大きく息を吐き、自身の体を椅子の後方限界まで倒す。
目頭を抑え断片的に襲ってくる頭痛に耐えつつ帰宅の準備をする。
片付けの途中机の端に置いていた書類に手が当たり、それが重力に従うように地面に散らばる。
私はもう一度大きな溜息を吐き、地面に落ちたものを拾っていく。
「あ、これ期限明日までじゃん」
拾っていくうちに未記入の書類が見つかり今日は家に帰れないことを確信する。
怒りよりどうしようもない疲労感と悲しさが押し寄せ、床に大の字になるように寝転ぶ。
横目で見ると時刻は既に23時を超えておりこうなるのも納得の理由だ。
このまま寝てしまっても良いのだがそうすると次の日トレーナー室を覗いた人が死体のような物を発見してしまう為、重い体に鞭を打ち持ち上げる。
眠気覚ましのコーヒーでも買いに扉を開けようとしたら先客がいたようで勝手に開いた。
「あ、トレーナーこんばんわ。私間違えてトレーナーのボールペン持っていっちゃったらしくて返しにきたの」
明るい口調でそう言う私の担当バ、ファインモーション。
こんな遅くまでわざわざ出向いてくれるなどなんといい娘なのだろう。
「やあファイン。わざわざありがとう、もう暗いし早めに帰りなよ」
ボールペンを受け取りそうファインに指示する。
「そうするけど……ってトレーナー凄い顔だよ大丈夫?」
「ああ……まあ少し疲れが溜まってるだけだから問題はないよ」
「嘘、君その様子じゃちゃんと寝てないでしょう?」
流石ファイン……直ぐに見抜かれてしまった。
それもそうだろう、髪は何回掻き上げただろうか変な癖が付いており、顔は無精髭でボサボサ。
一方間違えたら不審者の私に今や隠せる物など全くなかった。
「ごめん、寝れてない」
「なんで私に嘘を付いたの?」
「君に変な心配をかけたくなかったから……私は君のトレーナーだから」
トレーナーだから。
大人だから。
幾度となく自身に言い掛けていた言葉。
ファインが私に好意を持っていることは知っている。
でもそれに応えれるほどの"対価"は私にはない。
彼女には貫き通す"使命"があり私はただの"杖"だ。
「トレーナーだから嘘を付くの?」
「大人だから……我慢しなきゃいけないことも沢山あるんだ」
真っ直ぐかけられるファインの言葉。
その一つ一つが心に刺さり、視界が霞む。
「ねぇトレーナー。私なら君の思っていること全てを受け止めれるよ?」
「ファイン……?」
「君が辛いって思ったり、悲しいって思ったことを私なら隣で聞いてあげれるし支えてあげることもできる」
胸に手を当ててそう言うファイン。
「トレーナーにとって私ってそんなに頼りない?」
悲しそうに耳をたたみ込み、上目遣いで私を見る。
そんな彼女の前で私は心の中に留めておいた言葉が溢れ出す。
「先輩がお前にはファインモーションは勿体ないって毎日言ってくるんだ。有馬や安田記念を勝たせてあげれなかったのはお前のせいだって」
「そんなことはないよトレーナー。万全の準備をして本気で挑んだ、でも相手が私以上に努力をしたからだよ」
「日々私に対しての誹謗中傷が沢山くるんだ。ネットもそうだしファンを装った手紙を送ってきたりね」
「周りの声なんか聞かなくていいの。これは私と君との物語なんだから」
「そんな先輩から無理やり仕事を押し付けられて家にもろくに帰れてない」
「君は毎日頑張ってて偉いよ。大人の付き合いがあるから逃げれないのは大変だけど我慢してやってるなんて本当にすごいよ」
私が零していく言葉一つ一つに優しく返事をしてくれるファイン。
いつの間に私の足元にはいくつもの水滴があった。
「ねぇトレーナー、一回逃げてみない?」
「どういうこと……?」
そういい私を抱きしめるファイン。
久しく感じる人肌と温もり。
「ファイン止めてくれないか……?」
「何もかも全部を捨てちゃえばいいんだよトレーナー」
私の言葉を遮るようにそう吐き捨てるファイン。
それは彼女自身の心からの言葉のようで体が震えている。
「私なら全てを叶えてあげることができる。地位もお金も安全も全部確保してあげる」
背中を優しく摩ってそういうファイン。
「君が思っている感情も欲も全部私にぶつけてもいいの」
「ファイン……」
「君はそこまでしてこの仕事を続けたい?」
核心をついた言葉。
私自身は一体何を目標にこの仕事を始めたのか?
「君の言う通りかもしれない……」
「そうでしょトレーナー」
おでことおでこをくっつけてゼロ距離で囁くファイン。
緑黄色の双眼が私を覗き込む。
「君は私のことは嫌い?」
「そんなことはないよ。真っ直ぐな君はとても素敵だ」
「じゃあ私のこと好き?」
「それは……」
「ねぇトレーナー。また私に嘘を吐くの?」
ファインの瞳の奥がどす黒く染まるような錯覚に陥る。
「好きだよ……もちろんファインのこと」
「ふふ、嬉しい」
そう言い限界まで近かった距離がゼロになる。
数秒かあるいは数分にも感じる時間私たちは繋がっていた。
「もう私に嘘吐かないよねトレーナー?」
「うん、君だけには絶対に吐かない」
もう抵抗も言い訳もしない。
私にはファインがいる。
その一つの事柄で心が軽くなる感じがした。
「じゃあ行こうかトレーナー」
「うん、ファイン」
恋人繋ぎをしトレーナー室を出る。
散らかった書類はそのままに、電気も消さず歩き出す。
私の隣で歩いているファインは満面の笑みを浮かべていた。
何処に行くのかなど聞かないし知らなくていい。
何処に行こうが隣にファインがいれば私は良いのだから。
翌朝、トレセン学園から一人の生徒とそのトレーナーが失踪した。