Space Sonic   作:3nhnkn

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第1話

 ふあ、とあくびをしたのが同時で、それがおもしろくて笑うと、隣の眠そうな顔も緩く笑顔のかたちに綻んでこちらを見てくれていて、何だか心臓がその笑顔にきゅっと包まれているみたいに少しだけ痛くなる。

 樋口は付き合う前と比べたら二人のときに見せてくれる表情の種類が増えた。それもとびきり優しい顔ばかり増えていくから、十五年近い付き合いがあっても知らないことが多かったのだなと実感するし、樋口の事なら何でも知りたいからその点でも付き合えて良かった。『恋人に見せる顔』は私しか知らないって事実は最高だと思うけど、この優しい顔、小糸ちゃんに向ける顔に似てるのは未だに少しもやもやする。いちいち伝えはしないし、伝えないほうがいいことがあるのくらい分かる。分かってきた。

 嫉妬ではなく、妹に接しているような態度でこちらにも向かっているのでは、というもどかしさ。私のが半年くらいは歳上なのに。第一、恋人になっているのに。

 

「眠いならアプリおとす?」

「んー、観る。もう少しみたいだし」

「えーっと……あぁ、十五分くらい。ん。観ちゃおうか」

 

 腕を机の上に乗せてそこに顎を落ち着かせ、その姿勢で立てた携帯にまた見入る眠そうな横顔を横目に、ベッドあるんだし眠らせてあげればよかったな、と似た姿勢を取りながら自分の十秒前の返事を悔いる。

 付き合い始めて三ヶ月。周りの友人は「楽しいの最初の三ヶ月だけだよ」と恋人が誰かは明かさない私にちょっとした意趣返しなのか渋い顔をして忠告してきたもので、もしかしたら今日が樋口といて楽しいと感じる最後の日なのかもしれない。

 たぶんそろそろ三ヶ月だったはず。四ヶ月かもしれない。二ヶ月ではないはず。四ヶ月な気がしてきた。もう四ヶ月でいいや、たぶん四ヶ月でしょ。

 付き合い始めた日は樋口が憶えてくれてるはずだし別に私が憶えていなくても問題ない。先月の何ヶ月目かの記念日らしい日にコンビニでアイスやお菓子を買ってくれたけど私は忘れていて、だけど樋口は「期待してない」とつっけんどんだった。なのに私の家の前で別れるとき、つまり周りにもう誰もいないとき、もう一度謝ったら「浅倉はいつもそうじゃん」とくしゃっと顔を歪ませて、本当、女の子みたいに、いや、女の子なんだけど、とにかく、小さい子みたいに笑ったから、来月は憶えていようと誓った。

 忘れてるんだけど。

 そのときはお返しに翌日の帰り道にスーパーに寄ってお肉を買って樋口家に届けた。仕事が入り休日が減ればお化粧を自分であまりしなくなるのに比例してこの色飽きたから他も試したいと思って新しいものを購入する回数も減るし、動画観たり電話する時間が減れば携帯代も安くなる。つまり先月の私も今月と同じくなかなかにリッチだったので国産牛肉を買って渡した。

 樋口家全員で分けて食べたらしい。そもそも記念日の翌日なので牛肉をプレゼントしたという意図は樋口にすら伝わっていなかったので目論見は外れたかたちに落ち着いてしまったが喜んでくれていたから良しとしている。牛肉、私なら記念日に貰えれば嬉しい。食べたい。

 

「樋口、何ヶ月目だっけ」

「は?」

「私たち」

「何、急に……三ヶ月目、……たぶんだけど」

「あ。三ヶ月か。何日?」

「今日」

「え」

 

 ヤバい。

 

「だから、今日。二十八日でしょ。今日だってば。間違ってたらごめん」

「…………うーん……」

「期待してないって」

 

 めっちゃヤバい。

 

「……なんて顔してんの。怒ってないよ」

「悲しくは?」

「ない。分かるんでしょ、どうせ」

 

