Alkaid   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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9.旧校舎の幽霊

 作戦は順調で、鍵を置く奥の部屋に入るまでは何も起きなかった。理世子もそこまでは幽霊らしきものを見ることはなかったが、最後の部屋の手前で急に足を止めた。

「すごく嫌な感じがする……何か怒ってるみたいな」

「ここにいるのは間違いなさそうね」

 先導する寧々が扉を開ける。ここは元々は理科室として使われていた部屋らしい。とはいえ今は理科室であることを示す机などは全て撤去され、上下する黒板だけが、そこが理科室であったことを物語っていた。

「行けそう、理世子?」

「うん」

 由真が理世子に尋ねると、理世子は緊張した面持ちで頷いた。理世子と由真が部屋の中へ一歩を踏み出したとき、星音は自分を取り囲む空気がぐにゃりと歪んだように感じた。

「理世子」

 その気配を感じたのか小さく縮こまってしまった理世子を由真が抱きしめた。そしてその背に触れながら、逆の手に剣を出現させる。

「――対話する気はなさそうだね」

 絹を引き裂くような音が響く。星音には何も見えないが、理世子の種に触れている由真には朧げながらそこに何がいるかは見えているようだった。由真が剣を振るうと青色の光が散る。その瞬間に、それまでは何もないように見えた空間に黒く蠢くものが見えた――見えてしまった。心臓が早鐘を打ち、吐き気が込み上げる。

「星音、見ちゃダメ!」

「うぶっ!」

 目の前に白い物体――おそらくもふもふを押し付けられた星音は、緊張感のない声をあげてしまった。見てはならないものなのはわかったが、もっと方法があるだろうと星音は思った。もふもふの隙間から状況を窺うと、由真たちはその黒いものと一進一退の攻防を続けているようだった。隣に立つ寧々が小声で呟く。

「――『姿なき者よ』」

 定義を開始する合図だ。それは幽霊にも通用するものなのだろうか。

「『我が境界は混沌から光を分かち、以って遍くものを照らすものとする』――」

 寧々の口から微かな呻き声が漏れる。星音が思わずそちらを見ようとすると、顔にもふもふを押し付けているカナエの力が強くなった。見てはいけない、ということなのだろう。

 黒いものが咆哮をあげる。それは何を言っているか最初はわからなかったが、寧々の定義が完成に近付くにつれて、その言葉が聞き取れるようになっていく。

「……ワタシヲ……ナイデ……」

 黒いものが異形の腕を由真の腕の中の理世子に伸ばそうとする。由真は理世子を抱きかかえたまま後ろに跳んで距離を取る。

「理世子は渡さない」

「ジャマ……スルナ……」

「理世子はあんたたちが都合よく使っていい人間じゃないんだ!」

 由真が叫ぶ。その瞬間に黒いものの気配が膨れ上がって、部屋全体を飲み込むように広がった。星音はいてもたってもいられなくなって、目の前の目隠しを強引にどける。星音の目に飛び込んできたのは、理世子に伸ばされる無数の黒い手だった。理世子が叫ぶ。

「手を離して、由真!」

 理世子の種に触れている今の状態では共倒れになってしまう。けれど由真は強い意志が込められた、低い声で言った。

「駄目。理世子に手は出させない」

 由真は剣を消して、理世子に伸ばされた無数の手を強引に掴んだ。理世子からそれが完全に離れたとき、由真は理世子の背中からそっと手を離した。

「理世子は渡さない。連れていくなら私にしろ……!」

 黒いものが咆哮をあげる。何を言っているかはわからないが怒っているのだけは確かに感じ取れた。巨大な害意が離れた場所に立つ星音にまで伝わってくる。そしてそれは一斉に由真を目指していた。

「駄目! 由真……!」

 由真の体が黒いものに飲み込まれそうになる。理世子は由真に駆け寄って必死にその手を掴もうとした。星音も動こうとするが、なぜか足が動かない。ちょうど金縛りにでも遭っているような状態だった。

「ごめんね、理世子」

 まだ飲み込まれていない由真の左手から能力波の塊が放たれ、理世子は真後ろの壁際まで吹っ飛ばされた。その直後に黒いものが何もかもを飲み込み、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。

