能力が発現したが、使いすぎることへの代償もわかった。なるべく使わないようにと言われていたが、頼まれると断りきれずに由真は力を使い続けていた。そして珍しい能力ゆえに病院で検査を受けることも多かった。
そんなある日、病院の待合室で順番を待っていると、隣にスーツを着た三十代くらいの男が座った。
「――柊由真さん、ですよね?」
由真は無言でその男を無視した。外で知らない人に話しかけられても応えないように、と大人たちから言われていたからだ。しかし男は諦めずに由真に話しかける。
「私、こういう者なのですが」
男が差し出してきた名刺には「児童養護施設 北斗の家」と書かれていて、由真はますます男を――名刺によると名前は
「あなたは非常に珍しい能力をお持ちと聞きました。それを、北斗の家の子供たちのために使って欲しいのです」
由真は答えない。そのまま男を無視して席を立ち、別の場所に移動した。男の言葉に興味がないことはなかったが、それよりは不信感の方が勝ったのだ。
しかしそれからも角田は何度も由真に接触してきた。病院の待合室はもとより、学校帰りに声をかけられたこともあった。最初は角田を疑っていた由真だが、その施設の子供も一緒についてきているのを見たり、その子供と話をしたりするにつれて、少しずつ警戒心を解いていった。
「能力者だからって生まれてすぐ捨てられてしまう子供は後を絶たないし、仮に家庭の中で育っても、居場所がないと感じてしまう能力者の子供は多いんです。能力者の子供がたくさん出入りする場所になれば、北斗の家は孤独感を覚えている能力者たちの居場所になれるんじゃないかと思っていまして」
けれど由真は角田の言うことを全て信じていたわけではなかった。けれど連れてくる子供の方とはよく言葉を交わしていた。能力者というだけで捨てられてしまった子供。虐待を受けた子供。彼らのために何かできることはないだろうか。そんなことを考え始めるうちに、聞き流していた角田の話も頭に入ってくるようになった。
そんな日々を過ごし、小学六年生の春を迎えた由真は、学校帰りにひとりの中学生くらいの少年が道端でうずくまっているのを見つけた。少年の口からは苦しそうな呻き声が漏れていて、その足元には石英の群生のようなものが広がり、その勢力範囲を少しずつ広げていた。
(あの人、もしかして――)
由真は少年に近づき、目線を合わせるためにそっとしゃがみ込んだ。少年が苦しそうな声を上げながら由真に縋り付く。そのとき、少年が生み出した鉱物の先端の鋭利な部分が、由真の足を傷つけた。由真は一瞬顔を歪めるが、すぐに少年に向き直った。少年の口から微かに、喘鳴と共に言葉が聞こえてくる。たすけて、と聞こえた声に由真はゆっくり頷いた。前から少年を抱きしめるようにして、背中に手を当てた。手の下が白く光って種が引き出される。由真が確かめるように少年を見ると、少年はゆっくりと頷いた。由真は少年から種を引き出し、それを握りしめて壊す。同時に周辺に広がっていた水晶の群生は消え、由真は気を失った少年を腕で支えた。
「――おや、もしかして力を使ったんですか?」
どうしようかと由真が迷っていると、前方から歩いてくる角田の姿が見えた。由真はおずおずと頷く。
「暴走してるみたいだったから……」
「そうですか。では、君はこの子を助けてあげたんですね。君は本当に優しい子だ」
少年は角田が引き受けてくれた。由真は礼を行ってその場を立ち去ろうとする。けれどその前に角田に呼び止められた。
「足を怪我していますね。手当てをしましょう」
「いいよ、かすり傷だし」
「いけません。浅い傷でもそこから細菌が侵入してしまうことだってあるんですから」
「いや、本当に大丈夫……っ」
由真は口を押さえて横にあった家の塀に寄りかかった。さっき能力を使ったせいで自家中毒が起こりかけているのだ。角田は目を覚ました少年と二、三言やりとりをしてから由真に近付いた。
「自家中毒を起こしているようですね。施設はすぐそこだから、少し休んでいきなさい」
「さっきの……人は……?」
「彼ならもう動けるようで、自力で帰宅できると言っていたから帰らせました。むしろ今は君の方が重症です」
「大丈夫……このくらいなら、すぐ良くなるから」
「ここでうずくまっていたら、君を傷つけようとしている人たちの恰好の的になってしまいますよ」
