その1
幼い頃の話である。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、か弱い少女であった。魔法が使えないということを気に病んで、一人涙を流すような、そんな可憐な少女であった。上の姉二人は美しく、立派なメイジであった為に、彼女の中の劣等感は日が経つごとに膨らんでいった。
魔法が出来ない、それを指摘されるたびに、ルイズは一人逃げ出し『秘密の場所』で隠れて震えていた。何度も何度も、そんなことを繰り返した。
彼女の母親は、そんなルイズを見てどうしたものかと考えた。考えて、そして出した結論は一つ。
「ルイズ」
「……はい、母さま」
これを持ちなさい、と彼女はルイズに一本の木剣を差し出した。恐る恐るそれを手にとったルイズは、これで一体何をするのかと自身の母親の顔を見る。
同じように木剣を構えたルイズの母親――カリーヌは、貴女にまず必要なことは魔法の使い方ではない、と言い放った。それ以前の、根本を見直さなくてはいけない。そう言いながら真っ直ぐにルイズを見る。
「魔法を使う為の気高く強い心を身に付けるには、何よりも強靭な肉体を持つことが必要です。さあ、その剣を構えなさい」
「……母さま、その、わたしは……」
剣を構えようとするが、しかしその切っ先はだらりと下がっている。出来ない、出来っこない。無理だ、不可能だ。そんな言葉が彼女の頭を巡り、思わず目尻に涙が浮かぶ。
そんなルイズを、カリーヌはそっと抱きしめた。しょうがない娘ですね、と苦笑しながら、大丈夫、と彼女は続けた。
「なら、私が貴女に一つだけ魔法を授けてあげます」
「え? ……で、でもわたしは、魔法が」
「いいえ。貴女でも、いえ、貴女だからこそ出来る魔法よ」
そう言って、カリーヌはそっと彼女の胸をつつく。そして、優しく微笑んだ。そのまま彼女の両手をそっと包み込む。
「貴女の勇気が足りなくなった時、手の平に『勇気』と書いて舐めてみなさい。私が指し示したそこに、貴女の中に眠っている沢山の勇気を引き出す切っ掛けになってくれるわ」
「わたしの、沢山の、勇気……」
言われた通りに、手の平に『勇気』と書き、それをペロリと舐めてみた。不思議と、自分の中に自信が湧いてくる気がした。
さあ、では始めましょう、とカリーヌはルイズから少し離れ剣を構える。分かりました、とルイズも真っ直ぐに前を向き剣を構えた。
「良い目です。貴女はきっと、立派な騎士になれるわ」
「……騎士に……?」
「ええ。どんな困難も打ち破ることが出来る、勇気ある騎士に」
そうやって笑った自身の母親を、その言葉を。ルイズは今も覚えている。成長し、あの『魔法』がちょっとした暗示だったと聞かされてからでも、その思い出は色褪せない。
彼女の父親が、何故お前は娘を騎士にさせようとするのだと呆れたように文句を言っていたのは、残念ながら記憶の海に沈んでしまっていた。
木剣のぶつかり合う音が聞こえる。片方はルイズ、笑顔で相手の攻撃を受け流しながら、目の前の少年の成長を喜んでいる。もう片方は才人、こちらは少し真面目に表情を引き締めつつ、しかし動きはどこまでも自然体であった。
「まさかこの一ヶ月でここまで成長してくれるとは思わなかったわ」
「そら、どう、も、っと!」
「うん、甘い」
胴を狙ったその一撃はあっさりと防がれ、ぶつかり合ったそこを基点に舞うルイズの反撃を脳天へと叩き込まれる。脳を揺らされた才人はそのままゆっくりと崩れ落ちた。
と、なるのが今までだったが。今回はそれを読んでいたのか、彼はそれを受け止めた。あら、と驚いたような声を上げるルイズに向かい、才人が今度はこっちの番だと言わんばかりに木剣を斬り上げる。
それを少しだけ体をずらすことで躱したルイズは、振り切られた剣を下からかち上げ目の前の相手の体勢を崩す。おわ、と後ろに傾いた体を持ち直そうと才人は足を踏ん張り。
