*
月の女神と美しい青年の恋の物語を知っている?
月の女神は美しい青年に恋をして、そして全知全能の神にこう願ったの。
――彼の美しさを永遠のものにしてください、と。
全知全能の神は月の女神に二つの選択肢を提示した。それは死か、眠りか。女神は永遠の眠りを選んで、美しいまま眠り続ける青年のもとに夜毎通うようになった、というお話よ。
何が言いたいのかって?
私は、その女神の気持ちがよくわかるのよ。人は老いていく。世界の塵芥に塗れ汚れていく。せっかく美しいのにそれってもったいないじゃない。美しいものの時間を止めて、その美しさを永遠にしたいの。
そう。そして私にはその力がある。
あなたの美しさが誰にも損なわれないように、私が護ってあげるわ。
*
「まるで陶器のような
整えられた爪。水仕事など一度もしたことのないだろう女の白い手が由真の腕を撫でた。由真は何も答えない。答えることは、声を発することは、許されていない。
「ああ本当に……こんなに綺麗な子は見たことがないわ」
女の指が由真の頬をなぞる。そしてその手は首筋から鎖骨へと、慈しむように、愛でるようにゆっくりと移動した。
「もうあなたを傷つけるものはどこにもないわ。あなたはここで、永遠に美しいままでいられる」
女は右手で由真の肩を抱き、左手の掌を上に向けた。何もないはずの場所から紫色の半透明の蝶が生まれ、女の手を離れた蝶が由真の左手の甲に止まり、その肌に吸い込まれるように消えていく。
「もう少しの辛抱よ。そうしたら、もう苦しいことは何もなくなるのだから」
女が陶酔したような声で言う。由真の目はどこか虚で、女の話を聞いているのかいないのかもわからない。
部屋の中は影すらも白いと思われるほどだった。一切の汚れを許さないように、調度品は全て白が保たれている。色を持っているのはそこにいる二人の人間だけだった。
やがて、白い部屋の中にノックの音が響く。
「――奥様、お時間です」
漆黒の
「厭になるわね。折角愉しい時間を過ごしていたのに」
女には仕事がある。いつまでもこの白い
扉が閉まり、白の部屋に静寂が生まれる。十秒ほど数えてから、使用人――寧々は由真のうなじに手を伸ばした。そこに貼り付けられている黒く小さな石をそっと外す。その瞬間に、由真の唇から深い溜息が漏れた。
「――お疲れ様」
「ほんっとに疲れたんだけど」
「ちゃんと様になってたわよ。役者になれるんじゃない?」
「何で私がこんなことしなきゃなんないわけ……?」
「自分でやるって言ったくせに……」
「囮捜査なんて他の人にやらせるわけにいかないでしょ……こんなん星音とか或果とか梨杏とか黄乃だったら大変なことになってるよ」
由真はベッドに寝転んで寝返りを打つ。この屋敷の主である女が用意した真っ白なドレスが揺らめく。あとで気付かれないように直す身にもなってほしいな、と思いながら、寧々はベッドに腰掛けた。
「ていうか黄乃の場合は脱がせたらバレるからそもそもダメでしょ」
「ああ……そういえばそうか……。てか私はいつまでこんなことやんなきゃいけないわけ?」
「もう少し……まだ調べたいことがあるのよ」
「なるべく早くして……私だからまだいいけど、結構キツいんだから」
寧々は寝転ぶ由真の髪を撫でた。急がなければならないのはわかっている。そして、この作戦は由真だから成立しているのだということも。
事の発端は、二週間前にアルカイドに持ち込まれた悠子からの依頼だった。一年ほど前から起きている能力者の少女の失踪事件、そしてそれに関係していそうな、山奥の洋館に住んでいる
