引き合わされたそのふたり。朗らか黒と、静かな金。
差し出された掌に、触れることは叶わない。
「……呪痣、ですか。なるほど、では握手はできませんね」
「本当に真っ黒だ……あ、ごめん、見られるの嫌だったりするかな!?」
ゆるりと首振る幼子に、朗らか黒は息をつく。芯から安堵のその様子、幽梅はむしろ目を瞬く。呪符を渡したわけでもなしに、何故彼はそんな顔。
膝を折った金の髪、幽梅の顔を覗き込む。淡い色のその瞳、確か翡翠がこんな色。いやはて如何に、薄暗闇しか知らぬ幼子は、色の違いもわかりゃせぬ。
「私は七海建人と申します。これから貴方のクラスメイトになります」
よろしくお願いしますのその一言、声が含んだ柔らかさ。
金の隣に並んだ黒も、膝を折って目を細める。
「僕は灰原雄! これから一緒に頑張ろうね!」
よろしくねと弾んだ声と、初めてもらったそんな顔。
さてはて何と返したものか、わからぬときは山彦か。
「よ、ろし、く?」
戸惑いまじりの返事にも、ふたりは気にせず頷いた。
***
きらきらと目を輝かせながら、幽梅は辞書特有の薄い紙のページをめくる。これで使い方はわかったかな、と灰原がその頭を撫でていた。
やれやれとふたりを見守る生真面目な後輩に、夏油はそっと近づいて話しかける。
「あれは何をしているんだい?」
「夏油さん。辞書の使い方を教えていたんですよ」
「辞書?」
物心つく前から監禁されていた幽梅を五条と夏油が連れ出し、一ヶ月ほどが過ぎた。
かろうじて息があった世話役の証言により、どう見ても五歳かそこらの幽梅が実はとうに十五を過ぎていると明らかになった。暗がりでの監禁、それも完全に不規則な生活を送っていたためか、どうも成長が著しく遅れているらしい。それならばと幽梅の身柄は呪術高専の預かりとなり、五条や夏油の一つ下、呪術高専の一年生として寮生活を送っている。
幽梅の住んでいた村がどうなったのか、それは呪術高専も関知していない。幽梅はもはやあの村に興味も未練もなく、親類と呼べるのはその世話役だけであったようだ。しかしその世話役と自分の関係さえ知らないというのだから、彼の扱いもうかがい知れるところ。御三家をはじめとする多くが希少な呪痣を欲しがったが、高専という中立の場所で預かったことで保留になっていた。
一般的な常識には著しく欠ける幽梅も、幽梅自身の好奇心と物怖じしない性格、そして同級生となった七海と灰原の協力によって、それなりに充実した生活を送っていた。
「私が昔使っていたものを差し上げたんですよ。彼の語彙はかなり偏りが激しいようで、わからない言葉が多いと言うので」
「なるほどね。……どうだい? 幽梅くんは」
「どう、とは?」
「一応彼を高専に連れてきた身としては、フォローを君たちに任せきりにしてしまっているのはちょっと申し訳なくてね。君たちの負担になってないならいいんだが」
「負担というほどのものではありませんよ。彼は素直でものわかりもいいし、こちらの言葉もよく聞いてくれます。少なくとも五条さんに付き合わされるより数億倍マシですね」
「んだと七海」
俺もいるのわかってて言ってんだろ、と喚く五条を後目に、それが何か、としれっと返す七海。まあまあと夏油に諌められるも、五条は不機嫌そうにぶつくさと続けた。
「少しは先輩を敬えっつーの」
「ええ、少しは尊敬出来る先輩になって頂きたいものです」
「傑、これは俺殴っていいと思う」
「そういうところだと思うよ、悟」
そのやりとりを聞きながら、そんけい、と幽梅は首を傾げた。使ってみなよ、と灰原に促され、ええっと、と幽梅は辞書を繰り始める。小さな紅葉が薄い紙をめくった。
「そんけい……あ、あった、『尊敬』? えっと、その人の人格・識見・業績・行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。……先輩が後輩に強要するものとは書いてないよ?」
「ええ、あっていますよ幽梅くん。その通りです」
「あ、こらふたりとも、シッ」
「……は~いば~らく~ん?」
「僕ですか!?」
次は「いじめ」を調べるようにと七海が勧めると、「それは知ってる、やっちゃいけないことだよね!」と元気よく返した。灰原は「あってる!!」とコクコクと頷く。
それを見て苦笑した夏油は、ぽん、と五条の肩を叩いた。
