*
「……っ!」
由真は布団を跳ね上げるようにして飛び起きた。首筋を嫌な汗が伝っていく。寧々と花見に行って、アズールに触れたあの日から嫌な夢を見るようになった。アズールが見せた景色の中で死んだのは或果の母親だった。夢ではそれが或果に入れ替わっている。所詮夢だとわかっていてもそれはあまりに鮮明で、夢の後は決まって眠れなくなる。由真は溜息を吐いて、体を丸めながら目を閉じた。眠れなくても寝ているフリをするだけで体をある程度は休ませられる。かつて寧々に教えられた通りに無理に体を休めてはいるけれど、最近寝不足になっているのは事実だった。
「
枕元の携帯を引き寄せて、ブックマークに登録しているサイトを呼び出す。もう日付が変わって今日の夜の最後の時間が空いていたのでそこに予約を入れた。歩月に対処できるものかどうかはわからないけれど、相談してみる価値はある。由真は近くにあったメンダコのぬいぐるみを引き寄せて再び目を閉じた。朝までまだ時間はある。それまではせめて眠っていたい。本当は体調は万全にしておかなければならないのだ。今日、何かが起きないとは限らないのだから。
*
「嫌いでも放っておいてくれた方が暴走の危険性もないのに、なんで殴ったりするんやろ」
その日は何もないまま時間が過ぎていって、喫茶店の仕事だけで終わるかと思った閉店間際に通報が入った。
「由真さん?」
「……あの子、アズールを使ってた」
主に出回っているのはカラーギャングを中心とした、いわゆる不良の若者たち。けれど今回の被害者は全くそういうところとの関わりがないようだった。被害者である少年を保護した悠子にはそれを教えておいたし、まだ侵蝕がほとんど起きていなかったアズールの根は取り除いた。けれど嫌な感覚がまだ体に残っている。
「相当出回ってるみたいやな、あれ。私も学校で噂を聞きましたけど」
「あんなん使って何がいいのかわからないけど……触れるたびに最悪の気分になる」
「それって、正規の触れ方じゃないからバッドトリップ起こしてるんやない?」
「寧々にも言われた。だからなるべく触れないでって」
「……いや思いっきり触れとるやん」
軽度だから放っておくということができるものではなかった。一度摂取したらあの根は普通に消すことはできない。再びの摂取なしに放置していたとしても根は広がり、最後に種の方が乗っ取られる。しかも寧々の調査によると、根が成長する過程でどうしてもまたあの薬が欲しくなるような物質が出るらしく、一度でやめられる人はほとんどいないという。
「仕事は仕事やけど、見ず知らずの人間なんやで?」
「でも……私にしか取り除けない」
「それはそうやけど、由真さんが具合悪くなってまでやることやない」
「……死ぬかもしれなくても?」
今日の少年は軽度だった。おそらく一度しか使っていないのだろう。しかもごく最近の話だ。すぐに何かが起きるというほどでもないというのは事実だった。けれどここで何もしなかったことで、例えば数ヶ月後の未来が変わってしまうのだとしたら――。どれだけ心身を削ったとしても指の隙間から砂が溢れていくように、助けられないものは多くいる。その事実はいつも由真の心に重くのしかかった。
「こんな仕事してるから仕方ないのかもしれへんけど……うちらまだ子供なんやで? 全部背負い込む必要なんてない」
「……じゃあ、見捨てろって言うの?」
「そこまでは言ってへん。でももっと自分のことを気にかけてほしいって言ってるんや」
星音の言うことは理解できる。自分を大切に思ってくれているのだということも、ここで自らを犠牲にするようなことをしたら星音を傷つけてしまうこともわかってはいた。星音だけではない。寧々をはじめとするアルカイドの他のメンバーや、悠子などの協力者にも同じ思いを抱いている人はいるだろう。けれど、理解はしていても、どうしても自分の命のために他人を見捨ててしまうことへの罪悪感が消えない。
(誰かに大切にしてもらえる資格なんて、私には――)