「はい、残念」
ルイズから掌底を顎に叩き込まれ盛大に吹っ飛んだ。ゴロゴロと地面を転がり、仰向けの状態で大の字に倒れる。脳を若干揺らされている所為か、すぐさま起き上がるのは無理そうであった。
「あー、ちくしょう。また負けた」
倒れたまま悔しそうに才人はぼやく。そんな彼に、まあしょうがないわよとルイズは笑いかけた。倒れている彼へと近付きながら、だって、と指を一本立てる。
「わたしは小さな頃から母さまと父さまに鍛えられたのよ。いくらサイトが才能あるっていっても、そう簡単には追い越せないわ」
「あー、修業の果ての達人級ってやつか。でも、悔しいもんは悔しい」
「そう思うなら、強くなればいいのよ。ほら立つ、もう一回やりましょう」
「はいはい、っと……おおっ!?」
倒れている彼の眼前で少し屈み手を差し出したルイズを見て、才人は思わず固まった。その視線は、彼女の顔でもなく差し出されている手でもなく、それより下の一点に向けられている。
ちなみに現在の場所はトリステイン魔法学院、当然ルイズの服装も学院の制服である。もう一度体勢を述べると、才人は大の字に倒れ、ルイズはそんな彼の眼前に立ち少し屈んでいる。
「……発情期の犬は、どう始末すればいいかしら」
「ふ、不可抗力! 不可抗力であります! っていうか普段からその服装で切った張ったやってんだから割と結構な頻度でチラチラ見えてこっちも困ってんだよ!」
「……それは、わたしの下着が、み、みみみ見るに耐えないとでも、言うのかしら?」
「いや、その正直堪らんのですけど、そういう意味じゃなくてですね……」
ふん、という声と共に振り下ろされた足に頭を潰され、才人はそのまま意識を一瞬にして吹き飛ばされた。そのまましばしグリグリと頭を踏み付けたルイズは、まったく、と溜息を吐く。
「気高く強い心は、何よりも強靭な肉体を糧とする。……こいつの場合は肉体ばっかで心が駄目なのよね」
「そうですか? あの時見た限りでは立派な殿方のように見えましたが」
「そんなことありません! まあそりゃ今までわたしの見た中では一番素質があるかもしれないですけど、それ以外がてんで駄目です。スケベですし」
「ふふっ。好色といっても、好きな女性を手篭めにすると豪語して憚らないくらい豪胆ならば、それもまた素質ですわ」
「そこまで突き抜ければそうかもしれないですが――」
そこでルイズの動きがピタリと止まる。今自分は一体誰と話していたのだ、と慌ててその方向へと振り向いた。そして、目を見開いた。
気品ある顔立ちと、つややかな髪。薄いブルーの瞳は透き通り、目の前の驚愕の表情を浮かべているルイズを目にして少しだけ細められる。細くしなやかな指が口元へと移動し、クスクスと笑ったことで上がった口角を覆い隠した。
「……ひ、姫さま」
「はい。こんにちは、ルイズ」
「いやいやいやいや! な、ななな何で、ここに!?」
「遊びに来ました」
姫さまは――トリステインの王女アンリエッタは、笑顔のまましれっとそう述べた。
「枢機卿がそろそろ『ただの骨』になるのでは?」
「冗談が上手いのね。わたくしもきちんと仕事はしているのよ」
再起動した才人を伴って自身の部屋まで戻ってきたルイズは、お気に入りの紅茶を振る舞いながらアンリエッタに向かいそう述べた。が、彼女は気にすること無くさらりと返す。
実際、名目こそ王女であるものの、彼女の行っている公務は現在空位であるトリステインの王座のそれと遜色はない。それでも即位をしない理由は単純明快で、気軽に抜け出せないから、である。
「姫さま、曲がりなりにも王女なのですから、普通はどうあっても気軽に抜け出せないです、はい」
「飼い主のいない鳥は、鳥籠を蹴破りたくなるものです。そうでしょう?」
