「緊張してるのか?」
浴衣姿の理世子を眺めながら、純夏が尋ねた。理世子は先程から落ち着かない様子で縮緬の巾着袋を握り締めている。一方の純夏は先程屋台で買ったたませんを食べている。これから作戦が始まるというのに随分と余裕だ。或果は対照的な二人を眺めて笑みを浮かべた。純夏はこれまでのアルカイドにはいなかったタイプだ。大きな作戦の前は、黄乃はもちろんのこと、由真も緊張しているのだ。
「実戦は三回目で……寧々も由真もついてないのは初めてだから。そもそも外出るようになったのも最近で」
「そうなのか。それよりまだ時間はあるみたいだけど、二人とも何か食べなくていいのか?」
「むしろなんでそんな余裕そうに食べてるのかが不思議なんだけど……」
或果が言う。たませんはあっという間に純夏の胃袋の中に消えていった。純夏は白い袋を綺麗に折り畳んでゴミ箱を探している。
「黄乃は確かに慣れてない感じはしたけど、あいつも緊張するタイプなのか」
「由真は顔に出してないだけで、結構緊張してると思うよ」
「私はいつも緊張感がないって怒られるんだよな。でもこの辺りでたませんなんて珍しいからつい」
大判のえびせんべいを二つに折り、お好み焼きのソースを塗り、その間に潰した目玉焼きを挟んで、最後にマヨネーズをかけたその料理は、東海地方では祭の出店の定番商品らしいが、このあたりで食べられることはあまりない。
「純夏さんってこっちの人じゃないんですか?」
「私は生まれも育ちもこの辺だけど、母親が名古屋でね。でも大学からこっちに出てきたらしい。それでも数年前までは定期的に向こうに行ってたよ」
「そういえば由真のおばあちゃんもそっちの人だって言ってた気がする。だから寧々と味噌汁の味噌で揉めたって」
結局両方の味噌を常備して、交互に食べることで落ち着いたと寧々が言っていた。或果も現在は二人と一緒に暮らしているが、これ以上味噌を増やして混乱に陥れるわけにはいかないので、そのルールに従っているらしい。
「それであの店、コーヒーに必ずちょっとしたおやつがついてくるのか」
「そうみたい。由真のおばあちゃんがそうして欲しいって開店した直後くらいに言ったらしくて」
「なるほどな。そういう一面もあるんだな」
純夏が笑みを浮かべる。或果はそれを見ながら首を傾げた。
「そういう一面?」
「私はまだ深くは知らないから……何だか超人のように見えてしまうんだよ。一人で警察を相手に戦えるくらい強くて、特殊な力を持っていて、それでいて心優しい――なんて人はそうそういないだろう? でも、味噌汁の味噌で揉めたりだとか、そういう部分もあるんだな、と」
「由真が聞いたら『私だって普通の人間なんだけどなぁ』って言うよ、それ」
「普通かどうかは……そもそも普通の基準が私にはよくわからないからな」
或果にしてみれば、これから大きな作戦が始まるというのに呑気に食事していた純夏も規格外だ。けれど純夏との距離は、これまでよりはずっと縮まったように感じた。
「……そろそろ、かも」
理世子が呟く。理世子の目にはそれまでと違う動きをする幽霊たちが見えていた。
「花火大会もあと一分で始まるな」
純夏の手には金属の武器が出現していた。いわゆるメリケンサックと呼ばれるものだ。その他にも或果は純夏のためにいくつかの武器を作った。それが描かれた紙は全て、純夏の服のポケットに押し込まれているらしい。
アナウンスと共に大きな花火が打ち上げられる。その次はスターマイン。理世子は花火に向かってカメラを向ける人々や、花火を見ながら談笑する人々を見回しながら、一度だけ見た気配を探る。幽霊を操り刃に変える能力。その持ち主の目的はわからない。けれど駅でその姿を見たとき、理世子は犯人の限界が近いことを悟っていた。たとえ善良な幽霊でも、生者の傍にいればその生命力を蝕んでいってしまう。幽霊の力を使い過ぎれば確実にその命は死に飲み込まれていく。駅での事件を起こした段階で、犯人は巨大な死の穢れを背負っていたのだ。このまま続けていたら確実に死んでしまう。
幽霊の流れを見ながら、理世子はその穢れを探す。できれば能力が完全に発動する前に止めたい。けれど見つけられるだろうか――不安に襲われた理世子の肩を支えるように、或果がそっと手を置いた。
「――見つけた」
人混みから少し外れた場所に立つ、シンプルな黒いワンピースを着た女。理世子はインカム越しに純夏に呼びかけた。
『あの女か。わかった。でも、まだ力は使ってないんだな?』
「そうみたい。できれば能力を使ってる最中で止められといいんだけど……」
