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逃げ出す機会を窺いながらも、日々は過ぎていった。初日のような仕事が割り振られることは少なく、由真がやることのほとんどは未だに全てが解明できていないという、由真の特殊な能力にまつわる実験だった。由真自身は種に触れ、それを取り出すことしか知らなかったが、その中のものに触れることも可能だということはそこで教えられた。麻酔をかけられて眠らされた能力者の種に触れ、その中にある一部を自分の中に取り込むこともできた。そうすれば一時的ではあるが他人の能力を自分のものにすることもできる。けれど何度も繰り返される実験は酷い苦痛を由真に与えていた。
他人の能力を取り込んだときに感じる気持ち悪さは、能力の使い過ぎによる自家中毒とは比べものにならないほどのものだった。一度能力を使うことは可能だけれど、それ以上は体が受け付けなかったのだ。
「理論上はそんな副作用はないはずなんですけどねぇ」
どうせ吐いてしまうとわかっていたから、その直前は何も食べなかった。吐くものがなくても吐き気が治まらずに蹲る由真に角田が言う。
「君が受け入れればその苦しみもなくなるはずですよ」
「……っ、うるさい」
簡単に言ってくれる。人の気も知らないで。自分の中に他人が入ってきて、自分自身が侵蝕されていくような気持ち悪さを誰が理解できるというのか。心を殺して受け入れれば楽になれるのか。けれどそんなことをしてしまったら、由真は由真の一番大切なものを失ってしまうだろう。
「そろそろ慣れてもらわないと困りますね。他に何ができるのか、まだ解明できていない部分もあるんですから」
「……っ」
言葉を発することもできず、睨みつけるのが精一杯だった。しかし角田は怯むことなく由真の顎を持ち上げた。
「さて、そろそろ休憩は終わりです。続きをしましょうか」
本当にこの状況を見て言っているのか。能力を使うどころか普通に会話することすら苦しいというのに。
「大丈夫ですよ。次は少し楽にできると思いますから」
「っ、それは――」
角田の手が頭に触れる。その瞬間に頭の中に濃い霧がかかった。取り巻いている全てが擦り硝子越しになって、現実感が奪われていく。
「これで自我境界も多少は曖昧になるでしょう。さあ、続きをしましょう」
手を引かれて、次の被験体となった能力者の前まで連れていかれる。抵抗しなければならないとわかっているのに、その思考すらぼんやりと霧に包まれていった。
この実験は全て見られている。無機質な女の声が実験開始を告げた。名前も知らない少女の背中に触れ、命じられるがままに深くまで手を伸ばす。少女の口から微かな呻き声が漏れた。種の外側に触れても特に痛みないが、内側に触れれば触れられた方も苦痛を覚える。こんなことをして何になるのだろうか。この先のことなど何も見えないままだ。
「……ごめんなさい」
少女の種は小さく、その中身を全て吸い出すことも不可能ではなかった。中のものを全て吸い出されて、種ががらんどうになってしまったときにどうなるのかの実験も兼ねているのだと説明されている。
少女の全ての力を吸い出そうとした瞬間に、少女は突然目を覚ました。自分が今何をされているのかは理解しているのだろう。少女は由真を睨みつけた。
「……許さない……っ、だってこの力は……!」
一番深いところに触れているからこそわかる。この能力は角田たちにとっては何の価値もない些細な力。けれど少女にとってはたった一人の家族から受け継いだ、形見のようなものだったのだ。今ならまだ引き返せる。由真が少女から手を離そうとすると、角田の冷えた声が飛んできた。
「そのまま続けなさい」
「でも……この子は望んでない」
由真は少女から手を離した。種の中にあるものが何なのかはわからない。けれどそれは少女の心と深く結びついているものだということは知っている。本当はどんな理由があっても他人に理不尽に奪われていいものではない。まして、本人が手放したくないと望んでいるのなら。
「お前たちは……そうやって私の兄さんも殺した!」
少女が叫ぶ。体を拘束されて動くことはできないが、能力を発動させることはできた。少女は自分の血を刃に変えることができる能力を持つ。けれど何かの役に立つほど強い力ではない。――少女が普通の状態であれば。
傷などなかった少女の腕に深い切り傷ができる。そこから流れ出た血が由真たちを目がけて勢いよく伸びた。
「暴走……いや、これは『開花』か。兄妹そろって開花しやすい体質だったのでしょうね」
「なに悠長なこと言ってんの!? 早く助けないと」
刃を避けるために一旦距離を取りながらも由真は叫ぶ。しかし角田は首を横に振った。
「もう手遅れですよ。咲いた人間が一週間以上生き延びた例はない。それに……君があそこで止めなければこの子もこんなことになることはなかったんです」
