Alkaid   作:深山瀬怜/浅谷てるる

22 / 104
己の夢を抱き進もうとしていた或果の前に、能力者であるという事実が重くのしかかる。その上家族からの仕打ちに耐えかねて家を飛び出してしまう。その裏では、恐ろしい計画が動き出そうとしていた。


蒼き櫻の満開の下
1.人の夢


 屋敷の中に入って、自室に入るまでの間、或果に声をかけるものは誰もいなかった。この家の中では、能力が弱い人間はいないものとして扱われるのだ。

 或果の母親は或果と同じ力を持っていた。絵に描いたものを現実のものとして存在させる力。そしてその能力を使って、この世には存在しない青色の桜を生み出した。生家の小さな庭を埋め尽くしてしまうほどの不思議な桜を、或果の母は何よりも大切にしていた。

 或果の母親は或果の父――月島(つきしま)怜士(れいじ)の愛人だった。一人で或果を育てていたが、不慮の事故で亡くなってしまったために或果は月島家に引き取られることになった。その段階では物語にあるような継子いじめのようなことはなかった。怜士の妻である壱華(いちか)も、壱華の子供である或果の兄の創一(そういち)も最初は或果に優しかった。それは或果の能力が何なのかわかっていなかったからだ。

 ――何の役にも立たない能力だな。

 怜士の冷たい声は今でも覚えている。褒められると思っていたのだ。実際、兄の創一はその力に目覚めた或果を褒めてくれた。絵に描けるもので、或果が構造を理解しているものなら何でも生み出せる。その力はかなり便利だと或果本人は思っていたのだ。そして母と同じ能力だったことが何よりも嬉しかった。けれど怜士が望んでいたものではなかった。怜士が望んでいたのは、いや、この家の大多数の人間が持っている力は、他者を支配するための力だ。

 空間支配能力――任意の空間を一時的に己の望むように作り変えることができる力。その能力の射程内に入れば、人間も、物理法則さえも全てが相手の思い通りになってしまう。欠点があるとすれば、射程が非常に短いこと、そしてその効果は一時的で、効果が切れると何事もなかったかのように元に戻ってしまうことがあることだが、一時的でも人の心に与える効果は大きい。

 その中でも特に強い力を持つ怜士などは、自分の半径五十センチメートルにいる人間を一時的に殺すことすらできるのだ。そんな力に比べたら確かに或果の力は取るに足らないものだ。それでも、父のことを以前より恐ろしいと思わなくなったのは、きっとアルカイドの面々と出会ったからだろう。

 強い力がある怜士よりも、由真の方がよほど強くて美しく思える。

 先日コンクールに出した絵は抽象画だった。由真から得られる印象を図形と色だけで表現したから、言わなければ誰にも気付かれない。烈しさと優しさ。強さと弱さ。光と影。二つの相反するものが炎のように揺らめいて柊由真という人間を作り出している。そのときの自分の想いの全てをキャンバスに乗せた。それを美しいと思ったから描いたのだ。

 思いの丈をぶつけた作品が今認められつつことは、何よりも嬉しいことだった。或果は描きかけの絵にかかった布を外した。これは誰にも見せる予定がない絵だ。

「由真……」

 由真の眼差しにはいつも嘘がなくて、その深さに吸い込まれそうになる。魅せられて、想いが溢れて、或果はそれを絵にぶつけていた。由真を好きにならなければ、絵の道に進むなんて考えもしなかっただろうと思えるほどに。

 或果は絵の中の由真に微笑みかけてから、もう一度キャンバスに布をかける。ベッドの上に寝転んで由真の姿を思い描いているうちに、或果は眠りに落ちていった。

 

 

「……え?」

 次の日、学校で美術教師に告げられたのは衝撃の言葉だった。美術教師は或果と同様に能力者だが、その能力は、爪の先を僅かに光らせることができるというささやかなものだ。けれどその能力を絵に活かせないかと常々考えているような人だ。或果が信用している数少ない大人。その人が今、泣きそうな顔をして或果に謝罪している。

「審査委員長の先生がね、能力者の絵が入賞するのはいかがなものかって言ってきて……ほら、ここの学校って能力者が多いでしょう?」

「そうですね……でも、それだけで?」

「そう。この学校にも無能力者はいるし、そんなところで判断しないで絵だけを見るべきだって言ってくれた人もいたんだけど、結局押し切られてしまって。主催者側も面倒事は避けたいからって」

