前にも後ろにも行くことはできない。けれどジャージ姿の中学生が立ち尽くしているのは非常に目立つ。見回り中らしい警察官と目が合った瞬間に、由真は走り出していた。ここにいることを見咎められれば連れ戻されてしまう。でも学校にも家にも戻りたくはなかった。だからといってどこかに行きたいわけでもなかったが、本能的に逃げ出してしまった。
ビルとビルの隙間に身を隠して息を整える。何時間も歩いた後に走ったので、既に足は棒のようになっていた。壁に寄りかかりながらふくらはぎを揉んでいると、ビルの裏手から誰かの話し声が聞こえてきた。警戒しながらその声に耳を澄ますと、複数の男が誰かを詰っているところだった。
「お前さぁ、いい加減ウザいんだよ。善人ヅラしやがって」
由真は陰に隠れながらも様子を窺う。派手な髪色をした男が三人。詰られている人の方は由真の場所からは見えなかった。
「俺たち能力者の事情に、無能力者がしゃしゃり出てくんじゃねえよ!」
青色の髪の男が叫ぶと、男の手から青白い火花が放たれた。微かな呻き声が聞こえる。早くここから離れた方がいいと思うのに、足が疲れ過ぎていてもう動けなかった。由真は気付かれないように息を殺す。
「能力者でも無能力者でも、犯罪は犯罪だよ」
「さっすが無能力者サマ。どれだけ努力したところで全部何の力もねぇお前たちに奪われる俺たち能力者のことなんて考えたことないんだろ!」
「弱い立場に置かれているからといって、能力使って人から金を巻き上げることは正当化されない」
毅然と言い返すその声に聞き覚えがあって、由真は動揺を隠しきれなかった。身を隠しているビルに取り付けられた青いプレートには、ここがC-4エリアであることが書かれている。能力者と無能力者が混在する商業地区。声の主がそんなところに足を運ぶようには思えなかったのだ。
(お兄ちゃん、どうして……)
どんな理由があるかはわからない。けれど無視して立ち去ることもできず、由真はその場で様子を窺っていた。しかし何が起こっているのか把握することに集中し過ぎて、横にあったゴミ箱に足が当たってしまった。
「誰だ⁉︎」
その音を聞きつけた男が声を上げる。由真は逃げようとするが、男の取り巻きに腕を掴まれてしまった。
「由真……! どうして」
兄が声を上げる。けれど状況を説明できる状態ではなかった。由真たちが顔見知りだと知った男が厭な笑みを浮かべる。
「何だぁ? お前ら知り合いなのか?」
「このジャージ、あそこのっすよ。E地区の」
「じゃあこいつも無能力者か? 俺らさぁ、お前らみたいにお高く止まってる無能力者見てるとムカつくんだよね」
「離して……っ!」
両腕を男二人に押さえつけられ、リーダーらしき男が由真の頬に触れる。由真が顔を背けると、男は下卑た笑みを浮かべながら由真のジャージのファスナーに手をかけた。
「由真に……触るな!」
二人がかりで押さえつけられていた兄の浩大が男二人を振り払い、由真と相対している男を、後ろから鞄で殴り飛ばす。その瞬間に由真は解放されたが、兄の行動に激昂した男は拳を握り締め、能力を発動させた。強い静電気が走ったときのような音が響く。
「お兄ちゃん!」
おそらくは相手に強い電流を流す能力だろう。地面に倒れた兄に由真は急いで駆け寄る。
「由真、いいから早く逃げろ……!」
由真は首を横に振る。兄はおそらくしばらく動けないだろう。理由はわからないが、ただでさえ、由真が見つかる前から攻撃を受けていたのだ。
由真は立ち上がって男たちを睨みつけた。幼いながらも鋭い眼光に男たちは一瞬怯むが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだぁ? やるってのか?」
「ダメだ、由真……!」
男たちがゆっくりと由真に近づいて来る。完全に油断している。彼らは由真のことを無能力者だと、何の力もない少女だと思っているのだ。由真は笑みを浮かべた。
「由真……?」
手を伸ばせば触れられるところまでリーダーの男が近付き、由真の腕を掴む。由真はそのまま男の懐に入り込み、予想外の動きに男が驚いている間に男の背に触れた。
「っ、何を……!」
