「気をつけて、由真。――多分あの人たち、普通の状態じゃない」
桜の木の下には若い男女が十人ほど集まっていた。目を凝らして見れば、彼らの全員に青い光が見える。アズールの中毒者の特徴だ。そしてその効果の中には、能力が強くなるというのもあった。寧々と由真は戦闘中でも会話ができるようにインカムを装着する。それが問題なく使えることを確認した由真は、右手に剣を出現させて姿勢を低くした。それを合図にしたように由真を目掛けて小石のようなものが飛んできた。体に当たると弾けて皮膚を傷つける危険なもの――けれど由真は剣を一振りして、能力波でそれを吹き飛ばす。集団と由真の距離が一気に詰まっていった。状況を見ながら加勢することも想定し、寧々は左目に軽く指を添える。十人の男女の中に見覚えのある顔を見つけ、寧々は目を見開いた。
(あの子、純夏の――)
純夏は彼女を友達だと言っていた。それはおそらく本当なのだろう。かなり手荒なことはしていたが、それは彼女を心配するが故だった。けれどこの状況は、純夏の想いが彼女には届かなかったことを意味する。
(あのときより進行してる……おそらく、少なくともあの後一回は薬を使ってしまったのね)
能力は強いが動きは緩慢だ。寧々がサポートするまでもなく由真はあっという間に三人を行動不能にした。
『――寧々』
インカムから由真の声が聞こえる。
『この人たち、なんか変だよ』
あくまで推測でしかない。けれどこれまでの経験から感覚で理解できる。これまで相手にしてきた能力者たちは、ある程度自分の意思で向かってきていた。だから行動不能に追い込まれそうになっても由真に向かっていく。けれど彼らは簡単に動きを止めてしまう。要するに倒しやすいのだ。その理由はおそらく――。
「多分、全員誰かに操られてる」
由真は前に他人に絶対遵守の命令を下せる能力者を相手にしたことがある。その命令はそれなりの刺激を与えれば簡単に吹っ飛ぶほどの命令だった。けれど今回は違う。痛みを与えようとも命令はそのまま維持されるが、命令を下している人間が能力者を使い捨てている。行動不能に追い込まれたらすぐに次の能力者をあてがう。そんな戦い方をしているのだ。
とりあえず全員、行動不能に追い込めばいい。由真の戦いは順調そうに見えた。しかし――。
「由真、後ろ!」
由真の背後に能力波を感じ、寧々は叫んだ。由真が弾かれたように振り返り、剣を振るう。それで攻撃自体は避けることができた。しかし咄嗟の行動だったがために力の加減が出来ず、由真の能力が攻撃を放った少女の体に傷をつけた。純夏の友人だというあの少女だ。彼女の腕からの出血はかなりのものだ。由真は剣をしまい、腕から血を流しながらもなお由真に向かおうとする少女に近付いていった。
「由真、駄目……! その子の能力は……っ!」
寧々が言い終わる前に、少女の傷口から溢れる血が紐のようになって、由真の首に巻き付いた。血を操る能力。けれど操れる範囲はそれほど広くはない。アズールを使わなければ、体から五センチメートル以上離れると効果を失うほどの能力だ。明らかに薬の作用で力が強くなっている。
「っ……!」
由真の首に巻き付いたものが、由真の喉を絞め上げる。寧々が少女に向かって走り出すのと、能力波の塊が少女を吹っ飛ばすのはほぼ同時だった。
「純夏……!」
どこかに隠れていたのだろう。戦闘に気を取られていて直前まで気がつかなかった。能力を解除して姿を見せた純夏は、怒気をはらんだ目で少女を見下ろした。
「――強くなってやることがこれか?」
吹っ飛ばされた少女は虚ろな目をしていて、純夏の声は届いていないようだった。純夏はおそらく彼女が操られていることに気が付いていない。純夏は少女の胸倉を掴んで叫んだ。
「しっかりしろよ! お前が強くなりたかったのは、理不尽をぶっ飛ばすためじゃなかったのか!?」
泣き声にすら聞こえるほど、純夏の叫びは悲痛なものだった。二人にどんな事情があるのかはわからない。けれど純夏が少女のことを大切に思っていることは十分過ぎるほどに伝わってきた。けれど操られている今の少女にそれが届かないだろうことと寧々には理解できた。少女の血がゆらりと動き、刃の形に姿を変える。その瞬間に由真が純夏を突き飛ばした。迫る刃には構わず由真が少女を抱きしめる。背中に当てた手の下が白く光り、ゆっくりと少女の