本当のことを言ったあとでも、きっとみんな優しいだろう。誰かの秘密を知ってしまったからといってすぐに掌を返すような人たちでないことは由真にももうわかっていた。けれど、由真を見る目が変わってしまう可能性はある。押し殺そうとしても滲み出てしまう冷たさを含んだ視線。それに耐えられないと思うほどには、今の生活を、アルカイドのメンバーと過ごす日常を心地よいものに感じていた。
「『ずっとここにいたい』、か……」
「ん?」
由真が思わず漏らした呟きは、星音にはしっかり聞こえていたようだ。首を傾げる星音に由真は淡々と答える。
「この前或果が言ってた。……まあ、あんな家帰らなくていいと思うけどね」
いきなり話が変わったことを変に思われてしまっただろうか。由真は不安になって星音の表情を窺うが、星音の頭はすっかり新しい話題の方に切り替わっているようだった。
(私もずっとここにいたいよ、或果……)
いずれ全てを話さなければならないときは来てしまうだろう。けれどそのときが永遠に来なければいいのにと思ってしまう。由真は星音の言葉に二、三言返事をして、星音のバイクの後ろに跨った。
「真っ直ぐ店に戻ればいいですか?」
「もう閉店してる時間だし……このまま歩月のところ直行しようかな」
「歩月?」
「能力者を専門に診る医者。かかりつけ医ってやつ」
「医者って……やっぱり調子悪いんやん。ナビ入れるんで病院の名前教えてください」
「濱野クリニックってところ」
星音は携帯のナビに目的地をセットして、バイクのハンドルのホルダーに携帯を挿す。場所は喫茶店からそれほど離れてはいない。由真は寧々に電話で病院に直行することを伝えてから、星音にバイクを走らせるように言った。
「でも由真さんが病院自分から行くとか意外やな」
「病院は確かにあんま好きじゃないけど……歩月のとこだから」
「その歩月? って先生どんな人なん?」
由真は風を浴びて少し目を細めた。歩月とはもう長い付き合いだ。アルカイドで働き始める少し前からずっと由真のことを診ている。
「優しいんだけどバリバリ働いてて、でもたまに変なスタンプとか送ってくる人……あとすごい美人」
「由真さんに美人って言われる人、めちゃくちゃ美人やん……」
「そうなの?」
「由真さん、鏡って見たことあります?」
星音の発言の意図が掴めず、由真は首を傾げた。星音はそれに気付いて、少し笑ってから話題を切り替えた。
「医者かぁ……ここ5年くらい花粉症からのアレルギー性結膜炎で眼科行ったくらいやな。健康が最大の長所やから……」
「元気なのはいいことだよ。でも、なんか気になるところあるなら歩月に見てもらう? 前に星音のこと話したら『会ってみたい』って言われたし……」
「それなら私も行こうかな。テスト終わって暇やし」
「そういえばテストがあるって言ってたね。どうだったの?」
「私に勉強のことは聞かんといてください……あ、でもカナエの方がひどかった」
「カナエは珍回答ばっかりでしょ確か……」
一度、寧々がカナエに勉強を教えようとしているところを見たことがあるが、元々のテストの珍回答の嵐に寧々が笑い死にしそうになって、その後どうなったのかは知らない。そして由真も人のことをとやかく言えない成績であることは自覚していた。勉強は嫌いなのだ。
*
バイクで街を走り抜け、目的地である濱野クリニックに到着してガラスのドアを開けると、奥から白衣を着た歩月が顔を出した。
「……他に人いないの?」
「今日はあとゆーちゃんだけだったから、みんな早めに上がっていいよって言っといたの」
いつもは受付の医療事務の人、何人かの看護師、それから歩月の父親である院長がいるらしい。由真たち以外誰もいない病院は静かだが、待合室の落ち着いた音楽だけは変わらずに流れていた。
「その子が星音ちゃん?」
「あ、瀧口星音です! よろしくお願いします!」
「私は濱野歩月。よろしくね。じゃあ早速中入って。お茶の用意もできてるから」
確かに由真が言っていた通りの美人だ。けれど冷たく近寄り難い印象はなく、可憐な白い花を思わせる女性だ。それにしてもお茶を用意しているなんて、ここは本当に病院なのだろうか。疑問に思いながらも、星音は由真の後ろについて診察室の中に入った。