由真は男の種を素早く取り出し、左手を握りしめてそれを壊した。男の体から力が抜け、その場に倒れ込む。
「これであんたの大嫌いな無能力者と一緒になれたよ。よかったね?」
冷たい声で由真は言い放つ。男の仲間たちは怯えて一歩、また二歩と後退る。由真は左手で顔を覆った。何故か笑いが込み上げて来る。急に笑い出した由真に恐れをなしたのか、男たちは一目散に逃げていった。
「由真……」
浩大はその場に座り込んだ由真の顔を覗き込み、そっとその肩に触れる。しかし由真はその手を乱暴に振り払った。
「ごめんね、お兄ちゃん。――こんな化け物が妹で」
由真はそのまま逃げるように走り出した。浩大もすぐに由真を追いかけるが、いくつかの曲がり角を越えると、見失ってしまったのかもう足音は聞こえなくなった。
*
そのまま由真は歩き続け、いつの間にか海にまで出ていた。誰もいない、寂れた海。砂浜はあるけれど、誰も整備していないのか、割れた瓶などが転がっていた。由真は息を吐き出して、その場に倒れ込んだ。今日だけでどれだけ歩いたのか。もう足は動かせそうになかった。
「何やってんだろう、私……」
衝動的な行動で、そうすればあの状況を切り抜けられるだとか、考えていたわけではなかった。ただ攻撃を受けた兄を見た瞬間に世界の全てが赤く見えた。やるべきことだけは冷静に考えていた。けれどそれしか考えられなかったのだ。
もう力は使わないと決めていたのに。たとえ相手が悪人でも、もしかしたらその寿命を著しく縮めてしまうかもしれない行為なのだ。
あくまで可能性の話だ。けれど由真は確かな害意をもって男を攻撃した。死んでしまえばいいとさえ思っていた。
「……っ」
男に能力を使った後に、兄は由真の顔を覗き込んだ。その目には心配の色と――その奥に、確かに怯えているような気配があった。
「……ふふ」
感情が飽和して、自分でも何を考えているのかわからなかった。何故か笑ってしまうのに、同時に涙も溢れ出て来る。何か決定的なものが自分の中で壊れてしまったような、そんな気がした。
伸ばした指先に割れた瓶の破片が触れる。由真はそれを一つ拾い上げると、その鋭利な部分で、白く滑らかな左腕の内側を抉るように傷つけた。赤い筋に血が浮いて流れ落ちていくのをぼんやりと眺める。先程までは言葉にならない感情で決壊しそうだったのに、今は何もない真っ白な部屋に放り込まれたように静かだ。由真はぼんやりと血が流れ続ける傷口を指でなぞった。
静かになった世界に、波の音だけが響いている。由真はそっと寄り添ってくる睡魔に身を任せて目を閉じた。このまま消えてしまって、けれど世界には変わらず明日がくればいい。考えることを投げ出せば意識は黒に沈んでいく。
それからどれくらいが過ぎただろうか。由真は肩を揺り動かされ、ゆっくりと目を開けた。
「由真……由真!」
「梨杏……? なんでここに?」
「何でじゃないわよ……めちゃくちゃ心配したし、めちゃくちゃ探したんだから」
「……別に、地図アプリ使えば一人で帰れたのに」
「そういうことじゃないってば……浩兄からも話聞いたし……」
由真はゆっくりと上半身を起こした。いまは何時なのだろうか。空を見る限り、ここにきてからそれほど時間は経っていないようには見える。
「大丈夫? 動けそう?」
「うん……」
体は重かった。動けたとしてもここから動きたくはなかった。家に帰ったところでどうなるというのだ。学校を途中で抜けたことを咎められるかもしれないし、兄とは顔を合わせにくい。由真は再び砂浜の上に横たわった。
「ていうか由真、その腕……! 誰かにやられたの⁉︎」
梨杏が慌てた声を上げる。由真は一瞬首を傾げてから、ああ、と呟いた。
「誰にもやられてないよ」
「え、じゃあ転んだとか……」
由真は首を横に振る。梨杏が由真を見下ろしたまま、呆然と呟いた。
「何で……こんなこと」
由真は何も答えずに、梨杏から目を逸らした。
「ねぇ、由真……」
梨杏がしゃがみ込むと、今度は由真が立ち上がる。由真は左腕に右手で触れながら波音に掻き消されそうなほど小さな声で答える。
「……うるさかった、から」
きっと梨杏には理解できないだろう、と由真は思った。いや誰も理解なんてしてはくれない。自分がしたことと、それが普通の行動でないことはわかっていた。そして痛みをほとんど感じなかったことも。