その種は今まで寧々が目にしたどんな種とも違う状態だった。深い青色の根のようなものが種を抱え込むようにして張り付いている。由真が目を瞠った瞬間に青色の根から同じ色の枝のようなものが伸び、由真の腕に巻き付いた。
「……っ、寧々!」
由真が叫ぶ。寧々が尋ねる前に由真は呻きながらも言葉を紡いだ。
「種そのものには傷はないし暴走もしてない。これだけを引き剥がす」
それを可能にする方法が一つだけある。けれど寧々がどれだけ手を尽くしても、由真に負担をかける方法であることには変わらない。しかし今はそれしか手がないのも事実だ。
「――右目を使って、寧々」
寧々は頷き、右目を手で覆った。その手を外すと、寧々の目に映る世界は一変する。
左目は能力を解析する。けれど滅多に使わない右目は――ありとあらゆるものを寧々の基準で定義することができる能力を宿している。寧々が定義し、線を引けば種とアズールの青い根を完全に分けることができる。もちろん定義せずに無理やり引き剥がすことができなくもないが、そんなことをすれば種に傷がついてしまう。けれど寧々が右目を使うことは寧々に負担がかかるのも事実だ。けれど由真はそれを理解した上で右目を使うことを望んだ。それには応えなければならない。
「――由真。少しの間、耐えられる?」
「誰に聞いてんの?」
定義をして、取り除くべきものとそうでないものの境界線を引くには時間がかかる。一度定義すれば呼び出すだけだが、最初はかなりの時間を要してしまう。その間、今も由真を侵蝕しようと枝を伸ばすアズールに耐えてもらわなければならない。けれど由真は右の口角を上げて笑った。今はそれを信じて任せるしかない。
「――『姿なき者よ』」
定義開始の合図としての言葉だ。右目で捉えた青い枝がそれに反応して光り出す。寧々はその輪郭をなぞるように視線を動かした。
「『我が境界は混沌から光を分かち、以って遍くものを照らすものとする』――」
その正体を掴もうとすれば、触れずに見ているだけの寧々にまで牙を剥こうとする。それならば実際に触れている由真はどれだけの苦痛に耐えているのだろうか。寧々の頭に映像が流れ込んでくる。青い桜が舞い散る中に佇む白い着物を着た女。そしてその女が振り向いた瞬間にその胸を貫いた青い枝。由真が微かな声で呻き、首筋を汗が伝って落ちていくのが見えた。おそらく由真も寧々と同じものを見ているのだろう。これ以上由真に負担はかけられない。けれど始点と終点が重なるまでは終えることはできないのだ。
右眼が熱を持ち始める。寧々はそれでも目を動かし続けた。あとは始点と終点を結べば定義は完成する。
アズールとは、本来ならばこの世に存在しない植物――青色の桜の種子を利用し、それに空間支配能力で能力者の
「――行くよ、由真」
寧々は由真に言ってから、由真の左耳のイヤーカフに触れた。寧々が定義したものは、こうすれば由真に直接伝わる仕組みだ。一瞬の沈黙のあと、由真がゆっくりと頷いた。少女の種を握ったままの由真の手が動き、青色の根だけを握る。その瞬間に、少女の種を覆っていたものも、由真の腕に伸ばされていた枝も跡形もなく消えた。由真は息を吐いてから少女の中に種を戻す。
「……これで大丈夫、だと思う。さっきつけた傷は、星音がいないから治してあげられないけど」
「こいつは人より傷の治りが早い。それに関しては問題ないが……」
純夏が寧々を見上げる。寧々は周囲の惨状を見回して溜息を吐いた。
「じきに悠子たちが来てくれるらしいから――詳しい話はそれからにしましょうか」
気絶した人間を放っておくわけにもいかない。悠子たちに引き渡すまではここで待っていなければならない。寧々がそう言うと、今度は由真が少女を純夏に預けて立ち上がった。
「由真?」
「一人だけってわけにはいかないでしょ。このにいる全員さっきのあれ使ってたんでしょ?」
「いや、それはそうなんだけど……まさか全員にやるつもり?」
「そのつもりだけど」
由真はさも当然のことのように言う。それがどれだけ由真に負担をかける行為なのかは由真自身が一番理解しているはずなのに。
「倒れるわよ、そんなことしたら」
「だからって助けられるのに放置するわけにもいかないでしょ。私は大丈夫だから」
由真はそう言うと、さっさと気絶させられている人たちに近付いて行ってその種を取り出し、外側にあるアズールの根だけを引き剥がした。
「……そういえば種に直前干渉できる能力者は、支配系能力すら上回る稀少さか」