診察室の中は一般的な病院らしく、医者用の机と椅子、患者用の椅子とベッドがあった。由真がその一つに座ると、星音が座る椅子がなくなってしまう。別に立っていればいいかと思っていたら、由真が診察室の奥から予備の椅子を取ってきた。自分の家でもないのに場所を知っているらしい。
歩月が淹れたカモミールティーはすでに飲みやすい温度にまで冷めていた。来る時間を予想して淹れていたのだろう。星音は横目で由真を見る。何せ由真は猫舌なのだ。
「今日は力使ったの?」
「うん。そんなに長い時間ではないけど」
「そう……。それで、今日はどうしたの? 深夜に急に予約入ってたから、心配してたんだけど……」
歩月と由真は、医者と患者というよりは友達同士のような口調で話している。由真はカップをソーサーの上に置いてから話し始めた。
「この前、アズールの話はしたでしょ? あれの中毒者の集団と一回戦闘になって……寧々の力を借りて二十人くらいのやつを種から引き剥がしたんだけど」
「うん」
「その日からあまり夢見が良くなくて……歩月ならどうにかできるかなと思って」
さらりと言っているが、その戦闘が大変なものだったということは聞いている。寧々が力を使う間、アズールの侵蝕にギリギリまで耐えた上に、その場にいた全員の種からアズールを引き剥がしたのだ。
「もう……相変わらず無茶なことばっかりするんだから。その話は聞いてたけど、まさか二十人とは思わなかったわ……」
「あと今日の入れるともう一人」
「それで調子悪くなったのわかっててやるのね……」
呆れたように歩月は言うが、その声には慈しむような柔らかさが確かに含まれていた。おそらく由真がそういう人間であることはわかっているのだろう。
「それなら解毒でいけると思うけれど……とりあえずやってみるしかないわね」
「じゃあ着替えてくる」
着替えが必要な治療なのだろうか。星音が首を傾げているうちに、由真は診察室の横の扉を開けて中に入っていった。初対面の歩月と二人で取り残された星音は、何から話したものかと思案する。その様子を見て歩月が笑みを零した。
「全然説明してくれなかったんでしょ、ゆーちゃん」
「ここが普通の病院かどうかもまだわかってへんくらいには……」
星音としては歩月が由真をゆーちゃんと呼んでいることも気になるのだが、それについてはあえて聞かないでおいた。由真が嫌がっていないのだから、二人の間ではそれでいいのだろう。
「病院としては普通の内科と小児科よ。父は無能力者だし。母は能力者だけどね。でも能力者を優先的に見ますよ、と宣伝してはいるわね。それが嫌なら他の病院行って、って方針。でも、私は自分の能力を活かして個別に他の治療もしている。それが今からやることなのよ」
歩月がそこまで言ったところで、着替えを終えた由真が出てきた。薄緑色の背中が開けられるようになっている服と、同じ色のショートパンツ。そのまま診察台に腰掛ける。
「今日はちょっと痛いかもよ?」
「今日も、でしょ。鍼治療は実際はそんな痛くないって寧々言ってたよ?」
「使ってるのは同じ道具だけど、能力使うとみんな痛いって言うのよ。私も痛くないようにとかできないし」
「私は平気だけどさ」
由真は診察台にうつ伏せになって、歩月を見た。歩月はワゴンに乗せた道具を引き寄せ、由真の服の背中を開けて、まずは皮膚の消毒を始めた。それから細い針を取り出す。
「鍼治療?」
「使ってる道具は同じよ。本当は使わなくてもできるんだけど、こっちの方が効率いいから」
二人はそれについては何も言わなかったけれど、由真の背中には戦いでついたものと思われる古い傷跡が無数に残っていた。星音の能力でそれを全部治そうと思うと、一週間は寝込むだろう量だ。能力使用時に傷がついてしまう左腕ほどではないが、まだ十八歳になったばかりの少女が背負っていていい傷の量ではない。
「今日は少し長めにした方がいいかしらね。大分痛いと思うけど」
由真はうつ伏せのまま頷く。歩月が針の一つに触れると、青みがかった白色の仄かな光が歩月の指先に灯った。その瞬間に由真の表情が僅かに歪む。歩月は三分ほどかけて、由真の背に刺した全ての針に触れていった。