「こんなことしないで」
「梨杏には関係ないじゃん」
「関係あるわよ! 私は由真が傷つくところなんて見たくない! 怪我するのも誰かに傷つけられるのも自分で傷つけるのも全部嫌!」
「何で梨杏のためにそんなことしなきゃいけないの? 私の体なんだから私の自由にさせてよ!」
右手の指に力が入り、塞がり始めていた傷から再び赤く丸い血が浮く。由真も本当は嫌だった。梨杏が傷つくところなど見たくはなかった。それなのに――傷つけてしまう。
「私のことなんて……何もわかってないくせに!」
「由真……」
「わかるわけないよね。だって梨杏は私と違ってバケモノなんかじゃない!」
「私は……由真のこと、バケモノなんて思ってない」
「どうやってそれを信じればいいって言うの?」
能力者と無能力者。ただ特殊な力を使えるというだけで、種を宿しているというだけで、それ以外は同じ人間同士なのに、両者の間には線が引かれている。同じ場所にいても区切られて、一緒にいることはできない。
その線を引いたのは誰なのか?
由真は梨杏に背を向け、海へ向かって歩いていく。スニーカーの爪先が海水に包まれたところで、梨杏が由真の腕を掴んだ。
「信じなくてもいい。私が勝手に、由真を友達だと思ってるだけだから。だから――こんなこともうしないで。もっと自分を大事にしてよ!」
由真は自分の心が急速に冷えていくのを感じていた。けれどそれが何故なのか、自分でも説明することはできなかった。だから何も言わずに梨杏の手を振り払う。
「……ほっといてよ、もう」
「放っておけるわけないでしょ。由真は私の友達――」
「私は、友達だなんて思ってない」
それが嘘かどうかすら、もうわからなくなっていた。ただ、一人になりたかった。梨杏の目が見開かれて、その目から透明な雫が溢れ出る。
「だからもう、私のことは忘れて」
由真はそのまま梨杏に背を向けて、海の中へ歩き始めた。足首まで海水に浸かったところで立ち止まる。梨杏がまだそこにいて由真を見ていることを背中で感じる。けれど由真は頑なに振り返らなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。梨杏の足音が遠ざかっていく。これでいいんだ――由真はいつの間にか陽が沈んでいた空に目を向ける。空の低いところにある満月が海を照らして、淡い光の道を作り出している。けれどそこに向かって歩いたところで月に辿り着くことなどできないのはとうの昔にわかっていた。
ゆっくりと振り返ると、そこには誰もいない。線を引いたのは由真自身だ。梨杏は何度も引いた線を踏み越えてきた。だから踏み越えられないほど深い線を引いた。これは望んでいた結果だ。自分と離れれば、梨杏は無能力者として平穏な日々を送れるのだから。
「……っ」
それでも、投げつけた酷い言葉に涙を流した梨杏の顔が頭から離れなかった。梨杏が本当のことを言っていることはわかっている。心から由真のことを心配しているし、友達だと思ってくれていたのだろう。
「梨杏……っ!」
自分でやったことなのに、あとからあとから涙が溢れ出して止まらなくなる。由真はその場にしゃがみ込んだ。戻ってきて欲しいわけではない。ただ後悔だけが押し寄せてくる。
傷つけたいわけではなかった。傷つくのは自分だけでよかったのだ。それなのに、どうしようもないほどに傷つけてしまった。そのことが心に重くのしかかり、体が少しずつ沈んでいくように感じた。ふくらはぎの中ほどまでが水に浸かり、服が水を吸って重くなっていく。
「――柊さん?」
不意に上から聞こえてきた声に、由真は驚いて顔を上げた。
「角田さん……」
「やはり柊さんでしたか。今しがたこの上の道を車で走っていたのですが、あなたの姿が見えたような気がしましてね」
角田は革靴を履いているにも関わらず海に浸かり、スラックスの裾を濡らしながらもしゃがみ込む。
「……ほっといてよ、私のことなんか」
「何があったかは知りませんが、職業柄、泣いている子供は放っておけない質なんです」
「私のことなんてどうだっていいでしょ。角田さんには、あの家の子たちがいる」
