ハルケギニアの小さな勇者   作:負け狐

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引き続き舞台は公爵領。


キル・ユー・ベイベー
その1


 目の前には、愛しい女性がいる。彼にとって現在の自分を形作った相手であり、命を懸けて守りたいと誓いを立てている女性だ。実際は彼の方が彼女を追い掛けている形になっているが、それでも彼はいつか追い付き、そしてその手を取ろうと心に決めていた。

 そんな彼女が、今、自身の目の前で。

 

「愛してるわ、サイト」

 

 別の男に愛を囁いている。自分には見せたことのない表情で、憎きあの男に向かって、熱い言葉を紡いでいる。

 よく見れば彼女とあの男の距離は目と鼻の先。今にも唇が触れそうなその状態で、彼女は吐息を男に吹きかけながら、そっと首に手を回す。

 

「わたしは、貴方のものよ。全部、好きに、して」

 

 ゆっくりと彼女は男と口付けを交わす。くちゅりと唾液と唾液が混ざり合う音が静寂を打ち消し、そして唇が離れるとそこからツツと蜘蛛の糸のような二人の接吻の名残が生まれる。

 彼は動けない。何故だ、どうしてだ。そんな言葉を叫ぼうとしても、口を動かすことすら出来ない。ただただ、愛しい女性が別の男と逢瀬を重ねるのを見せつけられるのみだ。

 目を閉じようとした。だが、まるで自分は眼球のみの存在になってしまったかのように、一切の行動の自由が利かない。否、彼女の声が聞こえるということは、耳もまだ存在しているのだろう。だからどうした、それが一体何の慰めになる。彼のそんな悲痛な声は、自身の脳内でしか木霊しない。

 目の前の愛しい女性は、ゆっくりとブラウスに手を掛けていた。やめろ、やめてくれ。そんな彼の懇願とは裏腹に、彼女はその胸をはだけさせ目の前の男に見せ付ける。小さくて悪いけど。恥ずかしげに顔を赤くして視線を外す彼女はとてもいじらしく美しかった。そこに立っているのが自分ではないということを除けば、彼にとっては望むべき光景だったかもしれない。

 だが現実は彼女の寵愛を受けているのは彼ではなく、あの男。彼女の美しい肢体を味わうのも、あの男。

 自身の婚約者の純血を奪うのは、あの、男。

 

「さあ、サイト……。わたしのここ、めちゃくちゃにして」

 

 そう言って、愛しい彼女はゆっくりとスカートに手を添え――

 

 

 

 

 

 

「ルイズぅぅぅぅぅ!」

 

 飛び起きた。荒い息を吐きながら、チカチカと瞬く視界で辺りを見渡す。ここは、とぼんやりとした思考を巡らせ、ああそうだったと頭を振った。

 ここはトリステインの魔法衛士隊の隊舎の一室。昨夜は仕事が長引いたのも相まって王都にある自身の館ではなくここで寝泊まりをしたのだった。そのことを思い出した彼は、悪夢によりぐっしょりと濡れたシャツを脱ぎ捨て着替えを手に取った。

 

「……最悪の目覚めだ」

 

 彼はそんなことを呟く。自身の婚約者が寝取られる夢を見て喜ぶ趣味は彼にはない。だからあれは悪夢以外の何物でもなかったし、どうあってもあれを現実にするわけにはいかない。出会ったあの時から気に入らなかったあの男に、愛しい彼女を渡すわけにはいかないのだ。

 とはいえ、と彼は溜息を吐く。ここのところ仕事が忙しく、彼は彼女にさっぱり会いに行けていない。王宮で良からぬことを行っている連中がそこそこの数いるらしく、それらの炙り出しで東奔西走しっぱなし、休暇は屋敷で自身の領地の書類を読みながら眠る日々。グリフォン隊隊長という役職の関係上致し方ないことであったが、それでも彼はまだ若い男なのだ。職務に準じるにしても限界がある。

 ここで仕えるものが暗愚であればまだ良かった。真っ当な王であるならば忠誠を誓えた。

 だが実際は、最近メキメキと魔王としての頭角を現してきた美しい姫君ときたものだ。ちょっとでも隙を見せるとあっという間に骨の髄まで利用されてしまう。そんな状況で、個人的な休暇など取れるはずもなかった。