『現行犯ってことだな。わかった。姿を消して近付くから、攻撃のタイミングはそっちが合図してくれ』
純夏の使う幻覚は、幽霊とは関係のないものなので、理世子にもその姿を視認することができない。そこにいるのだと信じて指示をするしかない。理世子は黒いワンピースの女を見つめながら、事が動き出すのを待った。
数分後、あたりを浮遊していた影の動きが変化した。人混みの中央あたりでそれが黒い渦を巻き始める。理世子はインカム越しに純夏に叫んだ。
「純夏さん!」
『了解』
短い返答と同時に女が転び、姿を消していた純夏が見えるようになる。能力の完全な発動には至らなかったらしく、黒い渦は徐々に解けていく。純夏は地面に倒れた女の腕を捻り上げて動けないようにする。これまで理世子たちの会話を聞いていた悠子たちも純夏たちのところへ駆け寄っていった。理世子と或果も急いでそちらへ向かう。
「鎌鼬事件の犯人はあんただね?」
「……だったらなんだって言うの?」
純夏の問いかけに女が答える。
「何の理由があるかは知らないけど、もうそれもここまでだよ。良かったな、人を殺す前に止められて」
鎌鼬事件ではまだ死者は出ていなかった。駅の事件も今回の事件も理世子たちが止めたからだ。女は唇を噛む。悠子が押さえつけられている女に手錠をかけた瞬間に、女の体の周りに黒い渦が生まれ、一瞬でそれが爆発的に広がった。理世子が叫ぶ。
「駄目……!」
渦は鎌鼬となって女の近くにいた悠子と純夏の皮膚を切り刻んだ。けれどそれだけではない。渦はその中心にいる女さえも巻き込んでいる。理世子は咄嗟に矢を放つ。幽霊を祓って渦の力を削ぐことはできるはずだった。けれどそれでも追いつかないほどのものが湧き上がってくる。
「或果、これって……」
理世子がそれを目の当たりにするのは初めてだった。或果は多分、と言いながら頷く。これは能力の暴走だ。おそらく本人の限界を超えて力を使いすぎてしまったのだろう。軽度ならば鎮静剤で収まることもある。悠子もそれはわかっているのだろう。ポケットから鎮静剤を出して女にそれを打つ。しかしそれでも黒い渦は収まる気配を見せなかった。
「――理世子」
せめてあの渦を少しでも小さくしなければ、と弓を構えた理世子の耳に、低く、少し掠れた声が届いた。その声に理世子は目を見張る。
「由真、どうして……!」
「説明は後で」
由真の横には星音が心配そうな顔をして付き添っている。本当は行かせたくないと顔が言っている。けれど――由真でなければ助けられない。理世子は星音から離れ、純夏たちのところへ向かった由真を援護するように矢を放った。
由真は悠子の驚きの声も無視し、女を前から抱きしめるようにして、その背に触れた。触れたところが白く光り、黒い煙が噴き出す種が引き出される。
「あなたはこの力を失いたくないんだろうけど」
由真は女に向かって呟いた。由真の白い手が種を強く握りしめる。
「私はあなたをどうしても許せない」
どんな理由があったにせよ、犯人は何の罪もない梨杏を傷つけた。由真の手の中にあった種が砕けて消えた瞬間、渦は消え、女は意識を失ってその場に崩れ落ちた。
だらりと下ろした由真の左腕には血が滲んでいる。星音が慌てて由真に駆け寄ると、由真は安心したように微笑んでから、星音に寄りかかった。星音は軽く頷いてから、由真を片手で抱きしめる。由真はゆっくり目を閉じて星音にその体を預けた。
「由真さん……!」
意識を失った女を悠子たちが運んでいく。遅れて到着した寧々が呆けている理世子たちに指示を出した。
「星音はとりあえず歩月先生のところに由真を連れて行って。近くに待機してもらってるから。それから――こっちの方はこれで作戦終了ね」
「どうして、寧々たちがここに」
理世子が尋ねると、寧々は苛立たしげに髪をかき上げた。
「こっちも作戦通りに助け出したところまではよかったんだけど……由真がどうしてもって言うから。――能力なんて使える状態じゃなかったのに」
寧々が唇を噛む。それから寧々は何があったのかを理世子たちに話し始めた。由真にとってだけでなく、普通の能力者にも致命傷となりうる新しい特殊光線を何度も照射されていたこと。本当は歩くことも難しいほど消耗していたのに、それでもあの一回の能力を使ったこと。
「……でも由真は、あの犯人を助けたくて力を使ったわけではないわ」
寧々は空を仰ぐ。騒ぎなどまるでなかったかのように、空に大輪の光の花が咲いていた。枝垂桜のように流れる幾重もの光の筋。