まさかそれがうまくいくとは思わなかったが――と寧々は目を細める。使用人の一人を買収し寧々が潜り込む。それと同時に誘拐される被害者として由真が潜入する。そうすることで透子が少女たちに何をしているのかを知る必要があった。由真が選ばれた理由は、持ち物を全て奪われたとしても、いざとなったら戦えること、精神汚染系の能力に並みの人よりも耐性があること、そして――透子の目を引く美しさを持ち合わせていることだ。しかし狙い通り透子が由真に目をつけてくれるかどうかはわからなかったのだが――結果として、寧々が驚くほどに事がうまく運んだ。
「体調はどう?」
「いいわけないでしょ……あの蝶、結構強いんだけど」
「今日で三日目……並みの人間ならそろそろ限界ね」
「……人を並みの人間じゃないみたいに」
「能力の副作用なのか知らないけど、やたら精神汚染系の能力に耐性あるじゃない。アズールの侵蝕だって一応は耐えたし」
「ああ……あの薬に比べたらだいぶ弱いね。数を重ねないと効果が出ない。能力としてはそれほど大したことはないのかも。だからその石を使ってるんだろうけど」
透子の能力自体はそれほど脅威でもない。問題は、連れてこられた少女たちがうなじに取り付けられる黒く小さな石だった。それは人の体の動きを奪い、意識を混濁させる。由真の場合は意識の混濁には抵抗もできるが、身動きはほとんど取れないようだ。
「こっちが抵抗できないからってやりたい放題だし……ぜんっぜん理解できないんだけどあの人……」
「そう? 由真が綺麗なのは理解できるけどなぁ」
寧々は手の甲で由真の頬をなぞる。由真は呆れたように溜息を吐いた。
「で? あとは何を調べる予定なの?」
「この石を誰が作ったのか――そして失踪した女の子たちはどこに行ったのか。共犯は炙り出しておきたいし……あの人は誘拐した人間を殺す趣味はなさそうだから、きっと全員この屋敷のどこかにいるはず」
「最悪私もそこに運ばれるやつじゃんそれ」
「その前に決着をつけたいところね。とはいえ尻尾が掴めなくて。あんまり派手に動くと私も怪しまれちゃうし」
「できれば早くしてくれると嬉しい。能力には多分耐えられるだろうけど……あまりここに長居したくない」
寧々は頷いた。そろそろ仕事に戻らなければ怪しまれてしまうだろう。寧々は由真を抱きしめるようにしてうなじに手を伸ばす。
「それじゃあ私はそろそろ行くから。これ……付けるわね」
「うん」
「もう少しの辛抱よ。なるべく急ぐから」
黒く小さな石が取り付けられた瞬間、由真の目がわずかに虚ろになる。声を出すことも、動くこともできないその姿はまるで精巧に作られた人形のようだった。
*
寝台に寝かされていても、体を動かすことはできない。由真はただぼんやりと天井を眺めていた。今は部屋には誰もいない。透子は夜も由真の隣で寝ているが、今日は仕事が終わらないらしく、先に寝ていてと言われ、布団を被せられたのだ。
体は動かないが、意識はそれなりにはっきりしている。そこだけは透子に気付かれないように、わざとぼんやりと振る舞っているのだ。
(――由真)
(本当に大丈夫なのか?)
(大丈夫だってアルならわかるでしょ)
精神汚染能力への耐性。それがどこで身につけられたものなのか知っている人はいない。何度も使われて、それに抵抗しているうちに耐性がついてしまったのだ。
(それでも、あまり何度も受けていいものではないから。影響が全くないわけではないんだし)
(まだ少し頭がぼんやりするくらいだけど……どちらかというとこの部屋が嫌だ)
無菌室のような、一切の汚れを許さない真っ白な部屋。この部屋のように広くはなかったが、北斗の家で過ごしていた部屋を思い出してしまう。真っ白で狭い部屋。ぼんやりとする意識。寧々には言わなかったが、本当は今すぐにここから出たいと思っているほどに苦痛だ。
(寧々もできる限り急いでるのはわかってるけど、こっちでも何か掴めそうなら掴みたい。アルは何か気付いたこととかない?)
(残念ながら、特には。強いて言うなら……揚羽透子の能力である蝶と、誰だかわからない人間の能力であるこの石から、似通ったものを感じる)
(似通ったもの?)