 

「やめよう。これ以上考えていると気が滅入る」

 

 着替え終わった彼は部屋を出る。同じグリフォン隊の部下はすれ違う彼の顔色を見て大丈夫ですかと尋ねたが、彼はそこでああと短く答えるのみ。余計な心配を掛けさせる気はない、と彼自身思っていたのだが、しかしどうやら予想以上に彼の精神は参っていたらしい。

 王宮へと向かう途中、丁度良かったと声を掛けた女性ですら、彼のその顔を見て心配したくらいなのだから。

 

「……君に心配されるいわれはない」

「そうかもしれないですが。しかし子爵……今にも死にそうな顔をしていますよ」

「問題ないと言っている。いいから用事を言え、私も暇ではない」

 

 ふう、と女性――アニエスは溜息を吐く。それならば遠慮なく、と懐から一枚の指令書を取り出すと、姫殿下からのご命令ですとそれを手渡した。

 その言葉に彼は顔を顰める。わざわざ指令書を用意してまで何をやらせるというのだ。そんなことを思いながら、彼は渡されたその紙に目を向けた。目を向け、そしてその目を見開いた。

 

「……本気か?」

「その問い掛けをされた場合、わたくしはいつでも本気ですわと伝えて欲しいと言付けを頂いています」

「ああ、そうか。愚問だったな」

 

 グシャリと指令書を握り潰す。そんな精一杯の反抗を行った彼は、諦めたように溜息を吐いた。このことについて、他に情報はないのか。そんなことを言いながら視線を目の前のアニエスに向け、自身はこれからの予定を立てるべく思考を巡らせる。

 そんな彼の言葉を聞いたアニエスは、ならばこれを、ともう一枚の羊皮紙を取り出す。子爵がそう述べたらこれを渡すように言われたというそこには、指令書の続きが記されていた。

 

「言わなかったらどうするつもりだったんだあのお方は……」

「子爵ならばきちんと情報を集めてくれるはず、という信頼の表れでしょう、多分きっと」

 

 アニエスの心にもない言葉を聞き流しつつ、彼はその新たな指令書に目を通す。最初の一枚目はとある人物を王都まで案内するようにという概要と対象の名前。そして二枚目は現在その相手がどこにいるのかを記した詳細であった。どう考えても二枚で一組である。

 まあもうそれはどうでもいい、と彼は思う。この程度の悪戯は問題にならない。今回の問題は、その対象者が誰であるかということだ。

 

「本気で『彼女』を呼ぶ気か?」

「……詳しいことは聞かされておりません」

 

 先程とは違う返事。アニエスの言葉に真剣さを感じた彼は、そうかと短く返すと改めて指令書の二枚目を眺めた。対象者のいる場所を確認し、少しだけ吊り上がっていた眉を下げた。

 

「まさか、このタイミングであの場所にいくことになるとは」

「指令を受けた場所に何か?」

「……君も知っているだろう? あの娘の故郷さ」

 

 彼の言葉に、アニエスは成程と頷く。そして、だから殿下はあんなことをと納得したように顎に手を当てた。

 これ以上何かあるのか。そんなことを思いつつ、彼は彼女に再度尋ねる。まだ何か姫殿下から言付かっていることがあるのか、と。どうせ碌な事ではないだろうが、という言葉は心に秘めた。

 

「大したことではないですが」

「何だ?」

「暫し向こうに滞在するのも構わない、と仰っていました」

 

 そして、とアニエスは続ける。これはわたくしの独り言ですが、と前置きをして述べた言葉を、彼に伝える。

 

「今ルイズは帰郷しているので屋敷にいるはずだ、と」

「グリフォン隊隊長、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。姫殿下の命を遂行するため、すぐさまラ・ヴァリエール公爵領へと向かう!」

 

 まるで掻き消えるような速さでグリフォンの檻へと駆けていくワルドを見たアニエスは、やれやれ、と肩を竦めた。

 

 

 

 

 

 

「いや、死ぬから」

「何ヘタれたこと言ってんのよ」

 

 中庭にある椅子に体を預けながら力尽き動けなくなっている才人はそう述べた。が、当の主人はそんな彼にピシャリとそう返すのみ。まったく、と息を吐きつつ、傍らに控えているメイド達に目を向けた。