 本当に怒っても悲しんでもいないっていうのが顔を見れば分かってしまうからそわそわする。もしかしたら罪悪感と呼ばれる気持ちに今襲われているのかもしれない。

 自分がどんな顔をしているのかは樋口の瞳に映る自分を見たってまるで分からないが、「なんて顔」とやらをしているんだろう。たぶん今私は憶えてなかった事に罪悪感を持っているし、そんな自分を悲しい人だと認識している――と、思う。

 喉が一回悲しいと鳴いて、だけど樋口はまた映画に視線を戻してしまっている。今観ているアクション映画は賞こそとっていなかったと記憶しているけれどそこそこヒットしていただけあっておもしろくて、お互い昨日が多忙でなく睡眠がしっかり取れてさえいればあくびもせずずっと観ていられただろう。そんな映画のクライマックスだから、記念日を一度も憶えていない私よりも楽しい映画に夢中になってしまうのはしかたない。

 また、喉がぐう、と、出なかった言葉を潰した音で「淋しい」と鳴いた。

 

「うん、すっきりした終わり方」

「次回作臭わせるの嫌いだよね、樋口は」

「嫌いっていうか……ものによる。無理矢理っぽいのあるじゃん。倒したはずのゾンビが地面から手を出してエンドロール入るとか」

「…………」

「浅倉?」

「この二人、仲良くなったんだ」

「途中から共闘してたでしょ。どこから観てないの」

「あー……観てたよ。ボーッとしてた」

「それ、観てないって言う」

 

 終盤は眠かったり考え事をしていたりであまり集中して観れていなかったが、確かに最初は夫婦仲に不満があったらしい二人も困難を乗り越えて途中から仲良くなっていた気がする。

 出会ってすぐ運命を感じて結婚して、倦怠期に入ったからとカウンセラーに相談に行って、結局二人で勝手に問題を抱えてそれを解決して前よりも愛を深めました、みたいな。アクションは派手だし出演者は美男美女で画面が綺麗だしおもしろい映画ではあったが、なんとなく私と樋口が重なってしまって少し落ち着かなかった。樋口はそんな事思っていない様子だけど、長い付き合いのうちで勝手に拗れて、周りに黙って勝手に付き合って、勝手に二人の世界で満足している辺りが、というだけだが。あまり映画に共感を持って観たことがないのではじめての経験にも落ち着かない。

 幸せそうに見つめ合ってキスをしていた。私たちのキスも人から見たらこう見えるのだろうか。

 

「ないか」

「は?」

 

 頭を振る。残念ながら樋口は非常に照れ屋なのでキスした後幸せそうに笑いかけてくれたことなど一度もない。大抵目を合わせず俯いてすっと体を離してしまうから、樋口愛用のボディミストだとかヘアオイルだとかの残り香だけ胸の辺りをふわふわ漂うのが少しだけ淋しくなる。自分からしてくれる事もあるのにいつまでも慣れる様子がないのがおもしろい、私は唇をくっつけあう行為に特に照れるという感情は持たないから尚更に。

 ただ、そういうところも理解して付き合っているし、そもそも私も「早く恋人らしい事をしたい」みたいな欲は薄い……ないと言っても嘘にならないかもしれない。

 それなら幼馴染のままでよかったのでは?と自問した事が一度だけあった。そんなわけはない。だって、こういうかたちにでも収まらないと樋口は誰かに攫われただろうから。

 人見知りなのに最初から感情を剥き出しにして接していたプロデューサーは優しく樋口を受け入れる。アイドルとして歌い踊る綺麗な樋口は色々な意味を含む視線を多く得ていて、もしかしたらその中の誰かと特別な関係になる可能性もあった。

 人はどうやら恋愛そのものが大好きで、今まで意識したことがなかったが映画やドラマにはそういう要素がだいたい含まれているし、入っていると売れるのだろう。売れるということはつまり興味を持つ人が多いということ。樋口もそういう流れに巻き込まれる、あるいは進んで流れに加わる可能性は大いにあって、彼氏ができた友だちの付き合いが悪くなるのは中学生になった辺りからずっと経験しているので知っている。

