「……どのみちこの状態では、おそらく一週間ともたなかった。種の中身がアズールに全部吸われて、咲いている状態とほぼ同じになっていた。そうなったらもう……長くはない。けど、一週間あったかもしれないものを由真がゼロにしたのも、由真にはそうするしかなかったのも事実」
救急車やパトカーのサイレンが鳴り響く現場で、寧々が言った。
「仕方のないことだったし、由真の種に関する能力での殺人は今のところ科学的に証明できないから、法律で裁かれることもない。――それでも、あの子が助けられなかった人がもう一人増えてしまったのも事実」
由真を出すべきではなかったと後悔しても遅い。実際、アズールを引き剥がすことができる由真の介入によって、戦局が寧々たちに有利に傾いたのだ。その点でのハルの判断は間違いなく正しかった。
「由真さん……大丈夫なんですか?」
黄乃が心配そうに尋ねる。由真は口にしなかったが、黄乃にこの現場を見せてしまったことについても悔やんでいるだろう。黄乃はアルカイドの中では最年少。まだ中学生だ。けれど由真も同じくらいの年齢からずっとそういうものを見続けて生きてきたのだ。
「歩月さんに任せたから……由真、あの人の前ではつらいって言えるから。それに――能力波の波長が合うのよね、あの二人」
解毒の能力の持ち主だからなのか、歩月の能力波は凛とした、清浄な気配を纏っている。それと由真が持つ純粋さがうまく噛み合っているのだ。自覚はしていないだろうが、由真が歩月によく懐いているのはそういう理由もある。
「事件の処理は任せるわよ、悠子」
「わかってる。それがこっちの仕事だから」
悠子はそう言うと、無線で連絡を取り始めた。もう中学生が出歩いていていいような時間は過ぎていたから、寧々は悠子の部下である松木を呼び、黄乃を家まで送るように言った。
「――え?」
悠子のやりとりが終わるのを待っていた寧々は、大きな声を上げた悠子を見て首を傾げた。取り繕うのが苦手な悠子は、何か良くないことが起きるとはっきりと顔に出てしまう。
「何かあったの?」
悠子は無線を切って、迷いの視線を寧々に向ける。けれどすぐに刑事の目に戻り、震える声を抑えて淡々と告げた。
「……この騒動の首謀者として、二人に逮捕状が出たわ。一人は月島怜士、もう一人は――その娘である月島或果に」
「してやられたわね。私たちは首謀者は月島創一だってわかってるけど、能力を利用した追跡だから証拠として採用はしてもらえない」
寧々は苛立たしげに舌打ちをする。月島創一が動こうとするときに一番邪魔になるのは、実は同じ能力を持った父親だ。父親を嵌めることで排除を狙ったのだろう。そしてその協力者として、青い桜を作り出した或果の母親と同じ能力を持つ或果を選んだ。
「悪い話はまだあるわ。指名手配がかかってすぐに、警察が月島家と喫茶アルカイドをあたったけれど、そのどちらにも月島或果はいなかったと報告があったわ」
「――あの下衆野郎、それが目的か」
寧々は憎々しげに吐き捨てる。ハルが由真の投入を決めたとき、一瞬頭をよぎったのはそのことだった。由真が出れば、その間あの場所にいるのは或果だけになる。その間に何かが起きる可能性を考えなかったわけではなかった。けれど由真を出さなければ、まだこの騒動は終結していなかっただろう。特殊光線が効きにくい相手に対して、無能力者である警察にできることは少ない。アズールを引き剥がせる人間はどうしても必要だったのだ。助けられる人数を最大にするためには正しい判断だった。けれど由真に人を殺させてしまったこと、或果を一人にしてしまったことを考えると、これは間違いなく悪手だった。寧々は苛立ちを隠せずに近くのガードレールを思いっきり蹴る。
「寧々……」
「うるっさいわね! いま必死で考えてんのよ!」
思わず悠子に対して声を荒げてしまう。けれど悠子に何の責任もないことは寧々も理解していた。本当にただの八つ当たりだ。