「今日はこれであと一時間くらいにするわね。痛みはどう?」
「……へいき」
由真は微笑んでいるけれど、言葉を発する直前に息を整えていたところを見る限り、相当の痛みがあったことがわかる。歩月もしばらく心配そうに由真の表情を窺っていた。
「……なんか眠くなってきた」
「いいわよ、寝てても」
歩月が由真の頭を撫でると、由真の瞼がゆっくりと下りていく。すぐに寝息を立て始めた由真を見て歩月が小さく笑った。
「この能力、最初は痛くて、その次に眠くなるらしいのよね。みんなここで寝ちゃう」
「何の能力なんですか?」
「簡単に言うと解毒ね。体の中の悪いものをこの針に集めて引き抜いて捨てるだけなんだけど……ゆーちゃんが人の種を壊すとき、壊された種は完全に消えてしまうわけではなくて、その欠片だったりがゆーちゃんの体に吸収されて、少しずつ蓄積していくの。で、あまりにもそれが溜まってしまうと自家中毒みたいになるから、ときどき来てもらってるんだけど」
改めて、由真の能力は謎が多いと星音は思った。種を壊した後はそのまま全部消えてしまうと思っていたが、それはどうも違うようだ。子供のような寝顔からは想像できないほどに、由真はさまざまなものを背負いすぎている。歩月は眠っている由真の頭を軽く撫でた。
「今回はアズールという薬が引き剥がして壊したときに少し吸収されてしまって調子が悪かったみたいね。相変わらず無茶なことをするんだから、ゆーちゃんは」
まるで姉や母親のような目を由真に向けて歩月が話す。
「歩月さんが力を使わないとどうなるんですか?」
「何食べても吐いちゃうとは言ってたわね、昔。でも三日くらいで治りはするから、全く対処できないというわけではないけれど……」
力を使えば自分にそれだけ負担がかかるとわかっていて、由真はどうして見ず知らずの他人のためにそれを使えるのだろう。アルカイドで働き始めた頃に由真に「お人好し」と言われたことがあるが、由真の方がよほどお人好しだと星音は思った。
一時間ほど経ったあと、歩月が由真の体から針を抜いた。そのまま針を感染性廃棄物のマークがついたゴミ箱に捨てる。ゆっくりと体を起こしつつもぼんやりした目をしている由真に歩月が尋ねた。
「調子はどう?」
「大分楽になった。ありがとう、歩月」
「それならよかった」
由真は施術前と同じように奥の部屋に行き、着替えを済ませてから戻ってくる。先程までは寝ぼけまなこだったが、戻ってきた由真はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
「また何かあったらいつでも来て」
病院の入り口で歩月が由真に言う。由真は軽く口角を釣り上げる、悪戯っぽい笑みを浮かべてそれに答えた。
「何もなきゃ来ちゃだめ?」
「そんなわけないでしょ。いつでも来ていいわよ、ゆーちゃん」
由真は歩月には随分心を許しているようだ。そのやりとりを見るだけでわかる。星音は何故か少し安心感を覚えながらバイクに跨った。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「気にせんでええよ。楽しかったし。歩月さん、本当に美人やな」
「前に、美人女医で話題になったらしいよ。ただ歩月の能力、めちゃくちゃ痛いからリピーターが少ないって言ってたけど。大の大人が痛くて叫んだりするらしいから」
「由真さんそのわりに眉ひとつ動かしとらんかったけど」
「歩月のやつは、ちゃんと治してくれるってわかってるから」
星音はバイクの後ろに由真を乗せて、喫茶店の前まで由真を送った。店舗の隣にある目立たない扉に手をかけながら、由真が笑顔で手を振る。すっきりした表情に安心すると同時に、星音は思った。もし由真が戦わない道を選ぶのなら、わざわざ解毒をする必要もないのではないか――と。
「星音?」
考え事をしていると、すぐに見抜かれてしまう。けれど自分のことを考えているだなんて、由真はきっと思いもしていないのだろう。星音はわざと由真の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「な……いきなり何なの……」