「私にとっては、柊さんもあの家の仲間ですよ」
「でも、最近行ってないし……」
能力を使わないようにしてからは足が向かなくなった。もう忘れられているかもしれないとさえ思っていた。しかし角田は柔らかく微笑む。
「いつでも、来たいときに来ればいいんです。今の生活がどうしようもなくつらくなったときの逃げ場所でもあるんですから」
「逃げ場所……」
「どんな人間も、逃げ場がなければ苦しくなってしまいます。ありのままの自分で、自然でいられる場所。能力者の子供は生まれながらにそれを奪われてしまっている場合が多い」
あの場所は確かに暖かかった。けれど自分の能力が、他の能力者の寿命を縮めるものかもしれないと知ったあと、どこか引け目を感じてしまって行くことができなかった。それでも、今このまま家に帰るよりは――。
「帰りたくないのなら、今日だけ泊まっていってもいいんですよ。ご家族には私から連絡することもできます」
帰りたくはなかった。学校を抜け出してしまったことは知られているだろうし、何より兄と顔を合わせたくなかった。自分でも自分がわからなくなって、使わないと決めていた力を使ってしまった。あのとき兄が見せた一瞬の表情。その目の奥の恐怖の色が脳裏をよぎって、胸が締め付けられるような気がした。
「……今日だけ、行ってもいい?」
「構いませんよ」
由真は角田の手を借りて立ち上がる。今日一日だけ。由真はそう考えていた。明日、落ち着いたら家に帰ればいい。そしてまた日常に戻っていけば――。
しかしそれは甘い考えだったのだと、それからすぐに思い知らされた。
*
「結論から言えば、私は騙されてたわけだけど」
由真は力なく微笑んで、けれど何故か少し明るい声で言った。星音は膝の上で拳を握りしめた。
「児童養護施設は表向きのカモフラージュで、裏で能力者を利用した違法行為と、違法な研究に手を染めていた。馬鹿だよね。考えてみればおかしいことは沢山あったのに」
「……由真さん」
「梨杏にも、お兄ちゃんにも北斗の家のことは内緒にしろって言われた段階でちょっとおかしいって思うべきだったし、何より上の道から海見えないしさ……っ」
「由真さん」
声が震えている。目からは止め処なく涙が溢れている。それなのに由真は笑っていた。
「自分で選んだんだよ。自分で、あそこに行くって決めた。だから」
「決めたんじゃなくて決めさせられたんやろ!?」
星音は由真の言葉を遮る。由真は驚いた顔をして星音を見つめた。暫く沈黙が流れたのちに、由真が幾分か落ち着いた声で言う。
「あとでわかったことだけどね、お兄ちゃんに届いた手紙も、あの日カツアゲしててお兄ちゃんに見つかってお兄ちゃんを攻撃してた奴らも、全部裏であの人が糸を引いていた」
「……最悪やん」
「最悪でしょ。しかも力を使わせる気満々なのにあんなこと書いてさ」
「あれ、本当なんですか?」
「臓器の一つを取っているようなものだから可能性はあるけど、本当かどうかはまだわかってない。……だから、あまり使いたくはない」
すぐに死ぬわけでもないのだから、と星音は思うけれど、それを気にしてしまうのが由真だ。おそらくはそれをわかっていて由真を追い詰めようとしたのだ。――自ら、北斗の家に行くことを選ぶように。
「騙されてたんだってことは、あの日――北斗の家に行ってすぐわかった」
由真は話を続ける。けれどその目は先程までとは違い、少し虚ろで、光がないように見えた。
「いつもとは違う裏口から中に入って……多分、地下にある真っ白な変な部屋に通された。そこには自分と同じくらいの男の子が、全身を縛られて、目隠しをされて、口枷もされた状態で座っていて。でもその状態でも獣みたいに叫んでいて」
由真は目を閉じて、額に手を当てた。
「『あの子は苦しんでいるから助けてあげなさい。君にしかできないことだよ』って言われて……私はわけがわからないと思いながらそれに従った」
本当に苦しんでいるように見えたのだろう。その状況なら由真は力を使う。それが苦しんでいる人間を助けることになるのなら。
――本当に悪いのは、それを利用した人間だ。
「……それまで、咲いた人間は見たことがなかった。何かがいつもと違うと思いながらも、私は種を壊して――」