(僕には能力波を見る力はないからあくまで感覚だ。けれど、例えば親戚とか……能力波が似通る例はあったはずだ)
(寧々は揚羽透子が能力を使うところを、まだその目では見てない。だから気付かなかったのか)
血が繋がっている場合、能力波が似ているということは珍しくないことらしい。それなら共犯者は揚羽透子の親戚なのだろうか。しかし、事前の調査で現在の揚羽透子に親戚の類はいないということがわかっている。事故で前の当主である透子の父親と母親が亡くなったあと、透子は天涯孤独の身となったのだと聞いている。
(どこかに隠れている親戚がいるのか……)
(あるいは、揚羽透子が多重能力持ちという可能性もあるだろう)
(多重能力持ちは……普通じゃ無理だよ。種に触れるならまだしも)
(もう一つあるだろう。一人の中に二つの人格。そして二つの能力――多重人格のパターンだ)
由真ははっとした。その可能性は知っていたし、目にしたこともある。けれど思いつかなかったのだ。寧々もおそらくそうだろう。解離性同一性障害の能力者で、稀に能力も複数に分かれていることがある。元は一人の人間の一つの能力なので、能力波は当然似通ってくる。
(その可能性も視野に入れて、こっちでも探ってみるか……寧々にも言ってみる)
(それがいい。僕としてもあまりここに長居はしたくなくて)
(その割には調子良さそうだけど)
(それは由真のおかげだと思うんだけどね。まあいい。そろそろあの女が戻ってくる)
アルに言われ耳を澄ませば、確かに足音が聞こえた。しかしいつもとは違っている。子供の走り方のような、バタバタとした音。やがてその音は部屋の前で止まり、静かに扉が開いた。
「この子がトウコの言ってた子? わぁ……本当にきれい!」
幼い喋り方だが、声は間違いなく揚羽透子のものだ。由真は意識があることに気付かれないように目を閉じながらも、自分に近付いてくる気配を感じ取っていた。
「まっててね。みんなのところに行く前に、いっぱいきれいにしてあげる」
布団をそっと捲られ、白いドレスの下の足に触れられる。その瞬間に触れられた部分に激痛が走り、声を封じられた由真の喉から吐息だけが漏れた。
「これでもうどこにもいけない……ずっときれいなままで、わたしとあそんでくれるよね?」
触れられた部分に何が起こっているのか、見ることはできない。けれど楽しそうに笑いながら触れられる度に、体が硬い殻に覆われていくような感覚に襲われる。あの蝶とも、黒い石とも違う能力。そして何より子供のようなその口調と気配。
(二人じゃなくて、三人……)
寧々にそれを伝えるにしても、体の自由を奪われている状態では何もできない。それどころか時間が経つ程に窮地に追い込まれていく一方だ。
(寧々……!)
最終手段はまだ残っている。けれどそれを使うのは躊躇われた。それは耐えられないと思う瀬戸際まで使えない方法だ。だからその前に、早く。
*
一日の仕事を終えた寧々は、他の使用人たちには気付かれないように屋敷の中を移動していた。仕事の最中に見つけた屋敷の見取り図と外から見た屋敷の構造に食い違っているところがある。そんな場所には大抵隠し部屋があるものだ。そこに今まで誘拐された人たちがいるのではないか。寧々は物音を立てないようにその場所に近付いた。見た目は普通の壁だ。けれど耳を近づけてみれば、向こう側に空間があることがわかる。あとはそこにいく方法を探さなければならないが――正攻法を取るつもりはなかった。
(結構顔に出てんの、気付いてないんだよな……)
嘘のつけない性格が災いしているのか、由真は意外に思っていることが顔に出る。意図的に隠そうとしていないのであれば、表情は比較的豊かな方だ。
(能力よりは、あの部屋が問題ね)
真っ白で何もない部屋。いま由真がいる部屋よりはずっと狭いが、それは寧々の記憶にも焼き付いている。白い世界が赤く染まる中、折り重なるように倒れていた少年と少女。少年の方は既に絶命していたが、少女の方にはまだ息があった。寧々がそこに辿り着くまでに何があったのかはわかっていない。けれど知っていることもある。北斗の家にいた子供たちは実験台だった。中でも特別な力を持った子供たちは独房のように狭い、白一色の部屋に閉じ込められていたという。由真が当時のことを語れないうちは確かめることもできないが、由真がその一人であることは疑いようがない。