「或果は十中八九、月島創一のところにいる。あの外道が手放すはずがないのよ。この世に存在しない唯一のものを生み出すことができる能力なんだから……。できるならいますぐ乗り込んでやりたいとこだけど……私らだけで行っても犬死にするだけなのよ」
アルカイドの攻撃の要は由真だ。最近は黄乃の活躍も増えてはきたが、黄乃の能力は空間支配能力とは相性が悪いのだ。由真に行かせるしかない。けれどあの状態の彼女を戦わせるわけにもいかない。寧々は拳を握り締めた。
「どっちにしろこれは陽動も兼ねてたってことみたいね。……悔しいわね。予想できないほどのことじゃなかった」
「月島創一が屋敷にいるのはわかってる。或果もそこにいるってこと? それならあの家に住む二人に逮捕状が出てるわけだから、家宅捜査とか」
「金持ちの家ってのは大体誰にも見つからない場所があんのよ。警察でそれを見つけられる?」
「見つけられるかどうかじゃない。やるしかないのよ、もう。少なくとも今すぐ由真を動かせるわけじゃないんだから」
「そうね。じゃあそっちは任せる。私は一人、臨時バイトを雇おうかと」
「臨時バイト?」
「視覚を攪乱させるから、目を使う能力とは相性がいいのよ。本当は一般人を巻き込みたくはないけど……今回の件はそもそもあの子が依頼してきたんだし」
一条純夏。彼女は人間の視覚に働きかけ、幻覚を見せる能力の持ち主だ。そこにいるはずなのに消えているように見えたり、何でもない水滴をナイフに見せかけたり、それ自体には攻撃力がないものの、攻撃の補助としてはかなり有用だ。今回の件でも、見えないところから繰り出される蹴りなどで不意をついた攻撃に成功しているのを何度か見ている。
「一か八かではあるけれど、このまま手をこまねいているよりは」
寧々はそう言い、悠子の誘導に従って規制線を抜けた。純夏の携帯を鳴らしながら、ハルに車の手配も依頼する。急がなければ。創一は或果の能力を求めている。命を奪うことはないはずだが、その能力を高めて操りやすくするためにアズールを使用する可能性は高い。早く助け出さなければ、取り返しのつかないことになってしまう。寧々は祈るような気持ちで、携帯電話を握り締めた。
*
「あーあ、絶対向こうの仕事の方がいっぱい人殺せたのに……」
「ま、こっちもこっちで楽しそうだけど」
大学病院の裏手にある細い道。標的がここをよく使うことは調査済みだ。人通りもなく、事を運ぶにはもってこいの場所。あとは彼女がここを通るのを待つだけだ。タリタは街灯の上にしゃがみ、時計を見た。そろそろ面会時間が終わる。彼女はいつも時間いっぱい友人を見舞ってから帰路につく。もうじき来る頃だろう。タリタは笑みを浮かべた口元を手で隠した。久しぶりの仕事で思わず笑みが零れてしまうのだ。
(あ、来た)
ポケットに手を突っ込み、鋲や鎖をあしらった黒い服に身を包む金髪の少女。特定のカラーギャングには属していないが、色々なところに出入りしていて、街では一目置かれた能力者。能力は幻覚系。名前は一条純夏。タリタは微笑み、右手を上に向けた。すると薄緑色のサイコロほどの大きさの半透明の立方体がタリタの手の上に浮かぶ。タリタはそれを軽く握った。
「……っ!」
純夏は右腕を押さえて呻き声を上げた。骨までは折れていないだろう。不意の攻撃を受けた純夏は、周囲を警戒しながらも姿を消した。人に幻を見せることができる能力だから、そこに何もないという幻も見せられるのだ。
「無駄よ」
どこにいるのかわからないのなら、辺り一帯を攻撃してしまえばいい。タリタは両手の間にサッカーボールほどの大きさの立方体を作り出し、それを一気に潰した。
「っ……何なんだよてめぇ!」
純夏が再び姿を見せる。姿を消すのは無駄だと判断したのだ。
「あいにくあんたにいきなり攻撃されるようなことをした覚えはないんだけど」
