Alkaid   作:深山瀬怜/浅谷てるる

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9.心さえなかったなら

 次の日の朝、由真が目を覚ますと、アルはもう部屋を出て行ったあとだった。書き置きには「急に仕事が入った」と書いてある。由真は脱がされたまま皺になっていた服を洗濯機に放り込み、軽くシャワーを浴びてから着替えた。

 今日は仕事の予定も実験の予定もない。そういう日は大抵部屋で休んでいるか、表の――児童養護施設としての北斗の家に住んでいる子供たちと遊ぶのが常だった。表の子供たちは、由真が裏でどんなことをしているかについては何も知らない。隠し事をしているという後ろめたさはあったけれど、彼らと過ごす時間が癒やしとなっていたのは事実だった。今日は少し体が重いからこのまま部屋で寝ていようと思ったそのとき、テーブルの上に投げ出していた通信機が鳴った。溜息を吐きながらそれを引き寄せ、表示された文面を眺める。

「休みだと思ったのに……」

 急に実験の予定が入ったので、三十分後に実験用の部屋まで来てほしいという内容だった。少し休んでからゆっくり朝食を食べようと思ったのに、全ての予定が狂ってしまった。実験なら朝食を食べるのも無駄だ。三十分なんて中途半端な時間があるせいで、逆に何も出来ない。何かをするには短すぎるし、かといって今から行けば早すぎる。布団に体を預けて、天井を見つめる。昨日のことを体がまだ覚えていた。シャワーを浴びてもリセットなんてされるはずもなく、由真は服の上から自分の体に触れる。慈しみと烈しさをもって触れられた体。愛してるという言葉。体を貫かれるような痛みと、不思議な充足感。まだ頭が昨日の夜にいるみたいだった。

(……嫌じゃなかった。むしろ、)

 自分の中にそんな感覚があったのかと、由真は密かに驚いていた。その存在を丸ごと受け入れようとする心。他人の能力が自分の中に入ってくる感覚は気持ち悪くて仕方ないのに、アル相手ならば平気なのかもしれないとさえ思ってしまう。本当はいけないことをしたのだ。誰かと体の関係を持つには、自分がまだあまりにも幼すぎるということもわかっていた。準備など何もしていなかったから、避妊すらしていなかった。もしそういうことになったら――由真は寝返りを打ちながら薄い腹を撫でた。

 許されないことをした。けれど後悔はしていない。その結果として何かが起きるのなら、それは甘んじて受け入れよう。少しだけ目を閉じて、再び開けたときには、十分ほどの時間が経過していた。

 アルの仕事はどれくらい時間がかかるだろうか。今夜も、いや今すぐアルに会いたい。この感情を人は恋と言うのだろうか。だとしたらそれは何て強くて、どうしようもない気持ちなのだろう。起き上がりたくないと訴える体を無理矢理に起こして、由真は溜息と共に部屋を出た。

 

 

 穏やかな顔で眠る由真を起こさないように、アルはそっと立ち上がる。その顔だけを見ていると、昨夜のことは嘘だったのかとさえ思えてしまう。けれど全て本当にあったことだ。まだ若干幼さの残るその体。少し低くて優しい声が甘く響く瞬間。それらを全て鮮明に覚えている。

 先程角田から急な仕事が入ったと連絡があった。起こしてしまうのは忍びないので、アルは書置きを残して部屋を出る。

昨日と変わらないはずの今日。しかし大抵は血腥い仕事に向かうのは気が重かった。

 呼び出されたのは狭く暗い部屋だった。壁際にモニターが置いてあって、その前に椅子が置いてあるだけの部屋。ここが待機場所だろうかと思いながら、アルは部屋の中に入った。

『そこに座りなさい』

 モニターから角田の声が聞こえる。画面には何も映っていない。アルは溜息を吐きながらも、言われたとおりに椅子に腰掛けた。それと同時に椅子が勝手に動き、手足を固定されてしまう。実験のときなどに使う、そこに座る人間が暴れないように拘束する椅子だ。