「歩月さんもやってたやん」
「歩月はこんな髪の毛ぐちゃぐちゃにしないし!」
「だって何か反応おもろいから、由真さん」
そう言って、星音は再びバイクに跨ってヘルメットを被った。
「じゃあ由真さん、また明日」
「うん、明日ね」
手を振ってから星音はアクセルを踏む。星音が角を曲がるまで、由真がずっと見送ってくれているのを、星音は背中で感じていた。
*
「ブレンドひとつ、お願いします」
星音がカウンターに立つ由真に言うと、由真は棚からコーヒー豆が入った保存容器を取った。豆をミルに入れる音が心地よく響き、由真が真鍮色のハンドルを回すと珈琲のいい匂いが漂ってきた。コーヒーサイフォンのアルコールランプに火を点け、フラスコのお湯が沸騰したら、漏斗に挽いたばかりのコーヒー粉を入れ、一分計をひっくり返してから木べらでかき混ぜていく。真剣な表情でコーヒーを淹れる由真の横顔を眺めるのが星音は好きだった。
客が選んだコーヒーカップに由真がコーヒーを注ぐ。星音はそれをトレイに乗せて、本を読んでいる客のところまで運んでいった。穏やかな日。窓から差し込んでくる日の光も柔らかく暖かで、その陽だまりの中にいると眠ってしまいそうだ。
使い終わった道具を洗う由真を横目に、星音はカウンターでノートと教科書を広げた。英語の長文読解問題をあらかじめ解いてから授業に臨む必要があるのだが、どうしても紙いっぱいにつまったアルファベットを見ていると眠くなってきてしまう。
「宿題?」
「宿題っていうか、予習です。やっていかないと当てられたときやばいんで」
由真は由真で、店内の様子に気を配りながらも紙にペンを走らせている。何か絵や文字を書いているようだが、勉強をしているようには見えない。星音は何となくそれには触れない方がいいだろうと思い、英文の羅列に目を落とした。
「ありがとうございました」
最後の客を見送って店に戻る。もうレジ清算は由真が済ませていて、清掃とほとんど終わっている。今日は少し早めに上がれるかもしれない。結局英語の予習が終わらなかったから、家に帰ってやらなければ。星音がそう思っていると、由真の携帯電話が鳴った。由真は壁に寄りかかって電話を取る。
「……ハルさん?」
由真の声が剣呑さを帯びる。由真はそれからハルと二、三言やりとりをしてから電話を切った。
「――C-5エリアで複数の事件が起きてるらしい。もう杉山さんたちも機動隊も動いてるし、寧々と黄乃も出したけど手が足りないって」
「それだけいて手が足りないって明らかにやばいやつやん……」
「寧々の見立てではおそらく事件を起こしてる全員がアズールの使用者だろうって。それなら対処しようもある」
「対処って……由真さんまたあれやるつもりなん?」
「だってそれが一番効率いいし」
「いや昨日それで病院行ったばっかりやん!」
由真は掃除道具を片付けて、喫茶店の制服の上着を脱いでから私服のパーカーを羽織る。星音が止めても由真は行くつもりだろう。歩月の力で体調が良くなったばかりだとかそういうことは考えないのだ。それなら、星音は由真について行くしかない。その場にいることができるのなら、最悪殴ってでも止めることはできるだろうから。
「行きましょう、由真さん」
「うん」
星音は由真にヘルメットを渡し、バイクにまたがる。まるで由真を戦場に運ぶような行為に星音の胸は僅かに痛んだが、それを隠すように星音はエンジンをふかした。
十五分ほどでC-5エリアに辿り着くと、そこは阿鼻叫喚の様相を呈していた。至るところで機動隊と能力者たちがぶつかり合っているし、車が横転して炎上しているのも見える。星音は思わず息を呑んだ。良くも悪くも特殊光線を使えば能力者は動きが取れなくなるはずで、それを使っている警察ですらこれだけ苦戦するなんて、今までにはないことだった。
「アズールの根は種を覆うから、反応が鈍るのかもしれない。使用回数が少なくて侵蝕がそれほど進んでなければ効く感じかな……とりあえず寧々を探して状況を――」
「私ならここにいるわよ」
左目を押さえた寧々が由真たちの背後から声をかける。後ろにある建物から状況を見ていたらしい。
