「今日からここでお世話になります」
背中までの黒髪に対して、前髪は短い。緊張した笑みを浮かべながら喫茶アルカイドの店員たちに挨拶をした少女の名は、月島或果。先日採用され、今日からここで働くことになったアルバイトだ。年齢は由真たちと同じらしい。梨杏が淹れた紅茶を飲んでいた由真は、少し躊躇いつつも或果に話しかけた。
「或果、って綺麗な名前だね」
「え、あ……ありがとうございます」
「敬語じゃなくていいよ、
「えっと……自分で描いた絵の中のものを具現化できるっていう……」
「ぐげんか……?」
或果の言葉を聞いて、由真が首を傾げる。眉間に皺を寄せて或果の顔をじっと見る由真を見て、寧々と梨杏が笑いを堪えきれずに噴き出した。
「由真ってさぁ、わからないものがあったとき、本当に面白い顔するよね」
「バカにしてない?」
「してないって。具現化能力っていうのは、絵に描いたものを実際の物として取り出せるってこと」
或果が鞄から無地のノートを取り出す。かなり薄い紙で作られたそのノートは、或果が能力を使うときにいつも使うものらしい。
「これでやったときが一番上手くいくから。例えば――」
或果は持っていた鉛筆で、テーブルの上にあった伝票入れを描く。そして描き終わったものに手を当てると、ノートの上に、本物と寸分たがわない伝票入れが現れた。
「こんな感じで。でも構造がわからないものは具現化してもハリボテみたいになっちゃうから……。あとは、これをしまってから、他人にこの絵を渡すと、今度は受け取った人がこれを取り出せるようになるんだけど」
或果は説明しながら伝票入れを描いたページを破り、それで具現化された伝票入れを挟むようにすると、さっきまでそこにあったはずの伝票入れが跡形もなく消えていた。そしてその絵を由真に手渡す。
「出て来いって思うだけで出て来るから」
「あ、ほんとだ」
説明を全て聞き終える前に、由真は既に自分の手の上に伝票入れを出現させていた。しまうのも念じるだけでできるらしい。由真はその絵を見ながら顎に手を当て、何事かを考え始めた。寧々がその様子を見て由真に尋ねる。
「どうかした?」
「いや、私の武器――この能力で作れないかなって。そしたらいつでも使えるようになる」
「なるほど! それいいね。いま毎回その辺の棒とか持って行ってるもんね」
由真の能力は、棒状のものに纏わせることでしか使えない。種に関する能力を多用することはできないので、できればそちらの力の方を使いたいというのが本音だった。けれどそのときに武器がなければ使えないのは不便だ。由真は横目で静かに話を聞いている梨杏を見て思う。
「えーと……どんなものがいいの?」
「棒みたいな形してたら何でも。剣とか刀とか。最悪棒でもいいけど」
由真と或果がどんな武器にするかを話しているのを尻目に、寧々たちは通常の業務に戻り始めた。しかし梨杏は、どこか不安げな顔で由真を見つめている。
「どうかした?」
「……いや、由真って初対面の人にあんなにグイグイいくタイプじゃないんだけどな、と思って」
「私もちょっと気になった。いきなり能力の話聞きたがるのも珍しいし。或果の能力についてある程度話はしてたけど、そのときはあまり興味なさそうにしてたのに」
寧々は椅子に腰掛けて、由真の様子を眺める。楽しそうに話をしてはいるが、気がかりなことがいくつかあった。
しばらくすると、或果が絵を完成させたようだった。二人の楽しそうな声が聞こえて来る。
「すっごいかっこいいじゃん! 強そう!」
「気に入ってくれてよかった。重さとかは大丈夫?」
「うん、このくらいなら平気。でも上手く使えるかな……」
或果が完成させたのは、レイピアのような細身の剣だった。本来は刺突用の剣だが、実際に由真が使うときは能力を纏わせるので刃がどこについていようと問題はない。柄の装飾は或果の好みによるものだろう。由真が剣を握り締めたまま目を閉じたので、寧々は慌てて叫んだ。
「ここで使ったら店壊れるから!」
「……あ、そっか」
「もう、ただでさえ経営厳しいのに壊さないでよ……」
由真は苦笑いを浮かべながら剣をしまう。そして描かれた紙を丁寧に折り畳み始めた。
「ありがとう。これでいつでも使える」
「こんなんでよければ他にもいろいろ作れるけど」