「創一様はあなたのこと邪魔だって。幻覚系って相性悪いのよね、確かに。でも私はそんなことどうだっていい。私は、ただ私が楽しいことをしたいだけ」
「人をいきなり攻撃することが楽しいなんて、綺麗な顔して随分悪趣味だな」
タリタはくすりと笑って、両手を頬に添えた。攻撃することが楽しいのではない。本当に楽しいのはその先だ。
「勘違いしないで。私が好きなのは人の悲鳴を聞くことと、人の命を奪うこと。だからね、一条純夏さん」
純夏の足には既に力が込められている。逃げるつもりなのだ。けれどそれを許すつもりはない。タリタは両手にひとつずつ、小さな箱を出現させた。
「いっぱい悲鳴を上げて、それから死んでくれる?」
タリタは両手の箱を一気に握り潰す。その瞬間に純夏の喉から悲鳴が漏れた。その声を聞き、タリタは頬を紅潮させた。まずは両足。骨まで砕いたから、これでもう動くことはできない。しかし純夏は腕を伸ばして、近くの小石を掴んだ。小石はナイフに姿を変え、タリタに向かって飛ばされる。しかしタリタは小さな箱を出し、その全てを一撃で潰した。
「ねえ、次はどこがいい? 首は最後だけど、指か腕か……肋骨っていうのもあるわね」
「この悪趣味変態野郎が……っ!」
「野郎なんて失礼ね。でも野郎に対応する、女の子を表す言葉って何だったかしら?」
タリタはそう言いながらも、次々箱を出現させ、十個ほどの立方体を空中に浮かべた。そしてそのうちのひとつを右手で潰す。純夏の右手の指があり得ない方向に曲がる。タリタを喜ばせないように悲鳴を必死で堪えるが、それでも呻き声は漏れてしまった。
「ああ、最高よ。その声もっと聞いてたい……! 次はここ……!」
「ぐ……っ、ぅ、あ……っ!」
「ああ、そうよ……もっと聞かせて……!」
タリタは高揚した声を上げながら、次々と箱を破壊していく。鎖骨、肋骨、肩甲骨。体のあらゆる部分をひとつずつ破壊する。久しぶりの仕事だからか、それでも満足にはほど遠かった。
「うーん……もっと楽しみたかったんだけど、そろそろ時間みたい。最後はこれね?」
タリタは最後の箱を手に取り、その天地に手をかける。それをねじるために力を込めた瞬間、純夏の首筋にも強い力がかかる。純夏が自分の死を覚悟した瞬間、タリタの後ろから向かってくるライトが見えた。無骨なバイク。運転しているのは女性だ。タリタをひき殺しそうな勢いで突っ込んできたバイクは、しかしその直前で止まった。
「――何してるんや、あんた」
「瀧口星音……」
喫茶アルカイドの従業員の一人、瀧口星音。戦闘向きの能力ではないが、現在は柊由真と組んで事件の解決にあたっている。由真と組んでいるためか、出動の回数は実はそれなりに多い。
ここで星音と交戦になるのは創一の意に反する。タリタは手首につけたブレスレットからワイヤーを引き出すと、それを電柱に引っかけ星音の手が届かない高い場所まで飛んで逃げた。星音は追跡しないことに決め、地面に倒れている純夏に駆け寄る。
「大丈夫?」
「死んではないって程度だね……死んでもおかしくないけど」
「このままやと病院運ぶのも厳しいな。病院まで行ける程度に治したる」
先程由真の傷を治した分だけ体力を使ってしまったが、病院まで運べる程度ならどうにかなる。星音は純夏の足に触れ、骨が折れて腫れた足に能力で作り出した包帯を巻いていった。
「何があったん?」
「さあね。恨みは色んなところで買ってるから。でもあの女、確か創一様がどうとか言ってたな……。創一って確かアレだろ、月島の……」
「或果さんの腹違いの兄貴、で月島家の次代当主やな。せやけどなんで
「空間支配能力は目を使って発動するから、幻覚系とは相性が悪いはずだ。まあ確かに最近色々首を突っ込みすぎた自覚はある」
敵になると判断したから殺そうとしたのだ。それは結局、あのタリタという女が純夏を苦しめることに執心しすぎたせいで、星音が来てしまって失敗したのだが。
