由真が退院してから二日が過ぎた夜のこと。自室として使っている客間のドアがノックされた。
「由真? どうしたの?」
「いま大丈夫? ちょっと話したくて」
「大丈夫だよ。入って。まあちょっと散らかってるけど」
或果は描いていた絵を片付けて、クッションを由真に渡す。あの事件の後、或果は正式に由真と寧々と一緒に暮らすことになった。月島の屋敷には、創一の母親である壱華がいたが、当主であった怜士と、跡継ぎと目されていた創一の死により、家を断絶させることを決めた。屋敷を手放し、それにより得た金を壱華と或果で分け合い、互いに関わらないことを決めて生きることになったのだ。おそらく壱華はあの家から解放されたかったのだろう。
「体はもういいの、由真?」
「右腕はまだちょっと違和感あるかな……でも普通に生活する分には問題ないよ」
或果を助けるために、死んでもおかしくないほどの怪我を負ったのだ。けれど事件の後、家のことなどでバタバタしていて、なかなか見舞いに行くこともできなかった。由真はクッションを抱え、少し困ったような顔をする。
「或果に……謝らなきゃいけないな、って」
「私に?」
「あの桜……好きって言ってたのに、壊しちゃったから」
創一が命を落とした経緯は寧々から聞かされた。空間支配能力を使うために利用していた桜を由真が壊したことで、これまで使っていた力が本人に跳ね返り、結果的に死んでしまったのだという。それしか方法がなかったのだ。その方法でなければ――高濃度のアズールを流し込まれていた或果も、満身創痍だった由真も、助からなかったのかもしれないのだ。
「桜もそりゃ大事だったけど……でも、お陰で私たちは助かったんだから」
「……うん」
「むしろ私はありがとうって言いたいよ。由真のおかげで助かったんだから」
「……うん」
由真はクッションを抱えたまま、左手の手首を強く握っていた。口に出せない想いはたくさんあるのだろう。あの事件のときに戦った相手には、かつての仲間もいたという話だ。彼女だけではない。この短期間に、三人もの人間の命を奪う形になってしまった。――本当は、人など殺せないほどに優しい人なのに。
「そうだ、由真。この前お店そのままにして出て行ったでしょ? だから……ごめんなんだけど、見ちゃって」
「……何を?」
「由真があの日書いてた……絵コンテみたいなやつ」
「ああ、あれ……色々あって忘れてた」
或果は家から引き取ってきた鍵付きの箱の中から、一枚の紙を取り出した。鍵付きの箱だけれど鍵は壊されていて、中に入れていた母の絵だけが抜き取られていた。聞いた話によると、タリタという少女が或果の部屋を荒らしたときにそれを見つけ、創一に対する切り札として隠し持っていたのだという。絵を壊せばそこから生み出されたものは壊れる。母の形見はもうどこにもないのだ。けれど或果はその代わりに由真の書いたものをしまっていた。すぐに返すつもりだったけれど、それが大切なものであることには変わりがないのだから。
「あとこれ……一応私なりに清書してみたんだけど……」
「いや、わかってるんだよ……ラテアートやっちゃダメとか言われてるし」
「味はあると思うよ、由真の絵」
「それ下手な人に言うやつじゃない!?」
或果は微笑み、由真が書いたものに視線を落とした。おそらく見様見真似で書いたのだろう。けれど画として想像したときに、由真が描こうとしているものがとても美しいものなのではないかと或果は思ったのだ。
「ねえ、由真。私と一緒に何か作ってみない?」
「え?」
「映像作品とか、やってみたいなとは思ってて……もしかしたら、由真のやりたいことの参考にもなるんじゃないかって」
「やりたいことってほどじゃないんだけど……」
「いいんだよ、軽い気持ちで始めちゃえば。私だって、最初は絵が好きだから描いてただけだよ?」
由真は或果が清書したものを手に取る。映像にするとほんの一瞬で終わってしまうほどの断片。けれどその一欠片から全てが始まるのだ。
「せっかく一つ屋根の下で暮らすんだしさ、やってみようよ」
「うん。でも……まだはっきりどんなのにしようかとかは浮かんでなくて。何を作りたいのかってのもまだ見えないから……」
「急がなくてもいいよ。思いついたときに進めようよ」
或果が言うと、由真がふっと笑みを溢した。或果は首を傾げて由真を見つめる。
「なんだか或果、すごく楽しそう」
「だって何かを作るってすごく楽しいことだから。大変なこともいっぱいあるけど……由真が作るものを見てみたいなって」