「星音ちゃん、見ちゃダメ!」

 理世子の声に星音は反射的に目を腕で覆った。空気が弾け飛ぶような音がして、嘘のような静寂が訪れる。

「……っ、う」

 急に強い吐き気に襲われて、星音はその場に蹲った。何が起きたのか理解できない。由真は一体どうなったのか。あの黒いものはなんだったのか。けれどその思考を押し流すほどの頭痛に襲われる。蹲る星音の背をカナエがおろおろしながらもさすっていた。

「由真さん、は……」

「星音は今は自分のことを気にした方がいいわ。……あれは普通の人がまともに見たら発狂する類のものよ」

 忠告を聞かなかったのは星音本人だ。気分は悪いが理性を保ててはいるのは、見た時間が少ないせいだろうか。

「寧々さんは……平気なんですか」

「平気、とは言い難いわね」

 寧々は右目をずっと押さえていた。右目の能力を使った後はいつもそうだが、今日はその手の下を赤い筋が伝っていくのが見えた。

「とりあえず安全なところまで退避しましょう」

「でも、由真さんは……!」

「今この状態で何とかしようと思っても全員犬死よ。今は退くしかないわ」

 星音は唇を噛んだ。寧々の言っていることは正しい。寧々だって本当は全てを投げ出して助けに行きたいと思っているのだ。けれど今それをしてしまうと助けられないばかりか自分達も死んでしまうとわかっている。それが今できる最善だと誰もがわかっていて、それでも本当はそうしたくないのだと誰もが思っていた。

 

 

「星音ちゃんは表層だったから私の力でもなんとか出来たけど、寧々は……」

「暫くはこっちの目は使えないわね」

 歩月の病院に駆け込み、星音は毒抜きを、寧々は右目の診察をしてもらった。毒が抜かれたので頭痛や吐き気は治まったが、歩月の能力による激痛で、星音はベッドの上から起き上がれなくなっていた。

(この痛みに声ひとつあげないの化け物でしょ……)

 由真は同じように力を使われても呻き声すらほとんど出さない。それがどれほどのことなのかを星音は身をもって体験していた。

「先生の方も問題はなさそうね。やっぱり発狂まで至ってしまった人に接触するのが良くないみたい」

 病院の処置室を借りて、星音たちは情報の整理をしていた。あのとき何が起きたのか。そして由真はどこへ消えたのか。突き止めるためには断片的な情報をできるだけ多く集めなければならない。

「それで……由真さんは」

「歩月先生が最初の被害者から聞いた話によると、神隠しに遭ってた間は、この世界とよく似た、でもすごく違和感のある場所にいたそうよ。由真も多分そこに連れ込まれてるんだと思うんだけど」

「ごめんなさい……私がもっとしっかりしていれば……」

 項垂れる理世子の背中を寧々が優しくさする。理世子が悪いわけではない。あの状態で恐れずに戦える人の方が貴重だろう。

「幽霊が理世子を狙うだろうことは予想できてたのよ。大抵の幽霊は、自分が見える人、会話したりできる人のところに行くものだから。でも……由真が理世子を庇ったことが、結果的に幽霊を怒らせたみたい。でも正直な話――由真も、自分なら大丈夫だと思ってやったんだと思う」

「あの人の大丈夫、大抵大丈夫じゃないやん……」

「今回の場合は、由真の判断が一番正しいとは思うわ。理世子だったら戻ってこれない可能性がある。でも由真なら――由真は精神汚染に対する耐性がある。普通の人なら壊れてしまうようなものにも耐えられるのよ」

「だからって、そんな場所に放り込んでいいわけやないやん……!」

 由真の精神汚染に対する耐性については星音も知っている。けれどその耐性がどうしてついてしまったかを考えると、とても耐性があることを喜べはしない。

 歩月の能力でも、数度に分けなければ取り除ききれなかったというその毒。何度も繰り返しその状況に晒されてきたからこそ、少しくらいでは影響が出なくなってしまっただけなのだ。