「向こうが私に関わって欲しくないって言うんなら、それは成功してるな。これじゃしばらくは動けない」
「治してやりたいところやけど……私が寝込むことになるからな」
「少しだけでも助かったよ。あんたがいなきゃあのまま野垂れ死ぬところだった」
「これで固定したらバイクの後ろに乗るくらいはできるやろ。病院すぐそこでよかった」
星音は純夏をゆっくりとバイクに乗せ、出発するための準備をする。純夏は溜息を吐きながら携帯電話を取り出し、待ち受け画面の通知を見て首を傾げた。
「あんたらんところの……渚寧々から不在が入ってるんだけど、心当たりある?」
「寧々さんから? 心当たりはないな」
「どうせ厄介な話だろうけど。この手で携帯持つの厳しいから代わりに電話しといてくれる?」
「いや先に病院やろ」
寧々の番号は星音の携帯にも入っているのだから、純夏を病院に連れて行ってからでもいい。星音は純夏を振り落とさないように慎重にバイクを走らせた。すぐ近くの大学病院の救急に駆け込むと、看護師が幾分慌てた様子で車椅子を持ってきた。
「車椅子は押す方がメインだと思ってたんだけどな。とにかく助かったよ、ありがとう」
「いやそこまでは助けられてへんけど……寧々さんには私から連絡しとくで」
診察室に呼ばれた純夏を見送ってから、星音は寧々に電話をかけた。ワンコールも待たずにすぐに電話がつながる。
『星音ちゃん? 何かあった?』
「純夏さんに電話しましたよね? その用事を代わりに聞こうと思って」
『今一緒にいるの?』
星音は事情を簡単に説明した。由真を歩月に預けた後、近道をして帰ろうとしたところで襲われている純夏を見つけ、多少動ける程度に治療してから病院に運んできたこと。説明が終わる頃に何かを叩くような音が電話越しに響いて、星音は思わず体を縮こまらせた。
『こっちもあまりいい状況ではないのよ。さっきの事件は完全に陽動で、その間に或果を奪われた。どこにいるかは何となくわかっているけれど、こちらの戦力を考えると今すぐ助けにもいけない状況で。だから純夏の助けを借りようと思ったんだけど――その可能性は潰されてしまったみたいね』
「純夏さんほぼ外傷やから、やろうと思えば治せはするんやけど……やったら私が二ヶ月くらい寝込むことになりかねないというか……」
『そんなことを頼むつもりはないわよ。でも……これで由真を出さないわけにはいかなくなったわね』
「由真さん……あの状態のあの人を出すつもりなん?」
とても戦わせられる状態ではなかった。毒に関しては歩月の能力で抜くことができるだろうけれど、問題は精神的な面だ。それは寧々もわかっているだろう。
「無理やろ……!? あの状態でこれ以上戦わせたらあの人本当に壊れてまうで!?」
『私だってわかってんのよそんなことは!』
寧々の声に、星音は目を見開いた。寧々が声を荒げるところを初めて聞いた気がする。それだけ寧々にも余裕がないのだ。
『でも……或果を助けられなければ、もっと酷いことになる。由真がこの状況を知れば、たとえ自分がどんな状態でも行くって言う』
星音は唇を噛んだ。由真なら確実にそうするだろう。由真はいつだって自分自身のことは二の次で、他人のことばかり心配している。そして或果を助けることができなければ、おそらく取り返しのつかないほどに壊れてしまうことも容易に予想ができた。
――星音みたいに、誰かを助けられる力だったらよかったのに。
先程聞いた由真の言葉が星音の頭の中を巡っている。星音の力は誰かの傷を治すことはできる。けれど誰かを助けるために戦うことはできないのだ。
(私は……由真さんを助けられる力が欲しい)
由真だけをつらい目に遭わせないように、戦える力があったならどれだけ良かっただろう。星音は待合室の長椅子に座り込み、うずくまった。
「……寧々さん……でも、私は……それでも由真さんを行かせたくはない」
