人が本当に死んでしまうときは、誰からも忘れられてしまうときだ。そんな言葉がある。誰かに覚えていてもらえばその人の中で生きている。でも誰も思い出さなければ、完全に死んでしまう。
時間というものは残酷で優しい。生きている人間は死んだ人間にいつまでも囚われていてはいけないと思う。波が引いていくように、時間が記憶をさらっていき、やがてあまり思い出さなくなる。それが普通なのだと思っていた。
そもそも僕は人工的に生み出された存在であって、道具と変わらない扱いをされていた。僕が死んでも変わりはいるだろう。きっと波が引いていくのは誰よりも早い。そう思っていた。
「……幽霊、か」
「急にどうしたの?」
鵜飼理世子に勧められた本を読んでいた由真は、自分自身の唇から発された僕の声にも落ち着いた答えを返してきた。
「僕は世間一般から見れば幽霊みたいなものかもなと」
「そもそも幽霊って何なんだろ。魂? でも魂がどんなものかもわからないよね」
「それは理世子の方が詳しいんじゃないか?」
「理世子もよくわからないって言ってたよ」
彼女にわからないものが自分達にわかるわけもない。僕がどんな状態なのか説明できるのは由真しかいない。けれど自分自身の体を持たず、他人の中で意識だけを保っている状態は、幽霊が誰かに憑依した状態に少し似てはいないだろうか。
この世界に未練などないと思っていた。そもそも最初は識別のための呼び名しか持たない、ただの道具だったのだから。それが変わってしまったのは、未練のようなものが生まれてしまったのは、きっと由真に出会ってしまったからなのだろう。
それでも、僕自身はこの世界から消えてしまうことを望んでいた。死んで、そのあと誰にも思い出されない存在になりたかった。いや、本当は今すぐにでもそうなるべきなのだ。たとえ由真が何を望んでいようとも。
「……
「何?」
「私のせい……だよね」
僕をこんな中途半端な、幽霊のような状態にしてしまったのは確かに由真だ。由真は最後に僕の願いを聞いてはくれなかった。それが由真自身の願いと矛盾するものだったからだ。
「……そうだよ、と言ったら何か変わるのか?」
なぜ死なせてくれなかったのだろう。息の根を完全に止めて、そして時間の魔力で何もかもが薄れていくことを僕は望んでいたのに。けれどそれができないほどに優しい人間なのだということもわかっている。
「私は……私にはできない」
かと言って、他の人が僕を消すという可能性も避けていることはわかっている。どうして歩月の能力が種の内側には及ばないことを知っていたのか。それはそこに存在する正真正銘の毒である僕を、歩月が取り除くことができなかったからだ。
「幽霊ってのは、その幽霊がいくら善良でも、生者と触れ合っているだけで生者を蝕んでいくともいうよね」
「アル……」
「そういうところも僕によく似ている」
右手を動かし、由真の首筋にそっと触れる。由真の左手がそれを制するように右手に触れるが、そこに力は込められていなかった。
由真だって本当は気付いているはずなのだ。いつまでもこの状態ではいられない。この状態が続けば、いつか僕が彼女を殺すことになる。そうなる前に消え去ってしまいたいと思うのに、それを拒んでいるのは由真自身なのだ。
「アルは、幽霊なんかじゃない」
「由真……」
「だから、私のことは許さなくていいから――」
由真の声が震えていることに気が付いて、僕がはっとした。許さなくていいから――その続きは、紡がれなかった言葉は何を伝えようとしているのか。
僕の願いと由真の願いは相反するものだ。消え去りたいと願う僕と、それを拒む由真。どうして由真は僕なんかに対してそんな思いを抱くのか。誰もいなくならないでほしいと願う、その中に僕も含まれているだけなのか。
それでも僕は由真の願いを叶えることはできない。誰もいなくならないでほしいという願いの中に、彼女自身が含まれていないことを知っているからだ。自分と引き換えに僕を助けられるとわかったなら、由真は誰に止められてもその道を選んでしまうだろう。
これ以上君を苦しめるくらいなら、全部忘れられてしまった方が幸せだ。誰も僕を覚えていない世界で、僕が本当に消え去ってしまうのだとしても、その世界に君が生きているのならそれでいい。
それなのに君は「消えたいなんて思わないで」と泣くのだろう。
「……大丈夫。君が望む限り、僕はここから離れることはできないんだから」
「ごめんなさい……本当は、わかってるのに……」
死者はいつまでも生者の世界にはとどまれない。幽霊も未練が消えれば成仏していくものだ。消え去っていくさだめのもの。それを生者の世界に縛り付けることの罪も、由真はきっと理解している。
「でも、どうしてもできないの……どうしても、私は」
震える肩を抱き締める術を、今の僕は持っていない。あの頃とは何もかもが違っているのだ。僕は由真の涙が引いていくまで、ただその手に優しく触れ続けることしかできなかった。