当の効果はまだ知られてない』
『だけどあの一条って女、
『確かにそうらしいが、あの女自体はどこにも肩入れしないことで有名だからな。あれはお前らが売ろうとしていた相手が一条の友人だったとかそういうことだろう』
リーダーの男は比較的冷静な人物のようだ。そして一条とは間違いなく一条純夏のことだ。どうやら純夏は界隈ではかなり有名な人物らしい。そして複数のカラーギャングのうち、赤をチームカラーにしているのが「焔」で、青をチームカラーにしているのが「
「……ハル姉に頼むか」
早めに解決を目指すのであれば、人工知能であるハルの頭脳を利用しない手はない。寧々はメールの画面を立ち上げて、キーボードを打ち始めた。薬は元を絶たなければまたどこからか湧いてくる。取り返しのつかない事態が起きる前にその正体を掴まなければ。寧々はメールを送信しながらコーヒーを飲み干した。
「機動隊の方も放置はしておけないし……」
能力者の悪意と無能力者の悪意。やり方は違っていても、それが目指しているものはわかる。かつて対峙しようとして、手から擦り抜けていってしまったもの。おそらく二つのどちらかはそこに繋がっている。根拠はないが、寧々は直感でそう思っていた。
「由真……」
寧々は目を閉じた。いつかはまた向き合わなければならない。それは寧々と由真の避けられない運命だと言えた。けれどそれと再び対峙するということは、あの頃の二人に逆戻りする可能性も否定できない。由真と寧々が出会った頃。たかだか二年前。けれど人間は二年あれば変わることは十分に可能だ。この二年、由真を戦わせ続けてしまったことは事実だが、少しずつ良い方向に変わりつつあるのも事実だ。寧々が出会った頃の由真は能力も精神も本当に不安定で、目を離したら死んでしまうのではないかと寧々はいつも思っていた。由真が話さないから、由真がその直前まで何をしていたかを寧々は知らない。けれど寧々が目の当たりにした現場の状況から考えると、彼女はきっと――。
話したくない、と由真は言う。それは相手が刑事である悠子に対しても同じだった。ハルは流石にある程度のことを把握しているだろうけれど、由真が知られたくないと思うことを無理に聞き出すつもりはなかった。けれど知らなければ、それに対して何かを言うこともできない。表面上のものに対処して普通に生活できるようになったとしても、深いところにあるものは静かに心を蝕んでいく。由真は時折、自分自身が壊れても構わないと思っているのではないかと思える行動を取る。最近ではそれも随分減ったけれど、今でも誰にも言わずにそんなことを考えている節はある。いずれは由真のその部分とも向き合っていかなければならないのだ。
*
「そういうわけで、
「頭がいいらしいからな。あと能力は……確かかなり戦闘向きのやつだったかと」
由真に話を聞かれないように、寧々は梨杏が知っている喫茶店に純夏を呼び出した。念の為変装してきてほしいと言うと、純夏は髪の毛を能力で黒く染め、真面目な就活生のような黒いスーツを着てやってきた。
「あの男の能力は調べがついてる。まああの男一人なら由真なら勝てるとは思うんだけど……そういえばこの前のあの子はどうしたの?」
「うちで見てる。今は焔の連中に頼んできたけど」
「そういえば、その焔のリーダーのお気に入りらしいわね、あなた」
「夜遊びするようになって最初に世話になったのがあいつだっただけだ。あいつがあの世界の流儀を教えてくれた。馬鹿だが悪人ではない」
寧々は足を組んでソファーに体を預けた。世間の人間から見ればClanのリーダーも焔のリーダーも、そして純夏も、全て不良で能力者だとひとまとめにされる。純夏を見ていればわかるが、焔の方はどうやら流儀や見得を大事にする、いわば独自の美学を貫いているグループだ。けれどそこでは満足できず、力を求める人たちもいる。
「正直な話、カラーギャングの末端みたいな奴らは今までも散々相手してきたんだけど……能力があるだけで差別されるのはおかしいし、力があるなら使うべきだっていう人たちね」