 

「まあ、しょうがないですよ」

 

 そう言ってにこやかに微笑むのはここラ・ヴァリエール公爵の屋敷のメイド長である。切り揃えた黒髪と垂れた目が何とも可愛らしい女性であった。年は二十そこそこに見えたが、しかしそこに纏う雰囲気はエレオノールよりもずっと年上に思えた。

 

「ルイズお嬢様に加えて、カトレアお嬢様、そして奥様と旦那様。四人に代わる代わるしごかれれば普通は文句の一つも言いたくなりますし」

「あの、ダルシニさん。普通は文句言う前に死にますよ」

 

 ルイズに紅茶のお代わりを注いでいたシエスタがそう言って苦笑する。才人のさっきの愚痴を肯定するようなその言葉に、ルイズはむくれたような表情であんたもそんなこと言うのかとジロリと彼女を睨んだ。

 そんな彼女をまあまあとダルシニが宥める。自分も大小の差はあれど同じ意見を言ったのだから。そう続け、空を見上げて口を半開きにしたまま動かない才人へと近付いた。

 

「大丈夫?」

「うぇ? あ、はい、大丈夫です」

「その割には、さっきから動けないみたいだけれど」

 

 笑みを浮かべたまま、彼女は才人の額に手を伸ばす。ひんやりとしたその手の気持ちよさで少し表情を緩めた才人は、しかし少し気恥ずかしくなって視線を逸らした。逸らしたその先では、呆れたような顔をしているルイズが見える。あんたって本当に年上の色気に弱いわね。肩を竦めながらそう呟いた彼女の言葉に、いや別にそういうわけじゃと彼は返した。

 

「あら? わたしに興味があるの?」

「……いや、まあ、えっと」

 

 視線を彷徨わせる。そんな彼を見てダルシニはクスクスと微笑み、ルイズとシエスタも楽しそうに笑った。からかわれた、と才人が気付いたのはようやくそこであり、なんだよもうとへそを曲げてそっぽを向いてしまうのも仕方ないかもしれない。

 姿勢を正し、溜息を吐く。どうやら動ける程度には回復したらしい才人は、ダルシニの用意してくれた紅茶を飲みながら、今日はこれからどうするんだとルイズに問うた。

 

「そうね。どうしようかしら」

 

 今の状態では流石に才人に修行をつけてもあまり良い効果は得られない。となると何か別のことをとなるわけだが、生憎すぐにアイデアが出るわけではなかった。シエスタに視線を向けると、ここらの土地勘がない自分では無理だと首を横に振られる。まあそれもそうか、と頷くと、残っている一人に意見を求めた。

 

「エレオノールお嬢様がここでも出来る研究の助手を探していましたよ」

「パス」

「……俺が言うのもなんだけど、いいのかそれで?」

「いいのよ。だって姉さまの助手なんてこき使われるのが目に見えてるもの」

 

 場合によっては公爵領中を掛け回される羽目になる。半ば確信を持ってそう述べたルイズに、才人もそうかと頷くことしか出来ない。ここで反論しエレオノールの手伝いをした結果彼女の言う通りになった場合目も当てられないからだ。

 しかしそうなると何をやるかという当初の問題の答えが出ないわけで。適当に探検でもするか、という才人の呟きにまあその辺が妥当かしらねとルイズが頷くことと相成った。

 

「つっても、ルイズはこの辺実家なんだし分かりきってんじゃねぇの?」

「まあね。小さい頃は色々無茶やったわ」

 

 使用人が顔面蒼白になる程度には無茶をやった。父が盛大に溜息を吐く程度には無茶をやった。そして、それらに慣れてまたかと皆が苦笑するようになる程度には、無茶をやった。

 

「でも、小さい頃よ。もうここ数年はご無沙汰だわ」

「それでも数年かよ」

 

 そう言いつつ、よくよく考えると小学生まで無茶してた程度なら確かにそんなものかと才人は思い直す。こちらと自分の世界を完全に重ねることは出来ないであろうが、まあこの程度の思考は問題あるまい。一人納得しながら、彼はじゃあ決まりかと席を立った。

 

 