「っ……でも、この子は」
「助けてあげたいのなら君がやりなさい。君にしかできないことだ」
角田は由真の耳元で、呪詛のような言葉を放つ。由真はきつく目を閉じて首を横に振った。角田がやらせようとしていることが何なのかはわかる。それはつまり、由真の手で少女にとどめを刺せということだ。
少女が拘束具を切り、由真に真っ直ぐ向かってくる。その刃はあと数歩で由真を貫きそうな距離まで近付いていた。少女の顔は苦悶に歪み、足取りはおぼつかない。言葉を成さない咆哮と苦痛に満ちた呻き。その痛みは相当なものだろう。
「あの子は生きている限りずっと苦しむことになる。解放できるのは、助けてあげられるのは君だけですよ」
少女の刃は鋭いが動きは鈍い。能力を使うことにあまり慣れていないようにも見えた。隙は多いから能力を使うことはできる。けれど使ってしまえば、それは――。
「嫌……私は……っ」
「つまり君は、彼女が今後数日苦しみ続けることを望むということですか?」
「違う……! でも、私は……」
他に方法がないのなら、このまま苦しみの果てに死ぬしかないのなら、力を使うべきなのか。でもそれは少女にあったかもしれない可能性を全て奪うことになる。躊躇している間に少女の刃が由真に向かう。けれどそれが届く前に少女は地面に倒れた。
何が起きたのか、一瞬由真は理解できなかった。少女の背後に音もなく近付いたアルコルが少女を斬り伏せたのはわかる。けれど彼の手には武器どころか何も握られてはいなかったのだ。
「どう……して……」
「これが僕の仕事だから。どちらにしろ咲いたらもう手遅れだ」
今まさに少女に手を下したと言うのに、アルコルは眉ひとつ動かさなかった。もう手遅れだからというだけではないだろう。少女の返り血を浴びてもなお変わらない端正な顔立ちが、由真にとっては何よりも恐ろしく感じられた。
「今日はこれで終わりだ。部屋まで送ろう」
角田が由真の肩に手を置く。由真はその手を軽く振り払った。
「一人で戻れる」
そのまま後ろを向き、実験室を出る。部屋に戻ったところで、この最悪な場所に囚われていることには変わりないが、それでも角田やアルコルがいる実験室から早く離れたかった。
(どうして……人を殺して、あんな平気な顔をしていられるの……?)
忘れようと早足で歩いたところで、少女の声と最期の姿が頭から離れない。由真が種に触れなければ咲くこともなかっただろうか。そしてあの少女の兄を殺したのも、おそらくは――。
足が止まる。左胸の辺りで何かが蠢いているような気がした。黒い影が広がって、由真の心臓を飲み込んでいくような感覚だ。同時に憎悪に満ちた少女の声が蘇る。
――許さない。
――返してよ、私の力を、兄さんを!
――どうして私たちがこんな目に!
――全部お前が悪いんだ……!
もう死んでしまった人間の言葉を聞くことなど本当はできない。けれど途中で止めたとはいえ、先程由真は少女の力の一部を奪った。声はそこから発されている。これは由真が生み出した幻聴などではなく、紛れもなく少女の本当の感情だった。
「っ……」
吐き気が込み上げてくる。異物を拒む拒否反応。けれどいつものようにそれを拒絶することはできなかった。ただ自分自身が蝕まれていくのに耐えるため、由真はその場に蹲って、きつく目を閉じた。
「……一人で戻れてないじゃないか」
突然頭上から降ってきた声に、由真は顔を上げた。腕組みをして立っているアルコルはすでに着替えていて、先程浴びていたはずの血はどこにもなかった。
「部屋まで送って行くから」
アルコルが手を差し出すが、由真は首を横に振った。
「ほっといてよ、私のことなんて」
「僕はミザールに用事があるんだ。同じところに行くんだからそこまで一緒に行ったっていいだろ」
「一人にしてよ、お願いだから」
自力で戻れるかはわからなかったけれど、誰かの、ましてやアルコルの手は借りたくなかった。彼を見ていると否応なく先程のことを思い出してしまう。たとえ手遅れとわかっていても、躊躇いなくその命を奪えてしまう彼のことを、由真はどうしても認められなかった。
「……ここで連れていかないと確実にミザールに怒られるから嫌なんだけどな」
「怒られるのは嫌なの?」
「『簡単に人を殺せるのに』とでも言いたげだな」
わかっているならこれ以上何かを言う必要はない。由真は膝を抱えてそこに顔を埋めた。
「生まれたときからここにいるんだ。僕にとっては普通のことだ」
「……理解できない」
「別にわかって欲しいわけではないけどな」
二人の間にあるあまりに大きな隔たりを意識せざるを得なかった。由真もなぜ人を殺していけないかと問われたら答えることはできない。生きてきた世界があまりにも違う。生まれを選べない以上そのことで彼を責めることはできない。それでも心を呑み込む黒いものが出口を探している。由真は無意識にアルコルの腕を掴み、自分の方に引き寄せた。