「気持ちはわからなくもないけどな。私は能力をわりと便利に使ってしまってるし」
「でも人を攻撃する以外に使い方があるのか?って能力の人もいるしね……それは難しいところ。けれど中には能力を使って世界をひっくり返そうと画策している人だっている」
「テロリストみたいだな、それは」
文字通りテロリストだ。能力によるテロ行為はこれまで幾度も起きてきた。機動隊が能力者を忌み嫌うのは、一時期その数があまりにも多いかったからだ。そしてその中でも一番大きかった組織が何故か一晩でほとんど壊滅したという事件があった。情報統制がされてあまり大きく報道はされていないが、寧々にとっては忘れたくても忘れられない事件だ。
「Clanのリーダー……いや、もしかしたらその裏にいる人間かもしれないけど、彼らはこの世界をぶっ壊そうとしているのかもしれない」
「さもありなんだな。あそこは力が全てのグループだ。かといって焔のやり方がいいとも言えないが」
「問題はあの薬なのよ」
梨杏と秘密裏に動き続けて数週間、薬の実物を手に入れてそれを寧々の能力で解析した。結果としては――最悪のことがわかってしまった。
「あの薬を使い続けた人間は廃人になる。――そして、ある特定の能力を持った人間にとっては、自由に操れる人形になってしまう」
「ある特定の能力?」
「空間支配能力……薬に残ってる力はそこまで多くなかったから、確定はできなかったけれど」
「空間支配ってかなり特殊な能力じゃないか? 力の及ぶ範囲の中では何でもできるっていうチートだろ? 本当にそんなの存在するのか?」
知らない人は知らないが、この世界には確かに万能とも言える能力が存在するのだ。けれど効果が及ぶ範囲が狭かったり、代償が大きかったりすることで、それが世界をひっくり返すようなことはいまだに起きてはいない。
「希少度と特殊さだけなら、空間支配を上回る能力者が身近にいるんだけどね……」
空間支配の方が便利な力ではあるかもしれない。けれど片手で数えられるほどの数ではあるが、その能力の持ち主は確実に存在する。むしろ由真の持つ種に直接干渉できる力の方が希少で特殊なのだ。
「空間支配の能力がある一族、みたいなのもいるし。もし私の目が正しくて、あの薬がその能力で作られたものなら……間違いなくその一族が関わっているわね」
けれどそうでなければいいと望んでしまう自分がいることも寧々は自覚していた。思えばこの数年で随分自分も甘くなったものだ。
「いずれにしても、この前のあの子は種がかなり薬に侵された状態だった。何があるかわからないから注意して見ててあげて」
「ああ。それから他の薬使ってる連中もだな。私一人では限界があるが、この事態を憂慮している人間は他にもいる」
「それは心強い。あとは……Clanの後ろにいるものがなんなのか確定した段階で、彼らを潰す必要がある」
大きなグループを壊すことは、街のパワーバランスを崩すことに繋がりかねないが、そもそも最初にその領域を侵し薬をばら撒いたのはClanの方だ。目的が何であれ、このまま放置しておくわけにはいかない。
「人手が必要なら言ってくれれば、それなりには集められる」
「顔が広いってすごいわね」
「そういうんじゃない。ただ……私にとって居心地の良かった場所を壊されて腹が立ってるだけだ」
「そう……けれど前も言ったように今回の件に関しては手を引いてほしいわね。ここからは本当に危険だから」
寧々の推測が当たっているのであれば、相手は人の命を何とも思っていない連中だ。己の力を振るうことしか頭にない、能力者の悪意。戦いの道を選んだわけではない純夏をそれに晒してしまうのはさすがに良心が咎める。
「それじゃあ、何か進展があったらまた連絡するから」
「ああ、頼むよ。こっちでも何か掴んだら連絡する」
寧々は純夏と別れ、駅へと続く道を歩いていく。純夏には言わなかったことがある。いや、純夏に言ったところで、純夏はそれがどういう意味を持つかは理解できないだろう。彼女は空間支配能力を持つ人間の存在すら知らなかったのだから。