由真のためにも早く決着をつけたい。寧々は右目を手で押さえてから、ゆっくりとそれを外した。
「――『姿なき者よ。我が境界は混沌から光を分かち、以って遍くものを照らすものとする』」
小声で呟くように唱える。人が一人通れるだけの穴が開けられればいいのだ。定義が完了し、何もない空間を蹴ると、人が一人通れるほどの穴が空いた。寧々は音を立てないように慎重に進んでいく。
視界はすぐに開けた。由真のいる部屋と同じ真っ白な空間。その片隅に、箱庭のようにさまざまなものが置かれた空間があって、その空間の中心にある食卓に、五人の少女が座っていた。悠子に見せられた資料にあった写真と、その少女の顔が一致する。寧々はゆっくりと、ピクリとも動かない少女たちに近付いていった。そのうちの一人に触れてみる。
「これは……」
人間の肌とは思えない硬い感触。陶器のような――あるいは精巧に作られた人形のようだった。
「……さすがに表面だけ、みたいね。でも今までの二人の能力とは違う……能力波は似てるけど。つまり三人目……?」
勝手に触れるのは申し訳ないと思いつつも、寧々は少女を注意深く観察した。最初につけられる小さな黒い石。それは体の動きを奪い、意識をぼんやりとさせる。そして透子の使う蝶によって意識はさらに混濁させられて――その次の段階、完成形がこれなのだろう。寧々は左目に触れ、更に目を凝らした。より深く、使われた能力を解析する。
「――違うわ」
三つの別の能力だと思っていた。しかしそれ違う。一つの能力を三つに分けている、というのが正解だ。
「人を人形に変える能力……それを、三つの段階に分けている。元々は一つの能力だったものが――人格が分かれるのに合わせて分裂した」
だとしたら――寧々は目を見開く。自分の組み立てた作戦の大きな過ちに気が付いたのだ。一つの能力を三つの人格で分け合っている――けれど、体は一つだ。ほとんど常に透子が傍にいるという状態がどれほど危険なことか、寧々も、そして由真もわかっていなかったのだ。
これ以上長居はできない。今すぐにこの事件を終結させなければならない。寧々は隠し部屋を出るために走り出し――その瞬間に、前方から飛んでくる能力波に気が付いた。咄嗟に避けた直後に、レーザーのような光が寧々を掠めるように走り、壁に焦げ目を作る。
「やはり鼠が紛れ込んでいましたか」
姿を表したのは、寧々と同じ黒いドレスを着た女――使用人頭の
「お嬢様の箱庭を壊そうとする輩は誰であっても許しませんよ」
「箱庭、ねぇ……人を攫ってきて終わらない人形遊びでもさせるつもり? あの人もう三十路は超えてるでしょう?」
「いいえ、お嬢様の心は五歳でこの部屋に閉じ込められた頃から変わってはおりません」
此江は躊躇いなく赤色の光線を放つ。けれど照準を定めるときに能力波が見えるため、避けることは不可能ではない。
「お嬢様は五歳で能力者と判明してからここに閉じ込められ、私たち使用人とだけ関わって言いておられました。その中にお嬢様が一番懐いていた使用人がいたのですが――大変美しかった彼女は、ご当主に見染められ、その愛人となってしまった」
「自分のおもちゃが取られて許せなかったの? それで他の女を人形にしたって、何も解決しないじゃない」
寧々は此江の攻撃を避けながら、少しでも由真のいる場所に近付けるように動き続ける。此江は寧々を追いかけることに執心していて、そのことには気が付いていないようだった。
「そんな理由ではありません。お嬢様は悲しかったのです。美しいものが誰かに汚されることでしか生きられないこの世界が。美しいまま時を止めてしまえばもう誰にも汚されることなどないと!」
「それは人間の美しさを知らないから言えることだわ」
人は確かに生きていく限り汚れていく。けれど生きている人間にしか生み出せない美しさがあることを寧々は知っている。
「あのお嬢様がどんな過酷な運命の中にいたとしても、どんな可哀想な子でも、罪は罪よ」
どんな理由があったとしても、何も知らない人を誘拐し、その能力で人形のように変えてしまうということは許されない行為だ。寧々は右手に力を込める。その瞬間に手の中に現れたワイヤー付き短剣で、此江のドレスを壁に縫い止めた。ドレスを破けばすぐに抜けられる。けれど寧々はその前に素早く近付き、此江の手を背中に回し、手錠をかけた。