「とりあえずこれだけでいい。色々あっても使いこなせるかわからないし」
由真はそう言いながら、小さく折り畳んだ紙を何気なく口の中に入れた。その様子を見ていた由真以外の三人が慌て出す。
「いや、何やってんの由真!?︎」
「え? だってこうしたら絶対なくさないし、どこでも使えるようになるじゃん」
「いや人間紙消化できないんだよ!? ヤギじゃないんだから! お腹壊しちゃうかもしれないよ!?︎」
止める間もなく紙を呑み込んでしまった由真に寧々が詰め寄る。しかし由真は不思議そうに首を傾げた。
「消化したら無くなっちゃうからダメじゃない? だから呑み込んだんだけど」
「えっと、そもそも私の能力がかかってるので、ヤギが食べても消化できないし、紙が劣化したりもしないんだけど……! 大丈夫かな、毒になる画材とか使ってないよね私……!?︎」
絵を描いた或果が一番慌てて、使った画材が呑み込んでも大丈夫なものか検索して確認している。しかし由真はどこ吹く風で、ちゃんと剣を出せるかどうか確認している。
「うん、大丈夫。ちゃんと出せるし」
「大丈夫じゃないから! 何考えてんの本当に!」
「この方が便利だと思って……」
由真の言葉に寧々が項垂れる。体調に異変はなさそうだから大丈夫なのかもしれないけれど、まさか呑み込むとは思わなかったのだ。しかも「この方が便利」なんて理由で。
「――ねぇ、由真」
何も言わずに事態を見守っていた梨杏が口を開く。由真はグラスの水を一気にあおってから振り向いた。
「この前のこと、気にしてるの?」
「……あのとき、武器があれば梨杏が怪我することはなかった」
「だからってそこまでしろなんて誰も言ってない」
「私がやりたかったからそうしただけだよ。それにいつでも使えるなら、急に戦わなきゃいけないときも対応できる」
「でも……」
梨杏が言い返そうとした瞬間に、寧々の携帯が鳴った。寧々は溜息とともに通話ボタンを押す。通話が始まると、寧々はすぐにスピーカーホンに切り替えて、携帯をテーブルに置く。
『エリアC-7で
「私が行くよ。あと――或果も来て」
「え、でも私戦闘は……!」
急な指名に或果がたじろぐ。由真は或果を安心させるように笑みを浮かべた。
「私の武器を作ったのは或果だから。初めてだと使いこなせるかわからないし。大丈夫。或果のことは私が守るから」
強引に押し切る形で、由真は或果を連れて出て行った。アルカイドの店内に残された寧々と梨杏は同時に溜息を吐く。
「……大丈夫かなぁ」
「相手は無能力者だから敵じゃないけど、逆に相手の命が心配だわ……」
「あと……この前の私の怪我のこと、すごく気にしてるみたいだし。自分の方が酷い怪我だったのに」
「昔からそうだったの、由真って?」
梨杏は頷いた。今ほど酷くはなかったけれど、基本的には変わっていない。
「昔さ、無能力者のクラスメイトに由真が殴られそうになったことがあって、私が傘振り回しながらそいつらを追い払おうとしたんだけど」
「勇ましいね……」
「あのときはなんかムカついて。でもそいつらの一人が投げた石が思いっきり顔に当たっちゃって。そしたらそれまでは泣くの堪えてたのにめちゃくちゃ泣くんだよ。『何で私なんかのために』って。友達だからだけど? って話だよ」
「何となく想像はつくよ。『私なんか』って今でもしょっちゅう言ってるし」
それが「そんなことない」という言葉を期待してのものだったらまだいいのに、と梨杏は天井を見上げて息を吐く。由真の場合は本気で言っている。それは家族の中で一人だけ
「だから、私たちは由真のことを守らなきゃいけない」
梨杏が呟く。もう失うのはこりごりだ。たとえ戦う力がなかったとしても、せめてどこか遠くに行ってしまわないように、手を伸ばし続けなければならないと思う。
*
ハルに言われた通りの場所に辿り着くと、既に無能力者の集団はいなくなっていて、路地の片隅に少年が一人打ち捨てられていた。
「一歩遅かったか……」
由真は少年に近付いて声を掛ける。何度か軽く頬を叩くと少年は薄目をあけた。それからゆっくりと上体を起こす。殴られて顔は腫れ、身体中に痣ができているが、幸い命に別状はないようだ。由真は小さく息を吐く。