「これをみんなにどう説明しろっていうのよ……」
梨杏はすんなり受け入れてくれるだろう。星音や黄乃はまだ反応が読めるほどの付き合いはない。そして最大の問題は、もちろん由真だ。
「確定するまでは由真には言わない……けど」
己の目を、能力を信じるなら――もう答えは見えているのだ。それを客観的な事実で補強しようとしているのは、どこかで自分の見立てが間違いであってほしいと思ってしまっているからだ。
*
二週間ほどは特に進展はなかった。けれど桜が満開になったとニュースが言っていたその日に、ハルに頼んでいた調査の結果が届いた。結果は予想していた通り――寧々にとっては最悪な展開だった。これからどう動くべきか。そもそもこの結果をどうやって伝えるべきか。考えながら朝食を摂っていた寧々は、不意に視線を感じて顔を上げた。
「どうしたの、由真?」
「いや……それは寧々の方でしょ。何かあったの?」
一番言いにくい相手は、人の変化に目敏い。寧々は味のしないトーストを咀嚼しながらはぐらかすけれど、付け焼き刃の嘘は簡単に見抜かれてしまう。じっと見つめる由真の目を普段ならかわすこともできるはずなのに、今はそれができない。
けれど寧々が何も言わずにいると、由真がふっと笑みをこぼした。
「ねえ、今日二人で花見行かない?」
「え?」
何かと思えば急に花見。しかも由真はこの前或果と夜桜見物に行ったばかりだというのに。そのときにすでに散り始めていたというから、もうどこも葉桜になってしまっているのではないか。寧々がそう思っていると、由真がスマホを寧々の前に置いた。
「今ごろちょうど満開になる種類の桜なんだって。梨杏が教えてくれた」
「こんなところあるんだ……」
八重桜が咲き誇る川沿いの桜並木。場所を見ると少し遠かったけれど、車を出してもらえば問題のない距離だ。けれど寧々も由真も店をあけてしまうと、何かがあったときにどうすれば――そこまで考えて寧々はかぶりを振った。これでは由真と同じではないか。自分たちがやらなくても他の誰かが動いてくれることは意外にたくさんある。今日はその人たちに任せたっていいのかもしれない。
「いいね、行こっか」
「ご飯食べたらすぐ準備してね。寧々、準備に時間かかるんだから」
「由真は逆に準備しなさすぎだと思うんだけどなぁ……」
少し遠くに出かけるというのに、ポケットに財布と携帯だけを入れて出かけるときすらある。それだけあればどうにかなるのかもしれないが、あまりの身軽さに寧々はいつも驚かされていた。
朝食を食べ終わり、食器を食洗機に入れてから自室で出かける準備を始める。ハルには由真が連絡をしてくれるらしい。せっかくだからと買ったばかりの菜の花色のワンピースに袖を通す。姿見の前で一回転してみて、これではまるでデートに浮かれる彼女みたいだ――と寧々は思った。
「寧々ー? 準備できた?」
ドア越しに由真の声が聞こえる。寧々は斜めがけの白いポシェットをかけてからドアを開けた。
「おまたせ……って由真さん、あなたは本当にその格好で花見に行くつもりですか……?」
「なんか変なとこある? いつも通りの格好じゃない?」
「いつも通りすぎるから言ってんだけど……まあいいや」
黒いパーカーに黒いズボン。チョーカーの色も黒。花見に行くには彩りが少なすぎる。けれど普段通りのその格好は由真にあまりにも似合いすぎている。本人は目立たない格好のつもりなのかもしれないが、昼間にその姿で由真が歩いていたら確実に人目を引く。
「もうハルさん下で待ってるから。行こう」
よく見ればうっすらと化粧はしているし、マニキュアの色とアイシャドウの色は緑系で揃えてある。由真は由真なりに花見が楽しみなのかもしれない、と寧々は密かに笑みを浮かべた。
店の外に停められていた車に乗り込むと、ハルはすぐに車を走らせた。今ここにいるハルは端末のひとつとして動かしている義体だが、その正体を知る人は少ない。アルカイドのメンバーでも寧々と由真しか知らないし、警察の人間でも知っているのは悠子だけだ。人間のように振る舞う人工知能。この世界に能力者が生まれた頃に、ある目的のために生み出された七つの人工知能のひとつ。寧々も知っていることはそのくらいだ。