 ようやく自分の努力が認められる日が来ると思ったのに。けれど自分よりも遥かに落ち込んでいるように見える美術教師を前にして、或果は何も言えなかった。本当は悔しかった。自分が能力者でなければ認められたのか。いや、それよりも、とても大切なものを描いた絵が評価されたのに、そんな理由で評価を取り下げられてしまうのが嫌だった。能力者だろうが無能力者だろうが、美しいものは美しいはずなのに。けれど或果は全てを押し殺して笑みを浮かべた。

「大丈夫です。次、また頑張ればいいんですから」

 差別感情のない審査員だっている。審査に集中するために描いた人間の情報は一切聞かないようにする人もいるという。そんな人だったら、きっとあの絵に込めたものを理解してくれるだろう。けれど同じ絵は二度と描くことができない。そのときの全てをキャンバスに刻み込んだ。それはそのときにしかない一瞬の美しさだったのだ。

「私はあの絵、とてもいいと思ったわ。今まで見せてもらった絵の中で一番。とても大切なものを描いたのね」

「わかるんですか?」

「わかるわよ。絵筆には愛が乗るのだから」

「――その言葉」

 美術教師の言葉に或果は思わず反応してしまった。美術教師は首を傾げる。彼女がつけている銀色のイヤリングがその動きに合わせて揺れた。

「有名な言葉だったりするんですか?」

「昔、絵を教えてくれた人が言ってたのよ。有名な言葉かどうかはわからないわね」

「そうですか。……母も、そんなことを言っていたなと思って」

 母との記憶で覚えていることはそれほど多くない。或果が本格的に絵を描き始めた頃には、母親はもう他界していたのだ。だから絵を教えてもらったこともない。先程の言葉は、絵を描いている母親が或果に向かって呟いたもの。少ない記憶の中で強く残っているもののひとつだ。

「私の先生も誰かから聞いたのかもしれないし……素敵な言葉だと思って」

「そうですね。私も好きです」

「或果さんの絵は特にそれを感じるわ。……だから、本当は絵だけを見て決めてもらいたかったけれど」

「いいんですよ。コンクールは他にもあるし」

 けれど浮かれていた気持ちが萎んでしまったのは事実だ。家を出て絵の道を目指す。そんな夢を語ったばかりだったけれど、まだ何の評価もされていないのに家を出るなんてことはきっと許されないだろう。月島の家に愛情なんてものはないのに。一つあの家で好きなものがあるとすれば、母が大切にしていたあの青い桜だけなのに。

 或果は美術教師に礼を言って美術室を出た。今日はもう授業がないから、今から家に帰らなければならない。誰も自分のことなど見てはいない、それなのに月島家の道筋から外れた生き方をしようとすれば反対される、そんな寒々しい家に。

 或果の父である怜士は、或果が絵を描くことを嫌っていた。何の役にも立たないと吐き捨てることもあった。継母の壱華は徹底した不干渉を貫き、最低限の養育だけを果たせばいいと思っている。或果の絵には全く関心がない。唯一兄の創一だけが或果の絵を褒めてくれる人だった。

 せめて今日がアルカイドのバイトの日だったらよかったのに。行ったところで問題が解決するわけではないけれど、コーヒーを淹れる由真を見るのが或果は好きだった。真剣だけれどどこか楽しそうで、長い睫毛がまばたきの度に動くのをずっと見てしまう。由真に対するこの感情は何なのだろう、と或果はずっと考えていた。恋に限りなく近いけれど、それとは違う気がする。 由真を見ていると、たまらなく絵を描きたくなるのだ。

 考え事をしている間に屋敷に着いてしまい、或果は溜息を吐きながら自室に向かった。使用人はいるが、或果を出迎えてくれる人はいない。けれど今はそれでよかった。一人になりたい。そして何も考えずに眠ってしまいたかった。

