「お疲れ様、アヤベさん」
「ええ、ありがとう」
水筒を受け取る手がコツンとトレーナーさんのものに触れる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
恥ずかしそうに目を逸らす彼と無表情の私。
側から見たらそう思われるただろう。
好き。
喉を通るスポーツドリンクが心地よく、体内の熱が急速に冷めるのを感じる。
汗で肌に張り付いた体操服に鬱陶しさを感じながらも走り終えた後の満足感がそんな些細な問題を解消させた。
大好き。
「ありがとう」
「最近は暑いからな、水分補給はこまめにしてね」
そう言う彼の手を包み込むように握る。
ゴツゴツとした男らしい手。
癖で、と偶に撫でてくれるその大きな手が好きだった。
「あ、あのアヤベ?」
「なに?」
「俺の手なんか握ってどうしたの?」
「水筒を返していただけよ、ほら受け取って」
名残惜しいと感じながらもその手を離す。
「私はもう少し走るわ、タイムの計測よろしくね」
「ちょっと、アヤベさんー」
彼の呼び声を背中に私は駆け出す。
私を中心に流れるエメラルドグリーンの世界。
愛してる。
この世の誰よりも、私はあなたを愛してる。
私は花が嫌いだった。
それは人生がどれだけ美しいかを思い出させてくれるが同時に壊れやすい。
生命は時を刻み、そこに永遠というものは存在しない。
出会いがあれば別れがあり、創造があれば破壊がある。
それは人間も同じで、生があれば死がありその線路を引いたようなサイクルが私は嫌いだった。
そこで私は星に出会った。
名を有する一等星から、誰かに知られるわけでもなくひっそり輝いている六等星まで。
己を燃やし、何兆年もかけてたった一瞬の光を地上に照らす。
たとえその星が燃え尽き消えたとしても、それを知るのは何兆年後の彼方先。
毎日決まった時間、場所に行けば出会える普遍的な事柄が私は好きだった。
そんな中、トレーナーさんは私に入り込んできた。
「アヤベ!」
180度反転した世界。
トレーナーさんが私を呼ぶ声と鈍い衝撃が私を襲った。
「大丈夫かアヤベ!」
心からの言葉だと私のことは呼び捨てなのね、なんて考えるも断片的に襲ってくる痛みに意識が否応無しに持っていかれる。
そうか、私転んだのね。
「すぐ保健室に連れて行ってやるからな」
そう言って私を横抱きにし、焦った表情で走り出すトレーナーさん。
たったそれだけの行為なのに、痛みがふっと無くなって。
揺れる衝撃がどこか心地よくて、意識が微睡に沈む。
コテンと頭を彼の方に傾けると大好きな匂いが私を包み、五月蝿いほどに鳴っている心音が私に安心感を与える。
そんなことを片隅に考えながら、私は意識を手放した。
「もう、夜なの?」
場所は保健室。
部屋の電気はついておらず、月光と輝く星々のみが光を私たちに届けていた。
転んだ方の脚を軽く動かしてみると私の意識通りに動き、痛みも全くない。
「そんな体勢で寝てるから疲れが溜まるのよ」
ずっと見守っていたのだろうか、椅子に座ったまま上半身を私の布団に倒れ込むようにしているトレーナーさん。
「可愛らしい寝顔」
すぅーすぅーと寝息を立て、規則正しく上下している身体。
目の下には薄く隈を作っており、日頃の忙しさを体現していた。
「大きい身体」
寝ている彼を覆い被さるように抱きしめる。
鼻腔をくすぐるのはいつも香る大好きな彼の匂いで、さっきと違うのはトクントクンと落ち着いたBPMであること。
「んんぅ……」
驚きでピンッと耳が張るのを感じる。
「んんぁ……アヤベ?」
「おはよう、トレーナーさん」
「アヤベ……?あれ、なんで俺のこと抱きしめてるの?」
まだ寝惚けているのか目を細め、ゴニョゴニョ喋るトレーナーさん。
「私がしたいから、じゃだめ?」
「んん……ん?え、アヤベさん!?」
「あら、ようやくお目覚めかしら」
「目覚めたも何もなんで抱きしめてるの!?」
「さっきも言ったわ」
ぎゅーっとトレーナーさんを抱きしめる。
何かを言っているんだろうけど彼を抱きしめているっていう事実があって。
その包まれている時間が幸せすぎて。
もうちょっと、と彼に言うわけでも心の中で言い訳する。
好き。
大好き。
心の奥底から沸々とそんな気持ちが溢れ出てきて。
この状況が足りなくて、切なくて悲しい。
求めて欲しい。
私を、私だけを強く強く抱きしめて欲しい。
「アヤベさん……?」
「私はトレーナーさんが好き」
ムードも全くない突然の告白。
された本人もキョトンとしており、間抜けな顔をしている。
「あなたが大好きで大好きで堪らないの」
呆けているトレーナーさんの頭に後ろに自身の腕をやり、もう片方の手を頬に添える。
返事なんて聞かないし、言わせない。
だってトレーナーさんも私のことが好きなんでしょう?
グッと引き寄せ唇を奪う。
王子様がするように、私が上からキスをする。
口元に入るのは甘ったるい味。
傍を見ると机の上に何処にでも売っているような缶コーヒー。
初めてのキスは安っぽいコーヒーの味だった。
足りない、足りない、満たせない。
でも求めない、あなたからしてくれるのを待つ。
何かに葛藤しているトレーナーさんを気にすることなく私は続ける。
蛇口から漏れた水がシンクに落ちるように一定のリズムを刻み、付けては離すを繰り返す。
トレーナーさんの口が少し開き、小さな舌がちょこっと出たのを私は見逃さなかった。
スルリと、蛇が入り込むように彼の舌と私のものを絡める。
私の形と味と匂いと存在を。
二度と忘れないように心に身体に刻み込む。
引き寄せていた力はとうの昔に抜いていて。
添えている手はトレーナーさんを支えているだけで今は彼が求めて来ている。
呼吸の仕方すら忘れ、彼が吐く息一つをも逃さないと包み込む。
融解点を超え、もうどちらの舌か分からなくなって来たところでようやく離した。
酸素不足からかぼうっとしているトレーナーさんの腕を掴みグイッとベッドに引き込む。
そのまま私が上位になる形で彼を押さえ込む。
「あ、アヤベこれ以上は……!」
「だめ、どの道これ以上進んでも一緒でしょ?」
それにもう私が我慢できない。
制服のリボン遠緩め、その辺に放り投げる。
私の動作一つ一つに釘付けのトレーナーさん。
口では否定していたのに。
やっぱりあなたも私のことが好きなのね。
夜空に散らばる六等星も、今宵はやけに眩しかった。