 

 

 ルイズと才人が懐かしき探検魂により屋敷を出発してから数刻。一頭のグリフォンが屋敷の入口へと降り立った。守衛に来訪の旨を伝え、そして許可を取る。屋敷の主である公爵にとって知らない相手ではなかった彼は、そのまますんなりと屋敷の中へと通された。

 

「おおワルド。久しいな」

「はい、お久しぶりです公爵様」

 

 そんな言葉を交わした後、二人は薄く笑った。自分とお前の仲だ、そう固くならずともいい。そう公爵はワルドに伝え、まあ座れと対面のソファーを差す。

 

「それで、一体どうした?」

「いえ、実は姫殿下の命によりとある方を王宮に案内することになりまして」

 

 ピクリと公爵の眉毛が動く。わざわざここに来てその話をするということは、自身かあるいはそれに近しい相手であると予想を立てたのだ。そして同時にエレオノールとルイズのどちらかではないのだろうとも思う。彼女達は現在トリスタニアと魔法学院で暮らす身なのだから。

 

「その、案内する相手というのは?」

「はい」

 

 頷き、ワルドは周囲を見渡した。いるのはメイド達と執事のみ。メイド長の片割れであるアミアスの姿がここにないということは、この場にいない公爵夫人の方に付いているのだろう。そう判断したワルドは少しだけ安堵の溜息を吐き、再び公爵へと視線を向ける。

 

「『魔女』を、案内するように、と」

「姫殿下が、直々に、か?」

「はい」

 

 公爵はその言葉を聞きううむと唸る。確かにノワールとアンリエッタは師弟関係だが、二人が出会うことは滅多に無い。それこそ、何か大規模な出来事が起こらない限りは。

 そこまで考え、つまり近々そういうことが起きる可能性があると彼は結論付けた。始祖の血脈たる三王家が一つになっているこの現状で起こりえる何か、それを考えると、公爵の表情は苦く曇った。

 

「まあ、心配しても始まらんか。よかろう、ノワールと話を付ける」

「ありがとうございます」

 

 ただし、少し時間が掛るぞ、という公爵の言葉に、ワルドは望むところですと微笑む。どのみち少々の休暇を頂いていますので。そう述べた彼を見て、そうかそうかと公爵も笑った。

 

「ところで話は変わりますが……その、ルイズはどこに?」

「ん? ああそうかそうか。そうだったな、お前はそうであったな。何心配するな、あの娘ならばもう暫くはここにいるさ」

「そう、ですか」

 

 安堵の溜息を吐く。ここですれ違いとなると目も当てられないところであった。そんなことを思いながら、ワルドは出された紅茶を飲むと、今は屋敷にいるのですかと軽い調子で公爵に尋ねる。

 その質問に、公爵もまた軽い調子でいや違うと答えてしまった。

 

「今日は出掛けている。久しぶりに探検だそうだ。まったく、あの娘はいつまで経っても子供だ」

「あはは。いいではないですか、私は彼女のそういう部分にも惹かれています」

「こらこら、駄目だぞジャン。きちんと諫めるところは諫めんといかん。そうでないと、あの使い魔のように尻に敷かれてしまうぞ」

「……あの、使い魔?」

 

 空気が急に鋭くなった気がした、とは回りにいる従者達の弁であるが、公爵はそんなことを気にせず更なる爆弾を投下した。空気を読めないピエールはベラベラと余計なことを喋ってしまった。

 

「ああ、そうだ。今日もルイズに引っ張られ二人でどこぞを駆け回っているのだろう。まったく」

「二人、きり、で!?」

 

 勢い良く立ち上がる。その剣幕に面食らった公爵は一体どうしたとワルドに尋ねたが、時既に遅し。

 彼の中では夢の光景がフラッシュバックされていた。どこぞの馬の骨とも思えぬ冴えない男に、愛しいルイズが犯されるあの夢が。使い魔に婚約者を寝取られるあの夢が。

 

「お義父様! ルイズは何処に!?」

「落ち着け。後まだその呼び方は早い」

 

 そうはいいつつ、目が血走っているワルドの表情に若干引き気味で公爵はルイズが向かったであろう場所を伝えた。




ワルドメインのお話って、どこに需要が……。

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