頭がぼんやりとしていて、自分が今どこにいるかすらわからなかった。自分の周りに人がいることはかろうじて認識できていたけれど、その人たちが自分に何をしているかさえ由真には認識できていなかった。
ただ、気持ち悪いと思った。
実験で他人の種を取り込んだときのような、自分自身が侵されていくような気持ち悪さだ。自分をしっかり保っていなければ、自分自身が壊されて、何かに塗り潰されていくような。
そんなときはどうすればいいのだったか。回らない頭で、彼の言葉を思い出す。自分を失いたくなければ受け入れるな。そうアルは言っていた。拒絶は自分の輪郭を形作る。自分を失うのは嫌だと思えばいい。その言葉が遠くで聞こえる。それは海の底から望む太陽のような、闇に差す光のような気がした。
きっとあのときから、惹かれていたのだろう。自分が自分でいられるための道標だった。誰かに助けてほしいと思うとき、無意識に思い浮かべていたのは彼のことだった。
嫌だと叫びたくても、声を出すことが出来なかった。このまま全部黒く塗り潰されてしまいそうな気さえする。気を抜けば本当にそうなってしまうだろう。ああ、気持ち悪い。私の中に入ってくるな。心で叫んでも、音にはならない。
由真は無意識に、一筋の光に向かって手を伸ばしていた。助けてほしいと思っていた。このまま暗闇に呑み込まれたくはない。だから動かない筋肉を必死で動かして、その名を呼ぶ。
それは希望の名。
けれど希望は、様々な厄が詰め込まれたパンドラの箱の中に入っていたものでもある。それは解き放たれた厄と同じ存在。希望があるからこそ――人は絶望するのだ。
*
誰かが叫んでいるような声が遠くに聞こえていた。けれど体を動かせずにいるうちにその声は更に遠くなり、やがて静寂が訪れた。静かで、真っ白で、それは実験室を思わせる清潔さで、由真はそれが嫌いだった。汚れを拒絶するような白い部屋で、いつも自分を汚されてきたから。他人の種に触れる度に、由真自身は摩耗していく。今はまだ自分が残っている。けれどいつかそれは失われてしまうかもしれない。それがいつだって怖かった。
不意に、首に強い力がかかる。息が出来ない。容赦ない力だ。だからこそアルはいつも手加減していたのだと気が付いてしまった。手加減する余裕なんてなかったはずなのに。自分で自分を人殺しの道具だと言っていたくせに、どこで育ったのかわからない優しさが彼にはある。何もなかった心に蒔菜がその能力を使ったときに、誰も予想していなかった何かが起こったのだろうか。出会ったときから、彼は本当は道具などではなく、一人の人間だったのだ。
頭が痛い。熱いような気もする。全身を巡らなければならないはずの血がせき止められているせいか。意識はもとより朦朧としているけれど、精神汚染とのそれとは違う暗闇がすぐそこにあった。
このまま、死んでしまうのだろうか。
消えてしまいたいと、北斗の家に来る前から何度も思っていた。今もどこかでこのまま死ぬならそれでもいいと思ってしまっている。でもこれまでと違うのは、その諦念の裏に隠れるようにして、もう一つ強い感情があることだ。
(アル……)
もう一度、会いたい。たったそれだけの望みが、強い感情が、由真の手を動かす。自分にのしかかる苦痛に向かって、それを抱きしめるように、半ば無意識に手を伸ばした。
指に触れたのは、懐かしささえ感じる熱だった。何度も触れた、アルの種の中にあるもの。けれどそれが今までとは明らかに違うことに気付いた瞬間、由真の意識は急激に覚醒した。
「どう……して」
首から手が離れていく。酸素は戻ってきたはずなのに、息は出来なかった。見上げた緑色の瞳に光が戻る。けれど――
「……由真」
由真は首を横に振った。割れたガラスが元に戻ることはない。咲いてしまった花が種に戻ることは出来ない。わかっているのに欠片を掻き集めて、元の形に戻そうとする。壊すことは出来ても、直すことは出来ないと知っているのに。
けれど無駄なあがきとも言えるその行動が、失われたアルの意識をかろうじて繋ぎ止めていた。由真が手を離せば、こうして話をすることも出来なくなると、誰よりも由真自身が悟っていた。
「いいんだよ、もう」
周りには死体が転がっていた。おそらくアルがやったのだろう。咲いた人間の力は強大だ。名前を与えられなかった能力者ですら大量殺人を引き起こした。それなら元々強い能力者だったアルの場合は――想像には難くない。
それでも、彼意外誰一人助からなかったとしても、彼だけは助けたかった。
「嫌だ……! 絶対に助けるから……っ!」
「もう無理だよ。由真が一番わかってるはずだ」
自分が手を離すだけで終わってしまう。こんな風に話が出来ることすら本当はありえないことだった。それでも由真は首を横に振る。わかっていても、まだ間に合うと信じていたかった。
「こうやって話が出来るのももう最後だ。僕は、これ以上君を傷つけたくない。だからこのまま――僕を殺してくれ」
アルは、由真のことも殺そうとしていた。自我を保ったまま開花した人間はこれまで一人もいない。ただ衝動に呑まれ、その力を撒き散らしてしまうだけの存在になる。けれども由真に対してだけは、普段使っている見えない剣を使わずに首を絞めたのは、そこにアルの心が残っていた証左になるのではないか。自我が完全に失われていないのなら、まだ何とかなるのではないか。微かな希望が刃になって、逆に心を蝕んでいく。
