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北斗の家に来てからどれくらいの時間が過ぎただろうか。ここでは曜日も日付も意味をなさない。いつしかそれについて考えることはやめてしまった。慣れることなどないと思っていたけれど、積み重なる日々に少しずつ順応しつつもあった。外に出ることを望みながらも、それをどこかで諦めていた。
北斗の家での生活の全てが苦痛だったわけではなかったのもその理由だろう。強要される実験や能力の使用は嫌だったけれど、同じ立場に置かれた蒔菜をはじめとする仲間とのやりとりは、その中でも少しだけ心が緩む時間を作り出していた。
「――ごちそうさま」
「ほとんど残してるじゃん、蒔菜。体調悪い?」
「何となく食欲湧かないだけだよ。そういう由真だってあんまり食べてなくない?」
能力の代償である自家中毒が起こるとわかっているときは食べる量を意図的に減らしていた。けれど蒔菜はいつもは比較的よく食べる方だったから気になった。
「ちょっと食欲ないだけ」
「じゃあ私残り食べていい?」
二人の会話に入り込んできたのはタリタだった。蒔菜は苦笑いしながらトレイをタリタの前に押し出す。
「にしてもあの仕事の後によく食べれるねあんた……」
蒔菜が言う。昨日は蒔菜は仕事はなかったようだが、タリタとアルコルは外で何かをしていたらしい。終わった後にアルコルが調整のために部屋に来ていたから、由真もそれは知っている。
「楽しかったよ?」
「あんたはそういう奴だったわ……」
人の悲鳴を聞くのが何よりも好き、というタリタのことを理解できる日が来るとは思わない。けれど嫌々やらされているよりは幸福なのかもしれない。由真はタリタと話をしている蒔菜を盗み見た。
何かが違う気がする。けれどその何かを見つけられないまま、時間は過ぎていった。
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「……最新若干手を抜いてるだろ」
「ふふ。バレた?」
仕事前の調整を蒔菜に頼んでいたアルコルは、少し前から気になっていたことを蒔菜に尋ねた。蒔菜はあっさりと認めたけれど、それ以上言い訳も何もしようとはしなかった。
「じゃあアルコルは私に全部管理されるのと、ある程度自分でやるのとどっちがいい?」
「管理されていた方が楽だ」
「でもそれは君の本当の感情ではないんだよ」
本当の感情なんて求められてはいない。ただそれが能力を発動させる為に必要だから与えられているだけだ。けれど蒔菜はどこか悲しい顔をしていた。
「僕の調整のせいで負担がかかっているって言うなら――」
「違うのよ。今までみたいにやることもできる。でも……私は君の心にずっと触れてきたから、君が自覚していないこともわかってしまう」
蒔菜はベッドに寝転がって笑みを浮かべた。
「君はもう、君の感情で生きられるかもしれないよ」
「でもそれは必要のないことだ」
「必要だよ。君だって、本当は一人の人間だから」
本当は一人の人間。そんなものは建前だ。生まれたときから道具として育てられたアルコルにはどうしてもそう思うことはできなかった。そして蒔菜はこれまで、大人たちが決めたその方針に静かに静かに従っているだけに見えていたのに。
「……あれに感化でもされたのか?」
「感化ってほどではないかな。前から考えてはいたよ。でも、自分が麻痺してたんだなってことは最近よくわかってきた」
それは幸福なことなのだろうか。麻痺したままの方が痛みを感じずに済むことは多い。現に由真の北斗の家での日々は苦痛に彩られている。どうせ出られないのなら、麻痺していた方がいいのではないか。
「私たちは能力者の世界を作ろうとしている。それはわかってる。でもそこに何の意味があるの? そのためにこんなに苦しむ必要はあるの?」
「余計なことは考えない方がいい」
「これは余計なことなんかじゃないんだよ」
アルコルにとっては間違いなく余計なことだった。答えなど出るはずもないし、考えれば考えるほど行動を制限してしまう問いだ。与えられたものに従って生きていれば苦しみも減るのだから。そして蒔菜もこれまではそうやってここで生きてきたはずだったのだ。
「何があったのか?」
「……どうも私はしばらく外の仕事には出られないらしいのよね」
「外仕事嫌いだっただろ。それの何が問題なんだ?」
蒔菜は答えない。アルコルは断片的な情報をつなぎ合わせて予想するしかなかった。蒔菜は外での仕事を嫌っていた。けれど蒔菜の能力を使えば証拠を残さずに人を自殺させることができるから、それなりに重宝されていた。アルコルやタリタの能力では他殺であることだけはどうしてもわかってしまうので、足がつかないようにしたい仕事のときは蒔菜が出向くことが多かったのだ。
「まさか、足がつきそうなのか?」
「どうもそうみたい。警察も馬鹿じゃないっていうか……向こうにも能力者がついてるのかもね」