「由真が力を使わなければあの人はおそらく死んでしまったでしょうね。そこだけ見れば助けたように見えるけれど……由真はあの人に死ぬことを許さなかったのよ。死んでしまったら全部が闇の中だし、あの人が罪を償うこともできない」
どうしても許せない、と由真は言った。それは梨杏を傷つけられたからだろう。許せないからこそ、その命を繋ぐことを選んだのだ。
「こんなときでもいつも人のことばっかりよ、由真は――」
寧々が呟く。悲しみに満ちたその声は、花火の音に紛れて消えて行った。
*
爆発音とともに、倉庫の屋根の一部が削り取られる。
「誰だ!?」
田崎が叫んだ瞬間に、大きな風穴から黄乃と寧々が降ってくる。おそらくちゃんと着地できるように
「随分とお楽しみのようだけど、由真は返してもらうわよ」
「渚寧々……こんなことしてただで済むと思ってるのか?」
「建造物損壊罪は取られないわよ。ここの持ち主に許可はもらったもの。全部終わったら建物ごと解体して、その費用はこっちで全部持つってね。ちなみに壊すまでの間だけど、ここの持ち主はハル姉ってことになってるわ」
田崎は歯噛みした。田崎は警察の力で建物の使用許可を取っていたが、寧々は金の力で所有権ごと手に入れたのだ。元々使われていなかった倉庫だ。おそらく持ち主も手放したかったのだろう。そこに大量の金と引き換えに面倒なことを代わりにやってくれる人物が現れた。渡りに船ということだ。
「そういうわけで、さっさと由真を返してもらえるかしら?」
田崎は寧々に向かって銃を向ける。その指が引き金にかかる瞬間に寧々は叫んだ。
「黄乃、
「は、はいっ!」
「これは交渉決裂ってことでいいのかしらね?」
「柊由真は真っ先に排除しろと言われているんだ」
「機械の決定に人間が素直に従うなんて滑稽ね」
「あれは人間よりもはるかに多くのことを学習し、判断を下しているんだ。その選択に間違いなどないだろう」
寧々は嘲るような笑みを浮かべた。メラクは確かに様々な計算の末に計画を立てているだろうが、田崎が従うであろう命令を選んで伝えているのだ。人工知能の方が人間を選ぶという逆転現象。けれどそれこそが七つの人工知能に未来を託した科学者の狙いだ。
「間違いのない選択をしてくれるなら七つもいらないじゃない。――黄乃、プランAで行くわよ」
「はい!」
右手に書いてあるカンニングペーパーを見てから、黄乃はBenetnaschに力を込めた。最優先は由真の救出。次に田崎の確保だ。プランAという選択はインカムを通して星音や梨杏にも届いている。
黄乃がきつく目を閉じて、寧々が目を腕で覆うと同時にBenetnaschから強い光が放たれる。閃光弾と同じだ。眩しいだけで攻撃力はないが、一瞬動きを鈍らせることができれば目的は達成できる。数という意味ではこちらが有利だ。田崎が機動隊を引き連れず、単独で行動していたことで一番穏便な作戦をとることができた。バイクのエンジン音を確認した寧々が微笑を浮かべる。
『星音です。作戦完了したので離脱します』
目眩しの中で由真を救出するのは星音の役割だった。バイクのエンジン音が遠くなったのを確認して寧々は黄乃に機械を止めさせる。
「残念だったわね。由真は返してもらったわよ」
「……無駄なことを」
「あら、負け惜しみ?」
挑発する寧々に、田崎は右の頬だけを上げて笑った。
「あれはもう限界だろう。――必死に耐えていたようだが。あれを連れ出した娘も無事に済むかどうかわからないな」
「何が言いたいの?」
「また同じことが起きる。――ドゥーべが作った北斗の家が壊滅に追い込まれたあの日とな」
「……あんなことはもう二度と起きないわ」
由真が何を隠していたとしても、それは由真が望まなかった結末だ。もう一度同じことが起きる事態は絶対に回避しようとするだろう。
「それに、あなたも油断していると痛い目を見るわよ」
田崎に聞こえないように合図を送る。天井に穴を開けた理由。そして梨杏を待機させた理由はここにある。
合図が終わってコンマ数秒。梨杏の撃った弾が田崎に当たる。殺傷力はない。ただ少しの間筋肉が弛緩して動けなくなるだけだ。その場に崩れ落ちた田崎に寧々はゆっくりと近付いていく。
「あなたのことは絶対に許さないわよ。だから私はあなたを殺さない」
ここで殺してしまっては、聞きたいことを聞き出すこともできない。そして由真を傷つけられた怒りをぶつけられなくなってしまう。だから田崎のことは、後ろに両親の仇であるメラクがいるとしても殺しはしないと決めた。代わりに死んだ方がまだいいと思えるほどの苦痛を与える。寧々は数時間は深い眠りから覚めない程の睡眠薬を田崎の手の甲に注射した。