「何これ……」

 自室の戸を開けた瞬間に、朝に家を出たときとは違う光景が広がっていた。或果はその場に呆然と立ち尽くしたが、事態が呑み込めた瞬間に床に膝をついた。或果の部屋の中は或果の描いた絵が整然と置かれていた。使い終わったクロッキー帳などは整頓して棚に入れていた。それらが全て引っ張り出されて、繋ぎ合わせることすらできないほどに破られ、壊されている。今までもこんなことはあった。問い詰めたことはないが犯人は父の怜士だとわかっていた。怜士は或果が絵を描くこと自体気に入らないのだ。放っておいてくれたらいいのに、時折何かの腹いせのようにこうやって或果の努力を一瞬で壊してしまう。いつもなら笑って誤魔化すようなこと。けれど今日は耐えられなかった。

 誰にも見せるつもりはなく、ただ描きたいから描いていた由真の絵すら滅茶苦茶にされていて、それが完全に或果の心を折った。自分で夢を掴んでここを出ていくつもりだった。けれどその道は自分が能力者だからという理由だけで簡単に閉ざされていく。いつまでこんな家にいなければならないのか。大切にしたものを壊されてまで。求められているわけでもないのに。

 或果は部屋に入り、一番大きな鞄を引っ張り出した。学校に持って行っていた画材は無事だった。それを鞄に詰め込み、箪笥から服を二、三枚適当に入れ、再び部屋を出る。ここを出て行こう。そう思った。行く宛はない。けれどアルカイドでのバイトでそれなりにお金は貯まっている。それで暫くはどうにかなるはずだ。

 鞄を背負って家を飛び出そうとした或果は、不意に誰かにぶつかった。腹違いの兄の創一だ。創一はただならない様子の或果を見て、驚いたように声を上げた。

「どうしたんだ、或果」

「出て行くの。だって私はこの家に必要ない。お父様の役には立てないし、お父様は私のことが気に入らないみたいだし」

「行く宛なんてないだろう? あの人には俺から言っておくから。今出て行くのは危険だ」

「ほっといてよ。どうせここにいたっていいことなんて何もない!」

 或果は創一を振り払い、屋敷の門の外に出た。行く宛はない。足が赴くままに、とにかく家から離れることだけを考えた。

 

 暫く歩き続けて、気がつけばアルカイドの近くまで来ていた。いつもは電車に乗って来る場所に歩いて辿り着いたのだ。けれどもう閉店している時間だ。それに寧々も由真もこんな時間に押しかけても迷惑なだけだろう。或果は溜息を吐いて踵を返した。カラオケボックスだとかネットカフェだとか、今日一日をやり過ごす場所ならいくらでもある。そう思って歩き出したとき、後ろから或果の名前を呼ぶ声がした。

「.やっぱり或果だ。どうしたの、こんな時間に? 忘れ物――ではなさそうだね」

 そこにいたのは由真だった。夜に紛れて見失ってしまいそうなくらい上から下まで黒で統一していて、フードを目深にかぶっていても、何故かその目がどこを見ているのかはわかる。由真の目は真っ直ぐに、けれど優しく或果を見ていた。

「ひょっとして……家出?」

 大きな荷物で気付かれたのだろうか。或果は袈裟懸けにした鞄の紐を掴み、ゆっくりと頷いた。

「うちにおいでよ。部屋もひとつあいてるし。あー……他に行くところがあるなら別だけど」

「いいの? 迷惑にならない?」

「そんなわけないでしょ。ほら、うち入ってちょっと休も?」

「でも由真、どこかに出かけるつもりだったんじゃ……」

「ちょっとその辺散歩しようかなって思っただけだから」

 こんな夜中に、と或果は思ったけれど、由真は夜でも気にせずに気ままに外に出てしまうことがあった。何かあったら――と思ってしまうこともあるが、大概の人より由真の方が強いのも事実だ。

「おいで、或果」

 由真が或果に手を差し出す。或果は躊躇いがちにその手を取って歩き出した。喫茶アルカイド。その一階の奥と二階部分が由真たちの暮らす家だ。居住部分に通じる玄関を開けると、微かにコーヒーの香りが漂ってきた。喫茶店の香りに近くて或果は安堵した。リビングから寧々が顔を覗かせる。