 

「何か探してるの?財布なら私のバッグ」

「樋口はさ、私を抱きたい?私に抱かれたい?」

「…………は?」

 

 樋口が放課後に寄る建物はうちではなくて彼氏の家になったり、仕事で疲れたらそれを癒やしてほしいと求めるのは彼女になるのかもしれない。学校と仕事の両立は難しいとどうせ頑張れてしまうのに意地悪を言ってプロデューサーを困らせてそれを楽しむのを日課にしたりとか。それは嫌だった。嫌で堪らなかった。

 樋口に今までそういう人がいなかったのは偶然の幸運でしかないと十七年生きてきてやっと気付いた。ならその幸運は他人に奪われる前、いただけるうちにいただいておくしかない。

 ちなみに告白したとき樋口はものすごく動揺して難聴のフリをしたし何度か「恋人になりたい。樋口に恋人作ってほしくない。樋口の恋人、私じゃなきゃ嫌かも」と伝えたら泣き始めて、嬉しいと泣く人がいるらしいけれどまさか嬉し泣きするタイプだとは知らなくて驚いた。私のことは好きだろうし嬉しくて泣いたんだろう、きっと。

 涙がおさまったら今度はロキソニンを飲んで蹲ってしまった。家の前だったしすぐ近くに水はあるのに、水で飲んだほうがいいと教えても彼女は飲み物を全部飲んでしまっていた為持っていなかったから渡した私の炭酸飲料で薬を飲んでしまって、水を買ってあげればよかったなと今でも後悔している。

 結局返事は催促五回目の半月後に事務所で「はぁ……まぁ……いいよ……飽きたら勝手に終わっていいし……」と明らかに友人の気紛れだと決め付けている言葉でもらえた。恋人になってもいいという許可だったので私は内心喜んだが、後で聞くところによるとまるで表情が動いていなかったらしい。まぁ、受けてもらえると信じていたので、当然かなって気持ちが強かったせいでそうなったのかもしれない。

 本気だという気持ちの証明方法の手段としてその場でキスをしてみたら樋口はまた少し泣いた。こんなに泣き虫だったかな、と疑問に思ってソファで蹲っている背中を擦り続けるとまたロキソニン飲もうとしたのでさすがに止めた。飲み過ぎはよくない、胃が荒れるらしいので。

 そして樋口はまた、告白したときのように難聴のフリをしている。映画の最初と最後、夜の生活について触れていたのに触発されて質問したのだが突然に感じたのかもしれない。

 

「……アプリ落とすよ」

「ありがと。で、どっち?」

「…………次何か観る?眠いなら寝る?」

「ふふっ、積極的だね」

「はぁ?は?はっ?いや、……は?」

「冗談だけど」

「アイドルしてなきゃその顔叩いてる」

 

 口ではこういうことたまに言うけど実際に顔を叩かれたことなんて一度もない。ちょっと樋口の叩き方に興味があるので左の頬を差し出してみる。胡乱そうに目を細めため息をつきながら、叩くというよりは撫でると呼ぶ強さで頬を指の腹が掠っていった。

 

「んー、別にこのままでもいいんだよね」

「まぁ、だろうね」

「でも水って腐るじゃん」

「……前に比べたらかなり説明できるようになってる。だからちゃんと説明して」

「あー、うん。ごめんね。えっと、気持ちいいんだよね。みんなといるのとか、樋口といるの。でも樋口は恋人になってほしかった」

「……そういうのいいから」

「言ってって言ったの樋口だよ。んっと、で、気持ちいい水を一ヶ所に集めるじゃん。すごく楽しいよね」

「うん、まぁ、言いたい事は何となく分かる」

「でも水って腐るらしいんだよね。このままじゃ私たち腐るのかなって思って。流していかないといけないのかも」

「要するに今のままだと倦怠期っていうかマンネリ化っていうか……とにかく変化がほしいってこと?」

「そう、それ。ふふ、さすが樋口」

 