きっと、とても美しいものを作るだろう。それはただ綺麗なだけのものではない。心を突き刺して、ときには抉って、それなのに優しく包み込むような、そんなものを作るような気がするのだ。
これまでたくさんの痛ましいものを見てきたはずの目は、あまりに澄んでいて美しい。嘘のない透明な眼差しのはずなのに、どこまでも深く吸い込まれていく。その美しさを絵で写し取れたらいいのに。描いても描いても、由真には届かないと感じてしまうのだ。
*
その一週間後、或果は寧々に頼まれて練習場所まで由真を呼びに行った。由真は休んでいた間に落ちた体力を回復するために、夕飯前は鍛錬に励んでいるのだ。
由真は同時に向かってくる四体の警備ロボを一閃する。剣に纏っている能力で攻撃範囲は広くなっている。相手が壊しても構わない機械なら、躊躇わずに攻撃する分動きにも迷いがない。次々と敵が出てくる設定にしているらしく、由真はその剣で敵を薙ぎ倒しながら、機械の出どころに向かって行く。まるで舞っているような、力強くもしなやかな動き。或果はその姿に目を奪われた。
由真を見ていると絵を描きたくなる。戦うその姿はときに痛ましくもあるのに、その体は傷だらけで、人によっては目を逸らしてしまうほどのものであるのに、言葉にできないほどの美しさがある。細いけれど筋肉質な腕から繰り出される攻撃。地面を蹴る脚の
「由真」
緊張から解き放たれた或果は由真に声をかける。
「寧々がそろそろご飯だって」
「うん、わかった。ちょうど切り上げようと思ってたところ」
壊した機械の残骸は、ボタンを押すと同時に動き出す掃除ロボが片付けてくれる。それも終われば自動的に収納される仕組みなので、二人は機械に任せてその場を後にした。
「もうあんなに動いて大丈夫なの?」
「さすがに体力落ちてるから回復させないとと思って。体の方はもう大丈夫だよ」
「あんまり無理しないでね」
「うん」
そもそもこんなに必死に体力の回復に努める必要はあるのだろうか、と或果は思う。アルカイドの仕事は誰かに頼まれてやっていることではない。本当は警察などの公権力の仕事なのだが、彼らではどうしようもないものや、その網の目から零れ落ちてしまうものを掬い上げるために由真たちは戦っているのだ。義務なんてそこには一つもない。それなのに、どうして由真は。
寧々にははっきりとした目的があるらしい。或果や星音は自分の能力を活かすために、梨杏は由真の傍にいるために、黄乃は巻き込まれた形にはなっているが、それぞれ己の意志でここにいる。それなら由真は、何のために戦っているのだろうか。
由真の戦う姿は美しいと思う。けれどそれは――身を削って燃やす炎なのではないか。それを描きたいと思ってしまうのは、実はとても残酷なことなのではないか。その思いを拭い去ることができない。
「今日の夕飯なんだろ」
由真がタオルで首筋の汗を拭いながら言う。
「鶏肉の香草焼きだって」
「またなんかオシャレなやつだね。明日当番私かぁ……何にしようかな」
「私オムライスがいいなぁ。ケチャップでハートとか描いて」
「絶対やだ」
他愛のない話をしながらリビングのドアを開けると、食欲をそそるハーブの匂いがしてきた。寧々がテーブルの上に手際よく料理を並べて行く。それを見ながら由真が気の抜けた声で呟く。
「めっちゃお腹空いた……」
「いっぱい運動したもんね」
食卓につきながら或果が言うと、寧々がエプロンを外しながら由真に言う。
「病み上がりなんだからいきなり負荷かけ過ぎないでよ?」
「大丈夫だよ、15レベルまでしかやってない」
「まあ対物戦闘ならそのくらいの負荷がベストか……」
三人で手を合わせて夕飯を食べ始める。月島の家にいたときは、大抵食事は一人だった。沢山人がいたのに、温かな家族なんてものはなかったのだ。だから今、こうやって三人で食卓を囲めることがとても幸せなのだ。
「あ、これ美味しい」
「でしょう? ハーブも全部こだわったんだからね? ローズマリーとオレガノと……って全然聞いてないでしょ、由真。いいもん或果に説明するもん」
「美味しいものは美味しいでいいじゃん」
賑やかな食事の中にいる、年相応の表情を見せる由真のことを見ていると、自然と笑みが溢れてしまう。それを見た由真がスープを飲みなら微笑む。
「或果、なんかいいことでもあったの? なんか楽しそう」
「まあね」
夕飯のあとはそれぞれの時間だ。月島の家にいたときのように隠れて絵を描く必要もない。堂々としていられるのだ。
(何描こうかな――)
描きたいものが沢山ある。絵にも描けない美しいものを、いつか描けるようになりたくて。