恋は盲目という言葉がある。
走ることが生きがいで、走ることにしか興味がなかった私。
誰にも邪魔されない一面に広がるあのエメラルドの景色が好きだった。
私の前に誰かが走っているのが嫌いだった。
私だけの世界、その中に誰かが入り込むのが嫌いだった。
だから逃げた。
逃げて逃げてまた逃げた。
誰にも入られないよう、先頭を取られないよう誰よりも速く逃げ続けた。
そんな私の走りに興味を持ってくれたトレーナーさんがいた。
慣れない先行スタイルに四苦八苦していた私に"逃げろ"と言ってくれたトレーナーさん。
そこで私、サイレンススズカの走りが確立した。
沢山の日々を過ごした。
大きな怪我をしてもう走れないんじゃないかと思い心から泣いた。
怪我から復帰し、自分の思い描いていた走りができ心から笑った。
そんな日々を過ごしていく内にいつしか走ることにしか興味がなかった私は少しだけトレーナーさんに興味が湧いた。
カフェテリアで見つけたら横顔を追いかけたり。
仕事を淡々と終わらせるカッコいい姿に見惚れたり。
授業中にトレーナーさんのことばっかり考えたり。
気づいたら好きになっていた。
もうトレーナーさんが居ない生活なんて考えられないし考えたくもない。
トレーナーさんがチームの設立を思案していた時は思わず泣き出してしまった。
そんな私の姿を見てトレーナーさんはチームはスズカが引退するまでは作らないって言ってくれた。
引退した後もチームなんか作らせませんし、ずっと私と一緒ですよ?
だってトレーナーさん、私のこと好きですもんね。
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身を焼くような暑さが続く今日この頃。
滝の如く降ってくる蝉時雨に鬱陶しさを感じながらもこの後トレーナーさんに会える事実に自然と足が軽くなる。
ただ会ってトレーニングをする。
たったそれだけが私の幸せであり、目的。
時折廊下ですれ違う、共にレースで戦ってきたライバル達も今は顔も名前も朧げ。
興味がない。
私の以外のウマ娘はトレーナーさんの視界に入る可能性があるから敵。
トレーナーさんに近づかない。
その為なら私は交友関係さえ切る。
その甲斐あってか、トレーナーさんは私を見つけると手を振り返してくれるし、話しかけてくれるようになった。
歩き慣れた道を行く。
もう目を瞑ってでも辿り着ける場所。
「失礼します、サイレンスズカです」
ノックをし、入室の許可を貰う。
しかし中から返事はなかった。
施錠はされておらず、中に人がいることは分かる。
少しだけ扉を開け、中をゆっくりと覗き込む。
そこには来客用のソファーに横になって居眠りをしているトレーナーさんの姿が見えた。
「ふふっ」
思わず笑い声が出てしまったのを慌てて口を抑えて止める。
トレーナーさんの顔を見るだけという行為にこんなにも高揚感が出るなんて私はなんて単純なのだろう。
「もう、こんな所で寝ていたら風邪を引きますよ」
もう貴方だけの身体じゃないんですから。
何か掛けれそうなものを探すが、特に見つからない。
「可愛い寝顔」
頬をツンツンと触る。
ハリのあるモチモチの肌。
仕事をしている時や私のトレーニングを見ている時とは違う少し幼い顔。
こんな姿を知っているのも私だけと思うとゾクゾクと身体が震える。
「私だけのトレーナーさん」
卒業をしたら何をしよう。
いつ結婚式を挙げようか、子供は何人作ろうか。
そんな幸せな未来設計に思い馳せながらトレーナーさんの髪を優しく梳く。
「トレーナーさんも私のことが好きですもんね」
この思いを口にしたことはない。
口にする必要もないだろう。
だって私たちは一心同体、考えていることなんて手に取るように分かる。
突然、机の上に置いてあるトレーナーさんの携帯が鳴る。
私の知らない着信曲、今度教えて貰おう。
トレーナーさんが起きる前に急いで画面のところへ向かう。
点滅を繰り返す液晶、手に取ると音楽が止んだ。
画面をタップし、着信者を確認する。