「あれ、或果。どうしたの?」

「家出だって。客間使ってもらえばいいよね」

「あーちょっと掃除サボってて埃っぽいから換気してからの方が。てか布団とかも準備するわ」

 寧々は慌ただしく準備を始める。由真はその後ろについて行くように階段を昇り始めた。

「じゃあ準備できるまで私の部屋にいようか」

「え、いやそんな準備とか別に……」

「埃っぽい部屋で風邪とかひかれても嫌だし。どうせずっと使ってない部屋だから、自由に使えばいいよ」

「あの、由真……」

「どうしたの?」

「理由、聞かないの?」

 客間に入っていった寧々の背中を追い越して、由真は奥の部屋に向かう。そこが由真の部屋だ。ドアを開けると、カーテンや寝具のカバー、ソファーなどは全て淡いグリーンで統一されていた。そしてイルカやサメなどの海洋生物のぬいぐるみがいくつか置かれている。由真は或果をソファーを勧め、自分はベッドに腰掛けた。

「或果が話したいなら理由は聞くけど、無理矢理話させることはしたくないから」

 由真らしい、と或果は思った。誰もが理由を問い詰めてしまいそうな局面でも、理由を尋ねはするけれど、相手が答えたくないと言うならそれを無理に聞き出そうとはしない。けれどそんな由真に対してだからこそ、誰も聞けないままでいる。誰も知らない由真の過去を。由真が抱えている秘密を。簡単に話してしまえるものではないとわかっている。けれど由真の優しさに甘え過ぎてしまうことに対する罪悪感は確かにあるのだ。

「この前、コンクールで賞をもらえるかもしれないって言ったじゃない? 実はそれが……」

 或果は今日一日の出来事を由真に話した。由真は時折頷きながらも静かに或果の話を聞いていた。

「お兄様は私の絵を褒めてくれたりもするのだけど、お父様は気に入らないらしくて……気に入らないなら放っておいてくれればいいのに、どうして」

「気に入らないからってそれは酷いね。うちならいつまででもいいからね、或果。あ、でもご飯とかは作ってもらうかもしれない」

「ふふ。そのくらいならいくらでも。でも――能力者ってだけで、何もかもちゃんと見てもらえないんだなって思って……」

 それがこの世界の現状だ。どの分野でも起きていること。だからこそ能力者の役に無能力者が起用されて問題になる、本宮緋彩の事件のようなことも起きてしまう。能力を使わずに勝負するのなら、本来は無能力者と変わらない場所からスタートしているはずなのに。或果はソファーの上で膝を抱えた。由真は俯きながらメンダコのぬいぐるみを右手で撫でていた。

「寧々は、そんな世界を変えたいって言ってる。でも私はそこまで大きな目標があるわけじゃない。それでも……或果が絵の道に進みたいって言うなら、私はそれを叶えてほしいって思ってる」

「由真……」

「私は絵を描いてるときの或果、すごくかっこいいなって思うし」

 不器用に、まっすぐ紡がれる言葉。嘘がないとわかるからその言葉はひび割れてささくれ立った心にも染み込んでいく。

「ありがと、由真。ちょっと元気出たかも」

「別に無理して元気出す必要はないからね?」

「うん、わかってる。暫くここにいて……これからどうするか、ちゃんと考えてみようと思う」

 

 

「――予想通り、あの喫茶店に行ったようだね」

 手駒にしているClanのリーダーからの報告を受け、創一は笑みを浮かべた。ここまで準備するのに何年かかったのか。ようやくこれまでの努力が身を結ぶ。A-7エリアに借りた高級マンションの一室で、創一は皮張りの椅子にゆったりと腰掛けた。

「父上はわかっていないんだ。あの能力は僕たちの能力の欠点を埋めるのに最適だってね。種にとりつくものだから、能力者しかその対象にできないのは不便だが……それもそのうち解決する方法が見つかるだろうし」

「創一様。あまり調子に乗らない方がよろしいかと」

ιUMa(タリタ)。君は本当に僕のやることなすことに水を差してくるね」

 創一の横に控える少女――ιUMa(タリタ)は、彼女を睨みつける創一の視線をものともせず、長い髪の毛を指に巻きつけた。

「気に入らないならその能力を使ってみたらどうですか? まあ創一様に私を支配して使いこなせるならの話ですが」

 タリタの言葉に創一は歯噛みした。タリタはふわふわとした喋り方をする。けれど言葉には毒があり、そして腹立たしいことにそれが何も間違っていないのだ。空間支配能力は確かに強い能力だ。しかし能力者が思いつく範疇の動きしかさせられないという欠点もある。タリタのように戦闘に慣れた能力者ならば、支配した方が弱くなってしまうという皮肉な事態を招くこともあるのだ。