由真は窓にもたれかかるようにして外の景色を眺めている。その口角がわずかに上がっていることに寧々は気がついていた。寧々が由真の顔をぼんやり見つめていると、視線に気付いたらしい由真が寧々の方を向いた。
「由真ってわりとドライブとか好きだよね」
「まあ、わりとね。免許あればなぁ……星音みたいにバイクでもいいけど」
「由真は危なっかしいからダメ」
「別に仕事サボって遊びに行ったりとか……いや、しちゃうかもしれない」
正直に答える由真に寧々は笑みをこぼした。本当はアルカイドの仕事なんてやめたければいつでもやめればいいと思っていることは言わなかった。アルカイドの仕事から離れたいと思っているわけではないことは知っている。ただ、ときどき心が何かから解放されたがってしまうのだ。
「あ、窓開けていい? ハルさんも」
「いいよ」
外の気温がちょうどいい、春の穏やかな日。由真が車のウィンドウをあけるとすぐに風が吹き込んでくる。由真はその風を浴びて、気持ちよさそうに目を閉じた。
「あ、あそこにお茶屋さんがあるよ」
公園の中に入って花見に良さそうな場所を探していた寧々は、奥の方にこじんまりとした茶屋があるのを見つけた。店の外に赤い布がかけられた長椅子が並べられていて、ちょうど茶屋の周りに植えられている八重桜を見られるようになっている。
「結構空いてるよ、ラッキーだね」
「もうちょっと混んでるかと思ったけど……」
「もしかしたら穴場かもね、この公園」
「じゃあ来年はみんなで来ようか」
由真の言葉に、寧々は思わず顔を綻ばせた。由真はおそらく気が付いていないのだろう。けれど由真が未来の話をしたことが、寧々にとってはたまらなく嬉しかった。
「そうだね。来年、ね」
明日には死んでしまうかもしれない。数秒先の未来だって本当はわからない。それでも来年はみんなでここで花見をしたいと言えるのは、心の奥底では来年の春が訪れると信じているからだ。僅かな変化だとしても、由真は前に進むことができているような気がした。寧々は飛び跳ねるように由真の腕に抱きつく。由真は「なに急に」と呆れたように言ったものの、寧々の腕を振り解こうとはしなかった。
そのまま茶屋に入り、一番桜に近い長椅子を選んで腰掛ける。寧々は由真の腕に抱きついたまま、お品書きを見ながら由真に話しかけた。
「あんみつもいいし、桜餅もいいし、でもお抹茶セットもいいなぁ……由真どうする?」
「どうしようかな……全部美味しそうに見えてきた……」
「由真ってこういうとき意外に迷うよね」
何でもすぐに決めてしまいそうに見えるのに、考えすぎて何も決められないときもある。寧々が桜餅と抹茶に決めた後も、由真は二択に頭を悩ませていた。
「ごめん、待ってるよね」
「悩むのは若者の特権だよ? どんどん悩め若者よ」
「同い年じゃん……それにその悩みって人生とかそういうやつじゃん。うーん……桜餅か和菓子か……抹茶は決まってるんだけど」
「両方頼んじゃえば? 余ったら私食べるよ」
「そうしようかな」
寧々が店内に向かって声をかけると、着物を着たおばあさんが注文を聞きにやってきた。由真が二人分の注文を告げると、穏やかな笑みを浮かべて店の中に戻っていく。
「……うちも季節限定和風メニューとか入れてみる?」
「それ全員覚えるの大変だと思うんだけど……」
「まあ、確かにね。由真なんてメニュー覚えるのに一年かかったしね」
「覚えるの苦手なんだって……」
覚えていなくても業務はこなせるけれど、覚えていた方がスムーズだ。コーヒーの淹れ方を覚えるのにも実はそれなりに時間がかかった。けれどその時代の由真を知っているのは寧々だけだ。
他愛のない話をしているうちに抹茶と桜餅と和菓子が運ばれてきた。人の良さそうな笑みを浮かべるおばあさんは、未だにくっついたままの二人を見て目尻の皺を深くした。
「仲良しだねぇ」
「でしょー?」
