約束の時間まであと十分。二十分前からそこにいた由真は、流石に早すぎたかと溜息を吐いた。緊張するような相手でないことはわかっていても緊張してしまう。何せ最後に面と向かって話したのがいつだったのか思い出せないほどなのだ。
自分がどういう生活を送っているかは知っているだろう。祖母や梨杏からも聞いているだろうし、ネットで目にすることもあるかもしれない。それについて何か言われると決まったわけではないが、急に呼び出されてしまったせいで、何か言われるのではないかと思ってしまう。危険と隣り合わせの生活だ。反対されてもおかしくはない。けれど由真は今の仕事を辞めるつもりはなかった。
星音にもらったチョーカーに触れながら時計を眺める。時間には正確な人だ。そろそろ来る頃だろう。注文していたコーヒーはまだ一口も飲めないまま冷めてきている。何故自分はこんなことをしているのだろう、とさえ思ってしまう。冴えない顔をした自分がコーヒーの表面に反射していた。
「――久しぶり、由真」
しばらくコーヒーの表面を見つめていると、落ち着いた男の声が頭上から降ってきた。グレーのチェスターコートに黒のタートルネック、同じく黒の細身のパンツ。前にあったときよりも格好が大人びている。由真はその男――兄である浩大に、久しぶり、とだけ答えた。
注文を取りに来た店員にコーヒーを頼み、浩大は由真に向かって微笑む。
「お昼は食べた?」
「食べてきた」
「そっか。僕はサンドイッチか何か食べようかな」
メニューを身始めた兄が残念そうな顔をしているのが気にかかった。もしかしたら昼を一緒に食べるつもりでこの時間を指定したのかもしれない。由真は逆からメニューを覗いて言った。
「じゃあ私生チョコ。ここの生チョコ美味しいんだって」
「そうなんだ。じゃあ僕もそれをデザートにしようかな」
近隣の喫茶店についてはそれなりに情報が入ってくる。この店の生チョコについては、前に寧々が言っていたのだ。
それぞれ食べるものが運ばれてくる。由真と浩大の話は当たり障りのない近況報告に終始していた。
「この前二人なんて僕置いて温泉旅行なんて行っちゃってさ」
兄は現在、大学院に通っている。指定校推薦で大学を決めたあと、どんな勉強をしたのかを由真は聞かされていなかった。今は大学院でそれなりに忙しいらしく、両親はそんな兄に家を任せて二人で一泊二日の温泉旅行に出掛けていたらしい。
「温泉、好きだったもんね」
旅行に行こうと話になる度に、父は温泉を希望していた。母も温泉は嫌いではないらしかったので、子供にとっては地味な温泉地が旅行先になることも多かった。
「僕も行きたかったんだけどなぁ。でも学会近かったからね」
学会――由真には縁遠い響きだ。一応通信制の高校に通ってはいるが、あまり勉強は得意な方ではなく、大学に進むつもりもない。
「そういえば、何の研究してるんだっけ」
「ざっくり言うと宇宙関連かな。隕石とかそういう宇宙から飛来してきたものについて。だから例の立入禁止区域にも何度か入ったんだけど」
この世界に能力者が生まれたのは、ある日突然地球に降り注いだ隕石が原因だと言われている。その隕石が落ちたところは今は一般の人には立ち入れない場所になっているのだ。
けれどそこに許可を取ったら入ることができるような立場の人でも、その場所の管理をしているのが一人の少女と意志を持つAIであることは知らないのだ。
「まだあそこについては誰も何もわからないんだよね。だから他のものを調べて外堀から埋めていってる感じ」
由真がいない日々の中でも時間はしっかり進んでいて、兄は前に進んでいる。それは喜ばしいことではあったが、同時に由真の胸を軋ませるものでもあった。
「いつかこの研究が、能力者と無能力者の溝を埋めるものになればいいなって僕は思っているよ」
兄は真っ直ぐで、いい人なのだろうと思う。どの言葉にも嘘はない。本気でそれが溝を埋めるきっかけくらいにはなるかもしれないと信じているのだ。そして、本当に兄が埋めたいと思っている溝は、今目の前に横たわっている、由真と浩大を隔てるものであることも由真は理解していた。
「来るののかな……いつか、そんな日が」
たとえ能力者と無能力者が手を取り生きる世界になったとしても、この溝だけは埋まらない。兄に向かって問いただしてみたくなる。本当にわかっているのか。ここにある溝は、能力者かどうか以上のものなのだということを。どうして未だに由真が家に帰れないでいるかを、本当に理解しているのだろうか。
不意に由真は先日の幽霊騒動のことを思い出した。幽霊となり、異形となることを選んでまで己の目的を果たそうとした妹と、それに協力した兄。でも同時に、怪異として成長していく妹を見ているのがつらかったとも言っていた。浩大も同じように考えるだろうか。自分の妹がどうしようもないくらい人間から乖離した異形のものに成り果てたとして、それが由真の願いであったとして、それでも悲しいと思ってしまうのだろうか。――兄と妹とは、そんなものなのだろうか。
「来ると信じてなきゃ、ずっと来ないよ」
全てを話してしまったら、きっと兄は悲しむのだろう。それがわかっていたから由真は口をつぐむしかなかった。
わかっているのか、本当に。
目の前に座っている妹は、両手では足りないくらいの人の命を奪ったのだと。あのときの、何も知らなかった子供の頃の由真とは違うものになってしまったのだということを、どこまで理解しているのか。
悲しませてしまうくらいなら、何も言わないままの方がいい。由真は何も入れていないコーヒーを一口飲んでから、そっと視線を落とした。