星音は目を伏せた。それをすればどうなるか、薬で擬似的なものを再現されていただけだったが、星音はそれを目の当たりにしたことがある。――そのときに由真がどうなったのかも。
「……手遅れだった……私がやらなくても……でも、私は……私が――ッ!」
声にならない叫びが由真の喉から漏れる。星音は怒りに震えながらも、由真の華奢な体を強く抱き締めた。おそらく全てわかっていたのだ。柊由真という少女はあまりにも優し過ぎる。だから助けられる人は助けようとするし、自分の手で誰かを傷つけてしまうことを恐れている。それなのに、いや、だからこそ――その優しさを利用して、その心を決定的に踏み躙ったのだ。
「っ……ごめん、星音……」
「なんで謝るんですか」
「この先は……多分、無理」
これ以上話せる状態ではないことは、誰がどう見ても明らかなのに。星音は嗚咽を漏らす由真の背中を優しくさすった。ここまで話せただけでも十分すぎるほどだ。それは一人の少女が背負うにはあまりにも酷で、重過ぎる運命だ。
(何で、由真さんがこんな目に遭わなきゃいけないんや……)
ただ能力者というだけで。その能力が珍しいものだったというだけで、虐げられ、蔑まれ、利用されて。能力者としては比較的幸運な人生を送ってきた星音には、完全には受け止められないほどのものだった。
「私は……どうすればよかったの……?」
「それは私にもわからへんけど……でも、ひとつだけ言えることはあります」
運命に向かって転がっていくものを、仮に止められたとするならば――星音にはそれしか思いつかなかった。
「もう、自分から誰かの手を離さないでください」
たとえ由真がその日に戻ったとして、全てをひっくり返すことができるほどの行動はたったひとつしかない。そして梨杏はそれがわかっていたからこそ、今でも後悔し続けているのだ。
あの日、その手を離さなければよかった――と。
本当は二人ともその手を離したくなどなかったのだ。互いに後悔しているのなら、それでも今は再び出会いその手を取ることが出来ているのなら、今度はその手を決して離してはならない。それだけで繋ぎ止められるものがあるのだから。
「もう一つ、聞いていいですか?」
由真が落ち着いたのを見計らって、星音は尋ねる。それを聞くのは酷なことなのかもしれない。けれど星音は星音で、譲れないものがあった。
「最初の頃は、能力を使っても傷はつかなかった……ってことでええんやな?」
由真の話を聞きながら、ずっと違和感があったのだ。力を使いすぎたときに自家中毒に陥るのは今も同じだ。けれど今は、それ以上に大きな代償を抱えている。
能力使用の代償としての傷は、どうして由真の左腕だけに出現するのか。点と点を繋ぐ一本の線が見えかけている。
「……うん」
「いつからなんですか? 傷ができるようになったの」
「北斗の家に行って……二ヶ月くらいだったかな。それまでは――」
由真は包帯が巻かれた左腕をさすりながら言い淀む。けれど答えを聞かなくても星音はわかっていた。これまでは確かめることができなかっただけだ。
「……自分でつけた傷は、わかります」
「星音……」
「今まで私が何人の怪我を治して来たと思ってるんや」
由真は何も答えない。ここで由真を責めるようなことを言うつもりはなかった。自分で自分を傷つけてしまうのは、きっと最後の救難信号だ。
「……こんなことをしたらいけないって、わかってたんだよ。でも……能力を使うたびにどうしようもない気持ちになって」
「私はいけないなんて言ってへん。そりゃできればそんなことせんでほしいけど……傷つけなければ生きて行かれへん人もおる」
「星音……」
「私がいる限り、傷ならいくらでも治したるから。だから――そこは大船に乗ったつもりでおったらええ」
消えてしまいたいと願って、最後に自分自身まで傷つけて、けれど由真が選ばなかった選択肢がひとつだけある。おそらくそれは由真本人ですら気付いてはいないだろうけれど。
(あれだけ大変なことが沢山あっても、死ぬことは選ばなかった)
それに限りなく近いことを望んだことはあるだろう。けれど踏み越えてはならない一線を踏み越えないでいてくれた。そうでなければ星音と由真は、出会うことすらできなかったのだ。