「……仕事と聞いて来たんだが。これは何だ?」

『仕事ですよ。君にとってはおそらく最後の』

「最後? どういう意味だ」

 計画はまだ完遂されていない。計画を押し進めるためにはアルの力が必要なのだと角田はいつも言っていたはずなのに。

『これはまだ一部の人間しか知らないことですが、今から数時間後にここに警察が踏み込んでくる予定なんです』

「殲滅が仕事か?」

『いや、さすがに規模が大きいようで。ここの戦力だけでは押し負ける可能性が高い』

 警察も無能ではない。北斗の家の戦力はどちらかといえば少数精鋭だ。タリタは大規模殲滅に最も適した能力の持ち主だが、彼女を作戦に投入するのにはリスクが伴うことは誰でもわかることだろう。けれど角田があっさり降参を認めるとは思わない。

『ここでの研究、そして今後の計画を奪われるわけにはいきません。だから警察が来る前に、我々はここを放棄すべきだという結論が出ました。既にデータの類は移動が済んでいます』

「ここに何人いると思ってんだ。そう簡単に放棄なんて」

『AIが可能だという結論を出したんです。その方法も示されました』

「AI? 何の話だ?」

 今まで、そんなものとは縁がなかった。知識として知っていることはある。例えばこの世界には、世界の命運を決める七つの最高の人工知能が存在する。その七つの人工知能の意思が統合されたときに世界の運命が決まる、という壮大な話だ。けれどそんな大きな話はこれまでのアルには関係がなかった。

『世界を決める七つの人工知能のひとつ。それがここにあるんです。我々は今まで、彼女が立てた計画に沿って、それを忠実に実行してきた』

 今まで自分たちがやってきたのは、全てその人工知能が命じたことだったということか。アルは唇を噛んだ。敵だと思っていた角田をはじめとする大人たちすら、結局は傀儡だったのだ。傀儡の傀儡になって、これまで数え切れないくらい人を殺してきた。なんて虚しい結末なのだろうか。

『ここの放棄と同時に最後の開花実験を行います。それが人工知能(ドゥーベ)の決定です。その結果は今後計画を進めるために必要なものだそうで』

「僕を咲かせるつもりか」

名前付き(ネームド)の開花はこれまで成功したことがありません。その力がどれだけ引き出されるのかは未知数なんですよ』

 北斗七星をはじめとするおおぐま座の星の名を与えられた能力者を名前付き(ネームド)と呼ぶ。世に溢れる能力者たちよりも数段強い力を持っている。名前をもらえなかった能力者でさえ、咲けば大量殺人を実行できるほどの力を得る。それが名前付きであれば、どれほどのものになってしまうか――ここにいる人間を全て殺し尽くしても足りないかもしれない。

 けれどそんなことよりも大きな問題がある。開花は簡単には出来ない。精神的に負荷をかけるだけでは、暴走状態に留まってしまい、開花に至らないこともある。人を確実に開花させることが出来るのは由真だけなのだ。

「……僕は、由真に殺されるのか」

 結末としては悪くないのかもしれない。嫌いな人間に殺されるよりは、愛している人間の手にかかって死にたい。けれどアルを殺してしまったという傷を由真に一生背負わせることになる。そんな目に遭わせるくらいなら、ここで舌を噛み切って死んでやろうか。そんなことまでアルは考えていた。

『最後に抱けたのだからいいではありませんか』

 アルは奥歯を噛み締めた。全て知られていたことよりも、それを口に出されることで、昨夜の出来事が汚されることが耐えられなかった。

『そうそう。以前、ミザールが言っていたんです。最大の負の感情を生むのは愛だと。君は誰も愛せない人間だったから、能力を使うのに十分なほどの負の感情を得ることも出来なかったのだと』

 その通りだ。だから昔はミザールの力を借りなければ能力を使えなかった。感情を司る能力の持ち主であるミザールの持論は間違っていなかったのだ。だからこそ、今は彼女の遺した言葉が残酷に響く。

『私は、まさか君がその欠点を克服できるとは思っていなかったんですよ。君がいつかその感情を得るだろうと言っていたミザールを信じてはいなかった』

「奇遇だな。僕も自分で驚いているよ」

 椅子に拘束されていても能力は使える。椅子を破壊して、この部屋の鍵も破壊して逃げ出そう。アルはそのための隙を窺っていた。今すぐ実行してもいいが、角田のことだから、下手に動けば由真を攻撃すると言い出しかねない。

『君は道具でいればそれでよかったんですよ』

「僕は人間だ。たとえ人工的に生み出された存在だったとしても」

 人として欠けていた感情は満たされた。愛がどんなものか、今ならはっきりとわかる。しかし角田はアルの言葉を聞いて、嘲るように笑った。

 