「おそらくはここにいる全員が空間支配能力で操られている。元から強い能力者も混ざってるもんだから厄介で。……Clanの連中もいるしね」
「Clanってあのカラーギャングの?」
「そう。アズールをばら撒く駒になってた奴等。しかも光線が効きにくいみたいで……黄乃の
寧々の作戦を聞き、それぞれの持ち場につく。星音の仕事は、まずはバイクに由真を乗せたまま現場の中心まで運ぶことだ。どう考えても事故を起こしそうな作戦だが、攪乱には充分すぎるほどだ。この大人数を動かすには、支配している側も相当脳に負担をかけている。そこにイレギュラーが入り込めば一瞬でも隙が生まれるかもしれない、と寧々が言っていた。
「じゃあ今からは安全運転度外視で。振り落とされないでくださいよ、由真さん」
「いいよ、私ジェットコースターとか好き」
こんな状況なのに、何故か由真は笑っているような気がした。星音は一抹の不安を覚えながらもバイクを走らせ、人の波を掻き乱しながら、パワードスーツを着て特殊警棒を手に奮戦する悠子のところまで由真を運んだ。
「じゃあ私は轢き殺さない程度にやってくるので」
由真を下ろし、星音は再びバイクを走らせる。由真は一呼吸おいてから右手に剣を出現させた。
「私がアズールの根を引き剥がす。そうしたら光線が使えるようになると思うから、そこからは任せるよ」
「いいけど……ここにいる全員にやるつもり?」
「やれるだけやってみる」
由真はそう言うなり、助走をつけて飛び出した。剣に薄く能力波を纏わせ、手足を中心に攻撃していく。あくまで行動不能にするのが目的だ。ここにいる人間を操っているのが、行動不能になった駒をすぐに切り捨てる傾向にあることは既にわかっていた。相手の動きが鈍った好きに距離を詰め、その背中に触れ、種から青色の根だけを引き剥がす。戦闘不能になった能力者を床に引き倒し、すぐに次に移る。
「……っ、これ、ほんっと最悪なんだよな……っ」
アズールに触れた瞬間に頭の中に流れ込む映像を振り払いながら、由真はひたすら突き進んだ。何人のアズールを引き剥がしたかは、十人目で数えるのをやめた。
「由真!」
能力を使って種を取り出す瞬間が、由真にとって一番大きな隙になる。一人に向き合っている間に背後から由真に殴りかかろうとする影があった。悠子の叫び声に気付いた由真が振り向く直前に、由真に向かっていた影が地面に倒れた。
「由真さん、大丈夫ですか!?」
「助かったよ。ありがと、黄乃」
直前で突入してきた黄乃が麻酔を打ったらしい。黄乃は能力波を見ることができる寧々の指示を受けているから、事前に動きを予想して攻撃することも可能だ。
「寧々さんから伝言なんですけど、『外側はだいたい片付いた。星音もそろそろこっちに来ると思う』って」
「わかった。こっちはあと――十人くらいか」
広範囲に攻撃を仕掛けられる黄乃がいるならば、戦闘不能にする役目は任せた方がいいだろう。脚や腕を傷つけるよりは麻酔の方が傷も浅く済む。
「今、悠子と戦ってるのが多分一番厄介だから、私はそっちに行く。黄乃は残り全員に麻酔を打ってとりあえず動けないようにして」
「由真さん、でも」
「あと一人ならいけるから」
何人のアズールを引き剥がしたかはもう数えていなかったが、毒が体に蓄積しているのはわかっていた。昨日、歩月のところに行っていたからまだ良かったと言える。それでもあと一人くらいなら耐えられる。由真は心配そうな目をしている黄乃の背中を軽く押し、剣を構え直してから走り始めた。
「悠子!」
悠子と相対している青い服に身を包んだ男がポケットからいくつかのパチンコ玉を出すと、次の瞬間にそれが一斉に発射される。悠子はパワードスーツを着ているが、それでも何発か被弾したのか、あちこちが壊れていた。由真は悠子を突き飛ばすと、剣を一振りし、飛んできた鉄の玉を砕いた。男はまたパチンコ玉を取り出す。由真は男に向かって走りながら、再び飛んできた玉を砕き、そのまま飛びかかるようにして男の背に触れた。アズールを引き剥がせばその衝撃で一時的に意識を失う。このまま戦闘を終了できるだろうと手に力を込めた由真は、これまでの相手とは全く違う感触に気が付いた。