ああ言えばこう言う。微笑を浮かべたままでそんなことをのたまうアンリエッタを見たルイズは、毎度のことながら、と溜息を吐いた。
「それで姫殿下、こんな下賎な場所にお越しになった理由は如何なものなのでしょうか?」
「遊びに来た、と言ったでしょう。別にそんな身構えなくともいいのですよ」
クスクスと口元を隠しながら笑った彼女は、そこで二人の話をぼうっと聞いていた才人に目を向けた。そういえばあの時はあまり話していませんでしたね、と彼に向かって声を掛ける。
「貴方のお名前をおっしゃって」
「あ、はい。才人、といいます」
「サイト……変わった名前ですね」
「よく言われます」
あはは、と笑った才人は、続いてルイズに視線を移した。説明して欲しいのがその仕草で伝わったのか、彼女ははいはいと肩を竦めながら口を開く。
才人は彼女の名前や地位は以前ざっとだが聞いている。タバサがガリアのトップと同じくらいアレだと話していたのも覚えている。だから彼が聞きたいのは、単純にルイズとの関係と今の状況だ。
「小さい頃にね、遊び相手を務めさせていただいたのよ」
「ああ、幼馴染か」
成程、と手を叩いた才人は、だからこうやって今も遊びに来るんだな、と一人納得した。そして、まあそういうことよと簡潔な説明を終えたルイズは、改めてアンリエッタへと向き直る。
「で、何しに来たんですか?」
「堅苦しさが無くなった代わりに棘が付いたわね。そんなにわたくしの言葉が信用出来ませんか?」
「勿論」
「わたくしが女王ならば不敬罪で罰する場面だけれど」
「自由の代償は素直にお受けになった方がよろしいかと」
「言うわねルイズ」
「いえいえ」
うふふ、と二人で邪悪なオーラを出しながら淑女の笑いを醸し出すのを見た才人は、ああこれはこれから絶対マズいことになる、とゆっくり距離を取り始めた。逃げるな小僧、とルイズの背中の剣の鍔がカタカタ鳴っていた。
扉の前までさりげなく移動した彼は、じゃあ後はごゆっくりとそこに手を掛けた。その途端、扉は才人の意思とは無関係に開き、彼に向かって真っ直ぐに迫ってくる。ごん、と気持ちいいくらい大きな音が響き、扉とディープキスをした彼はその場に蹲った。
「あ、ごめんなさいサイト」
中に入ってきたキュルケは扉の影でプルプルと震えている才人を見て察したらしく、素直に謝った。続いて入ってきたタバサはそんな彼を見て顔面に治癒を掛ける。
さてでは何故こんな場所にいたんだ、と二人は才人に問い掛けようとして気付いた。ルイズの対面に座っている客人がいることに。非常に面倒な人物が来ていることに。
「どうやら、役者が揃ったようですわね」
そう言ってアンリエッタは笑う。さあこっちにいらして、と二人を呼び、扉を魔法で閉め、ご丁寧に鍵まで掛けて。どこかで誰かが盗み聞いていないか、覗き見ていないかまでわざわざ確認し。
「本題と、参りましょう」
微笑みを絶やすこと無く、紅茶のカップに口を付けた。
「やっぱり何かあるんじゃないですか」
ルイズのそんな抗議など何処吹く風、アンリエッタはぐるりと一同を見渡すと、実は悩みがあるのですと言葉を紡いだ。ちなみに、わざとらしく溜息を吐いているが表情は変わらず笑顔のままである。
「結婚するのよ、わたくし」
「え?」
ルイズは信じられないものを見る目でアンリエッタを眺める。口には出さないが、同時に心の中でこう思った。こんなのを貰ってくれる奇特な人がいるのか、と。
が、すぐに持ち直した彼女は努めて笑顔でおめでとうございますと述べた。キュルケもタバサも、それに続いて同じように告げる。才人もよく分からないまま同様にした。
アンリエッタは四人の祝いの言葉にありがとうと一言述べ、そこで初めて笑顔を崩した。表情を沈んだものに変え、いかにも問題がありますと言わんばかりのオーラを纏う。あまりのわざとらしさに、思わず聞かずにはいられないほどだ。