「私は柊由真。能力者が襲われてるって聞いて駆けつけてきたんだけど、一歩遅かったみたいだね」
「……ああ……気を失った振りをしたら諦めていったので……」
「そう。詳しい話は落ち着いてから聞くけど、とりあえず体に変なところはない?」
「……大丈夫だと思います……多分……」
「ちょっと体触ってもいい?」
少年は首を傾げながらも頷いた。由真は少年を自分の方に少し引き寄せてから、背中に手を当てる。白い光が一瞬だけ見えたが、すぐに消えた。
「うん、種の方も大丈夫そう。よかった」
由真は少年を抱き締めてその頭を撫でる。或果は由真の人との距離の近さに少し驚いていた。先程まで話していた印象としては、冷静で、任務に対してはストイックな人だったのだが、今の様子を見るととても優しい人に見える。連れて来られたけれど特にやることもなさそうだと或果が肩の力を抜いた途端、上空から何かが降ってきた。
「危ない!」
或果が叫ぶのとほぼ同時に、銀色の光が見えた。斬られたものが斬られたことにすら気が付かない一閃。或果は呆然と、地面に落ちた機械の残骸を見つめる。
「……警備ロボット?」
「改造したやつだね。能力者狩りに使ってる奴らがいる。それも一応持って帰ってハルさんに調べてもらおう。逃げた奴らのこともわかるかもしれない」
「ていうか、今の見えてたの……?」
由真からは資格になっていたはずだ。そこから剣を出して斬り伏せるまで、あまりに速くて或果には何も見えなかった。
「いや、音で何となく……あとは能力で攻撃範囲を広げてるから、剣そのものが当たる必要はなくて」
「すごいね。ヒーローみたいだった」
或果がそう言うと、由真はどこか遠い目をして微笑んだ。その表情があまりにも寂しそうに見えて、或果は胸の前で手を強く握り締める。
「……ありがとうございます」
少年が由真に言う。由真は首を横に振ってそれに応えた。
「もっと早く来られたらよかった」
「でも、来てくれただけで……このまま誰にも助けてもらえないんじゃないかと思ってたから……それにあの警備ロボットも」
「何にもしてないよ、私は」
どうして由真はそんなことを言うのだろう。或果は深い色を湛えた由真の目を見つめた。長い睫毛が影を落としている。
綺麗な人だと思った。けれど、目を離したら消えてしまいそうだ。
目が勝手にシャッターを切る。或果は由真の横顔を見ながら、その姿を描きたいと思っていた。能力を使うための絵ではなく、ただ好きだから描く絵を。美しいと思ったから、それを残したくなった。
もしメフィストフェレスがここにいるのなら、「時よ止まれ」と言ってしまうかもしれない。或果は連絡を受けたハルの車が到着するまで、その場で何もできずに固まっていた。
*
その日の夜、寧々は喉の渇きを覚えて目を醒ました。ベッドから抜け出して、自室の扉を開けて廊下に出る。隣の部屋は由真の部屋だ。由真はこの喫茶アルカイドに住み込みという形で雇われている。この街には由真の実家も由真の祖父母の家もあるが、そのどちらにも行きたくないと由真が言ったからだ。その由真の部屋の扉が少しだけ開いている。寧々は不思議に思って、そっと部屋の中を覗き込んだ。
由真の部屋は意外に可愛らしいクッションやぬいぐるみが置かれている。ミントグリーンのソファー。同じ色で統一されたベッド。布団がそこに少し前まで誰かがいたようにめくれていて、部屋の主である由真は部屋の中にはいなかった。
こういうとき、由真が行く場所は決まっている。寧々は起きた本来の目的も忘れてその場所に足を向けた。喫茶アルカイドの裏手にハルが作った、ただ広いだけの空間がある建物。そこは由真のために作られた鍛錬場だった。戦うための力を持った由真を引き入れたから、彼女を戦わせるしかなくなった。その象徴のような建物だ。寧々は中にいるだろう由真に気が付かれないように細く扉を開けて中の様子を窺う。
ハルが用意した練習用の改造警備ロボット。もう由真の敵ではないそれを、或果に作ってもらったばかりの剣で斬り伏せていく。いや、実際は剣に纏わせた能力波が刃になっている。そして能力波は刃だけではなく敵を吹き飛ばす衝撃波にもなる。詳細はわからない能力だが、戦闘には向いているのだ。けれど――戦闘に向いている能力でなければ、彼女に戦いを強いるようなことにはならなかったのだ。