「代償は大きいけれどね。今は種の外側のものを壊してるだけだからまだいいけど」
それでも能力を使うこと自体が由真の心身に負担をかけるのは事実だ。寧々は右目を押さえながら、左目で由真の様子を見守り続けた。
「その右目もなかなか厄介そうだけどな」
「昔はこっちも常時発動だったから、そのときよりはましよ。今回は由真が使えって言ったから使っただけ」
右目はまだ熱を持っている。見ることで定義する能力は強いが、使いすぎると種の前に寧々の目に負担がかかりすぎて、気をつけなければ失明してしまうおそれもあるという。使う機会を減らし、使った後はすぐに目を休ませることで防ぐことはできるが、大きなリスクであることには変わりない。
「……それにしても、今日のこれは何が目的だったんだろうな。言っちゃ悪いけど、結構辺鄙な場所でこんな」
「たまたま私たちが来てしまったから戦闘になったけど、本当はそこまで人が多くなくて広い場所で実験がしたかったとか……」
「実験?」
「アズールでどれだけ人を操ることができるか……その範囲、精度、どれだけ能力の底上げができてるか……とか、試してみなければわからないこともあるわ」
いや、あるいは誰かに邪魔されることも想定していたかもしれない。中央エリア外の辺鄙な場所でも、通報があれば警察は動くし、数が多ければ機動隊が動くこともある。そして――アルカイドのメンバーがこうして対処する場合も十分考えられる。
「どうした?」
「……実験、だとしたら……本来の目的は別にあるはず。それにアズールを使ってるのがあの一族の人間だとしたら、Clanとの関係は……」
考えをまとめるために寧々が呟いた言葉を聞いた純夏は、ボディーバッグの中から写真を数枚取り出して寧々に渡した。
「……求めている情報はそれで合ってるか?」
そこにはClanのリーダーである男と、彼に錠剤が入った瓶を手渡している顔を隠した男が写っていた。顔を隠していても背格好から若い男だということはわかる。そして、この写真には寧々にしか見えないものも確かに写っていた。
「手を引けって言ったの、やっぱり聞いてなかったわね」
「私が撮ったんじゃない。焔のリーダーにそれとなく言ったらこれが出てきただけで。だから私は手を引いてる」
「びっくりするくらい屁理屈ね……まあいいわ。おかげで繋がった。あとは――由真がどうするかだけど」
「一人で進まないでくれよ。この写真にどんな意味があるんだ?」
どうやら純夏は写真の意味を理解していなかったらしい。寧々は写真の中の顔を隠した男を指し示しながら話す。
「アズールは空間支配能力を利用して作られてる。空間支配能力は万能に見えて有効範囲がとても狭いという欠点がある。アズールはおそらくそれをカバーするために作られた。そして自分が自由に使える手駒を増やすために、Clanを利用してばら撒かれたってところでしょうね。でも、Clanがそれに協力する理由が私にはわからなかった。だって彼らは多少能力が強くなるくらいで誰かを操れるようになるわけではないもの」
「能力強くなるのは十分な理由じゃないのか?」
「それだけだとしたらClan以外にもばら撒いてるのがおかしいのよ。だって自分たち以外も強くなったら意味ないじゃない。でもこれを見てわかった。――彼もまた、この男に操られた手駒でしかないのよ」
写真はありのままを写しとる。撮影されてから日が浅いものであれば、映っている人物の能力もうっすらとだが見ることができる。Clanのリーダーには青い光がはっきりと見えた。そしてもう一人の男には――。
「いずれ対立することになるとは思っていた相手なのだけど……まさかこういう方向で来るとは思わなかったわ」
「そう言うからには、正体はわかっているんだな?」
「空間支配能力の段階で二人に絞れていたのよ」
寧々がそこまで言ったところで、由真が溜息を吐きながら戻ってきた。疲れてはいるようだが体調に異変はなさそうだ。寧々は小さく安堵の溜息を漏らす。
「とりあえずここにいる全員、あの青いやつを全部引き剥がした。種にも異常はないから、多分大丈夫」
けれど今日のことを仕組んだ人間は、ここにいる何人かが手駒として使えなくなったところで大した痛手はないと考えているだろう。支配できるものは全て手駒と考える。あの男がそういう人間であることを寧々は知っていた。
「それから、寧々。――あとで話がある」