『星音ちゃん……』
「純夏さんを襲った奴、かなりヤバいと思います。殺すだけなら最初から首の骨折ったら良かったのに、出来るだけ痛めつけようとしてるみたいだった……そんな人がいるようなところに、あんな状態の由真さんを行かせるなんて、それこそ死なせに行くようなもんじゃないですか……っ!」
けれど寧々は選択を変えないだろう。星音も理解していた。たとえ由真本人が死んでしまうかもしれなくても、それが最善の選択なのだ。そうしなければ或果を救い出すことはできなくて、或果を救い出すことができなかったときに由真がどんな状態になるかは――正直考えたくない。だからといって他の人を戦いに向かわせて、仮にその人が命を落としたとしたら――。考えれば考えるほど、由真を行かせることが最善だと気が付いてしまう。
『由真は死なないわ。あの子は――あなたが思ってるより、ずっと強いんだから』
「寧々さん……」
『どちらにしろ、由真には事情を説明する必要があるわね。知ったら傷つくだろうけど、隠されたらもっと傷ついてしまうような子だもの。星音ちゃんは、今日はもう帰ってゆっくり休んで。星音の力が必要になる可能性は高いから』
「……わかりました」
言いたいことを全て飲み込んで、星音は返事をした。寧々の言うことを鵜呑みにすることはできない。けれど信じるしかなかった。由真は強いという寧々の言葉を。そして由真が勝つことを。
(体の傷ならいくらでも治したるから……どうか――)
既に戦える状態ではないと言われれば確かにそうかもしれない。けれど由真の体が動く限り戦うしかないのだ。それが他でもない由真の望みだと、どうしようもないくらいに知ってしまっているから。星音が拳を握り締めた瞬間、診察室の扉が開いて、車椅子に乗せられた純夏が姿を見せた。
「純夏さん……!」
「しばらく入院だってさ。そりゃそうだよな。でもまあ死ななかっただけどマシだな」
「そう……ですね」
「悪いな。こんなんだから手を貸してはやれない。何とかしてやりたいところだが……全身痛くて能力もろくに使えない」
「純夏さん、さっきの電話聞こえて……?」
「そりゃあんだけ大声あげたら聞こえるだろ。あんたの気持ちはよくわかる。だからこそ、今日は家に帰ってよく休むといい。私に力を使った分を回復する必要があるだろう?」
確かにある程度動けるようにするだけでそれなりに体力を奪われた。それほどに純夏は痛めつけられていたのだ。星音はゆっくりと頷く。
「あとこれが足しになるかはわからないけど。――持って行け」
そう言いながら純夏がポケットから取り出したのは個包装のクッキーが一つと飴が二つだった。しかし全て中で砕けているのがわかる。
「粉々やん……」
「仕方ないだろ……あの女の攻撃受けたときにポケットに入れてたら一緒に砕けたんだ」
「いやもう明らかにいらんから押し付けとるやろ……まあ足しにはなるからありがたくもらっとくで」
星音はクッキーと飴を受け取ると、粉々になった中身を慎重に口に含んだ。これで少しは能力を使った分が回復できる。あとは家に帰って食事と睡眠をしっかり摂らなくてはならない。純夏が看護師に車椅子を押されてエレベーターホールに向かう。星音はその姿を見送り、粉々になった飴を口の中で溶かしながら病院をあとにした。
*
「……っ!」
星音のバイクのエンジン音が聞こえなくなった瞬間、由真は待合室の床に崩れ落ちた。歩月が慌ててその肩を支える。
「ゆーちゃん、今どんな状態? 話せる?」
由真は力なく首を横に振る。声を発してしまえば意識も何もかも飲み込まれてしまいそうだった。アズールに触れたときに見える幻覚。それが今、はっきりとした形を持って由真を襲っていた。悪夢と現実の境界が曖昧になって、正常な視界が蝕まれていく。
『
忘れたい声が頭の中で響く。由真は激しく首を横に振った。
『あの子はとても苦しんでいる。君ならあの子を楽にできる』