表示されていた名前は私の知らない女性からだった。
「この人は……誰?」
携帯を持っている手が震える。
そんな不安を打ち消すように着信拒否のボタンを力強く消す。
通話終了の文字と共にロック画面が表示される。
そこに映っていたのはトレーナーさんと仲良さそうに笑い合っている私の知らない女性だった。
呼吸が荒くなる。
トレーナーさんの携帯をゆっくりと机に置き、私の記憶を漁り考えられる可能性を急いでピックアップする。
映っていた女性は人間。
少なくともトレセン学園内では見たこともない。
苗字が違っていた為、姉妹従兄弟の可能性はゼロ。
ポンっとトレーナーさんの端末からメッセージを受信したことが伝えられる。
『今日の晩御飯は貴方が好きなカレーよ。早く帰ってきてね』
友人か知人であって欲しかった。
そんな望みはいとも容易く打ち壊された。
「はぁ……はぁ……」
動悸が止まらない。
レースの時なんかと比にならないくらいに心臓が五月蝿い。
強張る筋肉、締め付けるような肺、グルグルと回る視界。
トレーナーさんは私が好き。
そんな確信していた筈の情報が違い、脳がショートする。
ふらふらとした足取りでトレーナーさんの元は向かう。
相変わらず穏やかな寝息を立て続けるトレーナーさん。
彼が私のものではないと知ってしまい思わず泣いてしまった。
突然の失恋。
呆気なく終わってしまった私の初恋。
私だけのものと思っていた横顔も。
私だけのものと思っていた笑顔も。
私だけのものと思っていた寝顔も。
全部全部全部知らない女のものだった。
トレーナーさんの髪を撫でる。
先程まで心躍るこの行為も今は全てがモノクロだ。
トレーナーさんの唇に目が行く。
無防備になっている彼の口。
ふと私に考えが浮かぶ。
既に奪われているなら奪い返してやればいい。
記憶も行為も全部上書きしてやればいい。
だってトレーナーさんは私のことが好きだから。
寝ているトレーナーさんにキスをする。
白雪姫を起こすように、柔らかく優しいキス。
何度も何度も啄むように繰り返す。
繰り返すうちに心が満たされていくのを感じる。
好きという感情が、恋というこの想いが私の欲求を加速させる。
足りない、全然足りない。
そんな負の感情が私を蝕み、深く醜い私の本性を曝け出す。
バードキスだったものはいつしか舌を絡ませるディープキスに。
呼吸すら忘れ、夢中でトレーナーさんに貪りつく。
「スズカ……?」
トレーナーさんがえづきながら目を覚ます。
口元はベトベト、言い訳はもう出来ない。
するつもりもない。
「おはようございます、トレーナーさん」
「スズカ?どうしたのいきなり?」
まだ状況を理解できていない様子のトレーナーさん。
そんなことは関係なしに、再び私はトレーナーさんに喰らいつく。
目を大きく開け、驚愕の表情をするトレーナーさん。
抵抗もしているのだろうが私にとってこの程度の力など無いに等しい。
「私はトレーナーさんが好きです、心の底からあなたを愛していると言い切れます」
口を離し、舌なめずりをする。
私を見つめるその表情は興奮か、或いは恐怖か。
「スズカ……落ち着いてくれ、俺は君の想いには答えられない」
「はい、知っています。だからあなたを自分色に染め上げるんです」
拒絶されたって最後に振り向いて貰えればそれでいい。
レースだって一緒、どんなに醜く格好悪くてもゴール板を一番に駆け抜けたものが勝者なのだから。
例えそこに真実の愛がなくとも、トレーナーさんが私だけを見てればいい。
トレーナーさんを蹂躙しつつ私は自身の制服を緩める。
その行為に気づいたのか私を止めに入るも、連続的なキスによる酸素不足により思った通りに動けないトレーナーさん。
大逃げて培ったスタミナがここに来て活きてくるなんて私自身も驚いた。
トレーナーさんを抑え込み、ウマ乗りになる。
私の橙色のカーテンがトレーナーさんの顔を擽る。
「トレーナーさん、私のこと愛してくださいね」
トレーナーさんの瞳に反射して映った私の姿は、やけに明るかった。