「何か、問題があるのですか?」
「ええ……。ルイズ、貴女は結婚に一番必要なものは何だと思います?」
「……絆、でしょうか」
成程確かに家族の絆は何より大事なものだ。そう言いながらもアンリエッタは少し不満そうな顔でキュルケに目を向けた。そして、同様の質問を行う。
「そうですね。ルイズと近くなってしまいますが、やはり愛だと思いますわ」
「愛! ええ、夫婦の愛は無くてはならないものです。欠けるわけにはいきません。……ちなみにミス・オルレアンは如何ですか?」
「金」
「生きるためには何より必要、ええ、ええ、綺麗事など言ってられませんもの。確かにその通りですわ」
うんうん、と頷き。しかし求めている答えはこれではないとばかりに溜息を吐いた。
それに首を傾げるのは答えた三人である。一体全体アンリエッタは何を求めているのだろうか。恐らくそれが分からないことには話が進まず、この時間が終わりを告げることもないであろうことは容易に想像がつく。とはいえ、分からないものは分からない。
しょうがない、と一同は残った一人に視線を集めた。果たして答えを導き出してくれるだろうか、そんなことを思いながら、三人はアンリエッタが才人に問い掛けるのを静かに見ていた。
問い掛けられた才人は才人で、謎のプレッシャーに頭を抱えていた。ここで正解を出せないと何か色々なものが終わる気がする。戦々恐々としながらも、彼女達が問われていた時から考えていた答えを、彼はゆっくりと口にした。
「け、結婚に一番必要なもの、は……」
「必要なものは?」
「結婚相手、かな?」
しん、と場が静まり返った。ルイズも、キュルケも、タバサも。才人が出した答えを聞いて思わず固まってしまっている。アンリエッタがどんな表情を浮かべているかなど気にしてられないほどの衝撃を受けた結果であった。
「あ、あああ、アンタ、ばっかじゃないの!?」
「いや、流石にそれはちょっと」
「当たり前過ぎる」
「いやそりゃ当たり前だけどさ。一番必要なものっていうくらいだから、根本かなって思ったんだよ」
根本過ぎる、と三人は同時に才人に叫んだ。はぁ、と溜息を吐きながら、ルイズは申し訳ありません姫さまと視線を彼からアンリエッタに向け。
「ええ、ええ! その通りです! 結婚するには何より相手が必要、素晴らしい回答ですわ!」
「……は?」
目の前の相手は主君であるにも拘らず、ルイズは思わず何言ってんだこいつ、と口に出しかけた。それほどの衝撃であった。
そして同時に思った。相手いないのに結婚するとか言い出してたのかこいつ、と。
「ルイズ、心配せずとも相手はいます」
「ひぇ!? ……口に出してました?」
「とても分かりやすく表情に出ていましたよ。相手もいないくせに結婚宣言とはなんと頭のめでたい王女なのか、と」
笑顔でそう述べピシリと固まったルイズを尻目に、アンリエッタはこほんと咳払いを一つ。そして、これから話す依頼こそが本題なのだと述べた。
依頼、すなわち、自分達に何かをやってこいということだ。そのことを理解した一同は、ああきっと碌な事にならないだろうなと思い溜息を吐いた。いっそ国が違うからと言って断ろうか、とキュルケとタバサは考えたが、冒険者としての自分達に向けてならそれも難しいかと頭を抱える。
貴女達にやってもらいたいことは一つ。そう言うと、アンリエッタはクスクスと笑った。優雅で、美しく、そして一同にとっては爆弾投下の合図に等しい笑みを浮かべた。
「アルビオンのウェールズ皇太子を、トリステインまで招致して欲しいの」
「もっともらしいこと言ってますけどそれぶっちゃけ誘拐ですよね!?」
ああ聞く前に逃げればよかった。ルイズの叫び声を聞きつつ、キュルケとタバサは心からそう思った。
立ち位置的には間違いなく悪役。