それが何を意味するか、最初の一回で理解していたのに。それでも命じられるがままに、何度もそれを繰り返した。これが救いなんて欺瞞だ。楽になれるなんて都合のいい嘘だ。わかっていたのに、何度も、何度も。
「う……っ、やだ……いや……っ、もう……!」
咲いた人間を殺すその瞬間の、嫌な感触を体がずっと覚えている。それがアズールによって増幅され、視界を支配する悪夢と結びついてしまう。
「ゆーちゃん!」
歩月の声に、由真は一瞬我に返った。由真は縋るように歩月の手を握る。
「ゆーちゃん、動けそう?」
「無理……」
「じゃあ今からちょっと動けるようになるくらいまで力を使うから。かなり痛いと思うけど……」
由真は頷き、歩月に体を預けた。歩月は由真の服の下から手を入れ、その背中に直接触れる。
「は、やく……歩月……」
歩月は由真の背中に触れた手に力を込める。由真は悲鳴を押し殺すように歩月の服を強く噛んだ。針を使う方法よりも効率的に力を伝えられない分、力を使われている人の痛みは倍増する。修羅場をくぐり抜けてきた特殊部隊の人間でも叫び声をあげるほどの痛みを、十八歳になったばかりの少女が堪えているのだ。歩月は一瞬眉を寄せてから、ゆっくりと手を離した。
「っ……はぁ……」
「ゆーちゃん……動けそう? 車椅子持って来ようか?」
「やだ……離れないで、歩月……」
「じゃあ肩借りたら立てそう? 今のじゃ解毒しきれてないから……」
「ん……それなら、できる」
由真は歩月に支えられながらゆっくりと診察室に向かい、診察台に倒れ込んだ。
「歩月……ごめんね……」
「なんで謝るの?」
「力使い過ぎると……疲れちゃうでしょ……?」
「今はそういうこと気にしないの。私はゆーちゃんに元気になって欲しくてやってるんだから」
歩月は微笑みながら針を背中に刺していく。由真は少し安心したように息を吐いた。
「なんかもう眠くなってきた……」
「いいわよ、寝てて。目が覚めたら楽になってるからね?」
「ん……ありがと、歩月……」
由真はゆっくりと目を閉じる。その数秒後に本当に寝息を立て始めた由真の頭を歩月は優しく撫でた。
「ゆーちゃん……こんな状態でも、戦う必要はあるの……?」
そういう風にしか生きられないのであれば、それはあまりにもつらいことではないだろうか。歩月は針にそっと触れながら、憂いを帯びた目で由真のことを見つめていた。
*
由真も寧々も出てしまっていて、或果は一人でアルカイドのカウンターの椅子に腰掛けていた。部屋にいてもいいのだが、何となくここで絵を描きたくなったのだ。誰もいない店内。四つ並んだサイフォンを眺めていると、いつもその近くにいる由真を思い出してしまう。手遊びのようにクロッキーに鉛筆を走らせていた或果は、カウンターの上に置かれた一枚の紙に気が付いた。左側に四角い枠が連なり、その中に絵が描いてある。その右側に書いてある文字は絵の説明なのだろうか。首を傾げながらそれを手に取った或果は、その絵と字が由真のものであることに気がついた。
「これ……もしかして絵コンテ……?」
正直に言えば、あまりにも絵が下手すぎて体を成していないが、何をしたいのかはわかる。そういえば寧々が、最近由真は本宮緋彩の事件以降やたらと映画やドラマを見るようになったと言っていた。最初は本宮緋彩が出演しているものから始まって、徐々に手を広げているのだとも。
もしかしたら、本宮緋彩が出演している作品を見ているうちに、それを作ることに興味が湧いてきたのかもしれない。これまで喫茶店の仕事と能力者絡みの事件解決のための戦闘に明け暮れていた由真が、それ以外のものを見つけ始めているのだとしたら――今は気が付かなかった振りをしていた方がいいのかもしれない。もっとそれが大きく育って、夢と呼べるようなものになるまで。