「まあ私も創一様のおかげで命拾いしましたし、個人的に昔の仲間にも会いたいので、ちゃんと従いますよ」

「勝てるのか?」

「創一様がサポートしてくだされば?」

 創一は鼻を鳴らした。これまでタリタを手元に置いていることが外に漏れないように、彼女を戦わせないできたが、もう力を温存する局面ではない。

「この前の公園の戦闘でアズール中毒者との戦い方は掴んでいると思いますが、あの子は多数との戦闘は苦手ですから、雑魚を使って気を逸らしていただければ、不意を突いたりはできるかと」

「期待しているぞ、タリタ」

「創一様の言葉って本当に軽いですね。心にもないことばっかり言うから」

「貴様も大概だと思うが」

 タリタは創一の向かい側にあるソファーに飛び込んだ。創一はタリタの雇い主ということになっているが、タリタに雇い主に対する敬意は全く感じられない。

「私は嘘は言ってませんよ、創一様。でも創一様は嘘ばっかり。或果ちゃんの絵、本当は創一様が破ったのに。あとコンクールの審査員に裏で手を回したのも」

「絵を破ったのはお前だろ」

「私は創一様にやれって言われたからやっただけだもん。今までだって味方のフリしてあの子を安心させて」

「何が言いたい?」

「そういうの大っ嫌いな子が敵になるから気をつけて下さいね、って」

 気遣うような言葉だが、口調も相俟って薄っぺらく聞こえてしまう。けれどタリタは一事が万事この調子だ。

「ふん。でも今のお前なら勝てるんだろう?」

「勝ちますよ。薬もいっぱいもらったし」

中毒者(ジャンキー)が」

「ドーピングって言ってほしいですね、創一様。だいいち私がいなかったら創一様負けちゃいますよ?」

「あれはそんなに強いのか?」

 タリタは嫣然と微笑む。透明なグロスを塗った唇がゆっくりと動く。

「当たり前じゃないですか。完全開花してない限り、どんな能力者も種を取り出されたら負けですよ。その上今は攻撃能力まで手に入れてますし」

「触れさせなければいいんだろう?」

「そんなに油断してるとやられちゃいますよ、創一様」

 タリタは飄々としているように見えて、敵をかなり警戒しているようだ。直接戦ったことはないらしいが、その強さを知る上なのか。

「多分、相手を殺していいなら今よりも上手く戦えると思うし、あの子。ていうか殺していいなら種取り出す必要すらないか」

「縛られているということか。難儀なものだな」

「でも昔から殺しは嫌いですよ、あの子。あんなに楽しいこと、なんで嫌がるのか私にはわかりませんけど」

 創一は再び鼻を鳴らした。タリタを手に入れてから、邪魔者を排除するのに便利だから使ってきたが、殺しに快楽以外の目的がないことは理解できなかった。けれど躊躇いなく仕事をこなすところは気に入っていた。

「ふふ……楽しみだなぁ。久しぶりだなぁ。由真ちゃんたちに会えるの」

「言っておくが遊びじゃないんだぞ。あと順番を間違えるな」

「わかってますよ。あーあ、まだ待機かぁ」

 タリタは切り札だ。敵にその存在が知られないように、そのカードを切る直前まで気付かれてはならない。けれどタリタは一刻も早く戦いに出たい――いや、人を殺したいらしい。