由真は角田に連れられて、初めて「北斗の家」に足を踏み入れた。そこは由真が想像していたよりも大きな建物で、敷地面積は由真が通う小学校とあまり変わらないように見えた。
「……家っていうからもっと小さいかと思ってた」
「それだと預かれる子供の数は限られてきてしまいますからね。施設外の子が遊びに来られるスペースなんかもちゃんと用意していますし。おいで。救護室があるからそこでしばらく休みましょう」
由真は角田に案内され、救護室に通された。そこには看護師の資格を持った職員が常駐しているらしく、足の傷は手早く応急処置を施され、自家中毒による吐き気もしばらく休んでいるうちにおさまった。
「ありがとうございます。もう良くなったので帰ります」
「もう少し休んでいきませんか? ここの子供たちの様子とかも見せてあげます」
「あー……でも今日、バレエ教室の日で」
「一日くらい休んでしまってもどうということはないでしょう。実際君はさっきまで具合が悪かったのだし。それに……あそこでは君はあまりいい扱いを受けていないのではないですか?」
どうして角田がそれを知っているのだろうか。由真は思わず身構えた。角田は由真の鋭い視線をかわすように笑みを浮かべる。
「君と同じようにあの教室に通っていた能力者の子がここに遊びに来てくれる子にもいたのですが、酷いいじめを受けたと言っていましてね。もしかしたら君も、と思ったのですよ」
「いじめってほどじゃないけど」
大事なものはあれ以来持って行かないようにしている。結果的にロッカーの中に何も入れていない状態になっているので、嫌がらせのしようもないのだろう。けれど針の筵なのは確かだった。
「会うたびに習い事を理由に色々断られてきましたが、それを総合すると、君にはほとんど休みというものがないのではないですか?」
「でもそれは、私のために」
「本当にそうですか?」
「……どういう意味?」
「君の将来のためにやっているのは確かかもしれません。けれど、君の現在のことは全く考慮されていないのではないですか? 君に休める日がほとんどないことも、環境が良くなくても続けさせられていることも……私から見ると、将来のために今の君を犠牲にしているような気がします」
「そんなことは……」
そう言いながらも、角田の言うことは正しいのではないかと由真は思った。今の自分がその習い事を進んでやっているかといえば答えは否だ。けれどやめるとも言えなかった。そんなことを言えば、母が悲しむとわかっているからだ。
「教育虐待、という言葉もあるくらいです。おそらくそこまで酷くはないでしょうが……もし君が今の生活がつらくて、少しくらい休みたいと思うのなら、ここはいつでも君を待っていますよ」
角田は由真を引き連れて、施設の一部を案内した。遊戯室では様々な年齢の子供たちが楽しそうに遊んでいる。能力者とわかってから、梨杏や兄の横以外であんなに笑って遊んだことはあっただろうか。そう思うと、笑えている彼らが少し羨ましく思えた。
(ここなら、私も笑えるんだろうか)
由真はそんなことを思いながら、施設をあとにした。けれど楽しそうに遊んでいた子供たちがどうしても気になってしまい、その後も何度か北斗の家に遊びに行くことになるのだった。
「最近、由真ってどこに遊びに行ってるの?」
北斗の家に出入りするようになって二ヶ月ほどが過ぎた頃、梨杏が由真に尋ねた。
「うーんとね……ちょっとボランティアみたいなことをしてる」
「ボランティアってゴミ拾いとか?」
「ほとんど子供と遊んでるだけ」
「由真も子供じゃん」
「だから一緒に遊んでるんだってば!」
「へぇ、楽しそう。私も行っちゃダメ?」
由真は逡巡した。本当は由真も梨杏を誘おうと思っていたのだが。梨杏も由真と同じで子供が好きだ。保育園に通う子供たちが集団で散歩しているのを見ていつもニコニコと笑っている。けれど北斗の家は無能力者は入所者の親族やそれに準ずる人以外入ることができないらしい。入所している中には無能力者に傷つけられた子も多いため、彼らがパニックになってしまわないようにそのような規則を作っているらしい。梨杏は子供にひどいことなどしないと言ったけれど、無能力者というだけで怖がる子もいるのだと言われ、引き下がるしかなかった。