けれど――能力者が夢を見るのは難しい世界でもある。能力者の映画監督や映像ディレクターは少ない。能力者を忌避して、その監督の作品には出演したがらない無能力者の俳優もいるほどだ。ただ夢を見ているだけなのに、挑む前に能力者だからと排斥されてしまう。或果はそれを身をもって知っていた。だから今は――まだ夢とも呼べないだろうこの淡い蕾を守っていたい。
けれど小学生でももう少し描けるだろうと言いたくなるほどの下手な絵に、思わず笑みが溢れてしまう。こっそり清書なんてしたら怒られてしまうだろうか。或果はそんなことを考えながら鉛筆を走らせた。
暫くすると、携帯電話から着信を知らせるメロディーが聞こえてきた。兄の創一からの電話だ。けれど或果は一旦はそれを無視した。ここ最近の事件の黒幕が創一であることは既に由真から聞かされている。自分の能力を狙っているとわかっている人の電話に出るはずがない。
そのまま放置していると、諦めたのか電話が切れた。或果がほっと安堵の溜息を漏らした瞬間、店の窓ガラスが叩き割られる音が聞こえた。或果が身構えていると、鉄パイプを持った男が数人或果に向かってくる。男たちは皆一様に虚ろな目をしていた。意思のない目は操られている者の特徴だ。しかし或果もアルカイドの一員ではある。或果の左腕には、自分自身の能力で生み出した小型のクロスボウが装着されていた。威力はわざと落としている。けれど少しでも戦闘で役に立ちたくて、密かに試作を繰り返していたのだ。
「私だって……この力だって、戦えるんだから……!」
自分にその力がないなんて甘えたことは言ってられなかった。無能力者の梨杏ですら戦うために体を鍛えているのだから。カウンターを盾にして、陰から攻撃を加える。狙うのは足だ。動きを封じるのが一番大事なのだ。前方の敵は呻き声を上げて床に蹲る。あと二人――そう思った瞬間、背後から手が伸びてきて口元に布を押し当てられた。意識が急速に遠のいていく。おそらく催眠系の能力――体から力が抜け、なすすべなく崩れ落ちる或果の姿を、いつの間にかやって来ていた創一が冷たく見下ろしていた。
「ここは……」
或果が目を覚ますと、そこは薄暗く、窓もない、ただ広いだけの部屋だった。或果は体を起こそうとするが、すぐに体の自由が奪われていることに気がつく。青色の根が或果の体を抱きかかえるようにして、四肢を完全に拘束していた。
「目が覚めたようだね、或果」
「お兄様……これは……?」
「ここは屋敷の地下……いや、君の母上が生み出した青の桜の根元だよ。僕の能力でこの空間を作り出したんだ」
「どうしてここに私を……?」
創一は或果の横にしゃがみ込み、長い髪を一筋掬い取った。
「父上は君の能力を大したことがないと言っていたようだが、僕からしてみれば愚かな話だ。空間支配能力を運用するための呪具を作るのに、これほど適切な能力はない」
「お兄様……」
「君の母上はこの青い桜を、世界にひとつしかない植物を作り出した。僕はそれを使って僕の能力を最大限に活かすことができる薬を作りたいと言ったんだ。でも君の母上には断られてしまってね。僕としては木だけが残っていれば何の問題もなかったから、君の母上には死んでもらった」
笑みさえ浮かべながら創一が言う。創一の言葉は俄には信じがたかった。けれどそんな冗談を言う人ではない。全て本気で言っているのだとすぐに理解できた。
「やっぱりお兄様が……お母様を殺したの……?」
「その口ぶりだと、もう気付いていたのかい? うまく演技できていると思ったんだけどな。それか……アルカイドの仲間から聞いたのかな?」
「どっちでもいいでしょ、そんなこと。お母様は私のたった一人の家族だったのに……!」
「ふん。家族なんてものは、人生に満足できない弱いものが縋るだけの存在だ。それに今は……僕だって君の家族だろう、或果?」
創一は或果の長い髪を一筋掬い、それに恭しく口付けた。気持ち悪い――心の底から或果はそう思った。