「っ……なんで……!」
直感で理解してしまう。
この男からアズールを引き剥がすことはできない。
引き剥がしてしまえば、間違いなくこの男は――。
由真の迷いを嘲笑うように、指先に触れた青い枝が由真をも侵蝕しようと成長を始める。
「由真!」
悠子が叫ぶ声が遠くに聞こえた。青色の枝が由真の右腕を覆い尽くし、細い首筋にも伸びていく。触れたところから滲み出す毒が、由真の現実と幻の境界を壊していく。
青い枝に貫かれる女の姿が視界の中で変化していく。最初は女と似た顔立ちの或果に。それからその顔がぐにゃりと歪み、由真の見知った人間の顔に次々と変わっていく。
「……っ、やだ……っ」
これ以上の侵蝕を許せば由真も危ない。自分自身がそれを一番理解していた。けれどこのままこのアズールを破壊してしまえば、取り返しのつかないことになる。
(――由真)
普段は聞こえないはずの、
「だめ……やめて……アル……っ!」
けれど、このままどうすればいいかも由真にはわからなかった。一度種を引き出してこの状態に気が付いてしまった以上、戻すこともできない。迷っている間にも侵蝕は進み、悪夢が思考を食い尽くしていく。
「私が……私がやるから……っ」
このまま膠着状態が続くようなら、アルは手を出してしまうだろう。普段は押さえつけている彼が由真の体の制御を奪い、事態を終結させる。けれど――これ以上、彼に罪を重ねさせたくはない。由真は強く唇を噛んでから、手の中にあるがらんどうになった種ごと、右手の拳を握りしめた。その瞬間に左腕に刺すような痛みが走る。
「っ……ぁ、う……!」
由真の喉から押し殺した叫びが漏れる。地面に膝をついた由真に悠子たちが近付こうとしたが、由真は首を横に振ってそれを拒絶した。
「由真さん……その腕……!」
星音がバイクから降りて由真に駆け寄る。由真は星音から離れようとするが、星音は構わずにその距離を詰めた。
「見せてください、腕。めちゃくちゃ血出てるじゃないですか」
「見ないで……来ないで……お願い……っ」
「由真さん……?」
「もう手遅れだった……このままでいても、多分……だけど……ッ!」
嗚咽を漏らしながら頭を抱える由真の左腕に触れながら、星音は由真の横に倒れている男に目をやった。星音はそれを実際に見たことはなかった。けれど男の見開かれた光のない目を見れば、何が起きたかは理解できる。見ていなかった星音には詳しい事情はわからない。けれど、推測することはできる。この薬に冒された男が手遅れだったとしても、結果的に手を下したのは由真なのだ。
「由真さん……」
星音は、取り乱す由真をただ抱き締めることしかできなかった。それで何かが伝わるかはわからない。けれど何と声をかけるべきかもわからなかったのだ。
「――星音」
抱き締めているうちに、由真の体から少しずつ力が抜けていく。それを見ていた寧々が、星音に声をかけた。
「由真を歩月さんのところに連れて行ってあげて。このままだとかなり危ない状態だから」
「わかりました。でも……」
由真が動ける状態かどうかが不安だったが、由真は力なく頷きながらも立ち上がった。寧々が不安げな目で由真を見る。
「……由真」
「ごめん。あとのことは……任せるから」
そう言うと、由真は寧々に支えられながらもバイクの後ろに乗った。星音は由真がしっかりと星音に掴まったことを確認してからバイクを走らせる。
「星音」
背中越しに、由真の声が星音の皮膚を震わせる。
「なんで、星音は私に優しくしてくれるの……?」
「何でって……別に理由なんてないし、優しくしてるつもりもないで?」
「でも私は……人殺しだよ」
事実だけ見ればそうなのかもしれない。けれど、もう手遅れの人間を死なせてしまうことさえ人殺しになるなら、医者は全員人殺しだ。けれどそんな慰めや正論を口にしたところで、由真が納得することはないだろう。結局のところ、由真自身が由真を許せないのだから。
「……星音みたいに、誰かを助けられる力だったらよかったのに……っ」