 私は説明が上手くないらしい。プロデューサーにちゃんと考えてる事を伝えないと伝わらないと教わったし、伝え方も教わったけれど、人のせいにするつもりはないがそれにしたって樋口が傍にいる人生を生きてきた私がこの手のことが得意になるわけがない。言わなくても意思を汲んでもらってきた人生だ。そもそも伝えたい強い意思自体持った経験はあまりないのだけれど。

 しかし伝わっているようで伝わっていないことも多いようで、認識の摺り合わせも大切だというのも最近学んだ。

 言いたい事を理解できた樋口は目線を泳がせ、ドアを見つめて、先ほどまで映画を映していた携帯を見た後、自分の携帯に最後視線を落ち着かせ、髪を人差し指で巻いていじりながら口をもごもごと何か言いたそうに動かし始めた。

 時間はある。三ヶ月で終わる関係じゃないから、何を言うつもりか一緒に携帯を見ながらゆっくり待つ。

 

「…………い」

「……ん?」

「だから、っいや……いい、浅倉、どっち」

「どっちでもいい」

「じゃあ私だけ言うの不公平でしょ」

「不公平でも言ってほしいし」

「……っ抱、……き、たい」

「…………へぇ、」

 

 ぐあ、っと全身の血が顔に集まる錯覚があった。

 この人、涼しい顔して私の隣に立ちながら、幼馴染たちの前で同級生の顔しながら、私の事抱きたいって考えてたんだ。

 どういう「抱きたい」だろう。ちょっと触りたいとか?違うだろうな。ぐちゃぐちゃにしたいとか考えていたんだろうか。

 そうか。

 

「うわ……ヤバい……あーこれ……ヤバいね……めっちゃ興奮する……してる……」

「は?知らない。離れて。考えるのもだめ」

「無理でしょ……すごい……これ……ライブよりこう、心臓ばくばくって……動いてないのに、こんなふうになるんだ……」

「仕事ちゃんとして。こんな事で赤くならないでよ」

 

 どの口で、と呟いた声が聞こえたのか顔を隠した指の間越しにギロリと睨まれるけど、耳や顔どころか首元まで赤くしてる顔で睨まれてもまったく怖くないし、むしろかわいい。睨みたいならもっと睨んでくれていい。抱きたい女なんだろう、目の前にいるのは。ならひどく扱ってくれていい。「好きにして」、よくドラマとかで女が好きな男に言うの聞くけどまさにそれだ。好きにしてほしい。

 樋口に負けず劣らず顔が赤くなっているかもしれない。暑くて顔を手でパタパタと扇いでも効果がなくて少しだけ息苦しい。これ言うと真面目な樋口は仕事で緊張してって怒りそうだが、たぶん人生で今一番心臓ばくばく鳴ってる。

 

「いいよ。抱いてよ、今夜」

「こんや、って、そんなの、そんな急に」

「記念日なんでしょ?」

「だからたぶんだって、明日かもしれない」

「嘘。樋口は絶対憶えてる。樋口が言うなら今日なんだよ」

 

 横にある体に向き合って肩に手を添え、ゆっくりと床に押し倒す。抵抗のない体はそのまま密着した冷たい床に熱を移しながら、泣きそうにまた瞳を滲ませながら見上げてくるから堪らない。

 

「考えてた事、全部してほしい。記念日忘れてたから用意ないし、私、あげる。欲しいでしょ」

「っ…………バカ、バカ、」

「んー……バカじゃないよ。たぶん」

 

 バカだったら、周りの水が腐ったことにも気付かずにそこで揺蕩う、半分死んだような魚のままだったろうから。

 ――ただ、結局この晩、抱きたいという樋口の希望を叶えずに樋口のたどたどしさにまた興奮した私が樋口を抱く側になってしまったので、その際に言われた泣きながらのか細い「バカ」は甘んじて受けておこうと思う。

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