軽い口調で蒔菜は言うが、それがどういうことなのかはアルコルにもわかっていた。蒔菜はアルコルのようにこの施設で生まれ、戸籍を持たない人間ではない。能力さえわかってしまえば簡単に逮捕される可能性もある。
「『七星』に関しては、基本的には死んでも数年後には新しくその能力を持った人が現れる。――私はきっと、このまま使い捨てられる」
「まだそうと決まったわけじゃない。最悪その情報掴んでる人間を全部始末してしまえば」
「無理があるでしょ。そんなんやってたら人類あっという間に滅亡しちゃうよ」
アルコルは自分の中にこれまで味わったことのない感情が芽生えていることに気が付いた。知識はある。これは、焦燥と呼ばれるものだ。死んでほしくないと思っているのか。人間の命なんて誰のものでも等しく無価値だと思っていたのに。
「……このこと、由真には黙ってて欲しい」
「どうしてだ?」
「多分、すごく気にしちゃうと思うから。あの子とは最後まで普通に過ごしたいの」
「蒔菜がそれでいいなら」
そう言うからには、全てを受け入れているのだろうか。この先に死しか待っていない自分の運命を。
「私がいなくなったら、次の人が見つかるまで君は一人でやっていかなきゃいけない」
「……能力使えなくなるかもな」
「使えると思うよ。何となくそんな気がする。でも使えたら使えたでちょっと心配かな」
「上手くいかなくなったら僕も使い捨てられるんだろうな。道具は使えなくなったら捨てられるものだ」
道具として生まれてきたのだから、その終わりは当然のことだと思っていた。けれど蒔菜は静かに首を横に振った。
「私にとっては、道具なんかじゃないんだよ」
「……道具だよ。僕はそうやって生まれてきたんだから」
俄に近づいてくる終わりの足音。けれどそれがどんな形で訪れるのかは、二人ともまだ予想できていなかった。
その終わりは、とても残酷な形で降りかかってきたのだった。
*
蒔菜が案内されたのは真っ白な実験室だった。この部屋は特別な部屋で、施設の中には三部屋似たような部屋が用意されている。ここに入るのは久しぶりだ、と蒔菜は笑った。北斗の家に来て、能力の全容がわかるまではこの部屋にずっと入れられていた。万が一、実験によって能力の暴走が起きてもここに閉じ込めることができるという設計になっている。つまりはそのくらい負荷をかけられるのだ。おそらくは死んでしまうほどの。
だとしたら自分にとどめを刺すのは誰なのだろうか。誰にも見られずに死んでしまうのだろうか。蒔菜は中央に置かれた真っ白な椅子に座り、人が来るのを腕組みして待っていた。
「ちゃんと来たんですね」
扉が開いて現れたのは角田だった。柔和な笑みを浮かべているが、その目の奥には嗜虐の色が宿っている。
「君は特別な能力者ですから、他の人のように簡単に処分はしませんよ。そこは安心してください」
「……余計安心できないね」
「大丈夫ですよ、他の能力者の種で既に行なっている実験ですから、少なくとも君の種は暫く生き長らえることができる」
「種は、ね」
「肉体が残るのは困るんですよ。まだ計画は途中ですから、ここの存在が知られるのはね」
警察に協力していると思われる能力者はよほど優秀なのか。少なくとも死体に残った能力の痕跡から蒔菜に辿り着けるだけの力を持っていることにはなる。解析能力の中でもかなり上位の方だ。
「……待って」
思考を巡らせていた蒔菜は、一旦は流した角田の言葉に引っ掛かった。警察に協力している能力者のことなど今はどうでもいい。問題は、その前の言葉だった。
「由真にやらせるのだけはやめて」
種を取り出すことができるのは由真だけだ。種だけが生き長らえるということは、蒔菜を殺すのは由真でなければならない。
「他の誰でも……適当な実験で使い潰すんでもいいから、由真だけは」
「そういうわけにもいかないんですよ。七星の種を直接研究できる機会なんてそうはありませんから」
「……あんたはいつもそうだね。私たちのことを能力でしか見てない」
「せっかく授かった能力は活かさねばならないんですよ」
「そんなこと続けてたら……壊れるわよ、あの子」
七星の中でも最も強いと呼ばれている由真の能力。けれどその器である由真は普通の少女だった。人を殺すことには抵抗があって、麻痺して楽になることを拒絶している。
「いっそそうなってくれた方が楽ですがね」
角田は悪びれずに言う。その方が精神汚染の能力は使いやすい。やろうと思えば言いなりに動く人形のようにもできるだろう。けれどそれは、あまりにも由真本人を軽視している。
「そもそも、君がいちいち精神汚染を解除してしまうので、なかなか大変なんですよ。彼女は思ったよりも気が強くて」
「あの子をあんたの思い通りにはさせないわよ」
「今からなすすべもなく殺される人が何を言ってるんですか?」
蒔菜は唇を噛んだ。抵抗したとして、種を取り出されてしまえば何もできなくなる。おそらくは由真をサポートするために蒔菜を取り押さえる要員も控えているだろう。ここに来た段階で運命は決まっていたのだ。
「さて、時間になりました。――お別れです、