「だからごめんね、梨杏」
「いやいいんだよ。最近楽しそうだし、由真」
「将来、そういう仕事もいいかもなぁ。能力者の子供たちのための仕事」
「由真も子供じゃん。でもそれは確かにいいかもね。由真が今楽しいって思えるなら多分向いてるよ」
無能力者には施設の話はあまりしないようにと角田には言われていた。だから梨杏にだけ教えていたし、梨杏にも施設の名前は言わないでおいた。過去に酷い嫌がらせを受けたことがあり、それから無能力者の目から隠すようにして運営されているらしい。
最初は習い事の時間の前まで、週に一、二度遊びに行く程度だった。けれどその頻度は徐々に増え、半年後には平日は毎日のように北斗の家に遊びに行くようになっていた。そしてそんなある日――由真はある失敗を犯してしまった。
行きたくない、という気持ちが潜在的にあったのかもしれない。施設を出なければいけない時間になっていたのに、あと十分なら大丈夫、あと五分、と延ばしているうちに塾に間に合わない時間になってしまったのだ。遅れても行けばよかったのかもしれないがどうしても足が向かず、結局塾が終わる頃まで北斗の家で子供たちと遊んでしまっていた。
迎えにきていた兄の前で、最初はあたかも塾に行ったかのように振る舞っていた由真だが、徐々に嘘をついている罪悪感に耐えきれなくなって、本当のことを打ち明けた。
「いいんだよ。たまにはそんなこともあるさ」
「でも、塾サボっちゃった……」
それだけで涙を零す由真の頭を浩大は優しく撫でる。
「一日くらいどうってことはないさ。それに由真は本当に優しい子だね。きっとその子たちは今日は由真が長くいてくれたことを嬉しく思っていると思うよ」
「そうかな……?」
「そうだよ。だから今日はきっとそんな日だったんだ。ほら、泣いたままだとお母さんに気付かれちゃうよ?」
由真は頷きながら慌てて目元を拭った。家に帰ると兄がうまく誤魔化してくれたが、嘘を吐いてしまったという苦い罪悪感は由真の心に残り続けた。
それから由真はときおり習い事を無断で休んだり遅刻をするようになった。そろそろ気付かれて怒られてしまうだろうと由真自身もわかっていたはずなのに、足元が流砂に飲み込まれていくように、いつの間にか自分自身を止められなくなっていた。些細な嘘を押し隠すために嘘が重ねられていくことは、嘘を嫌う由真自身に跳ね返る。嘘に苦しむくらいなら本当のことを言ってしまえばよかったのだろう。けれど何を言われるかは容易に予想がついてしまって、由真は自分の小さな罪を打ち明けられないでいた。
「……帰りたくないな」
その積み重ねが、由真の家を由真にとってさらに居づらい場所に変えていた。由真の呟きを聞いた角田が微笑む。
「それならずっとここにいますか?」
「え?」
「苦しい場所にずっと我慢して居続ける必要なんてないんですよ」
「でも」
由真の母親は由真を思って、沢山お金もかけて由真を習い事に通わせているのだ。それを裏切るようなことはできなかったし、家を捨ててしまえるほど家に居場所がないわけでもなかった。
「悪い大人は愛情という言葉で子供を縛りたがるものです。それを引き合いに出されたら子供は何も言えなくなってしまう。優しさに見えて子供の逃げ場所を塞いでいるんです」
由真は何も言わず、手元のブロックを手の中で弄んだ。逃げ場所を塞がれている――それが最近、息苦しく感じる理由なのだろうか。
「ここには無能力者の親からひどい虐待を受けた子供たちもいます。その子たちは私たちが介入して助けなければ逃げることさえできない状況に追い込まれていることも多いんです。殴ったあとで愛を口にする親は掃いて捨てるほどいるんですよ」
「……そうなんだ」
「虐待まではいかなくとも、そうやって逃げ場を失っている子供は実に多いんです」
目の前に広がる光景は由真には暖かいものに感じられた。能力者だからといって嫌がらせを受けることもなく、互いに寄り添って生きている。そしてここにいる子供たちは外の世界でそれぞれに傷つき、ここに集まってきたのだ。今は明るく笑っていても、時折つらそうな顔を見せる子もいる。彼らのためにここに来ることは、いくつも習い事をこなすよりも由真にとっては大切なことのように思えた。
「君も、苦しいのならいつでもここに来るといいですよ。たとえば一週間だけここに住むだとか、そういうことだってできるんですから」