「何故……! 使用人は来たときに身体検査をしているはず……丸腰だったはずだ……!」
「仕事を覚えるためにってメモ帳にね、絵を二枚ほど挟んでいたのよ。さすがに電子手錠までは作れないけど、このくらいの単純な構造のものなら十分」
或果の能力で作り出した武器しか持ち込めないことは予想していた。由真のようにその絵を飲み込んでしまうわけにはいかなかったので、仕事用のメモ帳に忍ばせるという手段を取ったのだ。
「暫くここでじっとしててもらうわよ。あとでお嬢様も来るから安心して」
寧々は使用人頭のポケットからマスターキーを抜き取ると、由真たちのいる部屋の扉を開けた。
「だれ……!?」
寝台の上にいた透子が、勢いよく扉を開けた寧々を見て瞠目する。その幼い子供のような表情を見て、寧々は眉を顰めた。
「もうお人形遊びはおしまい。由真を返してもらうわよ」
寧々は透子が抱きかかえている由真を見ながら言った。
「いや! だってみんないなくなっちゃうんだもん! だからみんなきれいなお人形さんにするの!」
「そんなことしたって満たされるわけないわよ」
寧々はワイヤー付き短剣を透子に向かって投げる。透子がそれに気を取られた瞬間に、透子の手から由真を奪い返した。寧々は由真のうなじに触れ、黒い小さな石を取り外す。
「……来るのが遅い」
「これでも最速なんだけど。とりあえずもう調べることは調べ尽くしたわ」
由真は自分の手を確認してから剣を握った。人形化は石を取り外したことで解除されたのだろう。けれどまだ僅かに違和感があった。それでも動けないほどではない。
「せっかくうまくいってたのに! すごくきれいにできると思ったのに! 邪魔しないでよ! ねえ此江! どこにいるの!?」
「残念だけど、その人はもうここには来られないわ」
「おねえちゃんが此江に何かしたの!? ゆるせない! ゆるせないよね、透子!」
「ええ、そうね。大丈夫。悪い人はみんなやっつけてあげるから」
同じ人間の口から発せられているとは思えないほど、口調も気配も一瞬で変化した。いま目の前にいるのは、これまで由真が相対してきた揚羽透子――けれど彼女は元々の人格ではないのだろう。透子が両腕を広げると、無数の紫の蝶が現れた。由真は寧々の前に立ち塞がり、向かってくる蝶を剣に纏った能力波で薙ぎ払う。けれど斬り伏せたそばから新しい蝶が生み出された。
「とても強いのね、あなた。けれど――私たちはあの子を守らなければならないの」
由真が蝶の群れを凪ぎ払おうとした瞬間、寧々が叫ぶ。けれど由真が反応する前に蝶が全て砕けて、紫色の霧が部屋に広がった。由真は咄嗟に手の甲で口を押さえる。
「流石にこの霧は避けられないでしょう? これは人の中に入って、何も考えられない人形に変えてしまう」
「――残念だけど、この程度でどうにかなる体じゃないの」
由真は先程寧々が投げたまま、壁に突き刺さったままの短剣を引き抜いた。そしてそれを今度は天井に向けて投げた。短剣に繋がったワイヤーを利用して舞い上がり、空中で剣を出現させながら降下する。透子はその光景に目を瞠った。透子が由真の動きに気を取られているうち、由真は透子の腕を掴み、その体を寝台に押し付けた。
「……手荒にしてごめん。トウコちゃんを出してくれる?」
思いの外優しい由真の声に寧々は驚いた。本当はこのまま身柄を拘束してしまえば事件は解決と言えるのに、由真はそれを選ばない。
「何をするつもり……?」
「話を聞くだけよ。今まで、誰にも言えなかったんでしょう?」
由真は僅かに力を緩める。もう相手に抵抗の意思がないことがわかっているのだ。どうしてそれがわかるのだろう。寧々はいつも思う。そして、どうしてほとんど見ず知らずの他人にまで手を伸ばそうとするのだろう。
「……不思議ね。あなたの言葉はなぜか本当のような気がするわ」
透子は目を閉じる。再びその目が開かれたとき、その表情は一変していた。幼い子供のような、けれどどこか手負いの獣のようでもあるその顔。寧々は一瞬由真に目配せをしてから部屋を出て行った。二人だけにした方がいいと思ったのだ。
「――ねぇ、トウコちゃん」