(だから、これからも――)
一歩踏み出せば崖下に落ちそうな危うい場所で生きるしかないとしても、自分からその一歩を踏み出さないでいて欲しい。けれどそれを伝えてしまうことは由真の重荷になるような気がして、星音はそれ以上は何も言わず、由真の手にそっと触れた。
*
「そっか。話せたんだね、あいつ」
次の日、喫茶店のシフトに入っていたのは梨杏と星音の二人だった。雨が降っていることもあって客はおらず、二人でカウンターに座って梨杏が淹れた紅茶を飲んでいる。由真は、梨杏には話をしたことを言ってもいいと言っていた。その理由は、それを聞いたときの梨杏の安堵の表情を見ればすぐにわかった。
「私だったらあんなこと人に話すの無理だもん」
「ですよね。私も無理やと思います」
「まあでもいざ話すって決めたら強いか、由真は」
梨杏の淹れた紅茶は優しい味がする。昨夜から色々考えてしまう星音の心を優しくほぐしていくような気がした。
「……それでも、全部は」
「うん、それもわかってる。調べたんでしょ?」
梨杏にはすぐに見抜かれてしまった。病院から帰ったあと、由真には悪いと思いながらも調べてしまったのだ。「北斗の家」と呼ばれていた施設のこと――それが今も存在しているのか、それともなくなったのか、手がかりなど見つからないかもしれないと思いながらも検索して、最初に見つけたものが全ての答えだった。
「あの事件に関しては由真の家族はみんな知ってるし、私も……ここで由真に再会してから浩兄を問い詰めて知った。調べればすぐにわかることだから……由真は星音は調べるだろうと思って言ったんじゃないかな」
「……知っててほしいってことですか?」
「そうなんじゃない? 意識してるかはわからないけど」
児童養護施設を隠れ蓑にした違法な施設に軟禁状態にあった――それが由真の行方不明の真相の表層の部分であることは間違いない。そして、そこからどうやって助け出されたのか。それは助け出されたと言うにはあまりに凄惨な事実だった。
「……由真さんしか生き残らなかったってことですよね」
「正確に言えば、この前の――タリタちゃん、だっけ。彼女は混乱に乗じて脱走するか何かして生き残ったみたいだけどね」
けれどその彼女も死んでしまったのだ。広い施設を全焼させるほどの火事。生き残ったのは少女が一人。そしてその事件が何故起きたのか、全てが焼け落ち、唯一の生存者が何も語らずにいる今、真実は誰にもわからないのだ。
「あの事件を担当したのが悠子さんなんだよ。でも、由真が喋らなかったから結局ほとんど何もわかってない。でも――警察は由真を疑ってる」
「……もしかして、機動隊がやたら由真さんのこと嫌ってるのって」
緋彩の事件のとき、機動隊の一人が由真に言った言葉を星音は覚えていた。
――「お前のしたことを誰も立証できないからお目こぼししてもらっているだけだ。警察にいるなら、お前が何をしたかはみんなわかってるんだ」――
状況的にはそう思われても仕方ないだろう。何せ他には誰一人生き残らなかったのだ。けれど――どんな事情があろうと、由真がそんなことをするような人だとはどうしても思えなかった。
「言えるようになるまで待つしかないんだけどね。まあ……寧々は、何かを知ってはいるんだろうけど」
「寧々さんも、由真さんが言うまでは絶対言わないやろうな……せやけど」
星音は唇を噛んだ。由真が抱えているものは、一人で抱え込むにはあまりに重過ぎるだろう。それを抱えたまま生きているのに、由真はあまりに優しすぎるのだ。
「あの日、少し待っても由真が来なかったから、もう一度海に戻ったんだよ。でもそこに由真はいなかった。そして……その前に一台の車とすれ違った」
あと数分早ければ、もう一度手が届いたかもしれない。絞り出すように発された梨杏の声に胸が締め付けられる。もう少し早ければ、回り続ける運命を変えられたかもしれないのに。
「でも……過去を変えられないのはわかってる。だから」
――もう二度と、その手を離さない。
そう呟いた梨杏の視線の先には、ランプの中に閉じ込められた幽霊屋敷の青い火の玉が揺らめいていた。