由真は何も応えなかった。けれど惹かれていたの事実だった。この暖かい場所にずっといられたらいいのに。由真は頬杖をつきながら溜息を吐いた。
*
由真が小学六年生の冬、六歳違いの由真の兄は指定校推薦で早々に大学合格を決めていたため、比較的穏やかな日々を送っていた。けれど由真は、最近兄が何かを隠していることに気がついていた。特に最近、由真には絶対郵便受けをのぞかせないし、家にかかってくる電話も兄がすぐに取ってしまう。けれど直接尋ねてもはぐらかされるだけだった。
由真はある日、意を決して兄よりも先に郵便受けを開けた。兄の顔が青褪めたことに気が付いたけれど、そのまま中身を取り出す。ほとんどがチラシの類。一つは父親宛の、電気料金の引き落とし額を知らせる葉書。そしてもう一つは、兄宛の封筒だった。
「由真」
兄が手を出して、封筒を渡すように言う。由真は首を横に振った。
「最近、お兄ちゃん何か変だよ」
「由真……」
「原因はこれなんでしょ?」
「……確かにそうだよ。でも由真、これは僕の問題だから」
由真は首を横に振り、封筒を後ろ手に隠す。自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。けれど本能的に、それは自分にも関わるもののような気がしたのだ。兄の制止を振り切って、由真は封筒を開けた。
「由真はこんなもの見なくていい」
「でも、お兄ちゃん……」
中に入っていた紙はすぐに奪い取られたが、そこには兄を中傷するような言葉が並んでいるのが確かに見えた。そこには「能力者の妹」という言葉もあった。
「歴史の教科書レベルの古典的な嫌がらせだよ。ほら、指定校でさっさと合格決めちゃったから僻まれたりするんだ」
「……でも、私がいなかったらあんなこと書かれなかった」
「由真。こういう嫌がらせをしてくる奴らは、由真が能力者でなければ僕の他の欠点を探して来るものだ。叩くことができれば材料は何だっていい。ネットは最近監視の目が厳しくて、逆にリアルの監視が手薄になってきているところを狙ってくるあたりも、相手にするだけ無駄な卑劣な奴なんだよ」
「でも」
「だから由真のせいじゃないんだ。由真は僕の自慢の妹だよ?」
由真は泣きながら首を横に振った。兄の言うことは理解できたけれど、どうしても自分のせいだという気持ちが拭えなかった。そして兄への手紙に書かれていた言葉は、由真自身にも突き刺さっていた。
「私がやってることは……間違ってるの?」
「由真……そもそも由真の能力は珍しすぎてほぼ何もわかってないってお医者さんも言ってただろう? だからこんなのきっと誰かが適当に考えたか、そういう都市伝説なんだよ」
「でも……これが本当だったら、今まで私は……」
「由真……でも、由真はその人が望んでないのに力を使ったことは一度もないじゃないか」
「全部見てきたわけじゃないのに、どうしてわかるの……!」
実際、兄の言うことは正しかった。暴走して、もう種を取り除くしか助かる見込みがない人に対しても、基本的にはその意思を確認することにしていた。けれどそれは、種を取り除いても体に特に影響はないのだと由真が思っていたからだ。
「わかるよ。由真は優しい子だから」
「私は……私は、優しくなんてない……だって」
泣きじゃくりながら、由真は言う。習い事に行きたくなくて何度も嘘をついた。求められたら力を使った。それが全部自分のエゴでしかなかったことに気が付いてしまったのだ。ただそうやって、自分自身が気持ちよくなりたかっただけ。他人のことなんて本当は考えていなかった。
「そうか……それでも、僕は由真は優しい子だと思うよ。優し過ぎるくらいだ」
由真は何度も首を横に振る。もしも手紙に書いてあることが本当なら――種を抜くことがその人の寿命を縮める行為なのだとしたら、今まで自分がしてきたことは何なのだろうか。それでいい気分になっていた自分は、あの手紙に書かれていたように人殺しなのではないか。
手紙の言葉が本当かはまだわかっていない。種については普通には取り出せないから研究も進んでおらず、このときもあくまでそういう仮説があったというだけだ。けれどその可能性があるということは、知らなかったとはいえそれでも力を使い続けてきたことは、由真の心に深い傷をつけるのには十分すぎる事実だった。