「やっぱりあの人も私がやっちゃダメなの?」

「人を殺したいのはお前だけじゃないんだ」

「創一様のところだったらもっといっぱいやれると思ったんだけどなぁ……」

「彼女に勝ったらいくらでもやらせてやる。ああ、でもそうだな……目障りな虫がいるんだ。然るべき時期になったら合図をする。そうしたらそいつを好きにするといい」

「さすが創一様。十五歳で自分の意思で人を殺した人はやっぱり違いますね」

「……貴様はもっと下だろう」

「私は……最初は五歳だったかなぁ。でも私は創一様みたいなめんどくさい殺し方はしませんよ?」

「俺にとっての支配は呪いだ。呪いには当然決められた手順がある。丑の刻参りだって、ちょっと今日は早く寝たいから子の刻に、というわけにはいかないだろう」

 ただ殺したいから殺すだけのタリタとはそこが違う。タリタはソファーの上で大きな欠伸をした。

「俺はもう戻る。くれぐれも勝手なことはするなよ」

「わかってますよ。私たちは持ちつ持たれつ。私は人が殺せて、創一様は邪魔者を楽に消せる。これを手放すほど馬鹿じゃないですよ、私は」

「ふん、どうだかな。――追加の薬だ。いい働きを期待しているぞ」

 創一は青色の錠剤が入った瓶をタリタの目の前に置く。アズールを使ったところでタリタを操ることはできないが、タリタの能力を強くすることはできる。アズールによる擬似的な開花。偽りの覚醒者(ブルーム)。それがどこまで渡り合えるのか。十二年前から描いてきた夢が、ようやく結実しようとしているのだ。

 

 

 或果が家出をしてから一週間。すっかり慣れた或果は、三人分の夕食を作っていた。今日は由真と寧々が「肉か魚かで言うなら魚」と言っていたので、安売りされていたぶりを使ったぶり大根を中心に、青菜のおひたしや具沢山の味噌汁を組み合わせた。由真と寧々が使っているのは合わせ味噌らしい。一緒に暮らし始めたときに赤味噌派の由真と白味噌派の寧々が揉めた結果だと聞いた。味噌を溶いていくと広がる香りに惹かれたように由真が台所にやってきた。

「待っててね。あともう少しでできるから」

「うん。和食ならお茶がいいかな。準備しとくよ」

 店ほどではないが、由真たちの家にも何種類かのコーヒー豆と、紅茶の茶葉と緑茶やほうじ茶の類が揃っている。由真は何故か紅茶だけは何度やっても上手く淹れられないらしいが、他は流石の手際だ。小皿を使って料理の味見をしていた或果は、由真の視線に気がついて手を止めた。

「どうかした?」

「いや、そういえば和食久しぶりかも、って思って」

「二人は和食あまり作らないの?」

「私作れるの店で出してるやつくらいだよ……」

「カレー作れるなら肉じゃがも作れるよ。ぶり大根もそんなに難しくはないし。味醂と醤油があれば最悪なんとかなる」

 或果も誰かに教えられたわけではないのだ。そもそも家では台所に立つ機会があまりない。台所に立つのは使用人たちで、月島の人間が立ち入ることはその品格を損なうことらしい。けれど使用人たちが、妾腹であり、役に立たない能力しかない或果の陰口を言っていることも或果は知っていた。だから台所の景色で思い出すのは、薄れた記憶の中の母の後ろ姿だけだ。

「味醂がよくわからないんだよなぁ……寧々がやたらいいやつをハルさんの名前でいつも注文するけど」

「未成年だから味醂は買えないもんね。確かにめちゃくちゃ高いやつよねこれ……地味に調味料にこだわってる」

「全部寧々の趣味だよ」

「じゃあ冷凍庫のハーゲンダッツは?」

「それは私」

 喫茶店がそれほど儲かっているようには見えないが、バイトの時給もいい方だし、どこにそんな資金があるのだろう。そのわりには家の中はわりと庶民的で、安心する面もある。

「ずっとここにいたいなぁ……」

 或果はコンロの火を止めながら呟いた。思わず家を飛び出して、成り行きで由真たちとひとつ屋根の下で過ごしているけれど、ずっとここにいられるわけでないこともわかってはいる。何も解決しないまま来てしまったから、そう遠くない日に家に帰らなければならないときが来る。そう思うと暗澹たる気持ちになった。

「……ずっといてもいいよ、或果」

「由真……?」

 急に由真に後ろから抱きしめられる。優しく包み込まれていると言うよりは、何かに縋っているようにも見えて、或果は戸惑いの声を上げた。

「ごめん、やっぱり或果に黙ってるのは無理だ」

「何のこと……?」

「或果の、お母さんのこと。本当は知らない方が傷つかないかもしれないし、私が言ってしまうのは違うかもしれないけど、私が知ってて、或果が知らないままでいるのはおかしいと思うから」

 母についての記憶は多くない。幼い頃に事故で死んでしまって、或果はそのときのことをよく覚えてはいない。由真は或果を抱きしめたままで言葉を続けた。

「或果のお母さんが死んだのは、事故なんかじゃない。殺されたんだ。呪いの――空間支配能力の、道具にするために」

「由真……」

 由真の手が微かに震えているのが肌を通して伝わってくる。由真の言うことは一瞬信じられなかった。でも由真は空間支配能力が呪いの一種であると捉えられていることも知っている。それに由真がそんな嘘を言うような人間でないことを或果は知っていた。