その言葉が、星音の胸を締め付けた。人の傷を癒す力。確かにこの力で誰かを死なせてしまうことはないかもしれない。けれど、今この瞬間に何もできない力でもある。体の傷は治せても、逆に言えばそれしか治すことはできないのだ。
「……ねえ、星音」
歩月の病院の手前の信号で停まったとき、由真が小さな声で呟いた。
「いつか私は、星音を殺してしまうかもしれない」
「え……?」
「咲いてしまったら、もう助けられない……そのとき、きっと私は……今日と同じことをしてしまうと思う」
自分の体に起きていることは、寧々から説明を受けている。星音の場合は種が大きく、今すぐ体内で種が割れる――いわゆる「咲く」という状態になることはないと言われた。けれどその可能性は決してゼロではないのだ。そして、仮に咲いてしまったそのときは――。
「今日の人は、アズールの侵蝕が最後まで進んでて……アズールに種の力を全部吸われてて、咲いているのとほとんど同じ状態だった。……どうにも、できなかった。あのままにしてても、多分一週間ももたないくらいだった……でも」
由真の悲痛な声を、星音は背中で感じていた。振り向いてはいけないと思った。背中を向けているこの状態だからこそ、星音の表情を見なくても済むからこそ、今、由真は言葉を紡ぐことができているのだと思ったから。
「……殺したくなんて、なかったよ……」
信号が青に変わる。星音は頷く代わりにアクセルを踏んだ。由真に何を言えばいいかは相変わらずわからなかった。結果的にではあるが人を殺めてしまった、その大きな罪を前に、何も知らない星音が言えることなどない。けれど無言のままバイクを走らせながら、由真はもう十分なほどに罰を受けていると思った。彼女の罪を赦せないでいるのは彼女自身だ。能力使用の代償として生じる左腕の傷を治させなかったのも、人を殺した自分の傷が消えてしまうのが許せないからだ。
「由真さん」
「何……?」
「病院に着いたら、先にその腕を治します」
「いいよ。大した傷じゃないし」
「未だに血止まってない傷が大したことない傷なわけないやろ。
本音を口にすることはできなかった。このままにしていたら、いずれ由真が自分自身を取り返しのつかないくらい傷つけてしまうような気がした、なんて、言ったところで星音の望む答えは返ってこないだろう。
「着きましたよ。由真さん、歩けます?」
「うん、大丈夫」
バイクの音を聞きつけた歩月が慌てて病院の扉を開けて出てくる。由真は歩月に寄りかかるようにして、その肩に顔をうずめた。
「ゆーちゃん……苦しかったね、でももう大丈夫だから」
由真は首を横に振る。歩月はその頭を優しく撫でた。
「苦しくないの? じゃあしんどいかな?」
その言葉に、由真は迷いながらも頷いた。歩月は柔らかな笑みを浮かべて、由真を抱きしめる。
「しんどいね……。うん、ここまでよく頑張った。中入ろっか」
二人の様子を見ながら、星音はこの人になら由真を任せられると思った。その能力だけではない。その慈しむような手と、ほのかに光る灯りのような、その優しい言葉が、きっと今の由真に一番必要なもののように思えた。星音は由真にそっと近付いて、左腕を捲り上げてから能力で作った包帯を巻く。かなり深い傷だから、塞ぐ程度に留めておいた。本当は全部綺麗に治してしまいたいが、それは由真が望んでいないとわかっていた。
「じゃあ……由真さんのこと、よろしくお願いします」
「大丈夫よ。ちゃんとしんどいって言えたから。……星音ちゃんも、今日はゆっくり休んだ方がいいわ」
「そう……ですね。言われてみればめちゃくちゃ疲れてる気がします」
「大変な事件になってたもの。本当は、こんな子供をこんなつらい目に遭わせちゃいけないのに」
歩月は大人なのだ、と星音は気が付いた。アルカイドにはハルという大人がいるが、彼女はほとんど姿を見せない。いないのとかわらないくらいだ。あの場所には星音を含め子供しかいない。それなのにいつも、戦いに駆り出されているのだ。星音も含めて望んでそこにいるとはいえ。
理不尽な世界に生きている。星音はそう思った。そして――この理不尽な世界に生きるには、由真はあまりにも純粋で、優しすぎるのだ。