*
それから由真は求められても一切力を使うことはなく、北斗の家から足も遠のいた。由真が時折習い事を無断で休んでいることに気が付いていたらしい由真の母親は、再び真面目に通い始めた由真の姿を見て安心していたようだが、由真の心には確かな変化が起きていた。
(……どうして、この力は自分には使えないんだろう)
自分の背中に自分で触れてみても力を使うことはできない。自分自身には適用されない能力なのだ。もし自分自身に力が使えたのなら、たとえ寿命が縮んだとしても自分自身の種を壊しただろう。そうすれば無能力者として生きていける。自分が能力者であることで他人を傷つけずに済む。自分のせいで傷つかなくてもいい人たちが傷ついていくのは嫌だった。
けれどそれはできないから、せめて目立たないように息を殺して、周りに馴染むように、透明になれるように由真は振る舞った。誰かに合わせて喋り、誰かに合わせて笑う。心が軋んでいるのには目をつぶった。
周りに少しずつ人は増えた。けれど同時に、由真はある疑念を抱くようになっていた。
(私は居ても居なくても同じなんじゃないか――)
きっとこのまま消えてしまっても、誰も気が付かない。自分が生きているのか死んでいるのかもわからないまま日々は過ぎていき、由真は小学校を卒業し、中学生になった。
真新しいブレザーの制服を着て家を出ると、梨杏が歩いてくるのが見えた。梨杏は由真を見つけるやいなや駆け寄ってきて、二人は一緒に登校することになった。入学式に参加する両親は式の時間に合わせてあとから出発するらしい。
「そういえばさぁ、由真は部活何入るか考えてる?」
「全然。ていうか入るつもりないし」
「え、一年生は部活全員強制って書いてあったけど」
「それは梨杏のやつでしょ。私のは違うから」
部活動全員参加の規則は無能力者のものであり、能力者のものではない。由真の言葉で初めてそれに気が付いた梨杏は、俯いて制服のリボンを右手でいじった。
「梨杏は決めたの?」
「弓道か陸上かな。見学に行ってどっちかに決めるつもり」
「そっか。どっちも梨杏に似合ってると思うよ」
「部活に似合うとかある?」
「いや、何となくそう思っただけだから」
梨杏と何気ない話をするのは久しぶりだ。由真はどことなく安心感を覚えながら、新しい通学路を歩いた。
中学にたどり着くと、昇降口にクラス分けが張り出されていた。二人は並んだままで自分の名前を探す。
「あー……違うクラスだね」
「そうだね」
「由真と同じクラスが良かったな……」
「――無理だと思うよ」
能力者は能力者でクラスが固められている。梨杏はそれにまだ気が付いていなかった。自分がそちら側でないが故の鈍感さに今更腹を立てたりはしないが、梨杏とは生きている世界が違うのだとは思った。
教室に入った由真は窓際の自分の席に座り、外を見ながら溜息を吐いた。早く終わらないかな、などと考えてみるものの、学校が終わったところで、家でも楽しいことがあるわけではない。砂を噛むような日常が過ぎていく。いつまでこんな生活が続くのだろうか。それは自分が能力者である限り変わらないのだろうか。閉塞感に満たされた生活の中で、いつしか未来への希望なんてものはどこにも見当たらなくなっていた。
夢を見ろと、夢のために努力すべきだと大人は言う。けれど夢は未来を信じられる人だけが見るものだ。未来が明るいなんてどうして信じられるのか。明日には死んでしまうかもしれないのに。
けれど何も問題を起こしていなければ、心の中で何を考えていても誰も気付きはしない。ただそこにある石が誰にも見向きもされないように、いてもいなくても変わらないのではないか。
(このままいなくなっても――誰も)
もしかしたら自分がいなくなって安堵する人の方が多いかもしれない。両親だって、将来何が起こるかわからない能力者の娘がいなくなっても、優秀な無能力者の兄がいるのだから問題なんてない。
(――海、行きたいな)
唐突に由真はそう思った。ただ水に触れたいと思った。全身を包み込む水の中で目を閉じて揺蕩って、ただぼんやりとしていたい。けれど人間の体は、水の中で息ができるようにはなっていないのだ。
(地上でも、水の中でも息が出来ないなら――私はどこに行けばいいの?)