由真が胡乱げな瞳を寧々に向けるが、寧々はそれには構わずに微笑んだ。ごゆっくりどうぞ、と言ったおばあさんが店の中に戻るのを見送った由真は、深い溜息をついた。
「絶対カップルかなんかだと思われたよ……」
「いいじゃない別に。私は由真のこと好きよ」
「私も別に寧々のこと嫌いじゃないけど……そういうのじゃないじゃん」
寧々は笑いながら桜餅が乗った皿を手に取った。由真も同じように皿を持ち上げ、首を傾げる。
「これって抹茶飲むのがあととか先とかあったっけ?」
「美味しく食べて飲めば何でもいいんだよ、こういうのは」
「それもそっか」
桜の香りを楽しんでから寧々は桜餅を口に運ぶ。塩味の聞いた桜の葉の塩漬けと上品な餡の甘みが口の中で混ざり合って、寧々は思わず目を見開いた。
「これ美味しい……!」
寧々が思ったことを由真が先に言う。桜餅は絶品だった。特に中の餡が優しい甘さで、桜餅全体をしっかりとまとめている。抹茶を一口飲むと、その苦みで心が弛緩していくのを感じた。
「そっちの和菓子も可愛いね」
桜の花をかたどった練り切りも美味しそうだ。寧々は自分も二つ頼めば良かったと少しだけ後悔した。けれどこの桜餅だけでも十分だ。寧々は桜餅に舌鼓を打ちながら、咲き誇る桜を眺めた。
「……一口食べる?」
由真が十文字を使って切り分けた練り切りを寧々に差し出しながら尋ねる。食べたいと思っていたのを見抜かれていたのだろうか。寧々が食べる、と答えると、由真は皿ごと寧々にそれを渡した。
「あーんとかそういうサービスはないの?」
「あるわけないでしょ……」
「じゃあ私がやろっと」
一口分残った練り切りを由真の口に持っていこうとすると、由真は顔を背けた。照れているのはわかっている。背を向けてしまった由真に、寧々は笑いながら言う。
「由真が見てないうちにこれ全部食べちゃおうかなぁ」
「それは駄目」
由真が振り向き、寧々が差し出したままの十文字に顔を近付けた。予想外の行動に寧々は固まってしまう。
「どうしてそういうことするかな……」
「だってもうちょっと食べたかったから」
おそらく本当にそれだけの理由なのだろう。けれどその仕草にどきりとしてしまう寧々の気持ちにはお構いなしだ。涼しい顔をして抹茶を飲んでいるのも何だかずるいと思ってしまう。
きっと本気で好きだと言っても、流されてしまうのだろうけど。
そうしているうちに、少しずつ人が増えてきた。公園にもビニールシートを広げる家族連れなどが何人もいるし、茶屋の席も埋まり始めている。そろそろ店を出ようと由真に声をかけようとした寧々は、視界の片隅に青いものが見えた気がして振り返った。
「寧々?」
見間違いかもしれない、と思いながらも寧々は目を凝らす。青い桜の花びらのように見えたのだ。それは純夏に頼まれて追っている薬に侵された能力者を追っているときに見たものと同じだ。寧々が公園内を見回していると、西側から強い風が吹いてきた。それに乗って、うっすらと青い花びらが見える。嫌な予感がする。寧々は左目を覆ってから、それを外した。これまでぼんやりと見えていただけのものがはっきりと見えるようになる。
「寧々。向こうに、何かいるの?」
「……うん。もしかしたら見間違いかもしれないけれど」
「寧々が見間違うことはまずないでしょ。行こう」
由真の芯の通った声が寧々の背筋を伸ばす。寧々がこれまで調べた結果を由真は知らない。ここで由真を巻き込めば彼女は本当のことを知ってしまうだろう。そのとき由真はどんな反応をするのか、傷ついてしまわないか。寧々は不安を抱きながらも、寧々にだけ見える花を追い、走り出した。
けれどその出処を寧々が見つける前に、何かが寧々の首筋を掠めた。その場所に触れると手に赤いものがついた。
「……あっちに人が集まってる。そこからで間違いない?」
「由真……」
「数が多い。サポートよろしく」
短い言葉だけで、由真が何をしようとしているかがわかった。けれど冷静ではある。寧々にサポートを頼めるほどには周りが見えているのだ。これなら安心して送り出せる。寧々は首の傷をハンカチで押さえながら由真を送り出した。