「お兄様は、何が目的なの?」
「僕はね、この国を、世界を変えたいんだ」
創一は桜の根に軽く触れる。するとそれが何かの生き物のように動き出し、或果の首筋に刺さった。
「……う、お兄様……何を……っ!」
「或果には最高濃度のアズールをあげるよ。その力をもっと強めて、僕のために働いてくれ」
「私は……私はそんなことしたくない……!」
「だが君の夢は能力者だからと言ってあっさりと台無しにされてしまうだろう? でもおかしいと思わないか? 僕たちは能力を持っているはずなのになぜ虐げられなければならない?」
或果は首を振った。能力者だからといって差別されるのは理不尽だ。生まれつきのもので、好きで能力者に生まれたわけでもないのに、ただ能力者であるだけで夢を見ることさえ許されないのだ。
「僕はね、能力者が支配する国を作りたいんだ。父上のように裏から支配するなんてまどろっこしいだろう? 僕たちは表の人間になるべきなんだ」
どうして能力者と無能力者が手を取るという発想には至らないのか。誰もがそうだ。どちらかがいなくなればいいのだと嘯く人たちを、或果はたくさん見てきた。
「表の人間になり、この国を支配するのが僕の夢だ。幼い頃からずっと夢見てたことが、今ようやく形になろうとしている」
「私は……そんな計画に手を貸したくない……!」
「無駄だよ。アズールの侵蝕を拒める者はいない。それは強力な呪具となって、僕の能力の有効範囲を著しく広げてくれる」
「っ……いや……私は……!」
突き刺さった根から何かが或果の中に流れ込んでくる。その度に体がふわふわと浮くような不思議な感覚に襲われた。心地よいか心地よくないかで言えば心地よいと思ってしまう。幸福感が頭を埋め尽くそうとするのに、或果は必死で抗っていた。
「君はあの喫茶店に出入りするようになってとても強情になった。けれどもう何も考えなくていい。全てを委ねてしまえば幸福なままでいられる。君は俺の言うことだけを聞いていればいいんだ」
「嫌……だって私は……」
夢を見たかった。それがどんなに遠くても、彼方に光るものを掴むために走りたかった。その力をくれたのはアルカイドのみんなで――ずっと戦う背中を見続けてきた由真だった。
「君は本当に強情になった。それなら君にいいものを見せてあげよう。君の意識を染め上げて、もう何も考えられなくなってしまうほどのものをね」
創一が指を鳴らすと、空間の一部が剥がれて全身をロープで縛られた怜士が現れた。これまで創一の能力で隠されていたのだろう。空間支配能力はその空間を自由にできる能力だ。けれど創一の力はそこまで強かっただろうか。或果は縛られ空中に磔にされた父と、柔らかな笑みでそれを見つめる兄を交互に見た。
「ここまで計画が進んだ以上、この能力の持ち主は二人はいらない。そして『女王』も不要だ。俺が能力者の頂点に立ち、全てを支配する――」
創一はそう言って、桜の根を軽く撫でた。
根が鋭い槍のように姿を変え、磔にされている怜士を串刺しにする。
「――!」
或果が叫び声を上げた瞬間に、或果の首筋に突き刺さった根から冷たいものが一気に流し込まれる。青い根に貫かれた父の姿。噴き出した血の赤色。それを最後の景色にして、或果の意識が薄れていく。
「あんなものを見たら忘れられないだろう。それが君を蝕む呪いになる。――さあ、もうすぐ……君は僕のものになる」
或果は体が重くなるのを感じながらもゆるゆると首を横に振った。誰かに支配されたくなんてない。このまま創一の思う通りになどなりたくない。けれど体を拘束され、思考まで奪われつつあるこの状況で、抗う術などなかった。
「由真……」
でも、美しく鮮烈な光は遠くにまだ輝いている。或果はその光に向かって、震える声で懇願した。
「助けて、由真……」
傷ついても戦い続けるその背中を、差し伸べられる傷だらけの手を、この世で最も美しいと思えるものを――或果は願った。