「ほら、いじめは良くないよ、悟。幽梅くんの教育にも悪いから」
「……あーったく、んなこと話に来たんじゃねえってのに。幽梅、呪痣は?」
「これ? 肘くらい」
「いつもそんなもんか?」
「たまに肩くらいまでいくけど、たまにだよ」
そうか、と五条は黒々とした腕を見つめた。悟、と夏油が声をかけた。らしくもなく少し難しい顔をした五条が、ひとつ息をついた。
「幽梅、お前その手のことをどれくらい知ってる?」
幽梅はきょとんとして自分の手を見つめた。黒い手をにぎにぎと動かして、ええとね、と使える語彙を総動員する。
「墨やインクがなくても文字が書ける、のと、こうなれって書いたことが本当になる、のと、……身体が重かったり、何かゾワゾワするものに触ると黒いのが広がる、の?」
「……まーあのオッサンろくに教育してなかったみたいだし、そんだけ知ってりゃ上等か」
「悟、」
「
曰く、呪力をその身に
幽梅の場合は両腕であったが、人によって溜め込む場所は異なる。呪力の溜まる部位は痣となり、溜められる量が多いほど濃い黒になる。
「こんな墨みてーな色なら相当溜め込んでんだろ。呪痣の価値としては一級品だよ。手当り次第呪力を取り込んじまうから、並の呪霊なら触っただけで祓っちまうだろうな」
「触るだけで……!」
「……幽梅くんに呪霊が見えないのは、本来全身に纏わせる呪力も全て痣に取られてしまっているから、ですか?」
「おそらくな。自分の呪力でさえ痣に持っていかれて、腕以外には呪力がない。規格外の代物だよ。それに、……」
じ、と五条は幽梅を見つめる。その六眼を、幽梅は不思議そうに見返した。
「幽梅、お前、痛いってわかるか」
「痛い? うん、わかると思うよ。叩かれたり刺されたりすると痛いよね」
「じゃあ、それ、嫌か?」
いや、と幽梅の口が動く。少し考えて、不思議そうに首をひねった。ものは試しというように、幽梅は自身の頬をつねる。痛い、とつぶやいて、それでもなお、首をひねる。
その様子に、それぞれの背に冷たいものが走った。
「苦しみ、恐怖、哀しみ、憎しみ、怒り、……あと何だ。あー、後悔、とか羞恥、とかか? 何かピンとくるものあるか」
「……言葉の意味は、知ってるけど」
「お前の呪符が欲しいっつって縋ってたやつら見てて、何か感じたか」
「んん……何で呪符ないと眠れないんだろうなぁって思った、よ?」
まるでわかっていない様子の幽梅を、五条はじっと見つめ、小さく息をつく。困惑した様子の灰原が、五条さん、と名前を呼んだ。
あくまでも静かに、夏油が口を開く。
「……呪力だけでなく、呪力の源である負の感情までも吸収してるってところかい?」
「記録見た限りでの仮説だったんだが、合ってるっぽいな。呪痣の持ち主はほぼ短命なんだよ、何せ基本的に『人の痛みがわからない人間性』ですーぐ敵作るから、だいたい速攻で殺される」
「五条さんに言われるほどですか」
「七海お前、後で校舎裏な」
交わされる軽口をスルーして、灰原は隣から幽梅の顔を覗きこんだ。無垢で無邪気な黒い瞳が、彼を見返す。そしてじいっと音がしそうなほど、お互いを見つめあう。
灰原は視線を外すことなく、その頬を両手で挟み込んだ。う、と幽梅の口から音が漏れる。ぷす、と灰原が笑うと、ふは、と幽梅も笑った。
「なぁに、灰原くん」
「うん、やっぱ幽梅は大丈夫だなって!」
「大丈夫って何が?」
「大丈夫! だって幽梅、ずいぶん笑えるようになったもんね!」
むにむにと頬をこねながら、灰原は楽しそうに笑う。呪術師にしては珍しい、朗らかな笑顔。それを毎日のように向けられていた幽梅も、いつしか同じ顔で笑うようになっていた。
「辛いとか苦しいとかわかんなくても、楽しいとか嬉しいとかがわかるなら、大丈夫! な、幽梅!」
「たのしい……うれしい……うん、わかる。
「そっかそっか! 良かった!」
にぱー、と同じ顔で笑う二人に、五条は呆れ、夏油は苦笑し、もはや慣れた七海は無言を通す。
灰原と七海が幽梅くんのサポートについたのは正解だったな、と夏油は内心で思った。どこまでも明るく、偏った目でひとを見ることをしない灰原と、冷静沈着でありながら情に厚く、面倒見の良い七海。幽梅が「人間」を学ぶのに、これほど適した人材もないだろう。