 由真はそのまま、最近起きていた事件のことを順を追って話し始めた。寧々と梨杏が秘密裡に追っていたアズールというドラッグのこと。そしてそれを追っているうちに、空間支配能力が使われていると知ったこと。そして――寧々が右目を使っている間、アズールの侵蝕に耐えていた由真が見たもの。その全てが或果には衝撃的だった。けれど自分でも驚くほど冷静にそれを受け止めることができた。

「……お兄様は、私には優しかった」

「うん。でも――」

「利用するつもりだったのね。私の力を」

 この世に一つしかないものは、強力な道具になる。空間支配能力についての知識が深いわけではないが、あの能力の特性を考えれば何も不思議ではない。

「……だから、或果が戻りたくないなら家になんて帰らなくていい。あの家にいたら……殺されるかもしれない」

「由真……?」

「私が、守るから。だから」

 由真の様子は明らかにおかしかった。背中に感じる温もり。震えている手。或果はその手を優しく撫でた。

「由真……何かあったの?」

「……この前から――アズールに触れたあの日から、嫌な夢を見るの」

「どんな夢?」

「或果が殺されちゃう夢……でも、絶対にそれを現実にはしないから」

「大丈夫だよ、そんなのきっと夢だから。ね?」

 由真は過剰に心配しているような気がした。いや、前にもこんな由真を見たことがある。或果は由真の手をそっと握りながら、少し前の由真を思い出していた。星音が由真を庇って機動隊の特殊光線を浴びたときも、数日間は明らかに不安定に見えた。由真は仲間を失うことを恐れているのだ。それを避けるためなら、自分の身などどうなってもいいと思ってしまうほどに。それだけ大切に思われていることが嬉しくもあり、恐ろしくもある。由真だって、いつでもその身を危険に晒しているのだ。

「そろそろご飯食べよっか、由真」

「……うん」

「じゃあ私が盛り付けやっとくから、寧々呼んできてくれる?」

「うん」

 由真がゆっくりと或果から離れる。そのときの由真の顔はどこか寂しそうな笑顔だった。寧々を呼びに行く由真の背中を見送ってから、或果は小さく溜息を吐いた。

「お兄様は、何が目的でこんなことを……」

 それはまだ由真たちも掴めてはいないようだった。創一の目的。或果へと優しさが全て偽りだったとして、そこまでする理由は何だったのだろうか。どちらにしても、アズールを作ったときのようにうまくいくとは思えなかった。

 

「私はお母様みたいに、大きなものは生み出せないもの」

 

 たとえばあの青い桜のようなものは、或果の能力では作り出せない。どちらにしろ或果の力が役に立つことはないのだ。

「これくらいの力なら……いっそなかった方がよかったかも」

 誰かの傷を癒せたり、誰かを守るために戦える力ではない。その上それほど力が強いわけではない。或果は唇を噛んだ。こんな中途半端な力があるくらいなら、いっそ無能力者であった方が画家になりたいという夢ももっと近くにあるかもしれないのに。

 寧々と由真の話し声が聞こえてくる。或果は思考を振り切るように首を横に振り、盛り付け終わった夕食を食卓に並べ始めた。

「おー、すっごくおいしそう。和食なんて久しぶりかも」

 寧々が目を輝かせている。三人で食卓につき、手を合わせてから思い思いに箸を伸ばす。

「このぶり大根すごいおいしい」

「それはよかった。美味しそうに食べてくれると作りがいあるなぁ」

 由真の感想は素直で嘘がないから信じられる。三人での食事は普段より美味しいと感じながら、或果は青菜のおひたしを口に運んだ。

「美味しそうに食べるといえば、星音はいつも美味しそうに食べるよね」

「あの子、全部美味しいっていうからメニュー考案のときの味見役にはできないね」

 他愛のない話をしながら食事をする。それだけのことなのに、或果にはずっとそれが与えられなかった。母が死んで、月島家に引き取られてから、ずっと砂を噛むような気持ちで食事をしていたのだ。

 ずっとこのままでいられればいいのに。――けれどそれは、このままではいられないとわかっているからこその、願いでもあった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。