「奇遇ね。私もよ、由真」
これ以上隠しておく意味はない。おそらく由真ももう気が付いているのだ。寧々が笑みを浮かべると、由真は目を伏せて寧々からそっと目を逸らした。
*
「つまり、依頼であの薬を追ってただけなのよ」
「この前から言ってた仕事ってのはこれだったわけね。……それで、あの薬は一体なんなの?」
家に戻ってから、寧々はこれまでの経緯を由真に説明した。もう隠しておく意味もないからだ。純夏の依頼でアズールという薬を追っていたこと。そしてそれに近付くうちに、偶然ある人物に行きついてしまったこと。由真も流石にそこまではすんなりと理解してくれた。
「表面上は幻覚剤に近いドラッグとして、プラス能力が強くなる作用があるって言って売られてるみたい。でも実際は、種に取り憑いてその中身を吸い上げて、ある人が支配しやすくするためのものだった。出回った頃からそんなに日が経ってなかったから根を張ってただけで済んでたけど、もう少し後だったら――アズールに吸い上げられて中の種が死んでしまっていたでしょうね」
「……引き剥がしてどうにかなる時期だっただけマシってことね」
「そうね」
けれどここで手を打たなければ、どうにもならないほど侵蝕されてしまう人たちも出てくるだろう。けれど叩くにはあまりに危険な相手だ。寧々がココアを一口啜るようにして飲むと、由真が躊躇いがちに口を開いた。
「青い桜の話を――この前或果から聞いた」
「……そう」
「お母さんが大切にしてたものだって。でも――」
「一つだけ言っておくと、おそらく或果は無関係よ。これまでアズールを調べてきて、或果の能力を感じたことはなかった。けれど……月島の人間は絡んでいる。ていうか主犯ね、おそらく」
もう目星はついている。由真はマグカップを両手で包みながらテーブルの上に視線を落とした。
「月島家は空間支配能力が生まれやすい家系。或果は――母親の能力の方が遺伝したんでしょうね。そして、月島家はその能力でこの国の裏側を握ってきた。けれど能力の有効範囲が狭いという欠点をずっと抱えてきた。……アズールはそれを解決する手段になりうる、かもしれない」
「――私がやるよ、寧々」
由真はテーブルの上で拳を握り締めた。この国を裏で牛耳ってきた月島家の娘がアルカイドで働いているのは単なる偶然ではない。たとえ妾腹であっても、繋がりを作りたかったのだ。それはいつか対立することがわかっていたから。けれど月島家が裏で暗躍するだけならそのまま不干渉を貫いてもよかったのだ。強大な力に立ち向かうためには、まだ自分たちの戦力では不十分だわかっているから。
「強行突破でもするつもり?」
「いや、そこまでは考えてなかったけど」
「おそらく今回の主犯は或果のお兄さん。でも――或果の母親も無関係ではないわ」
「でも、或果のお母さんってもう十年以上前に――」
寧々は頷いた。けれどアズールを右眼で見たときに見えたあの光景を前に、死んでいるから関係ないのだとは言えなかった。
「その、青い桜を作ったのが或果の母親でしょうね。とても強い具現化能力――或果のものと良く似た力を有していたと思われるわ。そしてこの世に一本しかない木だから、支配系能力との相性が良かった……というのが私の予想」
流石に或果の母親がこのために青い桜を作り出したとは思えなかったし、思いたくはなかった。実際、一つしかないものというのは人の印象に強く残るので、支配系の能力との相性はいい。妥当な推測だと寧々は思っていたが、同時に一つの疑念があった。
右目で見たときに見えたあの女性が或果の母親だとしたら――事故だというその死の理由は限りなく疑わしくなる。この形として使うことを想定していなかったとしても、青い桜を生み出した時点で用済みだとして殺された可能性も――そこまで考えたところで、由真がマグカップをテーブルに置いた音が響き、寧々は我に返った。
「……何にしても、このまま何もしないってわけにもいかない」
「一応依頼でもあるしね。でも……或果の家族を攻撃することに躊躇いがあるなら、私がやってもいい」
「自分には躊躇いがないみたいな言い方するね」
「人殺しだもの、私」
寧々は嫣然と笑みを浮かべる。いざというときがあれば自分の大切な人さえも手にかける覚悟は決めていた。そしてその覚悟に従って自らの手を汚した。――それは由真とハルだけが知る事実で、寧々が由真と出会う少し前の話だ。