「やだよ……私にはできない……」
「由真にしか出来ないことだよ。……これ以上咲いてしまう前に、早く」
角田の言葉が蘇る。咲いている状態は、本人にとっては凄まじい苦痛だという。それから解放してやる方法は、その人を殺すしかない。咲いた人間を始末するとき、いつも言われていた。助けてあげなさい、と。それは由真にしか出来ないことだ、と。
「……ごめんなさい」
アルはどこか安堵したように微笑んでいた。その体を由真に預けて目を閉じる。このまま由真が手を離せば、彼は完全に絶命するだろう。苦痛はそこで終わる。彼を助けることが出来る。
「ごめんなさい。――助けてあげられなくて」
それでも、手を離すことが出来なかった。
それはアルのためではなく、紛れもなく由真自身の我儘だった。ただ、死んでほしくなかっただけだった。それだけのために、由真はアルに終わらない苦痛を背負わせた。手の中に集めて、割れたものをパズルのように合わせて形だけをどうにか整えた種を、由真は自分の胸にそっと当てる。
他人の種を取り込むとき、自我を保つために拒絶すれば失敗してしまう。けれど拒絶しなければ由真の自我が侵される。
それなら、その反対のことをすればいいのだ。
きっとアルは怒るだろう。拒絶することを教えてくれた人に、全く逆のことをしてしまうのは、恩を仇で返すことに等しい。しかも開花した種を取り込めば、由真自身が無事ではいられないだろう。それでも構わなかった。アルが相手なら、その全てを受け入れてもいい。
君が私の全てだったと、そう言い切れてしまうくらいに、愛してしまっていたから。
体中を切り裂かれているような痛みに、由真は絶叫した。他人に自分が侵蝕されていく苦痛。でも、それを全て受け入れるために、由真は体の力を抜いた。このまま壊れてしまってもいい。自分自身よりも失いたくないもののためなら、死んでしまったって構わなかった。
*
次に目を覚ましたとき、由真は見知らぬ天井の下にいた。
警察と協力して北斗の家に突入した寧々によって、由真はその命を救われたのだった。あのとき何が起きていたのかは、寧々から教えられた情報で補完して、大体のことを知ることが出来た。そして――
「……アル」
自分を内側から灼いていくような熱がある。由真が自分の種の中に取り込んだアルの種は、由真の体調が回復してからもそこにあった。歩月の能力は種の内側には作用できない。アルが由真の体にとって毒になるとしても、歩月にの能力では取り除けなかったのだ。けれど、彼の自我が残っているかどうかはわからなかった。気を抜けば受け入れた由真の種を内側から破壊してしまうほどのものを、由真の能力で強引に押さえつけている状態だったのだ。そこに能力を割きすぎていて、由真自身の能力の半分も使えないほどだった。
それでも、同じことが何度起きたとしても、由真は同じことをするだろうと思った。
「制御装置をつけていれば、いずれは意思疎通が可能になるかもしれない」
寧々に聞かれないように、とハルが自分の本体が安置されている場所に由真を呼び出したのは、退院してから数日が経ってからだった。
「……寧々にも気付かれなかったのに」
由真は小声で呟いた。能力波を見ることが出来る寧々には、由真が何をしたか気付かれる可能性があった。けれどアルの種が開花していたがために、それに邪魔される形になって、由真の能力波が見えにくくなっていたのだ。だから寧々には、由真の種の中に、もうひとつ他人の種があることがわからなかったのだ。
「世界最高の人工知能のひとつだぞ、私は」
「それで……さっきのはどういうこと?」
「開花した種を取り込んでいるんだから、当然能力が安定するはずがない。これから作る制御装置は、由真の力ではなく、その――もうひとりの力の方を抑えるものだ。それを使い続けるということは、その力を弱らせることにもなる。でもそれによって、開花前程度まで力を落とせれば、種に宿った人格が戻ってくる可能性はある」
「……でも、生き返るわけじゃない」
「そうだな。だが、少しでもその人間を助けたかったから、そんな無茶をしたんじゃないのか?」
「助けたつもりはないよ。……ただ、私がそうしたかったからそうしただけ」
ハルの言葉を聞いていても、気は晴れなかった。結局、そんなことをしてもアルが蘇ることは絶対にありえない。ただそれを取り込んだことでアルの能力を使えるようになっただけだ。
「だが、この状態をずっと続けていると、いずれは由真の自我が侵される。それはわかってるんだろうな?」
「――うん」
「いずれはそれを手放さなければならない時が来る。そのときに決断できなければ――」
「わかってるよ」
ハルは由真のことを思って忠告しているようで、実は違うのだ。ハルが思うのはその管理者である寧々のことだけだ。寧々に隠れて独断で動くことさえも、寧々のための行動だ。人工知能だというのに、その姿はあまりにも人間臭い。
「私が死ねば、寧々が悲しむから――だから私に力を貸してくれるんでしょ?」
「わかってるなら長生きしてほしいものだな。できればギネスブックが視野に入るくらい」
「人工知能って冗談も言えるんだね」
「人のように振舞うように、管理者に躾けられたものでね」
けれど、そのときが来て、寧々を悲しませないと言い切ることは出来なかった。時が過ぎて、ハルが言う通りにアルと意思疎通が出来るようになってからも、想いはずっと変わらないままなのだ。