「……お兄ちゃんを殺した奴らなんて、みんな死んじゃえばいい」
その言葉は由真のものではなかった。勝手に言葉が漏れ、アルコルの背に手を伸ばしてしまう。
「……っ、お前……何を」
アルコルは強引に由真の手を引き剥がした。壁に腕を押しつけて動きを封じる。
「私……いま……」
「自分を失いたくなければ、受け入れるな」
真剣な声は不思議とすんなりと頭に入ってくる。深い緑色の瞳が由真の視線を捉えた。
「今のままだとその意識も何もかも乗っ取られる。それが嫌なら拒めばいい。――拒絶は自分の輪郭を形作る」
言っていることの意味は半分くらいしかわからなかった。けれど自分自身が失われていく感覚を理解してくれて、その対処法を教えてくれているのだというのは理解できた。
「そんなこと言われても、どうすれば」
「自分を失うのは嫌だって、そう思えばいい」
それを望む資格は自分にあるのか――そう思いながらも、アルコルに気圧されて、由真はきつく目を閉じた。自分の中に深く入り込んでいたものが追い出されて弾かれていくような感覚。同時に強い吐き気に襲われた。
「っ……気持ち、わるい……」
「吐きそうか? 今袋とか持ってないけど、この服汚してもいいやつだから」
「大丈夫。ご飯食べてないし……多分何も出ない」
実験直前の食事は抜いていた。壁に手をつきながら由真が立ち上がると、アルコルがその肩を支える。
「……一人で歩けるから」
「方向が同じなだけだ」
「どうして私なんかに――」
何故、自分なんかに優しくするのか。あっさりと人を殺してしまえる人なのに、肩を支える手は驚くほど優しい。その優しさに戸惑いながらも、由真はその手に体を預けた。
部屋に戻ると、ミザール――蒔菜はパズルゲームをしていた。ゲームを終了し、部屋に入るなり崩れ落ちた由真の体を支える。
「何でこんな状態に……」
「精神汚染を使われたあとに能力吸収を途中でやめて、それが原因かはわからないけど被験体か開花したから処理した」
アルコルは淡々と事実だけを説明する。蒔菜は由真の頭を撫でながら深く溜息を吐いた。
「自我境界を曖昧にされてたところで、その子を受け入れちゃったった感じね。……実験的には成功だったかもしれないけど」
「こっちは殺されるかと思ったんだけど」
あの少女の感情に飲み込まれ、目の前にいたアルコルの種を割ろうとしてしまった。由真の意思ではないものの殺そうとさえしたのに、彼は由真をここまで連れてきてくれたのだ。
「疲れたでしょ、由真。少し休みなよ」
ベッドに寝かされて、額に手を置かれる。頭の中に残った霧が晴れて行くのを感じながら、由真はゆっくりと目を閉じた。
「――で、あんたはあんたであんまり調子が良くなさそうね」
「調整なしで力を使いすぎたんだ。さっきのも想定外だったし」
「あんたも難儀だね」
蒔菜は今度はアルコルの頭に手を当てる。
「本当はこんなやり方不自然だとは思ってるんだけどね、私も」
「仕方ないだろ。……僕にはこの力を使うだけの感情が欠けているらしいからな」
蒔菜が前に、アルコルの能力は負の感情を原動力にしていると言っていた。けれど生まれたときからこの施設の中で育った彼には十分な感情が育たなかったのだという。彼の感情のほとんどは蒔菜がその能力で与えたものだ。けれど本人のものではないので時折調整しなければ調子を崩してしまうらしい。
「あの人たちはあんなこと言うけど、いつかあんたも本物を手に入れることになると思うけどね」
「あれだけ負荷をかけても負の感情は満足に目覚めなかったんた。無理だと思うけど」
「あの人たちはわかってないのよ。まあ私はこの力があるからわかってるってところもあるけどね。一番深い憎しみを知ってるのは、一番深い愛を知ってる人だけだって私は思うよ」
目を閉じたまま話を聞いている由真にもまだ、憎しみも愛もわかってはいなかった。大切に思う人もいるし、怒りを感じることもあるけれど、それはまだ愛にも憎悪にも届いていないと思うのだ。
「……尚更来ないだろ、それは。僕が誰かを愛するようになるとは思えない」
「人生何があるかわからないよ。少なくとも私はそんな予感がしてるの」
アルコルは納得できない様子だったが、仮定の話をこれ以上しても無駄だと判断したのか、その話を早々に切り上げて立ち上がった。
「じゃあ僕は帰るから」
「うん。今日はありがとう。由真をここまで連れてきてくれて」
「別に、たまたま目的地が同じだっただけだ」
「それでも、これまでなら放置してたと思うよ」
アルコルはそれには答えずに部屋を出て行った。蒔菜はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと息を吐き出す。
「……誰がいついなくなるかなんて、誰にもわからないんだから」