『これから君は思うことになりますよ。

――愛など知らなければよかったとね』

 

「……何をするつもりだ」

『普通に彼女に開花させてもらっても良かったんですが……どうせなら、ミザールが言っていた、愛を手に入れた人間の憎悪というものを見てみたくなりまして。AIも、咲かせる方法は問わないと言っていましたし』

「……っ!」

 急に体が全く動かせなくなる。覚えのある感覚だ。由真と逃げ出したときにアルを捉えた能力。見えない糸を巻きつけ、それに電流を流す力だ。それはアルの能力よりも強く、強引に破ろうとしても押し負けてしまう。

「由真には手を出すな」

『道具のくせに人を好きになんてなるから、こんなことになるんですよ』

 不可視の糸は、アルの顔にも伸びていく。目を閉じられないように固定され、モニターを強引に見つめさせられる。それまで真っ黒だった画面に映し出されたのは、実験用のベッドに寝かせられた、虚ろな目をした由真の姿だった。精神汚染の能力を使われているのだろう。おそらくは自分がどんな状況に在るかもぼんやりとしか認識できていない。

『貴重な七星を殺しはしませんよ。君が彼女にしたことと同じことをするだけです』

「やめろ! 由真には……!」

 角田の部下たちが、由真を取り囲む。その顔に浮かぶのは下卑た笑み。何をしようとしているのか。最悪過ぎる予想が頭をよぎる。

『それでは、始めましょうか』

「やめろ! 由真が何をしたって言うんだ! そんなに僕が憎いなら、僕を直接攻撃すればいいだろ!」

『憎いだなんて、そんなわけないでしょう。君は私のかわいい子供なのだから』

「今までさんざん道具だって言ってきたくせに、何が……!」

 今すぐここを出なければならない。ここを出て、由真を助けなければならない。それなのに、ここから抜け出すだけの力がないのだ。

「由真……!」

 愛さなければよかったのか。

 愛さなければ、こんなことにはならなかったのか。

 道具として淡々と、命じられるがままに人を殺して、角田にとってずっと都合のいい存在であればよかったのか。

 けれど後悔することは出来なかった。愛を知ってしまった自分を否定できなかった。知らなければよかったとは、どうしても思えなかった。

 

 だからこそ、強制的に見せられ続ける行為を、受け入れられなかった。

 

 その体に触れる何本もの手。顕になっていく白い肌。昨日自分が触れたその美しい全てが汚されていく。ひとつだけ幸いなことがあるとするならば、おそらく由真自身は自分が何をされているかはっきりとは認識出来ていないということくらいだった。

 胸が軋むように痛む。呼吸が荒くなる。ここにいる人間全員殺してやりたいと思った。初めて愛した人が目の前で傷つけられていく。角田は「君が彼女にしたことと同じことをするだけ」と言っていた。ああ、確かにこれは同じ行為だ。その体を無遠慮に暴き、穢す行為だ。自分がそんなことをしなければ、由真はこんな目には遭わなかったのだろうか。それでも昨日の行為を否定できない自分は、なんて残酷なのだろうか。

 そしてアルは実感を持って理解した。この世で最も強い負の感情は、愛するものを傷つけられたときの憎悪だ。自分の心さえも壊してしまうほどの憎しみ。今すぐ全員殺してしまいたい。角田の命令に従いながらも己の欲望を丸出しにする男たちも、それを支持していた角田も、全てを裏で操っていた人工知能も、そしてここで何も出来ない自分自身も。

 

 全部、壊れてしまえばいい。

 由真を傷つける何もかもを、この世から消し去ってしまいたい。

 

 画面の中の由真が、一筋の涙を零す。かすかに動いた唇をアルは見つめた。

 たすけて、と動く唇。けれど拳を握ることすらできない。今すぐこんな拘束を破って、そこに行かなければならないのに。ただ、残酷な光景を見続けていることしか出来なくて。

「由真……!」

 声を振り絞っても聞こえるはずはない。わかっていても叫び出したくなる。届かぬ画面に手を伸ばしたくなる。

 そしてその唇がもう一度僅かに動く。

 

 紡がれた言葉が、由真からもらった自分の名(アル)だと気付いた瞬間に、アルの意識は完全に白に染まった。

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