寧々が来る前、彼女は何を語ったのだろうか。由真は何も話せなかったはずだ。けれど、体だけ大人になってしまった少女の話を聞いたのだろう。
「ずっと、一人で遊んでたの?」
「ううん……でも、みんなトウコを置いていなくなっちゃうの。だからね……みんないなくならないようにって」
「いなくならないでほしかったんだね。……でも、みんながいなくならないようにして、それで寂しいのはなくなったの?」
なくなるはずがない。本当は話をして、一緒に遊んでくれる人から、その動きを、言葉を奪ってしまったのだから。寧々は目を閉じる。その寂しさに、孤独に、由真は寄り添おうとしているのだろう。
(どうして、そこまで……)
戦うきっかけを作ってしまった自分が言うことではないのかもしれない。けれど、由真の優しさが、時折寧々の胸を締め付けるのもまた事実だ。寧々は部屋の外から中の様子を窺う。由真は泣きじゃくるトウコをそっと抱きしめていた。手錠をかけられたままの此江が俯く。
「私は、お嬢様が幸せになるならそれでよかった。けれど……私には、あんなことはできなかった」
「手を差し伸べるときは、その手を振り払う覚悟も、その手を傷つけられる覚悟もしなくちゃならない。――あの子にその覚悟が生まれたのは、いつなのかしらね」
それがたとえ、自分がどうなっても構わないという心に支えられているのだとしても、その手に救われた人間は確かにいるのだ。そんなことができる人を寧々は他に知らない。
「でも、これからはあなたがあの人のそばにいなきゃいけない。私たちができるのはここまでだから」
此江は項垂れる。寧々は此江の手錠をそっと外した。部屋から由真とトウコの二人が出てくる。トウコは此江を見つけると、すぐに由真から離れて駆け寄って行った。
「……由真」
寧々は由真の頬に手を伸ばした。その目が濡れていることには気が付いていた。息を呑むほどに美しい透明。それは他人の痛みに寄り添うために流された涙だ。けれど寧々はそれには触れずにそっと微笑んだ。
「じきに警察が来るわ。他の子たちも見つけたし」
「うん。能力を解除すればみんな大丈夫って言ってた」
「歩月先生にも連絡してあるから、悠子たちに引き渡したらすぐに――」
「うん」
「もう囮捜査はこりごりね。次からはもっと別の作戦を考えるわ」
由真が力が抜けたような微笑みを浮かべた。その表情に翳が見えたような気がして、寧々は思わず由真を抱きしめた。
「嫌なこと、思い出した?」
「……少し」
寧々は由真を抱きしめる腕に力を込める。今回は想定外にこの部屋があの場所に似過ぎていた。本当は全部忘れてしまえばいいと、思い出さなければいいと思っているのに。
「大丈夫よ。もうあの場所は――全部燃やしてしまったんだから」
北斗の家で由真に何があったのか。寧々が知っているのはあくまで断片的なものだ。けれど赤に汚された白い部屋は今でも目に焼き付いている。あの日から、いやもっと前から、寧々の本当の目的はたった一つだ。
あなた以外は何もいらない――。
由真はトウコの心に寄り添うことはできても、理解することはできなかっただろう。けれど寧々は寄り添えずとも理解できた。自由を奪ってでも、閉じ込めてでも、失いたくないものがあるのだ。
*
アルカイドに戻ってきた由真は、自室のベッドの上で布団にくるまって目を閉じた。黄乃からもらったメンダコのぬいぐるみを抱いていると、気持ちもいくらか落ち着いてくる。
色のない部屋。意識が朦朧としていて、体の自由がきかない状況で、自分の中に異物が入り込んでくる感覚。思い出したくもないのに、記憶があの日まで引き戻されていく。もうあの場所は存在しないのだと、燃え落ちてしまって、生き残りもいないとわかっているのに。
「
拒絶すればいいんだ、とかつて彼は言った。
――受け入れたくないのであれば拒めばいい。拒絶は君の人格の輪郭を強くする。
何故彼がそれを教えてくれたのかはわからない。気まぐれなのかもしれない。それでもアルのその言葉は由真の道標となった。精神汚染能力への一番の対抗法は、その力を心の底から拒絶することだ。何度もそれを繰り返すうちに、弱い能力なら意識するでもなく対抗できるようになった。自分自身の輪郭を作り出すのは、拒絶する力。そのことを由真は身をもって知った。
けれど最後の日の拒絶と受容の二択で――由真は、違う答えを選んだのだ。