邪気なく笑いあうふたりの様子を見ながら、それで、と夏油は言葉を続けた。
「負の感情までも吸収し、呪力をため込む呪痣。じゃあ、『書いたことが本当になる』は?」
「それはこいつ自身の術式。文字によって対象に呪い効果を付与する術式ってところかな。呪痣との相性はサイコーだ」
札に書けば呪符に。物に書けば呪具に。人に書けば、文字通りの『呪い』にもなる。
「威力は込めた呪力次第だろうが、効果の幅が広すぎる。幽梅お前、あんまりやたらめったら呪具量産すんじゃねえぞ」
「ダメなの?」
「ダメっつーか、……あー……灰原、七海、お前ら見張っとけよ」
「了解しました!」
「はい」
負の感情がわからなければ、ひとの悪意もわからない。それゆえに、その力をどれだけ搾取されても、どれだけ私欲のために利用されても気づかない。わからない。恨めない。自分の呪いがどれだけの影響を及ぼすか、知ることもないまま。それがどれだけ、危険なことか。
五条としては幽梅の面倒を見る義理などないが、それでも一応、夏油とともに幽梅を外の世界に引きずりだした自覚はある。このまま放置して、万が一にも幽梅が再び誰かに利用されるようなことがあれば、それはそれで気分のいいことではなかった。
「……あ、」
「幽梅?」
「さっき、呪符をくれって言われたから何枚か書いてあげたよ。良くなかった?」
ざっくり三秒、沈黙が下りる。
すっかり保護者顔が板についた同期は、同時に幽梅に詰め寄った。
「さっきって、あの、夜蛾先生と一緒にどっか行った人!?」
「先生は何も言わなかったんですか!?」
「先生には秘密でって、こっそり言われて」
「灰原、七海、相手の外見的特徴」
「ハゲです!」
「小太りで身長百六十程度、グレーのスーツに丸眼鏡です。禪院家の傍流だったかと」
「あー見たことある気ィするわ、ゲスのハゲジジイな」
よしよしと五条は指を鳴らす。その隣の夏油もにっこりと笑った。
幽梅くんの呪符の効果を試すのにはちょうどいいね、ああせいぜい楽しく試させてもらおうじゃねーか、と物騒な言葉が幽梅のはるか頭上で飛び交った。
「じゃ、ちょっと行ってくるから」
「ちゃんと言い聞かせとけよ」
そして最強の先輩ふたりは、機嫌よく走り去る。
その後姿を眺めながら、七海はまたやれやれとため息をつき、灰原はあははと笑った。幽梅だけがまだ、きょとんとしたまま。
「……さて、幽梅くん」
「なあに?」
「君の呪術は非常に強力なものです。それだけに、利用したがる輩も多いでしょう。誰の言うことでもホイホイと聞いていては、前の生活に逆戻りです。前と今だったら、楽しいのはどちらですか?」
「えっと、今のが楽しい」
「そうでしょう。だから以前のようなことをしていてはいけません」
「うん、わかった」
七海の言葉に、幽梅は素直に頷いた。そうだな、と考えて、灰原も続けて言う。
「幽梅、さっき呪符を書いてって言われたとき、それ『やりたい』って思った?」
「え? ……うーん、あんまり思わなかった……けど、しなきゃいけないのかなって」
「そっか、ならわかりやすくていいね! 幽梅、やりたいと思わなかったときはやらなくていいよ!」
「いいんですかそれは」
「え、いいんじゃない? だって幽梅は知ってることが少ないだけで、判断ができないわけじゃないでしょ?」
もにもにと幽梅の頬で遊びながら、迷いなく言い切る灰原。幽梅はちゃんと必要なときを見極められるよ、と笑顔を見せる。
「それに、僕たちといるときは、僕たちも一緒に考えればいいよ。そうだろ? 七海」
「……はあ。まあ、そうですが」
じゃあ決まり、と灰原は幽梅の頬から手を離す。かわりに幽梅の両脇に腕をいれ、まだ稚児かと思えるその身体を持ち上げた。呪術高専に来たばかりの頃よりは幾分か重くなったことを感じ、灰原は少し嬉しくなる。
同い年でありながら、あまりにも違う体格。同情は当然あったが、それだけではなかった。素直で、無邪気で、虐げられてきたにも関わらずひとを恨むことのない幽梅。それが例え呪痣のせいであったとしても、その無垢さは灰原には好ましかった。
「これからは幽梅がやりたいことをやろう! たくさん!」
「……うん!」
七海も一緒にね、と灰原が笑えば、幽梅も同じ顔で笑う。そんなふたりを見ていた七海も、ほんの少し、ほんの少しだけ、唇をほころばせたように見えた。