*
入学式の次の週、授業が始まったばかりの月曜日のことだった。体育の授業を終えた由真は一人で体育館を出ようとしていた。何らかの係をどれか一つはやらなければならないと言われたので、由真は特に理由はなく体育係を選んでいた。きちんと片付けができていて、体育館が次の授業ですぐ使える状態になっているかを確認するだけの、それほど難しい仕事ではない。多少マットの積み方が雑だったのを直して、次の授業に間に合わせるために急いで体育館を出た由真は、向こう側から声が聞こえてくることに気がついた。次に体育の授業があるクラスの人たちがもう着ているのだろう。けれどその声の中に聞き覚えのあるものがあることに気が付いて、由真は思わず足を止めた。梨杏の声だ。おそらくクラスの友達と連れ立って来ているのだろう。
「そういやさぁ、梨杏って五組の柊さんと幼馴染なんでしょ?」
「うん。三歳くらいのときにうちが引っ越してから」
急に自分の名前が聞こえてきて、由真は身構えた。この状況で鉢合わせてしまうのは気まずい。けれど一本道の渡り廊下には、隠れるような場所すらなかった。
「梨杏は優しいから同情してんのかもしんないけどさぁ、やめといた方がいいよ?」
「やめといた方がいいって?」
「いや、だから五組って言ったらアレじゃん……隔離クラス」
陰ではそんなふうに呼ばれていることは知っていた。けれど隔離されている分、小学校にいたときよりは穏やかな日常を過ごせていたのは事実だった。互いの領域になるべく入り込まないという暗黙のルールが、能力者と無能力者の無用な争いを防いでいたところは確かにあった。
「……だから?」
「たまに五組行ったりするのやめといた方がいいよ。多分目つけられてる」
「誰に?」
「三年に佐久間先輩っているじゃん、風紀委員長の。なんか一年に秩序を乱そうとしてる人がいるとか何とか言ってたらしいよ?」
「何それ。馬鹿馬鹿しい」
梨杏たちは話に夢中で、それが筒抜けであることにも気付かずに由真に近付いてくる。由真はジャージのポケットに手を突っ込みながら、無言でその横を通り抜けようと歩き出した。けれど由真に気が付いた梨杏が声を上げる。
「由真、待って!」
由真は梨杏の声を無視して歩き続けた。梨杏が友人たちの輪を外れて由真を追いかけてくる。
「待ってってば!」
「もう授業始まるよ」
「そんなんどうでもいいから! 聞こえてたんでしょ、さっきの」
「そりゃああんな大きな声で話してれば聞こえるよね。別にどうでもいいけど」
「どうでもよくはないでしょ」
由真は足を止めない。腕を掴んで止めようとする梨杏の手を、由真は乱暴に振り払った。
「由真、私は」
「梨杏がどう思ってようと関係ない。私たちは違う世界の人間なんだよ。もう――ずっと前から」
生まれたときから違うとわかっていれば、こうはならなかったのだろう。最初から線を引いて、友達になんてならなければ。滲む視界を誤魔化すように、由真は視線を落とした。
「そんなのおかしいよ。だって私は由真と友達でいたいのに……こうやって触れることもできるのに……!」
そのとき、授業の開始を告げる鐘が鳴り、それに一瞬気を取られた梨杏を残して、由真は早足でその場を去った。梨杏の言葉に嘘がないことくらいわかっていた。梨杏は本気で、同情でも何でもなく、由真と友達でいたいと思っているのだ。けれどこの世界でそれは許されない。由真のそばにいることで梨杏が誰かに傷つけられるよりは、由真が一人になる方が余程ましだった。由真はそのまま教室を通り過ぎ、何も持たずに学校を出た。
どこかに行こうと思っていたわけではない。ただ衝動的に歩いているうちに、由真は今まで足を踏み入れたことのない場所まで来ていることに気が付いた。いったいどれほど歩いたと言うのだろう。気が付けば日が傾き始めていた。どこに行けばいいのかも分からず、由真は立ち止まる。ジャージ姿にはあまりにも似つかわしくない高層ビルの群れが、足を止めた由真を見下ろしていた。