角田に連れられて、由真が姿を見せる。その目には、普段のような光はなかった。蒔菜のことを認識しているかどうかも怪しい。そこまでしなければ抵抗されるということを角田もわかっているのだ。けれど精神汚染の能力は相手を廃人にしてしまうリスクを伴う。角田にとっては由真の意思などどうでもいいのだろう。
由真が蒔菜の目の前に立ち、背中に手を回す。由真の能力は射程が極端に短い。能力使用時に無防備なまでに他人に近づかなければならないことは、そのまま由真の優しさを表しているような気がした。蒔菜は目を閉じる。このまま角田の思い通りにはさせない。
「……由真」
その手が自分の種に触れたのを感じながら、蒔菜は小声で由真に話しかけた。
「いま私にできるのはこれくらいしかないけど」
その手を通して、由真に能力を使う。角田に気付かれてしまわないように、心の奥底に小さな部屋を作った。
「……あいつの精神汚染に対抗できるように。あなたの全てが壊されてしまわないように」
由真の心の一番奥深くで、彼女を守る。何があっても完全に彼女が壊れることはないように。この状況でできるのはそれくらいだった。種が抜き取られ、蒔菜はその場に膝を突いた。けれど由真の手はまだ蒔菜の中に触れている。触れられている場所に耐え難い熱を感じた瞬間、蒔菜の意識が遠のいた。あまりにもあっけない終わりだ。
「由真……」
本当は、背負わせるべきではないだろう。けれど託せる相手は由真しかいなかった。彼は由真に出会って少しずつ変化している。由真のこと、そして遺伝子上は蒔菜の子供であるアルコルのことは、蒔菜の最大の心残りだった。
「あの子のこと、お願いね――」
今の由真には届かない言葉かもしれない。けれど、最期にそう言い残し、蒔菜はそっと意識を手放した。
*
遺伝子上の母親だと聞かされても、母親がどんなものかアルコルにはわからなかった。その死を知らされたときも心は動かなかった。覚悟はしていた。失敗すれば始末される。それはわかっていたのだ。けれどぼんやりしているうちに蒔菜の部屋の前まで来てしまい、アルコルは溜息を吐いた。蒔菜がいないのだから、もうここに来ることもないのだ。そのまま部屋の前から離れようとした途端、中から大きな音が聞こえてきた。
中には今、由真だけがいるはずだ。気になってドアをノックするが、返事はない。試しにドアノブをひねると、鍵をかけていなかったらしく、呆気なく扉が開いた。部屋に入ると、奥で蹲っている由真の姿が見えた。その横には割れたガラスが散らばっている。
「由真」
呼びかけても答えはない。見ると、左腕の内側に歪な傷跡があり、そこから血が流れていた。
「由真!」
鋭い声で呼びかけると、由真はうっすらと目を開けた。泣き腫らした目。何があったのかは容易に想像できた。
「……なんで……ここに?」
「たまたま通りがかったときに、大きな音が聞こえただけだ」
「放っておいてよ……だって、私は」
子供のように泣きじゃくりながら由真は言う。由真が泣いている理由はアルコルでも理解できる。けれどアルコルにはない感情だった。アルコルには生まれなかった心が、誰にも汚されずにここにある。何故か左胸がずきりと痛んだ。
「……あいつはこんなことをすることを望んではいないと思う」
それだけを言うのが精一杯だった。けれど蒔菜が最後まで由真を心配していたのは知っているのだ。
「あなたに私の気持ちなんてわかるはずない」
しかし、返ってきたのは棘のある言葉だった。慰めようとしているのは伝わったのだろう。
「平気で人を殺せるあなたに、そんなこと言われたくない!」
「……っ」
何故だろう。その言葉が突き刺さった。言われた通りに人を殺すだけの傀儡だったはずなのに。由真の言っていることは間違ってはいないはずなのに。
「――あなたなら、私を殺せる?」
由真の言葉に、アルコルは目を瞠った。傷だらけの左腕が伸ばされる。
「私はこれ以上、人を殺したくない」
命じられるままに人を殺してきた。特別な人間などいない。それなのに、無防備な姿を自分の前に晒しているはずの由真には、なぜか手を出せなかった。
「……お前を殺せば、蒔菜に一生恨まれるだろうからな」
「私のことは恨んでないの? だって蒔菜を殺したのは――」
「お前の意思じゃないことはわかってる」
由真の目から再び涙が落ちる。泣いている人間は苦手だ。どうしたらいいかわからない。アルコルは溜息を吐いて由真の目の前に座った。
「――蒔菜は、自分が殺されることを由真には言わないでくれって言ってた。最後まで普通に過ごしたいんだって」
それは残酷なことだったかもしれない。悪意は蒔菜たちが思っていたよりずっと大きく、由真が蒔菜を殺すことになってしまったのだから。けれどそれで由真が苦しんで、自分を傷つけるのは蒔菜の本意ではない。
「無理に笑えとは言わない。でも……蒔菜の最後の願いを無駄にはしないでほしい」
由真は声を上げて泣いていた。こんなときどうすればいいのか、アルコルにはわからなかった。それなら蒔菜ならどうするか――その答えに従い、アルコルはぎこちなく由真の体を抱きしめた。その瞬間に胸に広がった熱の名前は知らないまま。