由真は一心不乱に剣を振るい続ける。その姿は、まるで自分自身を痛めつけているようにも見えた。放っておけば倒れるまで続けていることすらある。そうしなければならない理由がどこにあるのか。アルカイドの仕事は誰かに頼まれてやっているわけではない。放り出しても他の誰かが何とかしてくれるものではあるし、そもそも赤の他人のことを助ける必要なんて、本当はどこにもない。それなのに由真は、誰かを助けるための戦いに身を投じながら、いつでも助けられなかった人のことを考えている。どんなに強い力を持っていても、神様ではないのだから、全部を救うことなんて到底無理なのに。
寧々は溜息を吐きながらポケットの中から小さなリモコンを取り出した。そろそろ止めなければ、由真はいつまでも続けているだろう。この前、暴走してもいない能力者の種を壊して負った深い傷も治りきってはいないのに。寧々が親指で丸いボタンを押すと、由真が左耳を押さえて、その場に膝を突いた。
「……寧々」
「こんな夜中に何やってんの、由真」
「早くこれに慣れたくて。使いやすいけど、これまでの適当な棒とは感覚が違ってたから」
「そんなの昼間にやればいいでしょうが……何かあったの?」
「別に何も。ていうか痛いんだけどそれ」
由真はまだ左耳を押さえている。そこには銀色のイヤーカフが付けられている。由真が常につけているこのイヤーカフはハルが作った特別製で、特殊な電流を流すことによって、由真の能力を一時的に止めることができる。しかしこれは万が一のためにハルがつけた拡張機能で、本来の機能は別にある。
「あんまり無理しないでよ、由真」
「大丈夫だよ。最近ちゃんと制御できてるじゃん」
「補助付きで、でしょ? それだって万能じゃないんだから」
寧々が由真を見つけたとき、由真は自分の能力を制御する術を完全に失っていた。ほとんど暴走状態にあるものを、由真自身の精神力で無理やり押さえつけている状態だった。だからハルはこのイヤーカフ――能力の制御装置を作り、武器に纏わせる形で能力をコントロールする術を編み出した。その方法が功を奏して、最近は日常生活で困ることは無くなっているけれど、無理をすれば何が起こるかわからない状態なのも事実なのだ。
「……わかってる。でも……この力で助けられる人がいるなら、私は助けたいと思う」
由真が誰かを助けたいと思うとき、考えているのは本当は助けられなかった人のことだ。誰かを助けようとすればするほど、助けられなかった人はじわりじわりと増えていく。その度に由真が背負うものは重くなっていくのだ。寧々は由真を抱き締めて、由真にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「――だったら私を助けてよ、由真」
由真にこの道を選ばせたのは自分たちだとわかっている。けれど、その全てを放り出してでも、由真が穏やかな日々を送ることを願ってしまう。もう誰のことも背負わないで、誰にも傷つけられないで、幸せに生きてほしいと思ってしまう。けれど由真はそんな生き方をするつもりはないのだろう。――きっと、誰かを見捨てて生きる自分を許せないのだ。
由真が自分自身のために生きることを許せたときに、きっと私も救われる――寧々は随分と前にその答えに辿り着いたのに、その道はあまりにも果てしないのだ。
由真の小さな手が寧々の頭を撫でる。男性と見間違われることすらある由真だが、その手は意外と小さい。それなのにその手で持ちきれないほどのものを持って自分自身の傷を増やしてしまうのだ。
そんな生き方は悲しすぎる。本当は今すぐにやめさせたいとすら思う。それなのに、寧々の心に存在する相反する思いが、いつも全てを投げ打つことを躊躇わせる。
――私は、そんな由真のことが好きなのだ。
「どうしたの、寧々」
何も知らない由真が、柔らかかな声で寧々に尋ねる。
「どうもしないけど、こうしてたい」
「変なの。私でいいならいつでも相手するよ」
「由真がいい。――由真じゃなきゃ、駄目」
どうしてこんなにも、好きになってしまったのだろう。好きにならなければ、こんな苦しみを味わうこともなかったのに。寧々は由真に優しく頭を撫でられながら、そっと目を閉じた。