「なるべく傷つけるのも殺すのも避けろって言ったのは寧々でしょ……悠子の協力が得られなくなるって」
「努力義務よ」
「傷つけないようにやる方法なら私の方が慣れてる。それに――」
由真はそこでハッとしたように言葉を切った。由真はマグカップに残ったココアを飲み干してから立ち上がる。
「とりあえず今日は寝るよ。ちょっと疲れた。寧々も今日は早く寝なよ? その……右目のこともあるし」
「大丈夫よ。ちゃんとホットアイマスクして寝るから」
自分の方がよほど能力を使っていたのに、由真はいつも人の心配をする。寧々は由真が自室に戻るために居間を出ていくのを見送ってから、ゆっくりと溜息を吐いた。
「それに――『殺した数は自分の方が多い』かな、あれは」
由真の過去に何があったのか、寧々は知らない。けれど出会ったばかりの頃に由真に言われたのだ。その真相は未だに聞けていない。でも――寧々は目を閉じる。
「理由なく人を殺すような人じゃないでしょ、由真は……」
呟いた言葉は誰にも聞かれることなく消えていく。冷蔵庫のモーターが立てる音がいやに大きく響いて、寧々は再び溜息を吐いた。
*
「……っ!」
布団に潜り込んだ由真は、体を縮こまらせながら右手で口を塞いだ。アズールに触れたときの厭な感覚がまだ残っている。薬を使ったわけでもないのに自分の中に入り込んできた、冷たくて重いもの。アズールを全て引き剥がして壊したあとも、澱んだものが体の中にあるようだ。
それはアズール――否、或果の母親が作り出したという青い桜にまつわる感情だ。最初に感じたのは深い悲しみだった。大切な人ともう一緒にいられないと嘆く感情。それが強くなりすぎて、やがて悲しみは憎悪に変化する。身勝手な理由で穏やかな日々を奪った者に対する怒り。理不尽な運命に対する嘆き。大切なものを穢されてしまったことに対する憎しみ。言葉を奪うほどの強い感情に、由真の力が引きずられていく。
或果の母親は事故で死んだと聞いていた。けれどそれは違うとはっきりと断言することができる。或果の母親は殺されたのだ。最初は一人残されることになる娘を想い、けれど事切れる寸前に自らに降りかかった理不尽を呪った。自分を殺した人間だけでなく、自分の運命にも向けられた憎しみ。事故でそんな感情を抱くことはない。そのことを或果が知ってしまったら――そう考えるだけで、心臓に爪を立てられているように痛む。そして由真の中で処理しきれない感情は、彼のところにも容易に届いてしまう。
「……っ、駄目……!」
抑えきれずに溢れた雫が頬を伝って流れ落ちた瞬間、右手が由真の意思に反して動き始める。首筋に触れた手に力が込められた。呻き声を出すことすらできないほど強い力で絞めあげられ、目の当たりに熱を感じる。由真の爪先がシーツを掻いてもなお、力は緩められることはなかった。
「……ぁ、く……だ、いじょうぶ、だから……っ」
喉を圧迫されながらもどうにか言葉を紡ぐと、急に右手の力が抜けた。由真は左手で右手の甲をそっと撫でる。
「大丈夫だよ……
その名を口にした途端に、体の中で渦巻いていたものがすうっと引いていく。形は違っても、やっていることはあの頃と変わっていない。けれどもう聞くことはできない声が由真の耳の中で木霊する。誰とも関わらないように息を潜めて、見つからない場所に隠れていても、すぐに彼は由真を見つけた。そして「大丈夫」だといつも笑って言っていた。けれど彼にだけその言葉を言わせていたわけではない。彼の能力は負の感情で強くなる。けれど彼自身がその負の感情に引きずられすぎてしまうことも多かった。その度に誰もいない場所に逃げ込んでしまう彼を一番に見つけるのはいつも由真だった。大丈夫だと言うと、その言葉に根拠なんて全くなくても、彼は安心したように笑っていた。
苦痛に満ちた日々だった。けれどそこにも光はあった。――それらは全て奪われてしまったけれど、それでも変わらないものも確かにある。
「大丈夫……だから」
根拠なんて全くなかった。互いにそれは理解していて、それなのに互いの言葉を信じていた。強い眠気に襲われて目を閉じた由真の額に、見えない指が優しく触れているような感覚がある。少しずつ狭まっていく視界に映るのは、今はもう見ることができない彼の姿。朧気に見える口元が、ごめんねの形に動く。由真はそれに応えようとして、けれど意識が睡魔の波に流されて、結局何も返事をすることなく眠りに落ちていった。