「私だってこんなこと思いたくはないわよ。でも……少なくとも由真はそう思って、自分一人が引き込まれることを選んだ。理世子も結構な勢いで吹っ飛ばされたでしょ?」

「うん……」

「私たちが次にできることは、この目を使ってあの幽霊が作ってる空間をぶっ壊すこと」

 理世子がはっと顔を上げる。まだ打つ手があるのかと驚いているような顔だった。寧々は眼帯をした右目にそっと触れる。

「あれの定義は完成している。そこから派生させて、空間の一部に風穴をあけるくらいならできる」

「それなら、由真さんも……」

「その空間に連れ込まれているのであれば、助けられるわ。ただ、定義できても私には触れられないものだから、理世子の力は必要になる」

「私……でも、由真がいないのに」

 理世子の力を利用して戦う方法は、由真がいたから成立していた。けれど寧々は理世子を安心させるように微笑む。

「相手が動くものだから、慣れている由真に戦ってもらう方法を選んだのだけど……空間を切り裂くだけなら理世子一人でもできるわ。武器を用意して、それに理世子の力をうまく流せれば、動かないものを壊すことは可能だと思う」

「……やってみる。でも武器なんてどこに」

「銃火器でなければ或果が作れるわよ。でも紙は飲み込んじゃダメよ」

 或果は紙に描いたものを具現化する能力を持っている。由真の剣はその能力を利用して作られているのだが、かつてその由真が「いつでも剣を取り出せるように」と絵を描いた紙を飲み込んでしまったのだ。そんなことをするのはおそらく由真だけだと星音は思った。

「理世子はこれから特訓よ。力を流すのは由真とやったのでイメージは掴めてると思うけど」

「あれは由真が誘導してくれてたから……でも、やってみる」

 

 

 次の作戦は理世子にかかっている。能力には差があるのだから適材適所なのはわかっている。けれどこんな状況でも何もできない自分に星音はやきもきしていた。

「星音……」

 無言で家路を辿る星音に、カナエがおずおずと話しかける。けれどそれ以上の言葉は続かなかった。

「今回に関しては、本当になんもできひんな……」

「星音……」

「元々私が持ち込んだ厄介事なのに……当の本人が何もできんなんて変な話や」

 もし、星音がその話を持ち込まなければ、こんなことにはならなかっただろうか。いや、そうやって自分を責めたいわけではない。過去のことを後悔しても今が変わるわけではない。

 本当の、心に渦巻くこの感情の正体は。

「……あの人は、いつかこんな風にいなくなって……二度と戻ってこない気がして怖い」

「うん……それは、わかるよ」

「絶対に何も言わずにいなくなるタイプやん。猫かよ! 今時猫でもそんなことせんわ!」

 いつだって誰かのために戦っていて、自分のことなんて二の次で。自分なら平気だからと何もかもを背負ってしまって。そんな姿を美しいと言うのはあまりにも残酷なことだとわかっている。それでもそんな人だから好きになって、好きになったからこそ失ってしまうのがとても怖い。

「大丈夫。由真さんは絶対戻ってくる。……私たちはそれを信じるしかない」

「それはわかってるんやけど……」

 信じて待つだけのことがこんなにもどかしいなんて。もしかしたら帰ってこないかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。悪いことばかり考えてしまう。本当は信じていたいのに。あんなものに負けるほど弱い人ではないのだと。

「まだまだやな……。待つのに全然慣れてない」

「星音はそれでいいんじゃない? だって目の前に由真さんがいるならもう誰が止めても行くでしょ?」

「そうするかもなぁ」

「寧々さんは待つ人だけど……星音は行く人だから、きっと寧々さんにしかできないことがあるように、星音にしかできないこともあるよ」

 カナエは珍しく饒舌だ。星音を元気付けようとしているのだろう。まだ気持ちは晴れない。けれど星音は今できる精一杯の笑顔を浮かべた。

「ありがとな、カナエ」

「思ったことを言っただけだよ、私は」

「何だか由真さんみたいやな、その言葉」

「真似してみたの。似てた?」

「いやあんま似てへん」

「落ち込んでると思ったらめっちゃ正直じゃん、星音……」

 カナエがもふもふに顔をうずめながら地面にのの字を書き始める。言葉は似ていたけれど、言い方は全然似ていなかった。けれどその全く似ていない物真似が穏やかな笑いを誘った。星音は苦笑しながらカナエに向かって手を伸ばす。

 

「もーいじけてへんで、はよ帰るで」

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